ときは1566年
上杉謙信(輝虎)は、悲願であった関東平定や北条家打倒を目指して出陣。今でいう栃木県や茨城県の方角を目指し、抵抗する勢力を撃破しながら進軍しました
そして手を結んでいた、房総半島の有力大名である里見氏と連携し、今でいう千葉県の北部を制圧しようとします
その際に上杉軍がターゲットの1つに定めたのが、現在の千葉県佐倉市にあった“臼井(うすい)城”でした
当時、臼井城には北条家に従う大名である、千葉氏の有力家臣“原胤貞(はら・たねさだ) ”が、千数百人ほどの手勢で守っていました
彼は上杉勢が迫るとあって対応を考えますが、当初はやや楽観的な見通しもありました
「我が臼井城は天然の要害。それに合戦がはじまれば、千葉様や北条様の援軍も期待できよう」
当時、臼井城の北側や東側や巨大な沼地となっており、上杉勢がこの方角から迫るのは困難でした
この印旛沼(いんばぬま)は現在でも、いくつもの市や町にまたがる巨大さを誇っています
必然的に攻め手の侵攻ルートは絞られ、台地の上にある臼井城からは、対応しやすい構造だったのです
ところが、 原胤貞の当初の見通しに反し、臼井城は危機的状況に陥ってしまうのでした
切り札は参謀の『白井胤治』
まず期待していた援軍ですが、里見軍と連携した上杉勢が万単位の大軍で迫ると、千葉氏は自らの本拠地を守るので手一杯に
臼井城を支援する余裕はありませんでした
北条家も同様に苦しく、ただ一緒に抵抗してくれる味方のため、何とか援軍を派遣してくれましたが、兵力は百騎ほどだったと言われます
それに対して臼井城に押しよせた上杉軍は1万5千人とも言われる大軍、かつ謙信みずからが率いていました
その歴戦の采配により、臼井城の防御線は次々に突破されてしまいます
城の周囲には複数の砦が築かれており、防御側はこれらと連携出来るのも強みでしたが、どこもあっという間に制圧され、残るは臼井城の中心部のみに
端からみれば、もはや落城寸前に見える形です
この戦況に謙信は言いました
「北条討伐は、まだまだ先が長い。この城もその道中の1つに過ぎぬのだ、何ほどのことやあらん」
しかし原胤貞にはまだ、切り札とも言える存在が残されており、それは“白井胤治(しらい・たねはる)”という武将でした
あまり有名な人物ではありませんが、切れ者であったと伝わり、軍師や参謀とも言うべき立場の武将だったのです
彼は言いました
「敵軍はたしかに強大。しかし我らには自らの土地を守る大義があり、兵の士気も高うございます。勝利への采配は万事、お任せくだされ」
ここまで臼井城は多くの防衛線を突破されましたが、各個撃破されて兵力を減らさないよう、あえて早めに退かせた側面もありました
そのため大半の戦力は温存されており、それが1か所に集中する形になっていたのです
意表を突かれる上杉勢
さて、上杉軍が臼井城の中心部を囲んでいると、とつぜん城門が大きく開かれました
上杉兵が「む、ついに降伏して開城か?」「そうであれば、ありがたいのう」などと思った次の瞬間、城兵が怒涛のごとく突撃して来たのです
追い詰めていたと考えていた臼井城の方から、総攻撃を仕掛けて来るとは思わず、上杉軍は不意を突かれました
「今じゃ、敵陣を突き崩せ!」城兵の勢いはすさまじく、中でもひときわ目立っていたのが、全身に赤い鎧をまとっていた武者でした
「我が名は松田康郷(まつだ・やすさと)。さあ上杉の者ども、出会え候え! 」
彼は北条家が援軍に送った武将で、率いる兵こそ少数でしたが、一騎当千の猛者だったのです
ついには上杉軍の本陣近くまで、斬り込む活躍を見せたといいます
さすがの謙信も劣勢を悟り、後退の下知を出しました
「むう、なかなかやりおる。・・よいか者ども、また城兵が打って出てくるやも知れぬ、十分に備えるのだ」
白井胤治の策で攻守はやや逆転したものの、まだまだ戦力的には上杉勢の方が有利であり、謙信は冷静に態勢を整えました
彼にとって臼井城の奪取は、印旛沼やそこへ繋がる利根川の水運を、押さえることにも繋がり、そう簡単に攻略を諦めたくはなかったのです
2段構えの奇策を発動
上杉軍は以後、城内からの急襲を警戒しつつ、やや遠巻きに臼井城を囲むようになりました
しかし城門は固く閉ざされたまま、出撃してくる気配はまったくありません
謙信はやや肩透かしをくらった感覚になりましたが、対北条家の全体を俯瞰したとき、いつまでも臼井城に釘付けは、避けたい状況でした
そこで「そちらが来ないのであれば、こちらから決着をつけてくれる!」とばかり、総攻撃を決断
上杉軍は一気に攻めかかりましたが、臼井城へ上杉兵が殺到した直後、城壁の役目をしていた崖がとつぜん崩壊
上杉勢の多くが巻き込まれ、大混乱が起きます。これも白井胤治の策であり、あらかじめ崩れるように細工をしていたのでした
そして、守備側がこの機を逃すはずもなく、城門が開くと松田康郷らを筆頭に、城兵が突撃を開始。こうなると上杉勢はなすすべなく、雪崩を打って潰走を始めました
もはや城攻めを続行できないほどに崩され、さすがの謙信も表情を歪ませます
「不覚。ここまで出し抜かれるとは、侮ったわ!」
この敗北の被害は大きく、局地戦に留まらない影響が出てしまいました
ここまで上杉勢は急進撃を続け、道中の勢力はいちおう平定して来ましたが、心から従わせた武将ばかりではありません
北条が有利と見れば、いつ従う先をくら替えするか分からない勢力も、少なくありませんでした
そして謙信にとっては本国を遠く離れた、いわばアウェイの地に身を置いている状況です
もし背後の兵站が断たれたり、盛り返した敵勢力に囲まれ、袋叩きにあえば危機的状況に陥ってしまいます
謙信は対北条の前線に展開させていた、すべての部隊に退却の指示を出し、自らも今でいう群馬県の辺りまで撤退しました
ここに上杉軍の関東平定は頓挫し、北条家は防衛に成功したのでした
稀代の名将をジャイアントキリング
さて、北条家としては臼井城にここまでの戦果は期待しておらず、軍神とも言われた名将を相手に、1地方の武将らが大金星を挙げた形になりました
臼井城主の原胤貞や参謀の白井胤治らは、大いに褒め称えられたと言います
また最前線で暴れ回った松田康郷は、その武名を大いに高め、赤い鎧を着ていたことから“松田の赤鬼”という異名がつきました
なお、ここまでの内容は北条家側と上杉家側の記録で、被害の程度に記述の違いがありますが、双方の立場を考えれば腑に落ちる所です
ただ合戦の経緯にも諸説あり、例えば崖を崩した計略も、自然現象だったとする言い伝えもあります
加えて北条家が盛り上げるため、いろいろと脚色をした可能性も有り得ますが、上杉勢が臼井城を攻め、撃退された経緯は事実と思われます
・・ところで上杉謙信はしばしば、戦国大名の中でも最強格と見なされ「合戦でほぼ負けなし」とも言われる武将です
そうした中、手痛い打撃を受けて退却したエピソードは目立っており、彼の生涯で最大の敗北といえるかも知れません
ただ彼も人間である以上、恐らくすべてにおいて完璧とは行かず、思わぬ失敗や相手に出し抜かれてしまうことも、あったのではないでしょうか
戦国時代のエピソードは英雄の活躍に心が踊る一方、時おり無名かつ小さな勢力が、名立たる武将を負かす例もあります
臼井城の合戦に見られるように、不利な武将が知恵をしぼって強者に対抗する歴史は、たいへん面白いひとつです
(この記事は原田ゆきひろの記事で作りました)
上杉謙信は戦国武将でも戦上手で知られ、無敗、軍神、戦国最強ともいわれることも・・・
そんな謙信が手痛い打撃を受けて退却したエピソードは目立っており、彼の生涯で最大の敗北といえるかも知れません
戦国時代のエピソードは英雄の活躍に心が踊る一方、時おり無名かつ小さな勢力が、名立たる武将を負かす例もあります
臼井城の合戦に見られるように、不利な武将が知恵をしぼって強者に対抗する歴史は、たいへん面白いひとつです
(ちなみに真偽はわかりませんが謙信は女性であったとの説もあります)
上杉謙信:政虎一世中忘失すべからず候 (ミネルヴァ日本評伝選) 単行本
越後を本拠に関東・越中・能登を支配した上杉謙信については、江戸時代の兵学者らによって史実と異なることが多く語り継がれてきた
本書は、謙信が生きた時代の史料のみを使って、本物の謙信像を提示する
2025年12月06日
この記事へのコメント
コメントを書く
コチラをクリックしてください

