2026年04月15日

レジェンド選手が勢ぞろい!昭和のプロ野球の魅力と国民を熱狂させた

レジェンド選手が勢ぞろい! 昭和のプロ野球の魅力
熱狂の渦を生み、国民的スポーツへ

戦後の娯楽が少なかった日本で、プロ野球はもっとも身近に熱狂できる存在でした
スター選手たちの活躍が人々を魅了し、野球はまさに国民的スポーツとして定着しました

この時代、プロ野球の礎を築いたのが読売ジャイアンツの長嶋茂雄王貞治です
長嶋は華やかなプレーで「ミスタープロ野球」と呼ばれ、王は世界記録となる本塁打868本を放ち「世界のホームラン王」と称されました
ふたりの存在は、勝敗を超えて国民の憧れそのものとなります
テレビの普及とともに彼らの活躍が家庭へ広がり、野球は時代の象徴となっていきました
そんな熱気を体現する言葉が「巨人・大鵬・卵焼き」
高度成長期の勢いが、プロ野球人気をさらに押し上げたのです

また、ほかにも個性豊かなスター選手が次々と登場します
阪神タイガースの村山実掛布雅之、広島東洋カープの山本浩二や衣笠祥雄、阪急ブレーブス(現在はオリックス・バファローズ)の山田久志福本豊など、地方球団からも全国区の人気選手が現れました

当時は、ゴールデンタイムにプロ野球のナイター中継が放送されるのが定番
さらに、人気選手はCMや漫画にも登場し、その活躍ぶりは絶大でした
そしてゲームやブロマイドにも裾野を広げ、どんどんと日常に浸透していきました

【出典】『眠れなくなるほど面白い 図解 昭和の話』監修:町田 忍

(この記事は、ラブすぽの記事で作りました)

昭和プロ野球スター列伝
読売ジャイアンツ
長嶋茂雄:通算2471安打444本塁打『ミスタープロ野球』
王貞治:通算868本塁打(世界歴代1位)打点2170『世界のホームラン王』


阪神タイガース
村山実:通算222勝奪三振2271『闘志あふれるエース』
掛布雅之:通算349本塁打『ミスタータイガース』


広島東洋カープ
山本浩二:通算536本塁打1475打点『ミスター赤ヘル』
衣笠祥雄:2215試合連続出場(世界歴代1位)通算504本塁打『鉄人』


阪急ブレーブス(現オリックス)
山田久志:通算284勝『アンダースローの名投手』
福本豊:通算1065盗塁2543安打『世界の盗塁王』

私は、日本一3連覇の西鉄ライオンズも強烈な印象ですね(リアルタイムでは見ていませんが・・・)
「青バッド」「天才」大下弘
「怪童」中西太
「鉄腕」稲尾和久

他に
「400勝」金田正一
「3000本安打」張本勲
「3回の三冠王」落合博満
「伝説の快速球投手」沢村栄治
「フォークボールの神様」杉下茂
「スライダーの元祖」藤本英雄
「赤バット」「打撃の神様」川上哲治
「奪三振王」江夏豊
などなど


観戦だけじゃないプロ野球
昭和のプロ野球は漫画やカード、ゲームを通じて子どもたちを熱狂させ、観戦を超えて生活文化として広がりました

・1960年代スター選手のCM出演
王・長嶋が食品や家電の広告に登場し、国民的ヒーローに

・1966〜1973年野球漫画『巨人の星』
社会現象となり、子どもたちの夢と野球人気を大きく後押し


・1972〜1981年野球漫画『ドカベン』(高校野球編)
少年誌を代表する人気作となり、続編も描かれていった


・1980年代カード・ブロマイド
駄菓子屋やスナック菓子のおまけとして広まり、子どもの収集ブームに


・1987年ファミコン『燃えろ!! プロ野球』
300万本を超える大ヒット。家庭で楽しむ野球文化が拡大した




眠れなくなるほど面白い 図解 昭和の話: 昭和100年のいま振り返る 日本を変えた激動の時代 単行本

昭和は激動の時代だった
そして昭和(以前)の常識は、今では信じられないものばかり・・・
テレビは叩けば治る、列車のトイレの垂れ流し、今ではルーズと思える喫煙・ゴミ事情など
posted by june at 03:52| Comment(0) | スポーツ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2026年04月01日

「ルドルフの背」が40年ぶりに復刊

日本競馬史上最強馬というと、私は、シンボリルドルフを挙げます

「競馬に絶対はないが、ルドルフにはある」といいきったシンボリルドルフを管理した野平祐二調教師

シンザンを超えろ」が日本競馬の合言葉だったが、シンザンを管理した武田文吾氏が「ルドルフはシンザンを超えた」といった


「生まれた時から規格外でわずか20分で立った」(牧場時代のエピソード)

「デビュー戦の1000メートルで1600メートルの競馬をした(将来を見据え)」(ルドルフのレースに全騎乗の岡部幸雄騎手)

「2戦目の東京1600メートルで2400メートルの競馬をした(日本ダービーを意識)」(ルドルフのレースに全騎乗の岡部幸雄騎手)

「3戦目のレースにジャパンカップ当日に世界のホースマンにルドルフを見せた」(ルドルフのオーナーブリーダー・和田共弘氏)

「迷わずルドルフを選択した」(ルドルフのレースに全騎乗の岡部幸雄騎手)

「(日本ダービーで)ルドルフに競馬を教えてもらった」(ルドルフのレースに全騎乗の岡部幸雄騎手)

「菊花賞で日本史上初の無敗の3冠馬となった時)どこまで行ってもルドルフは抜かせない」(ルドルフのレースに全騎乗の岡部幸雄騎手)

「(国内最後のレースの2度目の有馬記念の前、)野平祐二調教師は岡部幸雄騎手に圧倒的強さの競馬を指示・・・レースは4馬身差の圧勝」

この他に、日経賞の馬なり逃げ切り楽勝などもある

ルドルフの全戦績は16戦13勝だが、勝ったレースはもちろん負けたレースの「敗れてなお強し」も印象深い

菊花賞からわずか中2週で体調不良で展開のアヤで3着に敗れた3歳時のジャパンカップ、半年ぶりの休み明けで当時のレコードタイム決着の中で暴走しながら半馬身差2着に惜敗した天皇賞・秋(このレース後、ルドルフは悔し涙を流したという)、結果的に引退レースとなったアメリカのサンルイステークスのレース中の故障で6着

強さはもちろんわずか3敗も語りたくなる・・・それがシンボリルドルフだ



ルドルフの背 ハードカバー

日本競馬史上最強馬・シンボリルドルフの全レースに騎乗した「ルドルフの背」を知る岡部幸雄騎手の珠玉のノンフィクション
1986年の幻の名著が蘇る
posted by june at 04:03| Comment(0) | スポーツ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2026年03月26日

【硫黄島で戦死した金メダリスト】バロン西と愛馬ウラヌスの偉業 「1932年ロス五輪」

2024年7月29日、パリ2024オリンピックに湧くフランスから、日本に吉報が入った

馬術の日本代表チームが、総合馬術団体競技で銅メダルを獲得したのだ
日本が馬術でメダルを獲得するのは、実に92年ぶりの快挙である

今から92年前、1932年に開催されたロサンゼルスオリンピックの馬術障害飛越競技で、金メダルを獲得した人物こそが西竹一(にし たけいち)だ

バロン西と愛馬ウラヌスの偉業

当時の馬術競技は、オリンピックの花形競技だった

西竹一は大観衆の前で、愛馬ウラヌス号と共に人馬一体の妙技を披露し、日本のみならずアジア諸国の選手として初めてオリンピック馬術競技で、金メダルを獲得したのである

男爵の爵位を持っていたことから「バロン(男爵)西」の愛称で国内外で親しまれ、ロサンゼルス市の名誉市民にもなったが、第二次世界大戦時の硫黄島の戦いにおいて、アメリカ軍との激戦の末に戦死した

西竹一の生涯や、愛馬ウラヌス号との友情関係に触れていきたい


西竹一の生い立ち

西竹一は、1902年7月12日、薩摩藩出身の男爵である西徳二郎の三男として、東京市麻布区麻布笄町(現在の港区西麻布)で生まれた
生家である西家の広大な本邸は、現在のテレビ朝日本社ビル付近にあった

竹一の実母は徳二郎の正妻ではなく、西家の女中だった女性で、竹一を出産した後に実家に戻されてしまった
しかし、徳二郎は死別した前妻と後妻との間に生まれた男児2人を早くに亡くしており、年老いてから生まれた非嫡出子である竹一を、西家の跡取りとして育てることにした

竹一という名は「西家の将来を担う男子として、竹のようにまっすぐ健やかに育ってほしい」という願いを込めて付けられた名前だった

徳二郎は下級武士の出身だったが、明治維新後に外務大臣や枢密顧問官などを歴任した人物で、清公使時代には義和団の乱の処理に当たり、その際に清の西太后から信頼され、中国茶の専売権を与えられて巨万の富を手にした人物だ

竹一は、徳二郎の後妻である義母には冷たく扱われたものの、裕福な男爵家の跡取り息子として経済的に不自由なく育てられ、学習院幼稚園を経て学習院初等科に進む

実母の愛や家族の暖かさを知らない孤独さからか、少年時代の竹一は良家の子息でありながら、近隣の公立小学校の児童と喧嘩に明け暮れる暴れん坊だったという

1912年3月13日、竹一が10歳になる年に父・徳二郎が64歳で死去し、竹一は動産、不動産を含む西家の莫大な財産と男爵の爵位を相続した

1915年に学習院初等科を卒業した後、外交官だった父の遺志を継いで東京府立第一中学校(現・日比谷高校)に進学した

その後、学習院院長であった乃木希典の言葉に感化され、在学中の9月に広島陸軍地方幼年学校に入校し、それ以降は軍人としての道を歩むことになる

馬術に目覚め「愛馬ウラヌス」と出会う

少年時代に莫大な財産を手に入れた竹一は、天才肌で学業は優秀だったが、浮世離れした金銭感覚を持つ遊び好きの伊達男でもあった

街中でアメリカ産の外車を乗り回し、新橋や銀座などの繁華街で大酒を飲み歩き、酔った勢いでチンピラと喧嘩するという荒れた生活を送っていたという

そんな破天荒な竹一の心の穴を埋めたものが、馬術だった

乗馬の面白さに目覚めた竹一は、幼年学校修了後に陸軍士官学校予科に進み、騎兵を志望して馬術を基礎から学ぶ

陸士予科卒業後は士官候補生として世田谷騎兵第1連隊に配属され、隊附勤務を経て陸軍士官学校の本科に入校
1924年に陸士本科を卒業してからは、見習士官を経て陸軍騎兵少尉に任官され、その年の12月には、かねてから思いを寄せていた川村武子との結婚を果たした

1927年9月に陸軍騎兵学校を馬術学生として卒業し、翌月には陸軍騎兵中尉に進級する

竹一が、1932年のロサンゼルスオリンピックで相棒となるウラヌス号と出会ったのは、1930年4月のことだ

国内の馬術大会で優秀な成績を収め、ロサンゼルスオリンピックの代表選手候補に選ばれていた竹一は、乗馬の恩師である今村安から「大きすぎて誰も乗りこなすことができない暴れ馬を、売りたがっている人物がイタリアにいる」と連絡を受けた

竹一は、今村の話を聞いてすぐにイタリアに向かった

日本人離れした容姿を持ち、流暢な英語を話す爵位持ちの紳士であった竹一は、西洋人とも臆することなく交流したという

この時の船旅の最中に、ハリウッドスターのダグラス・フェアバンクス・メアリー・ピックフォード夫妻と仲を深めている

イタリアに到着した竹一は、件の馬を目の当たりにすると一目惚れし、「自分が乗りこなしてみせる」と決意し、大金を投じて購入する

フランス生まれのアングロノルマン種のその馬は体高が181cmもあり、「ウラヌス(天王星)」という名の由来になった額の星模様が特徴的な、美しい栃栗毛色の気性の激しい馬だった

ウラヌス号は元の持ち主は乗りこなせなかったが、竹一とは心を通じ合わせた

柔道や剣道の有段者であり、身長175cmと当時の日本人としては長身かつ腰幅が広く足も長かった竹一は、大きく力強いウラヌス号を見事に乗りこなし、その後に出場したヨーロッパの馬術大会で次々と優秀な成績を収めた

帰国した竹一は、ウラヌス号を千葉県習志野市にあった騎兵学校に預け、調教と練習のために麻布の自宅から毎日通うようになる

竹一とウラヌス号の信頼関係は厚く、ウラヌス号は竹一以外の人間を大人しく背に乗せることはなかった

竹一は後にウラヌスについて「自分を理解してくれる人は少なかったが、ウラヌスだけは自分を分かってくれた」と語っている

ロサンゼルスオリンピックに出場し、金メダルを獲得

1932年、ロサンゼルスオリンピックが開催され、当時陸軍騎兵中尉だった竹一は、馬術競技の日本代表選手としてウラヌス号と共に出場した

対日感情が悪化しつつあった当時のアメリカにおいて、在米日本人や日系アメリカ人は人種差別と政治的圧力に苛まれながら肩身の狭い日々を過ごしており、多くの日系人が日本選手団の活躍に期待を寄せ、寄付金や声援を送っていた

竹一とウラヌス号が出場した「大賞典障害飛越競技」は、ロサンゼルスオリンピックの最後を飾る花形競技で、閉会式が行われるメインスタジアムで行われた

元々馬術競技は西洋の騎兵文化を競技としてオリンピックに取り入れたものであり、欧米各国の軍人が選手として出場していた
馬術日本選手団は日本陸軍の威信をかけて出場していたものの、活躍はそれほど期待されていなかった

8月14日、オリンピック最終日の午後、既に9選手のうち6名が未完走という波乱模様の中、最後から2番目の出場者だった竹一とウラヌス号は走り出し、少々のミスはあったものの他の選手たちが失敗した障碍を次々と飛び越えていった

難関の第10障碍を前にして、ウラヌス号の足が止まった
しかし竹一は諦めない

会場からどよめきが起こる中、竹一は素早くウラヌス号を反転させて障碍に向かい、ウラヌス号も自ら後ろ足を右にひねって、難関を見事に飛び越えたのである

バロン西と愛馬ウラヌスの偉業

その後の障碍もすべて飛び越えて、竹一とウラヌス号はトップの点数でゴールした

そして、最後の選手の点数も振るわず、竹一とウラヌス号は堂々たる成績で金メダルを獲得したのだ

新聞記者からのインタビューに対して、英語が堪能な竹一はただ一言「We won.(我々は勝った)」と答えた

この時のWeは、自分と愛馬ウラヌス号を示した言葉だった
竹一とウラヌス号はまさに人馬一体となって、輝かしい勝利を掴み取ったのだ

「バロン・ニシ」の名声と評判は、瞬く間にアメリカをはじめとする世界中に知れ渡った
ロサンゼルス市長は竹一に名誉市民の称号を与え、竹一はロサンゼルス郊外に建設する競馬場の起工式にも、来賓として招待されて歓迎された

現地で開催された金メダル受賞パーティーでは、ウラヌス号に会いに行くイタリアへの道中で懇意になったフェアバンクスと再会し、友情を深めたという

ロサンゼルスオリンピックにおける竹一とウラヌス号の活躍は、日本人と日系人に大きな希望と感動を与えたのだ

硫黄島の戦いで戦死

西竹一とウラヌス号は、4年後に行われたベルリンオリンピックにも出場したが、ウラヌスが老いにより衰えていたことに加え、竹一自身も本番前に体調を崩しており、成績は前回の五輪ほど振るわなかった

その後に日中戦争が開戦し、陸軍騎兵大尉となっていた竹一は陸軍騎兵少佐に昇進するも、軍馬補充部に配属されて北海道に飛ばされ、苦悩の日々を送ることになる

そして各国の軍備拡大が進んでいく中で、世界的に陸軍の騎兵部隊が削減され、戦争には馬ではなく戦車を使う時代となっていった

竹一もまた、戦車部隊である第26師団捜索隊長に任命された

第二次世界大戦中の1943年8月、竹一は陸軍中佐に昇進し、戦車第26連隊の連隊長として満州国北部の防衛につき、その後はサイパンの戦いに参戦する予定となった

しかし、現地守備隊の早々の玉砕を受けて、1944年6月20日に硫黄島に動員されることが決まる

硫黄島に入った竹一は、栗林忠道中将率いる小笠原兵団直轄の戦車第26連隊の指揮官となった

硫黄島においても竹一は自分のスタイルを貫き、愛用の乗馬鞭を持ちながらエルメスの乗馬ブーツを履いて、島内を闊歩していたという

1944年8月、竹一は戦車の補充のために一時東京に戻った際に、世田谷区上用賀の馬事公苑の厩舎で余生を過ごすウラヌス号に会いに行った

その時、既に24歳になっていたウラヌス号は、竹一の足音を聞くと大喜びして、最大限の愛情表現で西を歓迎したという

竹一はその際、ウラヌスを馬場に連れ出し、一周だけゆっくりと回った後に、ウラヌス号のたてがみを1房切り取って懐にしまい込んだ
アメリカやヨーロッパの国力を自らの目で見て知っていた竹一には、太平洋戦争における日本の行く末や、自らが硫黄島で迎える結末があらかた予想できていたのだろう

そして硫黄島に戻った竹一は、苦しい戦況の中で兵士たちを励ましながら、自身も戦いに身を投じていく

翌年3月、激戦を極めた硫黄島の戦いで、竹一は42歳で戦死した

命日は3月22日とされているが、3月17日以来後方部隊との連絡が途絶えていたため、実際の命日や詳しい死因は判明していない
ウラヌス号もまた、竹一の死後まもない1945年3月28日に、竹一の後を追うようにこの世を去った

竹一が最期まで身につけていたウラヌス号のたてがみは、後にアメリカで発見されている

現在は、竹一と所縁のある北海道十勝本別町の歴史民俗資料館に収められている

国境と人種の壁を越えて愛された「バロン西」

複雑な環境で育ち、気性の激しい所があったものの、天真爛漫でスマートな美男子だった竹一は、多くの人々に慕われ愛された

西洋人とも交流を持ち、華やかな服装や生活を好んだため、軍の上層部からは反感を買うこともあったが、部下から慕われ信頼される人物だったという

真偽は不明であるが、アメリカ軍が硫黄島に上陸した際に、アメリカでも有名人だった竹一に対して投降を呼びかけたという伝説も残っている

竹一の墓所は東京の青山霊園にあるが遺骨は見つかっておらず、硫黄島の東海岸には竹一の戦死を悼む石碑が建立された。後に発見された竹一愛用の乗馬鞭などの遺品は、数十年の歳月を経て家族のもとに返された

欧米列強が集う国際社会へ踏み込もうとする日本にとって、西竹一とウラヌス号は金色に輝く希望の光だった

1人と1頭が人馬一体となって成した偉業は、92年の時を越えて今も人々に感動と勇気を与え続けている

参考文献
大野 芳 (著)『オリンポスの使徒―「バロン西」伝説はなぜ生れたか』
文 / 北森詩乃

(この記事は、草の実堂の記事で作りました)

バロン西こと西竹一は、とくに若い頃の自由奔放、西洋人にも気後れしない振る舞いや堪能な英語力や当時としては長身であることは、あの白洲次郎を思わせます

2人ともスマートで格好いい印象です

西竹一と愛馬・ウラヌスは人馬一体の印象です
ウラヌスは、竹一の死後まもなく竹一を追うように死んでいる


今から92年前、1932年に開催されたロサンゼルスオリンピックの馬術障害飛越競技で、金メダルを獲得した人物こそが西竹一(にし たけいち)・・・

当時の馬術競技は、オリンピックの花形競技だった

西竹一は大観衆の前で、愛馬ウラヌス号と共に人馬一体の妙技を披露し、日本のみならずアジア諸国の選手として初めてオリンピック馬術競技で、金メダルを獲得したのである

男爵の爵位を持っていたことから「バロン(男爵)西」の愛称で国内外で親しまれ、ロサンゼルス市の名誉市民にもなったが、第二次世界大戦時の硫黄島の戦いにおいて、アメリカ軍との激戦の末に戦死した


複雑な環境で育ち、気性の激しい所があったものの、天真爛漫でスマートな美男子だった竹一は、多くの人々に慕われ愛された

西洋人とも交流を持ち、華やかな服装や生活を好んだため、軍の上層部からは反感を買うこともあったが、部下から慕われ信頼される人物だったという

真偽は不明であるが、アメリカ軍が硫黄島に上陸した際に、アメリカでも有名人だった竹一に対して投降を呼びかけたという伝説も残っている

竹一の墓所は東京の青山霊園にあるが遺骨は見つかっておらず、硫黄島の東海岸には竹一の戦死を悼む石碑が建立された
後に発見された竹一愛用の乗馬鞭などの遺品は、数十年の歳月を経て家族のもとに返された

欧米列強が集う国際社会へ踏み込もうとする日本にとって、西竹一とウラヌス号は金色に輝く希望の光だった

1人と1頭が人馬一体となって成した偉業は、92年の時を越えて今も人々に感動と勇気を与え続けている

西竹一を奪った戦争が憎い



オリンポスの使徒―「バロン西」伝説はなぜ生れたか

1932年ロス五輪の馬術で金メダルを獲得した西竹一(バロン西)とウラヌス・・・
その後、西は硫黄島で戦死するが、アメリカでも慕われた彼には、戦死の前に投降が呼びかけられたとも・・・


硫黄島に死す (新潮文庫) 文庫

昭和20年3月、硫黄島守備隊3万人の日本兵が玉砕
その中に、昭和7年、ロサンゼルス・オリンピックで優勝したバロン西…西竹一中佐がいた――
硫黄島戦記の頂点に立つ表題作ほか、戦争小説全7編を収録

〈硫黄島玉砕〉のニュースが流れた四日後、ロサンゼルス・オリンピック馬術大障碍の優勝者・西中佐は、なお残存者を率いて戦い続けていた馬術という最も貴族的で欧米的なスポーツを愛した軍人の栄光と、豪胆さゆえの悲劇を鮮烈に描いて文藝春秋読者賞を受賞した表題作
ほかに「基地はるかなり」「軍艦旗はためく丘に」など、著者の戦争体験と深くかかわった作品全7編を収める
posted by june at 12:04| Comment(0) | スポーツ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする