2025年04月22日

桜は神の宿る花!? 花見で運気爆上げの理由

3月下旬~4月上旬|神が依る桜で運気アップ!お花見

平安貴族も江戸庶民も満開の桜の下で宴会
今も続くお花見の風情です
桜の開花予想から満開までが連日ニュースで報道されるほど、桜の開花はかなり重要な関心事となります
桜の開花が宣言されると今度は満開予想に続き、北上する桜前線を追います
それほど、日本人にとって特別な花である桜

日本最古の歌集『万葉集』にも桜の美しさを詠んだ歌が納められ、奈良~平安時代には桜は人々を魅了する花だったことがうかがわれます
しかし花見が広く庶民の楽しみとなったのは、江戸時代になってから
八代将軍・徳川吉宗が飛鳥山(現在の北区)や隅田川の土手(墨田区)などに桜を植樹し、江戸庶民たちが弁当持参で花見に出かけ宴会を楽しむようになりました
桜の代名詞であるソメイヨシノや、花見団子が登場したのもこの頃といわれています

一方農民たちの間では、春の農作業の前に田の神様を迎える花見が古くから行なわれていました
春に山から降りてくる神様が田の神様となり、桜に依ると考えられていたからです
桜の「サ」は田の神様を、「クラ」は神様の座る場所の「御座」を意味し、桜は神様の依りしろとされました
花の咲き具合でその年の稲の豊作を占い、満開の桜に豊作を祈願しました
農民にとっての花見は、稲の実り具合に関わる大切な年中儀礼だったのです
そしてこれこそが、花見をするルーツともいわれます

桜の季節にはぜひとも花見をしてその年の吉凶を占い、運気アップにつなげましょう!

豆知識・・・

アマテラスオオミカミの孫で神武天皇の曾祖父ニニギノミコトが、美しくはかない命の桜の神コノハナサクヤ姫と、岩の神で永遠の命を持つが醜い姿の姉のうち、美しいコノハナサクヤ姫を選んだがために人の寿命は短くなったというお話
『古事記』にある桜にまつわる神話です


桜の語源と3つの説

「桜」の語源には諸説ありますが、代表的なものが以下の3つ
美しいだけではなく、どこか「謎」を秘めた桜の名前の由来です

①「田の神(サ)」の「座(クラ)」説
冬の間は山にいた田の神様が、春に里に降りて桜の木に座すと考えられていました
農民たちは桜の木の下で宴会をして根元にお酒をまき、手折った桜の枝を庭や田の水口に立てて、木に宿る「山の神」を「田の神」として降ろしたといわれています。

これを「サオリ」といいます


②「コノハナサクヤ姫」説
コノハナサクヤヒメの「サクヤ」が転じたという説
コノハナサクヤヒメは『日本神話古事記』や『日本書紀』などに登場する桜のように美しく、はかない命の女神
日本の山の神の総元締め・オオヤマヅミの娘とされています


③「咲く」の複数形「ら」をつけた説
「ら」の接尾語は通常、名詞、代名詞、形容詞につくものであって、「咲く」という動詞にはつかないのでは、という疑問もあるようです
また桜のことではなく、元来は花の密生する植物全体を指したともいわれます

運気UP!!
●神の依る桜にパワーをもらう!
●神の木を愛でて災厄を祓う!
●満開の桜は豊作のシルシ!

関東は「長命寺」、関西は「道明寺」
長命寺は小麦粉を薄く焼いた皮で餡を巻いた関東の桜餅
道明寺は、もち米を荒めに砕いた道明寺粉で作った餅で餡を包んだ関西の桜餅
どちらも塩漬けの桜の葉で包まれています

【出典】『眠れなくなるほど面白い 図解 日本のしきたり』監修:千葉 公慈

(この記事はラブすぽの記事で作りました)

桜は日本人にとって「特別の樹木」のようです

桜をまつわる日本神話も・・・


アマテラスオオミカミの孫で神武天皇の曾祖父ニニギノミコトが、美しくはかない命の桜の神コノハナサクヤ姫と、岩の神で永遠の命を持つが醜い姿の姉のうち、美しいコノハナサクヤ姫を選んだがために人の寿命は短くなったというお話
『古事記』にある桜にまつわる神話です


桜の語源と3つの説

「桜」の語源には諸説ありますが、代表的なものが以下の3つ
美しいだけではなく、どこか「謎」を秘めた桜の名前の由来です

①「田の神(サ)」の「座(クラ)」説
冬の間は山にいた田の神様が、春に里に降りて桜の木に座すと考えられていました
農民たちは桜の木の下で宴会をして根元にお酒をまき、手折った桜の枝を庭や田の水口に立てて、木に宿る「山の神」を「田の神」として降ろしたといわれています。

これを「サオリ」といいます


②「コノハナサクヤ姫」説
コノハナサクヤヒメの「サクヤ」が転じたという説
コノハナサクヤヒメは『日本神話古事記』や『日本書紀』などに登場する桜のように美しく、はかない命の女神
日本の山の神の総元締め・オオヤマヅミの娘とされています


③「咲く」の複数形「ら」をつけた説
「ら」の接尾語は通常、名詞、代名詞、形容詞につくものであって、「咲く」という動詞にはつかないのでは、という疑問もあるようです
また桜のことではなく、元来は花の密生する植物全体を指したともいわれます

運気UP!!
●神の依る桜にパワーをもらう!
●神の木を愛でて災厄を祓う!
●満開の桜は豊作のシルシ!

関東は「長命寺」、関西は「道明寺」
長命寺は小麦粉を薄く焼いた皮で餡を巻いた関東の桜餅
道明寺は、もち米を荒めに砕いた道明寺粉で作った餅で餡を包んだ関西の桜餅
どちらも塩漬けの桜の葉で包まれています




眠れなくなるほど面白い 図解 日本のしきたり: 年中行事から文化・風習まで 運気を上げる””和の作法” 単行本

日本のしきたり
その由来、理由などを紹介
これらは日本の文化、風習、考え方などに根付いている
posted by june at 12:18| Comment(0) | ニュース | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

1400年以上生き続けると言われる「不老不死の生物」をご存知ですか?

私たちはなぜ眠り、起きるのか?睡眠は「脳を休めるため」ではなかった?生物の“ほんとうの姿”は眠っている姿?

いま、気鋭の研究者が睡眠と意識の謎に迫った新書『睡眠の起源』が、発売即3刷と話題になっている

「こんなにもみずみずしい理系研究者のエッセイを、久しぶりに読んだ。素晴らしい名著」(文芸評論家・三宅香帆氏)、「きわめて素晴らしかった。嫉妬するレベルの才能」(臨床心理士・東畑開人氏)といった書評・感想が寄せられるなど、大きな注目を集めている

(*本記事は金谷啓之『睡眠の起源』から抜粋・再編集したものです)


二人の父

小早川先生は、日本でヒドラを研究している、数少ない研究者の一人だった
ヒドラは現在、生物学の研究者たちがこぞって研究する対象ではない
しかし、かつてヒドラの研究が花形だった時代もあった
ヒドラは、生物学の黎明とともにあった生き物なのだ

生き物の体を形作っているのは細胞である
例えば、ヒドラの体は数万個程度の細胞によって構成されている
胴体も触手も、細胞が集まってできている
刺激を感知して発射される刺胞も、刺胞細胞という一つの細胞なのだ

生物を研究すること、それは細胞を研究することでもある
細胞を研究するには、細胞を視ることが不可欠だ
しかし残念なことに、細胞を肉眼で見ることができない
私たちの視力の最小分解能が、100マイクロメートル(1ミリメートルの10分の1)程度であるのに対し、細胞の大きさがそれより小さいからだ

17世紀後半、オランダで織物商を営んでいたアントニ・ファン・レーウェンフックという人物がいた
レーウェンフックは、洋服の生地の品質を確認するために、ルーペを用いていたが、もっと細かな構造を見ることはできないだろうかと考えた
そんな彼は、小さなガラスの球体を磨き上げてレンズにし、とても簡素な顕微鏡をつくり上げた
一見すると、ルーペと変わらないようにも見えるが、顕微鏡の倍率は300倍ほどもあったという

レーウェンフックは、科学者ではなかったが、強い探求心をもっていた
自作した顕微鏡で彼が観察したのは、洋服の生地だけではなかった
水たまりの水を採ってきては、その中にいる小さな生き物たちを観察し、ときに動物の血液や歯に付着している歯垢まで、ありとあらゆるものを見た
肉眼では見ることのできない“小さな世界”を目の当たりにしたのだ
彼は発見した微生物をanimalculesと呼び、論文として報告した
今日、レーウェンフックは“微生物学の父”と呼ばれている

彼が1702年に残した文章には、ある生き物の精密なスケッチが添えられている
細長い胴体に、触手をもつシンプルな体のつくり
触手には、刺胞が備わっている
そう、それこそが、ヒドラである

レーウェンフックは水辺でヒドラを見つけ、つぶさに観察した
胴体を伸び縮みさせ、ときに触手を動かすヒドラの様子が記されている
それだけではない
彼の観察眼は、科学者さながらだった

ヒドラが、どのようにして殖えるのか──
オスのヒドラとメスのヒドラがいるわけではなく、一匹の親ヒドラの胴体から、子のヒドラが新枝のように出てきて成長し、分離していく
彼は、そんな記録を残した
ヒドラという生き物は、“微生物学の父”によって見出されたのだ

ヒドラには、もう一人の“父”がいる
レーウェンフックと同じオランダで家庭教師をしていたアブラハム・トランブレーだ
レーウェンフックがヒドラの記録を残した後、トランブレーも、水路の水草に付着しているヒドラを発見する
彼もまた、ヒドラを採集し、どんな行動をするかを観察した

彼は、ヒドラが光の強い場所を好み、明るい場所へ向かって移動していくことを発見した
ヒドラは胴体の足にあたる部分から粘液を出し、普段は何かに付着して生活しているが、ときに足を剥がし、触手を巧みに使って、まるでしゃくとり虫のように歩いて移動することがある

さらにトランブレーは、ヒドラがもつ“特殊能力”を見出した
彼はあるとき、ヒドラの体を切り刻んで、バラバラにしてみたのである
普通の生き物は死んでしまうだろう
しかし驚くべきことにヒドラは、切り刻まれた小さな断片からでも、体全体を再生させたのだ

私が高校生のときに研究していたプラナリアのように、ヒドラはとても強い再生能力をもっている
ヒドラは2つに切断すれば、2つの個体になるし、4つに切断すれば4つの個体になる
切断した断片のそれぞれが、数日の間に完全体に再生するのだ

さらに体を擦りつぶして細胞同士をバラバラにしたとしても、それを一箇所に固めて置いておくと、新たな個体が形成される
その旺盛な再生能力を利用して、トランブレーはヒドラの体を切断し、異なるヒドラから得られた断片を器用につなぎ合わせ、まるで接ぎ木のようにして、新しい個体をつくることにも成功した

彼は“実験生物学の父”と呼ばれている
生物の体に細工をほどこして実験をするという生物学の方法論は、ヒドラから生まれたといっても過言ではない

ヒドラがもつ類い稀な再生能力は、生物学者たちを魅了した
私たち人間は、ひとたび体の一部を失うと、再生させることができない
どのようにすれば体を再生させることができるのか?
ヒドラからヒントを得ようとしてきた

ヒドラの体には、interstial cell(i-cell)と呼ばれる幹細胞が存在し、再生能力の源になっている
2015年に報告された論文では、同じヒドラの集団を8年にわたって追跡調査したところ、老化の兆候をほとんど示さないことが分かった
驚くべきことに、1400年以上生き続ける個体がいるという推定もある

ギリシャ神話には、ヒュドラーという名の恐ろしい怪物が登場する
ヒュドラーは、1つの胴体に蛇のような首を9つもっていて、首を切り落としても、何度でも生えてくる
ヒドラという名は、このヒュドラーにちなんでいるらしい
たしかにヒドラのシルエットは、9つの蛇の頭をもつヒュドラーを彷彿とさせる
しかし似通っているのは、シルエットだけではない
体を切り刻まれても擦りつぶされても再生し、老化せずに生き続ける
ヒドラは、“不死身の怪物”なのだ

(この記事は現代ビジネスの記事で作りました)

私は小学校で同じ小学校の児童がプラナリアの再生能力の自由研究の発表を見たことがあり、プラナリアの再生能力に驚いたことがある

ヒドラの再生能力も凄いですね

しかもヒドラは2015年に報告された論文では、同じヒドラの集団を8年にわたって追跡調査したところ、老化の兆候をほとんど示さないことが分かった
驚くべきことに、1400年以上生き続ける個体がいるという推定もあるという




睡眠の起源 (講談社現代新書 2760) 新書

私たちはなぜ眠るのか?
世界を驚かせた気鋭の研究者が睡眠と意識の謎に迫る極上の科学ミステリー
睡眠を通じて「生物進化のふしぎ」にも迫る
posted by june at 04:20| Comment(0) | ニュース | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2025年04月21日

「最強の帝国」オスマン帝国の「伝説の始祖」とされる「オスマン」とは何者なのか

およそ600年ものあいだ「世界史の中心」に君臨していたオスマン帝国
多民族・多宗教の大帝国は、いかに栄え、そして滅びたのでしょうか

3月21日発売の『オスマン帝国全史』(講談社現代新書)著者・宮下遼さんが、今なぜオスマン帝国の歴史を学ぶ意味があるのかを解説します


オスマン家のアナトリア入来

後世のオスマン帝国の史書群は、オスマン家の先祖がルームの国に到来したときのことを、以下のように伝える
オスマンの祖父スレイマン・シャー──ルーム・セルジューク朝を建てたスライマーンとは別人と解されている──に率いられた人々はアナトリアへ入ったものの山と谷に阻まれなかなか進めず、家畜たちも衰弱したため移住をあきらめ引き返すことにした

ところがユーフラテス河を渡る折、スレイマン・シャーが溺死してしまう
指導者を欠いた集団の大半が去るのを尻目に、スレイマン・シャーの3男にしてオスマンの父親となるエルトゥールル(?1198?1381)は、300戸ほどの部衆を率いて東アナトリアへ戻り、そこで長いこと遊牧して暮らし、やがてルーム・セルジューク朝の王が聖戦を行うと聞き、馳せ参じてその戦列に加わった──

オスマンの祖父に関してはその名前も含め異説に事欠かず、後代に父エルトゥールルの事績とされているアナトリアへの入来と西進というオスマン家の移住が、実際には数世代にわたる事業であった可能性も指摘される
もとより確証を得る方法もなく、本書では混乱を避けるためにもエルトゥールルをスレイマン・シャーの息子とするオスマン帝国で広く見られた見解に従って筆を進めよう

いずれにしても、オスマンたちの先祖がアナトリア方面へ移動したのは13世紀初頭のことであったようだ
チンギス・ハーン率いるモンゴル軍がホラーサーン、イランに侵攻したのが1219年、イル・ハン朝を建てるフレグによる第2波の征西がはじまるのが1253年であるので、エルトゥールルがルーム・セルジューク朝の王に助勢したという伝説に信を置くならば、彼の父スレイマン・シャーがアナトリアへ向かったのはモンゴルの第一波の攻撃を逃れてのことであったかもしれない

数多くの推測を繋げてなお朧げにしか描けないオスマン家の来歴は、逆説的に2つのことを示唆する
第1に、彼らは後世に帝国の史家や詩人が主張したようなオグズ族の貴種、名家の出身ではなく、おそらく単なる流れ者であったということ
第2に、従って来たる巨大帝国の建国者たちはその血筋や出自に頼ることなく、居ついた先であるルームの国の政治、文化風土の中でこそ、その力を養い育てたということである

初代の父子 エルトゥールルとオスマン

一族の来歴がどのようなものであれ、父エルトゥールルと王朝初代オスマンの父子が流れ着いたのは、トルコ人たちの放牧地が多く点在し、その政治的、文化的中心地であったコンヤを擁する中央高原地帯からは遠く離れたアナトリアの西北部、小盆地ソユトであった

ソユトの野は、北西20キロほどのところにビザンツ人の街ビレジキ(ギリシア語ベレコマ)を擁し、その北を流れるサカリヤ河がビザンツ帝国本国との自然国境を成す一方、南東にはイスラーム教徒の街エスキシェヒル(古名エスキヒサル)が控えていた
つまり、トルコ人の多く暮らす中央高原とビザンツ帝国の勢力圏が交わるアナトリア最大の国境地帯が、オスマン帝国揺籃の地となったのである

オスマンの父エルトゥールルは、ここで部衆とともに遊牧生活を送りながら周辺地域の有力者たちと合従連衡を繰り返し、1281年ころに没する
そのあとを継いだのが、オスマン帝国の始祖とされる息子オスマン(1世。1257?―1323?1326?)である

オスマンは、その実在こそ確実視されているものの、先祖たちと同じく実像が捉えがたい人物である
そもそも生年はもとより、その名前にしてからが一定しない
後世のオスマン帝国の史料は異口同音にイスラーム教徒の名前ウスマーンのトルコ語訛なまり「オスマン」であると綴って疑わないが、オスマンと同時代のビザンツ帝国側の史料にはアタマンやアタマノス、アラビア語史料ではトゥマンなどとしても出来するし、イブン・バットゥータの『大旅行記』ではオスマンジュク(小オスマン)と記される

とくにアタマン説は20世紀末にオスマン一党の来し方をオグズ族ではなく、黒海の対岸モンゴル帝国の後継国家キプチャク・ハン国とする説の根拠とされて注目を集めもした。もっとも現在では、従来通りオグズ族カユ氏族の人物という出自が支持されているので、私たちも帝国の始祖を「オスマン」と呼ぶことにしよう

(この記事は現代ビジネスの記事で作りました)

「最強の帝国」ともいわれるオスマン帝国

多民族・多宗教の大帝国は、いかに栄え、そして滅びたのか

この(大)帝国の始祖・オスマン(1世)は謎も多い人物だったようです



オスマン帝国全史 「崇高なる国家」の物語 1299-1922 (講談社現代新書 2770) 新書

「最強の帝国」ともいわれる他民族・多宗教のオスマン帝国の栄枯盛衰
posted by june at 12:21| Comment(0) | ニュース | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする