兄・豊臣秀吉の天下獲りを献身的に支え、天下統一を見届けるように世を去った豊臣秀長
もし彼があと10~20年も長生きしていれば、豊臣政権の命運はまた違ったものとなったかも知れません
・・・若し秀長にして寿命を有して居たならば能く国家を安泰ならしめ、豊臣家の天下をして永く継続せしめたことが、或は出来たかも知れぬ・・・
※渡辺世祐『豊太閤と其家族』第十一章 太閤の同胞 第一 豊臣秀長
秀長はよくも悪くも激しかった兄・秀吉の欠点を補うごとく、寛仁大度をもって国を治め、人々から慕われたと言います
しかしそれは表の顔であり、領国の大和国(奈良県)では「ならかし(奈良借)」と呼ばれるえげつない所業に及ぶ一面もありました
一体この「ならかし」とは何なのか、『多聞院日記』などの史料をひもといてみたいと思います
※『多聞院日記』は、奈良・興福寺塔頭の多聞院で、室町末から江戸初頭にかけて書き継がれた寺院日記
「ならかし」とは行政主導の悪徳金融
時は天正19年1月22日(1591年2月15日)、秀長は享年52で世を去りました
それからおよそ半年が経った7月18日、大和国内では大規模な一揆が起こるという噂が立ったそうです
当時、国内で悪徳な金商人(両替商、金融業者)による強引な貸し付けと容赦ない取り立てが行われており、人々は生活苦にあえいでいました
これが「ならかし」で、秀長の主導で行われていたと言います
要は行政主導の悪徳金融というわけです
※漢字では「奈良借」と書きますが、これは「貸し付ける」の誤記ではなく、奈良の領民に「借りさせる」という意味だったのでしょう
血も涙もない「ならかし」は秀長の死後も行われ、7月23日には今井与介という者が妻子を殺し、屋敷に火を放って切腹するという痛ましい無理心中事件も起きてしまいました
秀長の生前は耐え忍んでいた領民たちも、とうとう我慢の限界が来てしまったようです
ここへ来て事態を看過できないと判断した秀吉は、8月24日に徳政令を出しました
領民たちの借金を帳消しにすることで、事態の鎮静化を図ろうとしたのでしょう
これでひとまず一揆は回避されたのですが・・・
「ならかし」は終わらない
年が明けて天正20年(1592年)4月29日、大和国内で再び一揆の噂が湧き起こります
それというのも南都奉行の井上源五(高清)が、「ならかし」を続けて不当な利益を貪っていたためでした
これまた事態を重く見た当局は、事情聴取のため、8月30日に町人らの代表者を大和郡山城へ呼び出します
代表者らは話を聞いてもらえると喜び勇んで登城したところ、なぜか全員捕らえられ、投獄されてしまいました
すわ口封じ(告発者を封じるための拘束)か・・・何とか捕縛を逃れた数名が大坂へ向かい、井上源五らの悪行を裁いてくれるよう、秀吉に直訴したのです
「井上源五こそは、金商人らを手先に私腹を肥やしている張本人に他なりません・・・」
『庁中漫録』に写された直訴状によれば、井上源五は秀長が遺した金子500枚を元手に「ならかし」を行い、利息をすべて懐に入れているということでした
果たして直訴は聞き届けられ、大和郡山城に囚われていた町人代表らは9月22日、全員釈放されたのです
かくして一件落着かと思いきや・・・
「ならかし」その後
9月25日、いったん釈放された町人らは、今度は京都へ出頭するよう命じられました
不思議に思いながら出向いたところ、10月9日、理由も明かされないまま再び投獄されてしまいます
罪状の詳細は不明で、結局11月4日に解放されて帰郷していますが、町人たちにとっては翻弄されるばかりの出来事でした
一方、関与した金商人たちも大坂へ呼び出されて投獄され、その後は大和郡山城でも再び拘束されています
処罰の場が転々とし、何を目的とした措置なのか判然としません
ところが、「ならかし」によって私腹を肥やしていたとされる南都奉行・井上源五だけは、なぜか処罰を受けることなく、慶長5年(1600年)6月18日に没するまで奉行職にとどまり続けました
加害者(金商人)はともかく、なぜか被害者(町人)まで投獄されているのに、私腹を肥やした黒幕だけは何のお咎めもないとは解せません
「ならかし」が国策であったがゆえに、トカゲの尻尾を切って有耶無耶にしたかった当局の意図が感じられます
終わりに
豊臣秀長の悪行として知られる「ならかし」について紹介してきました
この「ならかし」は、秀長が豊臣政権の軍資金を調達する目的で行ったようで、後に秀吉は秀長の蓄え込んだ金銀を朝鮮出兵などに投じています
・・・金銀銭(きんぎんぜに)被相糺之処(あいたださるのところ)、金子は五万六千枚余と、法印交替、銀子は二間四方の部屋に棟究て積てあり、数は知れず、料足の分斎(分際)何万貫あるも積りは不存(ぞんぜず)と被申渡(もうしわたされ)云々(うんぬん)、則(すなわち)封を付て帰了、一分一銭(いちぶいっせん)主の用には不立(たたず)、抑(そもそも)無限(かぎりなき)財宝なり、さこそ命惜(おしか)るらん、浅猿々々(あさまし、あさまし)。
※『多聞院日記』天正19年正月条
【意訳】秀長の死後に金銀を調査したところ、金子56000枚、銀子は何万貫とも計り知れないと報告されたそうな。(中略)これまで心血を注いで財宝を蓄えた秀長だが、死んでしまっては使いようがなかろう。この世で命以上に大切な宝などないと言うのに、まったく浅ましいことだ・・・
実に辛辣な評価ですが、秀長はここまでして蓄えた財宝を、自分のためでなく秀吉に使って欲しかったのではないでしょうか
最後の最後まで兄・秀吉を支えるため、命を削るように蓄財に励んだ秀長の姿に胸打たれます
被害に遭った奈良市中の人々とすれば、たまったものではありませんが・・・
果たしてこの「ならかし」、NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」でも描かれるのでしょうか。注目したいと思います。
※参考文献:
・黒田基樹『羽柴秀長とその家臣たち 秀吉兄弟の天下一統を支えた18人』KADOKAWAKADO、2025年10月
・柴裕之 編『シリーズ・織豊大名の研究 14 豊臣秀長』戎光祥出版、2024年11月
・渡辺世祐『豊太閤と其家族』国立国会図書館デジタルコレクション
文 / 角田晶生(つのだ あきお)校正 / 草の実堂編集部
(この記事は草の実堂の記事で作りました)
豊臣秀長は兄・秀吉の天下統一の影の功労者といわれます
その「働き」に対し、後の名声は少ないとも・・・
地味ながら重要な役回りをしていた秀長・・・
長い農民生活もあったのか、領民に慕われる人物だったとも・・・
しかし、それは表の顔で「ならからし」というえげつない所業に及ぶ一面も・・・
当時、国内で悪徳な金商人(両替商、金融業者)による強引な貸し付けと容赦ない取り立てが行われており、人々は生活苦にあえいでいました
これが「ならかし」で、秀長の主導で行われていたと言います
要は行政主導の悪徳金融というわけです
これは秀長の私利私欲ではなく、兄・秀吉の(天下統一の)軍資金工面だったようです
もちろんその被害者はたまったもんではありませんが・・・
考えてみれば、味方の被害も少なく、相手を降伏させた(秀吉はもちろん秀長も関与したとされる)「ひょろう攻め」や「水攻め」も相手にとってはかなり「残酷な攻め」ともいえます
羽柴秀長とその家臣たち 秀吉兄弟の天下一統を支えた18人 (角川選書 680) 単行本
秀長を支えた有力な重臣18人の役割と動向を、史料から実証的に解明
羽柴(豊臣)秀吉の弟で一門筆頭を務めた羽柴(豊臣)秀長
兄・秀吉の名補佐役としての活躍は、有能な家臣たちの支えが無ければ成しえなかった秀長の家老筆頭であった桑山重晴、秀長の直臣で軍事・外交に活躍した藤堂高虎、領国の統治支配に奔走した小堀正次と横浜良慶・・・
多方面から秀長を支えた有力な重臣18人の役割と動向を、史料から実証的に解明
明らかにされていない家臣たちの実像に迫った、羽柴(豊臣)政権研究の最前線
個人的には「江戸(幕府)を設計した」ともいえる藤堂高虎も注目です
2026年01月20日
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