地球上で起きていること、どれだけわかる?
私たちが日常的に当たり前だと感じていることでも、あまり意識していないことや、知っているようで知らないことってありますよね
そんな地球に生きる私たちが知っておきたい「理系雑学」をご紹介します
太陽系を含む地球の歴史から、大自然や気候、動植物、資源など、地球にまつわるさまざまな疑問をスッキリ解説!
あらためて考えると、私たちはこの地球について、実はほとんど知らないのかもしれません
※本記事は雑学総研著の書籍『人類なら知っておきたい 地球の雑学』から一部抜粋・編集しました
雷のエネルギーは電力として使うことができるの
空を切り裂く稲妻、轟く雷鳴
昔から人々に恐れられてきた雷は、自然の放電現象である
このエネルギーを、電力として使うことはできないのだろうか
じつは、雷から放出されるエネルギーを電力として利用しようという研究は昔から行なわれてきた
落雷によるエネルギーは膨大で、雷の電圧は雷雲が高ければ大きく、低ければ小さくなるが、仮に電圧を1億ボルト、電流を20万アンペアとして計算すると、200億キロワットにもなる
東京電力の1日の電力供給量が3850万キロワットだとすると、単純計算で1.4年分
新たな発電エネルギーとして期待がふくらむ
日本では、「雷都」と呼ばれる栃木県宇都宮市をはじめとする北関東が、雷が多いことで有名だし、南米ベネズエラのマラカイボ湖は、世界一雷の多い場所としてギネスブックにも登録されており、1年間に120万本もの稲妻が走るという
落雷は世界中のどこでも起こっていることを考えれば、たとえば避雷針を立ててこれを集めて電力にすることができれば、エネルギー問題解決の一助となるはずだ
だが、これを実現するのは難しい
まず、落雷はいつどこで起きるか予測不可能だし、雷電流は瞬間的でおよそ1万分の1秒しか続かず、現在のところ安定した電力とすることはできない
効率や安全性の面でも問題が多過ぎるのだ
蓄電技術の開発は各方面で進められているが、電気は蓄電池やコンデンサなどにためることはできても、巨大エネルギーには適さないというのが現状である
(この記事はレタスクラブの記事で作りました)
落雷のエネルギーは凄まじく大きい・・・
これを電力として使えれば・・・
じつは、雷から放出されるエネルギーを電力として利用しようという研究は昔から行なわれてきた
落雷によるエネルギーは膨大で、雷の電圧は雷雲が高ければ大きく、低ければ小さくなるが、仮に電圧を1億ボルト、電流を20万アンペアとして計算すると、200億キロワットにもなる
東京電力の1日の電力供給量が3850万キロワットだとすると、単純計算で1.4年分
新たな発電エネルギーとして期待がふくらむ
日本では、「雷都」と呼ばれる栃木県宇都宮市をはじめとする北関東が、雷が多いことで有名だし、南米ベネズエラのマラカイボ湖は、世界一雷の多い場所としてギネスブックにも登録されており、1年間に120万本もの稲妻が走るという
落雷は世界中のどこでも起こっていることを考えれば、たとえば避雷針を立ててこれを集めて電力にすることができれば、エネルギー問題解決の一助となるはずだ
だが、これを実現するのは難しい
まず、落雷はいつどこで起きるか予測不可能だし、雷電流は瞬間的でおよそ1万分の1秒しか続かず、現在のところ安定した電力とすることはできない
効率や安全性の面でも問題が多過ぎるのだ
蓄電技術の開発は各方面で進められているが、電気は蓄電池やコンデンサなどにためることはできても、巨大エネルギーには適さないというのが現状である
エネルギーとして利用し発電するには課題、問題もあるようで、現状では難しいようです
人類なら知っておきたい 地球の雑学 (中経の文庫) Kindle版
地球(を含めた宇宙)には謎や不思議、ギモンが多くあります
空はなぜ青く、夕焼けは赤いのだろうか!?とか・・・
そんな「理系雑学」を楽しくわかりやすく解説
2026年01月13日
2026年01月12日
『三国志』関羽が「大兄」と呼んだ魏の名将、徐晃とは何者だったのか?
敵ながら友好関係にあった関羽と徐晃
三国志には、敵国に属しながらも私的な信頼関係を結んでいた武将たちの逸話がいくつか伝わっている
関羽と張遼、あるいは羊祜と陸抗の関係は、その代表例だろう
関羽は気難しく孤高な人物として語られることが多いだけに、誰と心を通わせていたのかは関羽ファンにとって気になるところである
関羽には実は張遼のほかに、徐晃(じょこう)とも親交があったとする記録が残されている
徐晃といえば魏の名将であり、関羽と親しかった描写のない『横山三国志』ではトレードマークの大斧(マサカリ)を武器に、登場する度に戦闘で活躍する、蜀目線から見て厄介な武将というイメージだった
しかし、史料や他の三国志作品に触れていくと、関羽と徐晃の間には意外な関係があったことが見えてくる
二人はいつ、どのようにして知り合い、どんな交流を結んでいたのだろうか
ほとんど語られることのない曹操の元に加わるまでの徐晃の足跡と、関羽との関係を辿っていきたい
楊奉時代の徐晃
魏の名将として知られる徐晃だが、正史には楊奉(ようほう)という人物の配下として登場する
楊奉は史料での記述が乏しい人物であるが、徐晃はその配下として賊討伐に従い、戦功によって騎都尉に任じられた
徐晃が頭角を現した頃、都では董卓が呂布に暗殺された直後の混乱が続いていた
長安は李傕と郭汜が実権を握っていたが、献帝の居所であるにもかかわらず、都の秩序は著しく乱れていたとされる
両者は董卓配下の時代から略奪や暴虐を繰り返したことで知られ、長安でも部下の横暴を抑えきれなかったと伝えられている
この混乱した情勢の中で、重要な役割を果たしたのが徐晃であった
献帝の身にいつ何が起きても不思議ではない状況を見かね、徐晃は「献帝を長安から連れ出し、洛陽へ移すべきだ」と楊奉に進言する
当時、楊奉は李傕の配下にあったものの、李傕暗殺の企てに関与して失敗したことで立場が不安定になっていた
そうした事情もあり、楊奉は徐晃の進言を受け入れ、献帝を奉じて長安を脱出し、洛陽を目指す決断を下す
この道中、李傕の追撃を受けて楊奉は窮地に立たされるが、最終的には和睦が成立し、献帝は無事に洛陽へ入ることができた
しかし安堵も束の間、今度は曹操が献帝の身柄を確保すべく動き出す
楊奉はこれに対抗して曹操と戦うものの、洛陽へ曹操を招き入れた董承からは「楊奉は勇敢ではあるが思慮に欠ける」と評されており、実際に曹操の敵ではなかった
やがて楊奉は敗れ、徐晃は曹操に帰順することとなる
その後、楊奉は袁術や呂布のもとを転々とした末、劉備に討たれて生涯を終えた
こうして徐晃は、以後その才能を存分に発揮することになる生涯の主君、曹操と出会うことになるのである
関羽との出会い
曹操軍に加わった徐晃は、呂布や劉備との戦いで敵将の降伏や撃破に貢献し、早くからその実力を示している
ただし、本稿の主題はここからである
劉備の敗走により、関羽は一時的に曹操へ降伏することになるが、白馬の戦いで共に出陣し、会話の記録も残る張遼とは異なり、曹操軍在籍中の関羽と徐晃の具体的な交流は史料に記されていない
ただ、後年戦場で再会した際、関羽が徐晃を「大兄」と呼んでいることから、年長者として一定の親しみがあった可能性は高い
両者は同郷であり、関羽にとっては降伏直後という立場も共通していた
そうした背景を考えれば、記録に残らない形で私的な交流があったとしても不自然ではない
関羽自身、張遼以外と親しく言葉を交わした記述が極めて少ないことを踏まえると、徐晃との関係が後世に伝えられていること自体、むしろ例外的といえる
白馬の戦いでは、徐晃も関羽や張遼とともに出陣しているが、戦功の詳細は関羽ほど明確には記されていない
ただし、その後の官渡の戦いで袁紹軍の輜重隊を急襲するなど、戦局を左右する働きを見せており、白馬でも勝利に貢献していたと見るのが自然だろう
短期間とはいえ、関羽と徐晃の交流が具体的に描かれなかった点は惜しまれる
しかし、だからこそ演義などの創作において、二人の関係性を掘り下げる余地が残されたとも言える
関羽との対戦
その後も徐晃は曹操軍の主力として各地で勝利に貢献するが、関羽とは二度、戦場で相まみえることになる
最初の遭遇は、赤壁の戦い後、南郡をめぐる攻防であった
曹仁の守る江陵は呉の周瑜に包囲され、さらに退路を関羽に遮断されるという、極めて厳しい状況に置かれていた
およそ1年に及ぶ攻防の末、曹仁は江陵を放棄して脱出を図る
この際、退路を塞ぐ関羽の陣に対し、李通とともにこれを押し返したのが徐晃である
ただし、関羽の狙いは曹仁の捕縛ではなく、江陵を含む南郡一帯の掌握にあった
無用な損耗を避けるためにも、曹仁や徐晃と決戦に及ぶ必然性は低かったと考えられる
撤退と救出に追われる曹仁・徐晃に対し、関羽は戦略目標の達成を優先して行動しており、全力で迎撃していたとは言い難い
そのため、関羽を退けたという結果のみをもって、徐晃の勝利と断定することはできない
何よりも、関羽はこの戦いを通じて南郡という最大の目的を果たしている
包囲が破られた場面はあったとしても、徐晃に敗れたという意識を関羽自身が抱いていた可能性は低いだろう
徐晃の真骨頂
南郡での最初の遭遇からおよそ10年後の219年、曹仁の守る樊城は、関羽の大軍に包囲されていた
関羽は河川の氾濫を巧みに利用し、城の周辺を水没させて退路そのものを断っており、かつて江陵で見られたような撤退の余地は存在しなかった
曹仁は城内に孤立し、脱出すら困難な状況に追い込まれていたのである
曹操は救援として徐晃を派遣するが、徐晃は拙速に関羽と決戦することを避け、偵察を重ねながら情勢の把握に徹した
裴松之注に引かれる『蜀記』によれば、両軍が対峙した際、関羽と徐晃は旧交を思わせる言葉を交わしたという
敵味方として刃を交える直前でありながら、かつての関係をうかがわせる一幕である
しかし、その直後、徐晃は軍中に対し「関羽を捕らえた者には褒賞を与える」と布告する。
これに驚いた関羽が「大兄、これはどういうことか」と問いかけると、徐晃は「これは国の大事であり、私情を挟むことはできない」と応じたという。
結果として関羽は徐晃の攻勢を受け、樊城からの撤退を余儀なくされる。
臨戦態勢の中で、互いにどこまで言葉を交わす余裕があったのかは定かではないが、徐晃の到来によって曹仁との挟撃が現実味を帯びた以上、関羽も退路を見極めていただろう。
親交があったとはいえ、戦場において情を優先する余地はない。
樊城の戦いは、情報収集を尽くし、勝機が整うまで動かない徐晃の用兵の巧みさが際立った戦いだった。
徐晃も演義の被害者?
本稿では、曹操軍に加わる以前の徐晃の足跡と、関羽との関係を辿ってきた
しかし、羊祜と陸抗のように、後世まで語り継がれる交流があったわけでもなく、張遼のように同僚時代の具体的な逸話が残されているわけでもない
それでも、敵味方として対峙する中で、わずかな言葉を交わしたと伝えられる場面は、両者にとって決して無意味な時間ではなかっただろう
一方で『演義』の世界においては、関羽が曹操の配下にあった時期に、徐晃と並んで活躍する独自の物語が描かれていてもよかったのではないか、という思いも残る
最後に『正史』と『演義』で大きく異なる徐晃の最期に触れておきたい
『横山三国志』など、演義を基調とした作品では、蜀の北伐に呼応して反乱を企てた孟達の放った矢を受け、徐晃は戦死するという描写がなされている
蜀を幾度も苦しめた名将としては、あまりにも唐突な最期である
しかし正史では、徐晃は227年に病没している
北伐が始まるのは翌228年であり、演義ではあえてその生を延ばし、孟達事件の中で討ち取られる役割が与えられたことになる
神格化された関羽と特別な関係を持つ名将であった徐晃に、その役を担わせる必然性があったのかについては、疑問も残る
数多くの戦功を挙げながら、物語の都合によって最期を改変された点において、徐晃もまた演義に翻弄された武将の一人であったと言えるだろう
参考 : 陳寿『三國志』魏書 巻17「張樂于張徐傳」裴松之注『三國志注』他
文 / mattyoukilis 校正 / 草の実堂編集部
(この記事は草の実堂の記事で作りました)
気難しい面もあるが、義に厚かったとされる関羽・・・
その関羽が敵軍である魏の名将、徐晃を「大兄」と呼んだとされることから年長者への敬意と親しみがあったようだ
三国志が一般化したのは、「三国志演義」によるところが多いし、日本では横山光輝氏の三国志の影響も大きいかも・・・
本稿では、曹操軍に加わる以前の徐晃の足跡と、関羽との関係を辿ってきた
しかし、羊祜と陸抗のように、後世まで語り継がれる交流があったわけでもなく、張遼のように同僚時代の具体的な逸話が残されているわけでもない
それでも、敵味方として対峙する中で、わずかな言葉を交わしたと伝えられる場面は、両者にとって決して無意味な時間ではなかっただろう
一方で『演義』の世界においては、関羽が曹操の配下にあった時期に、徐晃と並んで活躍する独自の物語が描かれていてもよかったのではないか、という思いも残る
最後に『正史』と『演義』で大きく異なる徐晃の最期に触れておきたい
『横山三国志』など、演義を基調とした作品では、蜀の北伐に呼応して反乱を企てた孟達の放った矢を受け、徐晃は戦死するという描写がなされている
蜀を幾度も苦しめた名将としては、あまりにも唐突な最期である
しかし正史では、徐晃は227年に病没している
北伐が始まるのは翌228年であり、演義ではあえてその生を延ばし、孟達事件の中で討ち取られる役割が与えられたことになる
神格化された関羽と特別な関係を持つ名将であった徐晃に、その役を担わせる必然性があったのかについては、疑問も残る
数多くの戦功を挙げながら、物語の都合によって最期を改変された点において、徐晃もまた演義に翻弄された武将の一人であったと言えるだろう
その意味では徐晃も「三国志演義の被害者」(?)かも・・・
眠れなくなるほど面白い 図解 三国志 単行本(ソフトカバー)
魏・蜀・呉、三国の興亡を描いた『三国志』には、「桃園の誓い」「三顧の礼」「出師の表」「泣いて馬謖を斬る」など心打つ名場面、また「水魚の交わり」「苦肉の策」「背水の陣」「髀肉の嘆」など名言や現代にも通じる格言も数多く登場する
また、曹操、劉備、孫権、孔明、関羽、張飛、趙雲、周瑜、司馬懿など個性豊かで魅力的な登場人物に加え、官渡の戦い、赤壁の戦い、五丈原の戦い等、歴史上重要な合戦も多い
英雄たちの激闘の系譜、名場面・名言が図解でコンパクトにすっきりわかる『三国志』の決定版!
長い中国史で「三国志」の時代はわずかだ
しかしこの時代は個性的、魅力的人物が多く登場した
三国志には、敵国に属しながらも私的な信頼関係を結んでいた武将たちの逸話がいくつか伝わっている
関羽と張遼、あるいは羊祜と陸抗の関係は、その代表例だろう
関羽は気難しく孤高な人物として語られることが多いだけに、誰と心を通わせていたのかは関羽ファンにとって気になるところである
関羽には実は張遼のほかに、徐晃(じょこう)とも親交があったとする記録が残されている
徐晃といえば魏の名将であり、関羽と親しかった描写のない『横山三国志』ではトレードマークの大斧(マサカリ)を武器に、登場する度に戦闘で活躍する、蜀目線から見て厄介な武将というイメージだった
しかし、史料や他の三国志作品に触れていくと、関羽と徐晃の間には意外な関係があったことが見えてくる
二人はいつ、どのようにして知り合い、どんな交流を結んでいたのだろうか
ほとんど語られることのない曹操の元に加わるまでの徐晃の足跡と、関羽との関係を辿っていきたい
楊奉時代の徐晃
魏の名将として知られる徐晃だが、正史には楊奉(ようほう)という人物の配下として登場する
楊奉は史料での記述が乏しい人物であるが、徐晃はその配下として賊討伐に従い、戦功によって騎都尉に任じられた
徐晃が頭角を現した頃、都では董卓が呂布に暗殺された直後の混乱が続いていた
長安は李傕と郭汜が実権を握っていたが、献帝の居所であるにもかかわらず、都の秩序は著しく乱れていたとされる
両者は董卓配下の時代から略奪や暴虐を繰り返したことで知られ、長安でも部下の横暴を抑えきれなかったと伝えられている
この混乱した情勢の中で、重要な役割を果たしたのが徐晃であった
献帝の身にいつ何が起きても不思議ではない状況を見かね、徐晃は「献帝を長安から連れ出し、洛陽へ移すべきだ」と楊奉に進言する
当時、楊奉は李傕の配下にあったものの、李傕暗殺の企てに関与して失敗したことで立場が不安定になっていた
そうした事情もあり、楊奉は徐晃の進言を受け入れ、献帝を奉じて長安を脱出し、洛陽を目指す決断を下す
この道中、李傕の追撃を受けて楊奉は窮地に立たされるが、最終的には和睦が成立し、献帝は無事に洛陽へ入ることができた
しかし安堵も束の間、今度は曹操が献帝の身柄を確保すべく動き出す
楊奉はこれに対抗して曹操と戦うものの、洛陽へ曹操を招き入れた董承からは「楊奉は勇敢ではあるが思慮に欠ける」と評されており、実際に曹操の敵ではなかった
やがて楊奉は敗れ、徐晃は曹操に帰順することとなる
その後、楊奉は袁術や呂布のもとを転々とした末、劉備に討たれて生涯を終えた
こうして徐晃は、以後その才能を存分に発揮することになる生涯の主君、曹操と出会うことになるのである
関羽との出会い
曹操軍に加わった徐晃は、呂布や劉備との戦いで敵将の降伏や撃破に貢献し、早くからその実力を示している
ただし、本稿の主題はここからである
劉備の敗走により、関羽は一時的に曹操へ降伏することになるが、白馬の戦いで共に出陣し、会話の記録も残る張遼とは異なり、曹操軍在籍中の関羽と徐晃の具体的な交流は史料に記されていない
ただ、後年戦場で再会した際、関羽が徐晃を「大兄」と呼んでいることから、年長者として一定の親しみがあった可能性は高い
両者は同郷であり、関羽にとっては降伏直後という立場も共通していた
そうした背景を考えれば、記録に残らない形で私的な交流があったとしても不自然ではない
関羽自身、張遼以外と親しく言葉を交わした記述が極めて少ないことを踏まえると、徐晃との関係が後世に伝えられていること自体、むしろ例外的といえる
白馬の戦いでは、徐晃も関羽や張遼とともに出陣しているが、戦功の詳細は関羽ほど明確には記されていない
ただし、その後の官渡の戦いで袁紹軍の輜重隊を急襲するなど、戦局を左右する働きを見せており、白馬でも勝利に貢献していたと見るのが自然だろう
短期間とはいえ、関羽と徐晃の交流が具体的に描かれなかった点は惜しまれる
しかし、だからこそ演義などの創作において、二人の関係性を掘り下げる余地が残されたとも言える
関羽との対戦
その後も徐晃は曹操軍の主力として各地で勝利に貢献するが、関羽とは二度、戦場で相まみえることになる
最初の遭遇は、赤壁の戦い後、南郡をめぐる攻防であった
曹仁の守る江陵は呉の周瑜に包囲され、さらに退路を関羽に遮断されるという、極めて厳しい状況に置かれていた
およそ1年に及ぶ攻防の末、曹仁は江陵を放棄して脱出を図る
この際、退路を塞ぐ関羽の陣に対し、李通とともにこれを押し返したのが徐晃である
ただし、関羽の狙いは曹仁の捕縛ではなく、江陵を含む南郡一帯の掌握にあった
無用な損耗を避けるためにも、曹仁や徐晃と決戦に及ぶ必然性は低かったと考えられる
撤退と救出に追われる曹仁・徐晃に対し、関羽は戦略目標の達成を優先して行動しており、全力で迎撃していたとは言い難い
そのため、関羽を退けたという結果のみをもって、徐晃の勝利と断定することはできない
何よりも、関羽はこの戦いを通じて南郡という最大の目的を果たしている
包囲が破られた場面はあったとしても、徐晃に敗れたという意識を関羽自身が抱いていた可能性は低いだろう
徐晃の真骨頂
南郡での最初の遭遇からおよそ10年後の219年、曹仁の守る樊城は、関羽の大軍に包囲されていた
関羽は河川の氾濫を巧みに利用し、城の周辺を水没させて退路そのものを断っており、かつて江陵で見られたような撤退の余地は存在しなかった
曹仁は城内に孤立し、脱出すら困難な状況に追い込まれていたのである
曹操は救援として徐晃を派遣するが、徐晃は拙速に関羽と決戦することを避け、偵察を重ねながら情勢の把握に徹した
裴松之注に引かれる『蜀記』によれば、両軍が対峙した際、関羽と徐晃は旧交を思わせる言葉を交わしたという
敵味方として刃を交える直前でありながら、かつての関係をうかがわせる一幕である
しかし、その直後、徐晃は軍中に対し「関羽を捕らえた者には褒賞を与える」と布告する。
これに驚いた関羽が「大兄、これはどういうことか」と問いかけると、徐晃は「これは国の大事であり、私情を挟むことはできない」と応じたという。
結果として関羽は徐晃の攻勢を受け、樊城からの撤退を余儀なくされる。
臨戦態勢の中で、互いにどこまで言葉を交わす余裕があったのかは定かではないが、徐晃の到来によって曹仁との挟撃が現実味を帯びた以上、関羽も退路を見極めていただろう。
親交があったとはいえ、戦場において情を優先する余地はない。
樊城の戦いは、情報収集を尽くし、勝機が整うまで動かない徐晃の用兵の巧みさが際立った戦いだった。
徐晃も演義の被害者?
本稿では、曹操軍に加わる以前の徐晃の足跡と、関羽との関係を辿ってきた
しかし、羊祜と陸抗のように、後世まで語り継がれる交流があったわけでもなく、張遼のように同僚時代の具体的な逸話が残されているわけでもない
それでも、敵味方として対峙する中で、わずかな言葉を交わしたと伝えられる場面は、両者にとって決して無意味な時間ではなかっただろう
一方で『演義』の世界においては、関羽が曹操の配下にあった時期に、徐晃と並んで活躍する独自の物語が描かれていてもよかったのではないか、という思いも残る
最後に『正史』と『演義』で大きく異なる徐晃の最期に触れておきたい
『横山三国志』など、演義を基調とした作品では、蜀の北伐に呼応して反乱を企てた孟達の放った矢を受け、徐晃は戦死するという描写がなされている
蜀を幾度も苦しめた名将としては、あまりにも唐突な最期である
しかし正史では、徐晃は227年に病没している
北伐が始まるのは翌228年であり、演義ではあえてその生を延ばし、孟達事件の中で討ち取られる役割が与えられたことになる
神格化された関羽と特別な関係を持つ名将であった徐晃に、その役を担わせる必然性があったのかについては、疑問も残る
数多くの戦功を挙げながら、物語の都合によって最期を改変された点において、徐晃もまた演義に翻弄された武将の一人であったと言えるだろう
参考 : 陳寿『三國志』魏書 巻17「張樂于張徐傳」裴松之注『三國志注』他
文 / mattyoukilis 校正 / 草の実堂編集部
(この記事は草の実堂の記事で作りました)
気難しい面もあるが、義に厚かったとされる関羽・・・
その関羽が敵軍である魏の名将、徐晃を「大兄」と呼んだとされることから年長者への敬意と親しみがあったようだ
三国志が一般化したのは、「三国志演義」によるところが多いし、日本では横山光輝氏の三国志の影響も大きいかも・・・
本稿では、曹操軍に加わる以前の徐晃の足跡と、関羽との関係を辿ってきた
しかし、羊祜と陸抗のように、後世まで語り継がれる交流があったわけでもなく、張遼のように同僚時代の具体的な逸話が残されているわけでもない
それでも、敵味方として対峙する中で、わずかな言葉を交わしたと伝えられる場面は、両者にとって決して無意味な時間ではなかっただろう
一方で『演義』の世界においては、関羽が曹操の配下にあった時期に、徐晃と並んで活躍する独自の物語が描かれていてもよかったのではないか、という思いも残る
最後に『正史』と『演義』で大きく異なる徐晃の最期に触れておきたい
『横山三国志』など、演義を基調とした作品では、蜀の北伐に呼応して反乱を企てた孟達の放った矢を受け、徐晃は戦死するという描写がなされている
蜀を幾度も苦しめた名将としては、あまりにも唐突な最期である
しかし正史では、徐晃は227年に病没している
北伐が始まるのは翌228年であり、演義ではあえてその生を延ばし、孟達事件の中で討ち取られる役割が与えられたことになる
神格化された関羽と特別な関係を持つ名将であった徐晃に、その役を担わせる必然性があったのかについては、疑問も残る
数多くの戦功を挙げながら、物語の都合によって最期を改変された点において、徐晃もまた演義に翻弄された武将の一人であったと言えるだろう
その意味では徐晃も「三国志演義の被害者」(?)かも・・・
眠れなくなるほど面白い 図解 三国志 単行本(ソフトカバー)
魏・蜀・呉、三国の興亡を描いた『三国志』には、「桃園の誓い」「三顧の礼」「出師の表」「泣いて馬謖を斬る」など心打つ名場面、また「水魚の交わり」「苦肉の策」「背水の陣」「髀肉の嘆」など名言や現代にも通じる格言も数多く登場する
また、曹操、劉備、孫権、孔明、関羽、張飛、趙雲、周瑜、司馬懿など個性豊かで魅力的な登場人物に加え、官渡の戦い、赤壁の戦い、五丈原の戦い等、歴史上重要な合戦も多い
英雄たちの激闘の系譜、名場面・名言が図解でコンパクトにすっきりわかる『三国志』の決定版!
長い中国史で「三国志」の時代はわずかだ
しかしこの時代は個性的、魅力的人物が多く登場した
2026年01月11日
【古代日本人がハマったカルト宗教】イモムシ教団とは 「イモムシを神と崇めよ!」
「このイモムシを神として祀れば、貧乏人は金持ちになり、老人はみるみるうちに若返る。」
現代社会でこのように説かれて、その話をまるまる信用してしまう人はどれだけいるのだろうか
「そんな話、信じる人間がいるわけがない」と笑う人もいるかもしれない
しかし、このただのイモムシを崇める宗教が、飛鳥時代の日本で、都と地方にまで広がる騒動を引き起こしたのである
今から約1300年前の日本では、まだ仏教は大陸から伝来したばかりで、人々は土地ごとに様々な神を祀っており、信仰のまとまりがない状態であった
イモムシ教団を興した教祖は、信者が喜捨した財産で私腹を肥やし、貧しくなっていく信者の生活と反比例して裕福になっていったという
『日本書紀』に記されている、対応が遅れていれば社会秩序に深刻な影響を及ぼしていたかもしれない古代の新興宗教「イモムシ教団」について触れていきたい
イモムシ教団が隆盛した背景
まず、なぜイモムシ教団が勢力を拡大していったのか見ていきたい
それは飛鳥時代の平民の生活が、決して豊かではなかったことが一因だと言えるだろう
イモムシ教団が始まったのは西暦644年(皇極天皇3年)で、日本史上では乙巳の変、及び大化の改新の前年にあたる
この時代、庶民は弥生時代から変わらない粗末な服を着て、竪穴式住居に住み、食事は玄米と塩にワカメの汁物といった質素な内容だった
しかし権力や財産を持つ豪族や役人は、色彩豊かな衣装を着て柱や瓦を使った立派な館に住み、玄米と塩、汁物に加えて魚や野菜の漬物を食べ、酒も常飲していた
日本の中央集権化や文明の大きな変化は飛鳥時代に起きたが、政治はまだまだ安定しておらず、ごく一部の上流階級だけがその恩恵を享受し、大半の貧しき農民は日々の食事すらままならない状態だった
この目に見えて分かる貧富の差と安定しない暮らしは、貧しさに疲弊する人々の心をより一層に曇らせた
そこに燦然と登場した新興宗教こそが、教祖・大生部 多(おおうべ の おお)が興した、イモムシ教団だったのだ
寄進を集め栄華を極めたイモムシ教団
644年皇極天皇3年、東国の富士川(現在の山梨・静岡県を流れる河川)の辺りの出身である大生部多(おおうべのおお)は、タチバナやイヌザンショウにつく蚕に似た、体長約12cmほどにもなる大きな緑色のイモムシを「常世神(とこよのかみ)」であると称した
そして「このイモムシを神として祀れば、富と若さが手に入る」と吹聴して新興宗教を興し、大勢の信者を集めていた
この多という人物の名代「大生部」とは、一説によるとヤマト王権の職業部の内、皇子や皇女の養育に携わる役人とその封民である壬生部(みぶべ、乳部とも)の1つで、そのほとんどが静岡の田方郡を拠点にしていたとされる
「常世神」は日本で古くから信仰されていたある種の理想郷「常世の国」の神であり、タチバナの実は「常世の国」で採れる不老不死の効能を持った「時じくの香の木の実(ときじくのかくのこのみ)」と同一と考えられていた
だからこそ多は、不老不死や理想郷を象徴するタチバナの木につく幼虫を、不老不死と富をもたらす「常世神」として、祀り上げたのである
古くからの信仰に根差した多の教えを、信じる者は少なからず存在した
やがて多の教えを信じて家財を差し出した信者の中から、偶然にも病気が治った者や富を得た者が現れる
多はこのごくわずかな成功者を持ち上げて、「イモムシを祀って財産を喜捨すれば、どんな願いも叶う」と触れ回り、さらに信者を増やしていった
イモムシ教団の規模はどんどん大きくなり、多に仕える巫覡(かんなぎ)が常世神の託宣を偽り、信者はより信仰を深めた
道端には寄進された食べ物や酒が並べられ、信者に「新たな富が入ってきた」と騒がせた
さらにパフォーマンスとして、多は祭壇に祀られたイモムシに祈りを捧げ、その周りに美しい衣を着た女たちを舞わせた
人々はそれを見て「神であるイモムシを祀り、教団に喜捨すればどんな願いも叶う」という根拠のない教えを信じ込み、さらに多に財産を寄進する
しかしごく一部の偶然に幸運を手にした人々を除いて、信者は手元に残ったわずかな財産さえ喜捨するよう求められたため、人々はさらに貧しくなり、逆に多は豊かになっていった
そして東国で始まったイモムシ信仰は、やがて奈良の都にまで広がり、朝廷の耳にも届くまでになった
イモムシ教団を叩き斬った秦河勝
イモムシ教団の信者となった人々は、必死に働くことを止め、日々をイモムシへの祈りに捧げ、自らの手に入ることのない富と若さを求め続けた
しかしイモムシ教団が大きくなり過ぎたうえに、人々が労働や経済活動を止めてしまったことは、教祖である大生部多の不運の始まりであった
人々の財を奪って私腹を肥やす多を、問題視する人物が現れたのだ
それが、山城国葛野郡太秦(現在の京都市右京区太秦)に本拠を置く、秦河勝(はた かわかつ)だった
渡来系氏族である秦氏の族長だった河勝は、イモムシ教団が起こした騒動を鎮圧するために教団の本拠地を訪ねた
多は朝廷の重臣である秦河勝が訪ねてくることを知ると「さらに教団を拡大する好機だ」と考え、河勝の来訪を心待ちにしていたという
しかし河勝は「妄言で民衆を惑わして自らだけ利益を得て、国に騒乱を起こす者」として一刀両断し、さらには常世神として祭壇に祀られていたイモムシも叩き斬った
この河勝のイモムシ教団討伐は讃えられ、
太秦は 神とも神と 聞こえくる 常世の神を 打ち懲ますも
意訳:秦河勝は、神の中の神と言われている。なにせあの常世の神を、打ち懲らしめたのだから
と和歌にも詠われた
一説には、河勝が多の討伐を担ったのは、秦氏が上宮王家が所有する壬生部、つまりは多の名代である大生部の管理を行っていた一族だからだと考えられている
さらに渡来系の一族である秦氏は、古来より語り継がれる日本の神とは異なる神を信仰していた
そのため日本古来の「常世神」とされた教団を討伐することにも、恐れを抱かなかったのではないかともされている
カルト宗教の恐ろしさ
今の世の中で、イモムシを神として崇めれば願いが叶うなどと聞いて、信用する人はほとんどいないだろう
しかし、日本では宗教に対する規制が比較的緩やかなこともあり、新興宗教が次々と生まれ、ときに社会に大きな混乱や事件を引き起こしてきた
人間の本質は、1300年以上の時を経ても大きくは変わらない
豊かで幸せそうな人を見れば羨望を抱き、理不尽な不幸が降りかかれば、目に見えない何かに救いを求めたくなるのが人の心である
日本には信教の自由があり、他者の信仰そのものを嘲るべきではないが、かつてのイモムシ信仰に熱狂した人々の姿は、ある種の示唆を残しているといえるだろう
参考 :
丘 眞奈美 (著) 『京都奇才物語』
衣川真澄 (著) 『古代の謎・二十の仮説《後編》―飛鳥時代を正しく理解し直す―』
紀藤 正樹 (著)『カルト宗教』
文 / 北森詩乃 校正 / 草の実堂編集部
(この記事は草の実堂の記事で作りました)
古代日本ではイモムシを崇める「イモムシ教団」なるものがあり、古代日本人がハマったという
当時の時代背景、考え方などは現在と違うので、今はイモムシを崇めるということもないだろう
しかし、「困った時の神頼み」ではないが、苦境、困難などでわらにもすがりたいという気持ち、人間の本質は変わらない
そしていつの時代も「カルト教団」は現れる・・・
(オウム真理教、旧統一教会など)
それは時代とともに科学を取り入れたり、宗教観、宇宙観、死生観などを取り入れたり、現在の考えにアレンジしたりする
今の世の中で、イモムシを神として崇めれば願いが叶うなどと聞いて、信用する人はほとんどいないだろう
しかし、日本では宗教に対する規制が比較的緩やかなこともあり、新興宗教が次々と生まれ、ときに社会に大きな混乱や事件を引き起こしてきた
人間の本質は、1300年以上の時を経ても大きくは変わらない
豊かで幸せそうな人を見れば羨望を抱き、理不尽な不幸が降りかかれば、目に見えない何かに救いを求めたくなるのが人の心である
日本には信教の自由があり、他者の信仰そのものを嘲るべきではないが、かつてのイモムシ信仰に熱狂した人々の姿は、ある種の示唆を残しているといえるだろう
カルト宗教 単行本(ソフトカバー)
◎マインド・コントロールなどの勧誘の手口や活動内容
◎収奪や虐待など人権蹂躙の実態
◎カルト宗教と政治(家)との関係
◎家族や知人を脱会させる方法と脱会後について
◎国や私たちがこれからすべきこと
本書では、みなさんにぜひとも知っていただきたいことをあますことなく紹介しました
カルト宗教やカルト的な団体に関する深い知識を身につけていただきたいからです
なぜなら、彼らからあなた自身の身を守るために、そして家族や知人が被害に遭わないために、そして、被害に遭ってしまった人たちを救うために、とても必要なことだからです
一時的にカルト的な団体は息を潜めました
しかし、社会の関心もほどなく薄れていきました
カルトに対する社会的規制を恒常的に敷き続けるためには、多くの人々にカルトの実態を把握していただくことが必要です
これが被害者をなくすための、まさに第一歩となるのです
カルト的な団体を野放しにしてはいけないということを、みなさんになにがなんでも知っていただきたいのです
現代社会でこのように説かれて、その話をまるまる信用してしまう人はどれだけいるのだろうか
「そんな話、信じる人間がいるわけがない」と笑う人もいるかもしれない
しかし、このただのイモムシを崇める宗教が、飛鳥時代の日本で、都と地方にまで広がる騒動を引き起こしたのである
今から約1300年前の日本では、まだ仏教は大陸から伝来したばかりで、人々は土地ごとに様々な神を祀っており、信仰のまとまりがない状態であった
イモムシ教団を興した教祖は、信者が喜捨した財産で私腹を肥やし、貧しくなっていく信者の生活と反比例して裕福になっていったという
『日本書紀』に記されている、対応が遅れていれば社会秩序に深刻な影響を及ぼしていたかもしれない古代の新興宗教「イモムシ教団」について触れていきたい
イモムシ教団が隆盛した背景
まず、なぜイモムシ教団が勢力を拡大していったのか見ていきたい
それは飛鳥時代の平民の生活が、決して豊かではなかったことが一因だと言えるだろう
イモムシ教団が始まったのは西暦644年(皇極天皇3年)で、日本史上では乙巳の変、及び大化の改新の前年にあたる
この時代、庶民は弥生時代から変わらない粗末な服を着て、竪穴式住居に住み、食事は玄米と塩にワカメの汁物といった質素な内容だった
しかし権力や財産を持つ豪族や役人は、色彩豊かな衣装を着て柱や瓦を使った立派な館に住み、玄米と塩、汁物に加えて魚や野菜の漬物を食べ、酒も常飲していた
日本の中央集権化や文明の大きな変化は飛鳥時代に起きたが、政治はまだまだ安定しておらず、ごく一部の上流階級だけがその恩恵を享受し、大半の貧しき農民は日々の食事すらままならない状態だった
この目に見えて分かる貧富の差と安定しない暮らしは、貧しさに疲弊する人々の心をより一層に曇らせた
そこに燦然と登場した新興宗教こそが、教祖・大生部 多(おおうべ の おお)が興した、イモムシ教団だったのだ
寄進を集め栄華を極めたイモムシ教団
644年皇極天皇3年、東国の富士川(現在の山梨・静岡県を流れる河川)の辺りの出身である大生部多(おおうべのおお)は、タチバナやイヌザンショウにつく蚕に似た、体長約12cmほどにもなる大きな緑色のイモムシを「常世神(とこよのかみ)」であると称した
そして「このイモムシを神として祀れば、富と若さが手に入る」と吹聴して新興宗教を興し、大勢の信者を集めていた
この多という人物の名代「大生部」とは、一説によるとヤマト王権の職業部の内、皇子や皇女の養育に携わる役人とその封民である壬生部(みぶべ、乳部とも)の1つで、そのほとんどが静岡の田方郡を拠点にしていたとされる
「常世神」は日本で古くから信仰されていたある種の理想郷「常世の国」の神であり、タチバナの実は「常世の国」で採れる不老不死の効能を持った「時じくの香の木の実(ときじくのかくのこのみ)」と同一と考えられていた
だからこそ多は、不老不死や理想郷を象徴するタチバナの木につく幼虫を、不老不死と富をもたらす「常世神」として、祀り上げたのである
古くからの信仰に根差した多の教えを、信じる者は少なからず存在した
やがて多の教えを信じて家財を差し出した信者の中から、偶然にも病気が治った者や富を得た者が現れる
多はこのごくわずかな成功者を持ち上げて、「イモムシを祀って財産を喜捨すれば、どんな願いも叶う」と触れ回り、さらに信者を増やしていった
イモムシ教団の規模はどんどん大きくなり、多に仕える巫覡(かんなぎ)が常世神の託宣を偽り、信者はより信仰を深めた
道端には寄進された食べ物や酒が並べられ、信者に「新たな富が入ってきた」と騒がせた
さらにパフォーマンスとして、多は祭壇に祀られたイモムシに祈りを捧げ、その周りに美しい衣を着た女たちを舞わせた
人々はそれを見て「神であるイモムシを祀り、教団に喜捨すればどんな願いも叶う」という根拠のない教えを信じ込み、さらに多に財産を寄進する
しかしごく一部の偶然に幸運を手にした人々を除いて、信者は手元に残ったわずかな財産さえ喜捨するよう求められたため、人々はさらに貧しくなり、逆に多は豊かになっていった
そして東国で始まったイモムシ信仰は、やがて奈良の都にまで広がり、朝廷の耳にも届くまでになった
イモムシ教団を叩き斬った秦河勝
イモムシ教団の信者となった人々は、必死に働くことを止め、日々をイモムシへの祈りに捧げ、自らの手に入ることのない富と若さを求め続けた
しかしイモムシ教団が大きくなり過ぎたうえに、人々が労働や経済活動を止めてしまったことは、教祖である大生部多の不運の始まりであった
人々の財を奪って私腹を肥やす多を、問題視する人物が現れたのだ
それが、山城国葛野郡太秦(現在の京都市右京区太秦)に本拠を置く、秦河勝(はた かわかつ)だった
渡来系氏族である秦氏の族長だった河勝は、イモムシ教団が起こした騒動を鎮圧するために教団の本拠地を訪ねた
多は朝廷の重臣である秦河勝が訪ねてくることを知ると「さらに教団を拡大する好機だ」と考え、河勝の来訪を心待ちにしていたという
しかし河勝は「妄言で民衆を惑わして自らだけ利益を得て、国に騒乱を起こす者」として一刀両断し、さらには常世神として祭壇に祀られていたイモムシも叩き斬った
この河勝のイモムシ教団討伐は讃えられ、
太秦は 神とも神と 聞こえくる 常世の神を 打ち懲ますも
意訳:秦河勝は、神の中の神と言われている。なにせあの常世の神を、打ち懲らしめたのだから
と和歌にも詠われた
一説には、河勝が多の討伐を担ったのは、秦氏が上宮王家が所有する壬生部、つまりは多の名代である大生部の管理を行っていた一族だからだと考えられている
さらに渡来系の一族である秦氏は、古来より語り継がれる日本の神とは異なる神を信仰していた
そのため日本古来の「常世神」とされた教団を討伐することにも、恐れを抱かなかったのではないかともされている
カルト宗教の恐ろしさ
今の世の中で、イモムシを神として崇めれば願いが叶うなどと聞いて、信用する人はほとんどいないだろう
しかし、日本では宗教に対する規制が比較的緩やかなこともあり、新興宗教が次々と生まれ、ときに社会に大きな混乱や事件を引き起こしてきた
人間の本質は、1300年以上の時を経ても大きくは変わらない
豊かで幸せそうな人を見れば羨望を抱き、理不尽な不幸が降りかかれば、目に見えない何かに救いを求めたくなるのが人の心である
日本には信教の自由があり、他者の信仰そのものを嘲るべきではないが、かつてのイモムシ信仰に熱狂した人々の姿は、ある種の示唆を残しているといえるだろう
参考 :
丘 眞奈美 (著) 『京都奇才物語』
衣川真澄 (著) 『古代の謎・二十の仮説《後編》―飛鳥時代を正しく理解し直す―』
紀藤 正樹 (著)『カルト宗教』
文 / 北森詩乃 校正 / 草の実堂編集部
(この記事は草の実堂の記事で作りました)
古代日本ではイモムシを崇める「イモムシ教団」なるものがあり、古代日本人がハマったという
当時の時代背景、考え方などは現在と違うので、今はイモムシを崇めるということもないだろう
しかし、「困った時の神頼み」ではないが、苦境、困難などでわらにもすがりたいという気持ち、人間の本質は変わらない
そしていつの時代も「カルト教団」は現れる・・・
(オウム真理教、旧統一教会など)
それは時代とともに科学を取り入れたり、宗教観、宇宙観、死生観などを取り入れたり、現在の考えにアレンジしたりする
今の世の中で、イモムシを神として崇めれば願いが叶うなどと聞いて、信用する人はほとんどいないだろう
しかし、日本では宗教に対する規制が比較的緩やかなこともあり、新興宗教が次々と生まれ、ときに社会に大きな混乱や事件を引き起こしてきた
人間の本質は、1300年以上の時を経ても大きくは変わらない
豊かで幸せそうな人を見れば羨望を抱き、理不尽な不幸が降りかかれば、目に見えない何かに救いを求めたくなるのが人の心である
日本には信教の自由があり、他者の信仰そのものを嘲るべきではないが、かつてのイモムシ信仰に熱狂した人々の姿は、ある種の示唆を残しているといえるだろう
カルト宗教 単行本(ソフトカバー)
◎マインド・コントロールなどの勧誘の手口や活動内容
◎収奪や虐待など人権蹂躙の実態
◎カルト宗教と政治(家)との関係
◎家族や知人を脱会させる方法と脱会後について
◎国や私たちがこれからすべきこと
本書では、みなさんにぜひとも知っていただきたいことをあますことなく紹介しました
カルト宗教やカルト的な団体に関する深い知識を身につけていただきたいからです
なぜなら、彼らからあなた自身の身を守るために、そして家族や知人が被害に遭わないために、そして、被害に遭ってしまった人たちを救うために、とても必要なことだからです
一時的にカルト的な団体は息を潜めました
しかし、社会の関心もほどなく薄れていきました
カルトに対する社会的規制を恒常的に敷き続けるためには、多くの人々にカルトの実態を把握していただくことが必要です
これが被害者をなくすための、まさに第一歩となるのです
カルト的な団体を野放しにしてはいけないということを、みなさんになにがなんでも知っていただきたいのです

