源義経とは
源義経は兄の源頼朝の平氏打倒の挙兵に馳せ参じ、京都で木曽義仲を討ち取り、平氏との一ノ谷・屋島・壇ノ浦の合戦で平氏を滅ぼした、源氏の最大の功労者だ
源平合戦の中で源義経は当時では考えられない奇襲や兵法を用いたとされ、壇ノ浦の戦いでは船の上で八艘飛びをしたと伝えられる
また、武蔵坊弁慶との五条大橋での出会いでは、剛力な弁慶を感服させ家来にしたという伝説がある
源義経の剣豪としての実力や数々の伝説について追っていく
源義経の生い立ち
源義経は平治元年(1159年)清和源氏の流れを組む河内源氏の棟梁である源義朝の9男として生まれ、幼名を牛若丸と名付けられた
父・義朝は平治の乱で敗れ殺されて、生まれたばかりの義経は平清盛によって助命され、7歳の時に京都の鞍馬寺に預けられる
義経は鞍馬寺の東光坊阿闍梨覚日のもとに預けられ、僧になるように定められて遮那王と呼ばれる
幼い義経は僧になるべく勉学に励んでいたが、11歳の時に自分の家系図と記録を見つけて「父・義朝の本望を果たす」と武士になることを決意する
15歳の時には父の家人であった者の息子から「あなたは清和源氏の末裔で義朝公の御子ですよ!源氏が国々に押し込められていることを情けないと思いませんか?」と言われた
それ以来義経は学問を一切しなくなり、同輩の子供らと木刀や刀を振り回すようになる
剣術修業の噂
伝記物の中で義経は「天狗に兵法を習う」「鬼一法眼に剣術を習う」などと書かれているが、これは話を脚色して伝わっている
天狗説について
鞍馬寺は山岳修験の寺院で、京都では清水寺と並ぶ庶民の信仰の聖地である
その中で「鞍馬寺には天狗が出る」という噂が立ち、後に義経が身軽に動き回ることから天狗に兵法を教わったと広まったのだ
また、鞍馬寺の参詣に訪れた人たちに、宿坊の主人たちが「私たちの身内が義経に剣法を伝授した」と鞍馬寺信仰を広めるために勝手な作り話をしたのだ
だから、鞍馬寺には義経に関する「牛若背比べ石」や「義経堂」などゆかりの地がある
鬼一法眼説について
鬼一法眼は剣術の始祖と呼ばれる剣術の達人で、陰陽師でもあり妖術も使う剣術家である
鬼一法眼は鞍馬寺の八人の僧兵に武術を伝授した。これが鞍馬八流または京八流と呼ばれ、この八流が後の剣術の流派となっていくのだ
しかし、鬼一法眼は義経に直接伝授した訳ではなく、八人の僧兵の中の一人が義経に教えた流派が、後に鞍馬流となったとされている
義経は鬼一法眼の持つ中国から伝わった伝説の兵法書「六韜三略(ろくとうさんりゃく)」を読みたいと思って「本を写させて欲しい」と屋敷に頼みに行った
しかし、断られたために鬼一法眼の娘と恋仲になり、本を写して中味を完全に把握して娘を捨てて逃げてしまう。
怒った鬼一法眼は義経に追手を差し向けるのだが返り討ちにされてしまう
言わば義経と鬼一法眼は仇同志なので、鬼一法眼説は作り話である(※とはいえ鬼一法眼自体が伝説上の人物ではあるが)
六韜三略は伝説の兵法書で、「坂上田村麻呂は六韜三略を読んで奥州の悪路王を倒した」「平将門は六韜三略を読んで分身の術を体得した」など読んだ人物は神通力や魔法が使えるといった伝説がある
17歳でこの本を読んだ義経が、実際に後に平氏を滅ぼしたのだから説得力の高い伝説と言える
また、義経は六韜三略の話を聞く前に、奥州の藤原氏のもとに居てそこで馬術を習ったとされる
義経の剣術とは
鞍馬寺の僧兵から義経が習った剣術は「敏捷性を生かし短い刀を用いて素早く敵の懐に入る剣術」とされている
短い刀の実際の長さは53cmで、反りが大きな車太刀という刀だったという
六韜三略の書物を読んだ翌年、義経18歳の時に武蔵坊弁慶と運命的な出会いをする
京の五条大橋で、弁慶は千本の太刀を集めようとして999本になった所に義経が現れた
弁慶は「太刀をよこせ」と言って襲いかかったが、義経は橋の欄干に飛び移り弁慶をかわしてその場を立ち去る
翌日は清水寺で縁日があった、そこに義経が現れると思った弁慶は清水寺で待ち構えると義経がやって来た
再度挑んだ弁慶だが、飛び回る義経を捕まえられずに逆に馬乗りにされて義経に「家来になるか?」と問われて弁慶は降参するのだ
この話は創作とされ、弁慶の実在自体も立証されているわけではないが、各地に弁慶の逸話が残っているのも事実である
義経の兵法とは
義経の兵法は思いがけない奇襲だったとされている
一ノ谷の戦い
一ノ谷の合戦では3000の兵を連れて一の谷の北にある鵯越(ひよどりごえ)に向かった
この時、義経は弁慶に地形に詳しい狩人を呼ばせて絶壁の道を尋ねた
狩人が「途中に岩場があり人も馬も通れない」と言うと、義経は「鹿は通るか」と聞く
狩人が「通る」と答えると、義経は「鹿も四つ足なら馬も四つ足、通れぬことはない後に続け」と駆け下りた
義経の精兵たち30騎あまりが義経に続いて駆け下り、後から残る大軍も続いて下りたので、平氏はまさか絶壁から攻めて来るとは思わずに総崩れになって敗れた
屋島の戦い
屋島の合戦では、義経は平家の四国の拠点である屋島攻撃に向かったが激しい北風が吹いており、地元の船頭たちは反対した
しかし、義経は反対を押し切って、たった船5艘150騎で暴風雨の中強行し、風を逆に利用して通常3日かかる航路(1日と4時間とも)をたった4時間で着いてしまう
平氏方では海から義経の船団が来ると予想していいたが、義経は裏をかいて内陸から迫った
80騎の兵で対岸の民家に火をかけ、出たり入ったりを繰り返し、相手に大軍だと見せかけた
平氏方は船に急いで乗ったが、その後 手薄になった陸地に義経軍は攻撃し大勝した
壇ノ浦の戦い
壇ノ浦の合戦では、午前中は潮の流れに乗って平氏方が義経軍を圧倒していたが、義経軍は何とか耐えた
平氏は潮の流れが変わる午後3時までには勝敗をつけなければならなかったが、義経は潮が変わったと同時に当時タブーとされていた、船の船頭やこぎ手を矢で射殺しろと命じる
義経は「戦いは殺すか殺されるかだ」と手段を選ばずに船頭を殺した
※平家物語では射殺を命じておらず、大勢が決した後に源氏の兵が乗り込み船頭やこぎ手を殺したとある
平氏方は身動きが取れずに、義経は自ら船の上を飛びながら移動して敵を倒し、一気に形勢は逆転してついに平氏は滅亡した
六韜三略に「奇襲攻撃をせよ」という兵法が載っていたかどうかは定かではないが、義経は敵が考えもしない奇襲とタブーの戦術を用いたのだ
伝説となった源義経
源義経は剣術の始祖・鬼一法眼が教えた鞍馬寺の8人の僧兵の1人から剣術を学んだとされる
剣豪としては剛力無双の武蔵坊弁慶を倒し家来にした腕前と、自らが先陣をきって敵に向かっていく勇猛さを合わせ持つ
六韜三略を読み神通力を得たかのような数々の奇襲攻撃で父の仇を討った義経は、後に兄・頼朝の怒りを買って殺されてしまう
多くは創作や言い伝えであり立証されてないものも多いが、数多くの伝説が生まれるほどその実績は凄まじく、極めて有能な武将であったことは間違いないだろう
(この記事は、草の実堂の記事で作りました)
源義経は、源平合戦の源氏勝利の最大の功労者
(牛若丸時代も含め多くの伝説がある)
(戦の天才といえる)
立場をわきまえない部分もあったようだ
(政治的駆け引きなどには疎かったようだ)
そのため、後に兄・頼朝の怒りを買い殺されてしまった「悲劇の英雄」・・・
しかし、多くの生存伝説も生んだヒーローでもある
戦の天才ヘの憧れ、英雄の生存していてほしいという思いも感じる
源義経は剣術の始祖・鬼一法眼が教えた鞍馬寺の8人の僧兵の1人から剣術を学んだとされる
剣豪としては剛力無双の武蔵坊弁慶を倒し家来にした腕前と、自らが先陣をきって敵に向かっていく勇猛さを合わせ持つ
六韜三略を読み神通力を得たかのような数々の奇襲攻撃で父の仇を討った義経は、後に兄・頼朝の怒りを買って殺されてしまう
多くは創作や言い伝えであり立証されてないものも多いが、数多くの伝説が生まれるほどその実績は凄まじく、極めて有能な武将であったことは間違いないだろう
源平武将伝 源義経 (日本の歴史 コミック版 17) 単行本
戦の天才にして、悲運の武将・源義経!
源平合戦の英雄の、短くも激しい生涯を、現代的絵柄でコミック化!
監修の加来耕三先生による解説も必読!!
2026年05月14日
2026年05月13日
葛飾北斎の魅力「あと5年で本物になれた」画狂老人
穏やかな広重に対し、色鮮やかでダイナミックな北斎の浮世絵版画
しかし、彼はどこまでも貪欲であった
特定の手法や分野に縛られることなく、多彩な作品を手がけたのである
葛飾北斎の魅力を調べてみた
自然を切り抜く
北斎の創作意欲を刺激したのは、自然、つまり「形のないもの」である
水、風、といったビジュアル化しにくいものをいかに表現するか
代表的なところでは、水の流れる様子。世界的に有名な「大波」のモチーフはもちろん、『諸国滝廻り』などからも、水の躍動感、ダイナミズムを捉えようという情熱がよく分かる
そして、風景画だけではなく、時には『芥子(けし)』のような花鳥画でも、モチーフに動きをつけて見えない空気の動きを巧みに表現した
この花鳥画でも、可憐な芥子が強風に耐えるさまが印象的である
北斎の花鳥画のなかでも特に人気が高いというのも頷ける
売り上げの広重・集客の北斎
現在では「複製版画が売れるのは北斎より広重」といわれる
東海道五十三次などの浮世絵で有名な歌川広重である
しかし、展覧会の集客力なら断然北斎のほうが高いともいう
2014年に上野の森美術館で開催された「ボストン美術館浮世絵名品展 北斎」は51日間で約21万人を動員している
同年の美術展入場者数では12位、個人の浮世絵展ではトップであった
常識的で繊細な広重と違い、北斎の構図は大胆で奇抜ともいえる
部屋に飾るには物々しいが、たまに見るなら刺激的でいいということかも知れない
型破りな構図は『富嶽三十六景』などの連作で見ることができる。『諸国名橋奇覧』は各地の橋がテーマとなっており、『飛越(ひえつ)の堺つりはし』は、曲芸のような歩き方に危うさを覚え、橋の先も谷の下も見えないためにより想像力を掻き立てられるのだ
さらにその先へ
北斎は天与の才に驕ることなく、絵を描きたいという純粋な意欲によって、貪欲にその技術を向上させたのだろう
現状に満足することなく、内外古今の画法を研究しては、躊躇することなく自分のスタイルを変えていった
事実、その画力も老いてゆくほど驚くべき向上を見せたことだ
富嶽三十六景など北斎の代表作の多くが70歳を過ぎてから描かれている
75歳の作品『富嶽百景』は、スケッチ画だがそこに北斎の波へのこだわりが見える
「海上の不二」ではモノトーンの波がぐっとせり上がり波頭が崩れる
さらに砕け散った波頭は鳥となって富士へと降りかかるという、現実にはあり得ないが見るものを惹き付ける新境地を開いた
5年ほど前の作品で、同じく大波をモチーフにした『富嶽三十六景』「神奈川沖浪裏」では、富士を中央に配し、翻弄される船との対比によって波の荒さを強調しているが、「海上の不二」ではシンプルな富士を奥に置き、あとは波の動きだけでその荒さを伝えている
無駄を削ぎ、より先鋭化しているといえるだろう
葛飾北斎 の悟り
そうした変化は北斎自身も自覚、というより求めていたものである
なにせ、『富嶽百景』のあとがきでは、70歳以前の作品を「どれも取るに足らない」と言い切り、さらに「86歳になればもっと上手くなり、90歳で奥義を窮め、100歳となったときには神の領域に達し、110歳からは生きているかのような画を描けるはず」とまで豪語している
当時は平均寿命が50歳にも満たなかった時代
70歳からの20年間に絵師としての本領を発揮したことは驚嘆に値する
天才画家にありがちな浪費癖もあったようで、日常生活での金遣いにはルーズであった
だが、金で片付くなら諸事は手早く済ませ、その分の力を作品に向けたのだろう
北斎は無自覚だろうが、そうした生活が余計なストレスから彼を遠ざけ、長生きさせた一因でもあるようだ
70代で版画を捨て、絵本と肉筆画に傾注するようになったのも、クライアントの指図に縛られたくないと思えばこそであった。
こだわりの根源
数え90で亡くなる数ヶ月前には、富士を越えて龍が天に昇る『富士越龍図』を描いた
まるで噴煙の如くたなびく黒雲に導かれ、天に昇る龍
例によって幾何学的な富士山の造形は、墨絵ということもあったか、この世のものとは思えない
北斎の頂点をなす肉筆画の傑作だ
北斎は歳を重ねるほどに、宇宙、神、生命の根源といった超自然の概念に傾注するようになったという
写実性よりも独自の表現を追及した世界観は、確かに現世ではない景色を切り取ったかのように幻想的である
水や風の如く、捉えがたい題材こそ絵にしたいという絵師としてのこだわりは終始あったのだ
最後に
北斎の最大の武器は情熱であった
絵師としえの見栄などに頓着せず、描きたいものは何でも描いた
挿絵はもちろん、幟や、封筒、菓子袋にあしらうものまであらゆる絵に挑戦したという
晩年には「画狂老人」とまで名乗ったくらいである
改名や引越しの多さなど私生活での奇行を指摘する声も多いが、すべては最高の絵を描くための環境作りだったと思えば理解できる
全ての情熱を作品だけに傾けた人生であったのだ
北斎は死の床にあって『あと5年あれば本当の絵師になれた』とうそぶいたというのだから
(この記事は、草の実堂の記事で作りました)
葛飾北斎は、生涯にわたって、向上心を忘れず、変化・前進し続けた
あらゆるもの、森羅万象を描き、いろいろな画法に挑んだ
絶筆(最後の作品)ともいわれる富士越龍図は、シンプルな墨絵のようだが、そこにこそ北斎の凄みを感じさせる
生活の(ほどんど)全てを絵を描く情熱に注ぎ込んだ「画狂老人」・葛飾北斎・・・
死の前、「あと5年あれば本当の絵師になれたのに」といったという
もっと知りたい葛飾北斎 改訂版 生涯と作品 (アート・ビギナーズ・コレクション) 単行本
絵を描くことに情熱を傾けたある意味「変人」の天才画家・葛飾北斎・・・
森羅万象あらゆるものを描いた彼の作品と数奇で興味深い生涯を紹介・解説
しかし、彼はどこまでも貪欲であった
特定の手法や分野に縛られることなく、多彩な作品を手がけたのである
葛飾北斎の魅力を調べてみた
自然を切り抜く
北斎の創作意欲を刺激したのは、自然、つまり「形のないもの」である
水、風、といったビジュアル化しにくいものをいかに表現するか
代表的なところでは、水の流れる様子。世界的に有名な「大波」のモチーフはもちろん、『諸国滝廻り』などからも、水の躍動感、ダイナミズムを捉えようという情熱がよく分かる
そして、風景画だけではなく、時には『芥子(けし)』のような花鳥画でも、モチーフに動きをつけて見えない空気の動きを巧みに表現した
この花鳥画でも、可憐な芥子が強風に耐えるさまが印象的である
北斎の花鳥画のなかでも特に人気が高いというのも頷ける
売り上げの広重・集客の北斎
現在では「複製版画が売れるのは北斎より広重」といわれる
東海道五十三次などの浮世絵で有名な歌川広重である
しかし、展覧会の集客力なら断然北斎のほうが高いともいう
2014年に上野の森美術館で開催された「ボストン美術館浮世絵名品展 北斎」は51日間で約21万人を動員している
同年の美術展入場者数では12位、個人の浮世絵展ではトップであった
常識的で繊細な広重と違い、北斎の構図は大胆で奇抜ともいえる
部屋に飾るには物々しいが、たまに見るなら刺激的でいいということかも知れない
型破りな構図は『富嶽三十六景』などの連作で見ることができる。『諸国名橋奇覧』は各地の橋がテーマとなっており、『飛越(ひえつ)の堺つりはし』は、曲芸のような歩き方に危うさを覚え、橋の先も谷の下も見えないためにより想像力を掻き立てられるのだ
さらにその先へ
北斎は天与の才に驕ることなく、絵を描きたいという純粋な意欲によって、貪欲にその技術を向上させたのだろう
現状に満足することなく、内外古今の画法を研究しては、躊躇することなく自分のスタイルを変えていった
事実、その画力も老いてゆくほど驚くべき向上を見せたことだ
富嶽三十六景など北斎の代表作の多くが70歳を過ぎてから描かれている
75歳の作品『富嶽百景』は、スケッチ画だがそこに北斎の波へのこだわりが見える
「海上の不二」ではモノトーンの波がぐっとせり上がり波頭が崩れる
さらに砕け散った波頭は鳥となって富士へと降りかかるという、現実にはあり得ないが見るものを惹き付ける新境地を開いた
5年ほど前の作品で、同じく大波をモチーフにした『富嶽三十六景』「神奈川沖浪裏」では、富士を中央に配し、翻弄される船との対比によって波の荒さを強調しているが、「海上の不二」ではシンプルな富士を奥に置き、あとは波の動きだけでその荒さを伝えている
無駄を削ぎ、より先鋭化しているといえるだろう
葛飾北斎 の悟り
そうした変化は北斎自身も自覚、というより求めていたものである
なにせ、『富嶽百景』のあとがきでは、70歳以前の作品を「どれも取るに足らない」と言い切り、さらに「86歳になればもっと上手くなり、90歳で奥義を窮め、100歳となったときには神の領域に達し、110歳からは生きているかのような画を描けるはず」とまで豪語している
当時は平均寿命が50歳にも満たなかった時代
70歳からの20年間に絵師としての本領を発揮したことは驚嘆に値する
天才画家にありがちな浪費癖もあったようで、日常生活での金遣いにはルーズであった
だが、金で片付くなら諸事は手早く済ませ、その分の力を作品に向けたのだろう
北斎は無自覚だろうが、そうした生活が余計なストレスから彼を遠ざけ、長生きさせた一因でもあるようだ
70代で版画を捨て、絵本と肉筆画に傾注するようになったのも、クライアントの指図に縛られたくないと思えばこそであった。
こだわりの根源
数え90で亡くなる数ヶ月前には、富士を越えて龍が天に昇る『富士越龍図』を描いた
まるで噴煙の如くたなびく黒雲に導かれ、天に昇る龍
例によって幾何学的な富士山の造形は、墨絵ということもあったか、この世のものとは思えない
北斎の頂点をなす肉筆画の傑作だ
北斎は歳を重ねるほどに、宇宙、神、生命の根源といった超自然の概念に傾注するようになったという
写実性よりも独自の表現を追及した世界観は、確かに現世ではない景色を切り取ったかのように幻想的である
水や風の如く、捉えがたい題材こそ絵にしたいという絵師としてのこだわりは終始あったのだ
最後に
北斎の最大の武器は情熱であった
絵師としえの見栄などに頓着せず、描きたいものは何でも描いた
挿絵はもちろん、幟や、封筒、菓子袋にあしらうものまであらゆる絵に挑戦したという
晩年には「画狂老人」とまで名乗ったくらいである
改名や引越しの多さなど私生活での奇行を指摘する声も多いが、すべては最高の絵を描くための環境作りだったと思えば理解できる
全ての情熱を作品だけに傾けた人生であったのだ
北斎は死の床にあって『あと5年あれば本当の絵師になれた』とうそぶいたというのだから
(この記事は、草の実堂の記事で作りました)
葛飾北斎は、生涯にわたって、向上心を忘れず、変化・前進し続けた
あらゆるもの、森羅万象を描き、いろいろな画法に挑んだ
絶筆(最後の作品)ともいわれる富士越龍図は、シンプルな墨絵のようだが、そこにこそ北斎の凄みを感じさせる
生活の(ほどんど)全てを絵を描く情熱に注ぎ込んだ「画狂老人」・葛飾北斎・・・
死の前、「あと5年あれば本当の絵師になれたのに」といったという
もっと知りたい葛飾北斎 改訂版 生涯と作品 (アート・ビギナーズ・コレクション) 単行本
絵を描くことに情熱を傾けたある意味「変人」の天才画家・葛飾北斎・・・
森羅万象あらゆるものを描いた彼の作品と数奇で興味深い生涯を紹介・解説
なぜ我が子を殺せたのか 〜昔の農村にあった「間引き」の実態
間引きとは
「間引き」とは、生まれたばかりの乳児を育てず、命を絶つ行為を指す言葉である
現代の感覚では到底受け入れがたいが、かつての農村では苦しい選択として行われることがあった
江戸時代中期以降、農村の人口減少が問題となるなかで、幕府や諸藩は赤子の間引きを禁じ、養育を奨励する政策を打ち出すようになった
それでも一部の地域では慣行として残り、赤子が生まれた直後に、育てるか、返すかの決断が下されていた
言葉の由来と選別基準
「間引き」とは本来、農業用語である
発芽した苗のうち、育ちの悪いものや密集したものを抜き取り、残された苗に十分な空間と養分を行き渡らせて収穫を確保する、ごくありふれた作業を指す言葉だ
やがてこの言葉は、乳児の命の選別にも用いられるようになった
育てきれない子どもを取り除くことで「家」全体を生かすという発想が、農作業の論理と重なっていった
また、間引きの選別基準もいくつかあった
大きな影響を与えたものの一つが、性別である
農作業の担い手として男子が重視される地域では、女子が間引きの対象になりやすかった
さらに双子や三つ子、奇形や障害、早産で体が弱いなどの他に、親の厄年や丙午(ひのえうま)といった暦の条件もあった
「丙午生まれの女子は夫を食い殺す」という俗信には何の根拠もなかったが、こうした迷信も、出産直後のごく短い時間のなかで赤子の運命を左右することがあったのだ
なぜ「殺す」ではなく「返す」と呼んだのか
こうした行為を、当時の人々は「殺す」とは言わなかった
「子返し」「子戻し」「送り返す」など、いずれも命を断つのではなく、元の場所に戻すという意味を持つ言葉である
その背景にあるとされるのが「七つまでは神のうち」といった観念である
数え年7歳に達するまでの子どもは、まだ完全にこの世に属しておらず、あの世との境界にいる存在と見なされていたのだ
親が育てると決めて共同体に迎え入れることで、初めて「人」になるため、それ以前に「返す」行為はこの世にまだ来ていない命を元に戻すことを意味した
こうした境界線の置き方は当時の死亡率と無関係ではない
歴史人口学者の鬼頭宏氏の研究によれば、江戸時代中期から後期の濃尾地方における乳児死亡率は、出生1000人に対しておよそ150〜190人で、地域によってはさらに高い推計もあるという
つまり、少なくともこの地域では生まれた子の約15〜19%が、満1歳を迎える前に亡くなっていたのだ
「返す」という言い方は、残酷さを覆い隠すためのものではなく、現代とは違う倫理体系があった
間引きをした理由
間引きの理由として、まず挙げられるのは貧しさである
重い年貢と限られた農地のもとで、子どもを養う余裕のない家はたしかに多かった
しかし、それだけが理由ではない
当時の農村では、何よりも「家」を残すことが重んじられた
子どもが増えすぎれば、一人あたりに分けられる土地や財産は少なくなり、いずれ家そのものが苦しくなる
そのため間引きは、家の存続を見据えた人口管理としての側面もあった
世間体や信仰も理由の一つである
体に異常のある子は「家に災いをもたらす前触れ」と恐れられ、そうした子を産んだことで周囲から厳しく見られることもあった
変化していった倫理観
18世紀半ば以降、東北から北関東の諸藩では「赤子養育仕法」と呼ばれる出産奨励策が順次導入された。
二本松藩では延享2年(1745年)に始まり、子どもの数に応じて米や金銭を支給した
妊婦を登録させ、流産・死産があれば遺体を検分する仕組みまで整えた
幕府が間引きを正式に禁じたのは、明和4年(1767年)である
触書には、出生した子を産所で殺す行為を「不仁の至り」と記した
白河藩主・松平定信は、赤子養育金を支給する一方で、間引きの罪によって地獄に落ちる様子を描いた「受苦図」を村々に持ち回らせるなど、信仰に訴える形でも間引きの抑止を図った
このようにあらゆる手段が講じられたが、間引きは止まらなかった
間引きがなくなっていったのは、明治以降である
戸籍制度が整うと、子どもは生まれた時点で国家に記録される存在になった
赤子の命は家の内側だけで扱えるものではなくなり、役所や警察の目が届くものへと変わっていった
そうした変化の中で、間引きは「やむを得ない子返し」ではなく、明確な犯罪として見られるようになる
倫理が法を変えたのではなく、まずは社会の構造が変わり、そのあとを追うように倫理もまた書き換えられていったのである
江戸時代の親が間引きを行えたのは道徳心が欠けていたからではなく、現代とは異なる倫理の枠組みのなかで生きていたに過ぎないのだ
参考文献 :
鬼頭宏『人口から読む日本の歴史』講談社学術文庫、2000年
太田素子『子宝と子返し――近世農村の家族生活と子育て』藤原書店、2007年
文 / 村上俊樹 校正 / 草の実堂編集部
(この記事は、草の実堂の記事で作りました)
間引きとは、本来は農業用語で、育ちの悪い、密集した作物を「選別」して引き抜くことだった
それが人間の子供を「選抜(!?)」して「殺す」ことにもつながった
貧しさや家存続のために「間引き」が行われた
当時の子供の死亡率の高さもあったどろう
子は7歳までは「人」になっていない、双子以上の兄弟・姉妹、障害のある子、迷信なども間引きに関与した
当時の宗教観、倫理観、考え、風習、常識などが現代とは違った・・・
当時の考え、風習、常識に「おじろく・おばさ」もあった
参考記事:20世紀まで続いた日本の奴隷制度 「おじろく・おばさ」~長男以外は奴隷
今では考えられない奴隷制度、差別制度だが、当時の考え、風習、常識以外も人口抑制、家存続などもあったようだ
その点においては間引きと似ている
人口から読む日本の歴史 (講談社学術文庫 1430) 文庫
増加と停滞を繰り返す、4つの大きな波を示しつつ、1万年にわたり増え続けた日本の人口
そのダイナミズムを歴史人口学によって分析し、また人々の暮らしの変容と人生をいきいきと描き出す
近代以降の文明システムのあり方そのものが問われ、時代は大きな転換期にさしかかった
その大変動のなか少子高齢化社会を迎えるわれわれが進む道とは何か
子宝と子返し〈増補新版〉 〔近世農村の家族生活と子育て〕 単行本(ソフトカバー)
江戸期農村の豊かな人間形成力――現在の教育がその「子宝的子育て」に学ぶものとは?
近世農村の家族にあった、子どもへの情愛と、丁寧な子育て
嬰児殺し(子返し)、捨子といった子育ての困難、悲しみを直視しつつ、日記などの生活記録を丹念に分析し、共感的な理解に満ちた子ども観、仕事を介した大人―子どものコミュニケーションなど、江戸の豊かな人間形成力を描き好評を博した初版に、江戸期の避妊や産児制限、そして性愛のありように焦点をあてた論文を増補
「間引き」とは、生まれたばかりの乳児を育てず、命を絶つ行為を指す言葉である
現代の感覚では到底受け入れがたいが、かつての農村では苦しい選択として行われることがあった
江戸時代中期以降、農村の人口減少が問題となるなかで、幕府や諸藩は赤子の間引きを禁じ、養育を奨励する政策を打ち出すようになった
それでも一部の地域では慣行として残り、赤子が生まれた直後に、育てるか、返すかの決断が下されていた
言葉の由来と選別基準
「間引き」とは本来、農業用語である
発芽した苗のうち、育ちの悪いものや密集したものを抜き取り、残された苗に十分な空間と養分を行き渡らせて収穫を確保する、ごくありふれた作業を指す言葉だ
やがてこの言葉は、乳児の命の選別にも用いられるようになった
育てきれない子どもを取り除くことで「家」全体を生かすという発想が、農作業の論理と重なっていった
また、間引きの選別基準もいくつかあった
大きな影響を与えたものの一つが、性別である
農作業の担い手として男子が重視される地域では、女子が間引きの対象になりやすかった
さらに双子や三つ子、奇形や障害、早産で体が弱いなどの他に、親の厄年や丙午(ひのえうま)といった暦の条件もあった
「丙午生まれの女子は夫を食い殺す」という俗信には何の根拠もなかったが、こうした迷信も、出産直後のごく短い時間のなかで赤子の運命を左右することがあったのだ
なぜ「殺す」ではなく「返す」と呼んだのか
こうした行為を、当時の人々は「殺す」とは言わなかった
「子返し」「子戻し」「送り返す」など、いずれも命を断つのではなく、元の場所に戻すという意味を持つ言葉である
その背景にあるとされるのが「七つまでは神のうち」といった観念である
数え年7歳に達するまでの子どもは、まだ完全にこの世に属しておらず、あの世との境界にいる存在と見なされていたのだ
親が育てると決めて共同体に迎え入れることで、初めて「人」になるため、それ以前に「返す」行為はこの世にまだ来ていない命を元に戻すことを意味した
こうした境界線の置き方は当時の死亡率と無関係ではない
歴史人口学者の鬼頭宏氏の研究によれば、江戸時代中期から後期の濃尾地方における乳児死亡率は、出生1000人に対しておよそ150〜190人で、地域によってはさらに高い推計もあるという
つまり、少なくともこの地域では生まれた子の約15〜19%が、満1歳を迎える前に亡くなっていたのだ
「返す」という言い方は、残酷さを覆い隠すためのものではなく、現代とは違う倫理体系があった
間引きをした理由
間引きの理由として、まず挙げられるのは貧しさである
重い年貢と限られた農地のもとで、子どもを養う余裕のない家はたしかに多かった
しかし、それだけが理由ではない
当時の農村では、何よりも「家」を残すことが重んじられた
子どもが増えすぎれば、一人あたりに分けられる土地や財産は少なくなり、いずれ家そのものが苦しくなる
そのため間引きは、家の存続を見据えた人口管理としての側面もあった
世間体や信仰も理由の一つである
体に異常のある子は「家に災いをもたらす前触れ」と恐れられ、そうした子を産んだことで周囲から厳しく見られることもあった
変化していった倫理観
18世紀半ば以降、東北から北関東の諸藩では「赤子養育仕法」と呼ばれる出産奨励策が順次導入された。
二本松藩では延享2年(1745年)に始まり、子どもの数に応じて米や金銭を支給した
妊婦を登録させ、流産・死産があれば遺体を検分する仕組みまで整えた
幕府が間引きを正式に禁じたのは、明和4年(1767年)である
触書には、出生した子を産所で殺す行為を「不仁の至り」と記した
白河藩主・松平定信は、赤子養育金を支給する一方で、間引きの罪によって地獄に落ちる様子を描いた「受苦図」を村々に持ち回らせるなど、信仰に訴える形でも間引きの抑止を図った
このようにあらゆる手段が講じられたが、間引きは止まらなかった
間引きがなくなっていったのは、明治以降である
戸籍制度が整うと、子どもは生まれた時点で国家に記録される存在になった
赤子の命は家の内側だけで扱えるものではなくなり、役所や警察の目が届くものへと変わっていった
そうした変化の中で、間引きは「やむを得ない子返し」ではなく、明確な犯罪として見られるようになる
倫理が法を変えたのではなく、まずは社会の構造が変わり、そのあとを追うように倫理もまた書き換えられていったのである
江戸時代の親が間引きを行えたのは道徳心が欠けていたからではなく、現代とは異なる倫理の枠組みのなかで生きていたに過ぎないのだ
参考文献 :
鬼頭宏『人口から読む日本の歴史』講談社学術文庫、2000年
太田素子『子宝と子返し――近世農村の家族生活と子育て』藤原書店、2007年
文 / 村上俊樹 校正 / 草の実堂編集部
(この記事は、草の実堂の記事で作りました)
間引きとは、本来は農業用語で、育ちの悪い、密集した作物を「選別」して引き抜くことだった
それが人間の子供を「選抜(!?)」して「殺す」ことにもつながった
貧しさや家存続のために「間引き」が行われた
当時の子供の死亡率の高さもあったどろう
子は7歳までは「人」になっていない、双子以上の兄弟・姉妹、障害のある子、迷信なども間引きに関与した
当時の宗教観、倫理観、考え、風習、常識などが現代とは違った・・・
当時の考え、風習、常識に「おじろく・おばさ」もあった
参考記事:20世紀まで続いた日本の奴隷制度 「おじろく・おばさ」~長男以外は奴隷
今では考えられない奴隷制度、差別制度だが、当時の考え、風習、常識以外も人口抑制、家存続などもあったようだ
その点においては間引きと似ている
人口から読む日本の歴史 (講談社学術文庫 1430) 文庫
増加と停滞を繰り返す、4つの大きな波を示しつつ、1万年にわたり増え続けた日本の人口
そのダイナミズムを歴史人口学によって分析し、また人々の暮らしの変容と人生をいきいきと描き出す
近代以降の文明システムのあり方そのものが問われ、時代は大きな転換期にさしかかった
その大変動のなか少子高齢化社会を迎えるわれわれが進む道とは何か
子宝と子返し〈増補新版〉 〔近世農村の家族生活と子育て〕 単行本(ソフトカバー)
江戸期農村の豊かな人間形成力――現在の教育がその「子宝的子育て」に学ぶものとは?
近世農村の家族にあった、子どもへの情愛と、丁寧な子育て
嬰児殺し(子返し)、捨子といった子育ての困難、悲しみを直視しつつ、日記などの生活記録を丹念に分析し、共感的な理解に満ちた子ども観、仕事を介した大人―子どものコミュニケーションなど、江戸の豊かな人間形成力を描き好評を博した初版に、江戸期の避妊や産児制限、そして性愛のありように焦点をあてた論文を増補

