2024年11月05日

史上最も劇的な日本シリーズ「精密機械」稲尾 vs「野性の天才」長嶋の激闘

長嶋にやられた3連敗、やり返した4連勝

2024年の日本シリーズは、セ・リーグをペナントレース3位から下剋上で制した横浜DeNAベイスターズと、ぶっちぎりの横綱相撲でパ・リーグを制した福岡ソフトバンクホークスの対決となった

プロ野球が2リーグ制となった1950年以来、セパの優勝チームが日本一の覇を競うシリーズは、今年で75回目となるが、中でも最もドラマチックだったと強烈に記憶されているは、昭和33(1958)年、巨人対西鉄の日本シリーズだろう

巨人3連勝の後、西鉄が4連勝ともつれたシリーズだが、西鉄の4勝はすべてエースの稲尾和久が勝ち投手、巨人の3勝のうち2試合は稲尾が負け投手となっている
このシリーズがこれほど劇的な展開になった背景に何があったのか
そのマウンドに立ち続けた大エースその人の証言で振り返る

今から66年前、昭和33(1958)年のシーズンは、ひとりのルーキーが開幕の話題を独占していた
ゴールデンルーキー、のちにミスタープロ野球と呼ばれる長嶋茂雄である

ゴールデンルーキーといわれても、当時を知らない世代にはピンとこないかもしれない
何ゆえ長嶋は「黄金の新人」と呼ばれたのか

入団1年目から本塁打王〈29本〉と打点王(92)を獲得し、打率(305)は2位
あわや三冠王という成績で新人王を獲得している
盗塁も37を記録しているので、もし、9月の広島戦で一塁を踏み忘れてホームランが取り消されるというミスがなければ、新人でトリプルスリーを達成していたのだ

だが、この年の長嶋は、卓越した技量と華々しい記録だけによって、プロ野球史上に圧倒的な存在感を示しているのではない

「私が慶應大学に入学した年に、長嶋さんが立教の4年生で、当時の東京六大学のホームラン記録(8本)を更新しました。この年までは、プロ野球より六大学のほうが人気があり、1試合あたりの観客数もずっと多かったんです。そこで圧倒的な人気を誇った長嶋さんが、翌年六大学ファンを引き連れるようにして巨人に入団したことで、初めてプロ野球の1試合あたりの観客数が六大学を上回ったんですよ」(故平光清氏。元プロ野球審判員、慶應義塾大学野球部マネジャー)

昭和33(1958)年、プロ野球は、明治時代から日本の野球界を牽引してきた東京六大学を、人気の面でも上回った
その起爆剤となったのは、たった一人の選手、しかも新人選手だったのだ

そして、このシーズンを締めくくる日本シリーズも劇的な結末となった
3年連続で水原茂監督率いる読売ジャイアンツと三原脩監督率いる西鉄ライオンズの対決となったシリーズは、巨人3連勝のあと、西鉄が4連勝するという劇的な展開で西鉄が3連覇を果たす

「打撃の神様」と言われ、巨人の看板として活躍した川上哲治もすでに選手としては晩年
巨人の主砲として4番に座っていたのは、ゴールデンルーキー長嶋茂雄だった

一方、長嶋を迎え撃つ西鉄のエースは入団3年目の稲尾和久だ
昭和31(1956)年にデビューして、21勝6敗、防御率1.06で新人王
その後2年連続で最多勝投手となり、ここまでのわずか3年間で89勝を積み上げていた
そして、この年の日本シリーズ、第2戦以外の6試合に登板し、西鉄4勝すべての勝ち投手となった稲尾は、熱狂するファンから「神様、仏様、稲尾様」と崇められることになる

だが、稲尾は決して期待されて入団したわけではなかった
稲尾はいう

「当時としては大金の50万円も契約金もらって意気揚々とキャンプに行ったら、連日バッティングピッチャーですよ。しかも一日500球以上は投げさせられる。おかしいなと思って、小倉高校から同期で入団した畑(隆幸)に聞いたら、やつの契約金は800万円だという。がっくりきたね。中西(太)さんや豊田(泰光)さんから『手動式練習機』と呼ばれて、まるで生身のピッチングマシーンですよ」

ところが、そのキャンプの打撃練習で、稲尾の絶妙のコントロールに目をつけた主軸打者の豊田と中西が、「稲尾起用」を三原脩監督に進言したことによって、開幕早々に一軍でチャンスをもらい、一気に才能を花開かせたのだ

その事実を踏まえたうえでの疑問を抱えていた

「バッティング投手から這い上がった21歳の雑草エース・稲尾和久は、華々しくデビューした1歳年上のゴールデンルーキー・長嶋茂雄をどう思っていたのか? このシリーズでは、長嶋何するものぞという対抗心が沸々と燃えていたのではないか」

稲尾に直接会うチャンスを得た平成15(2003)年2月、福岡市内のホテルのティールームで、この疑問をぶつけてみた

「よくぞ、聞いてくれました(笑)。今まで誰もそのことを聞いてくれなかったんだよ。そりゃあ、意識しましたよ。長嶋さんには絶対に打たれたくなかった。結局、あのシリーズは、長嶋さんにやられた3連敗、そしてやり返した4連勝だったよ」

どういうことなのだろう?

野性の男を封じるためのノーサイン投法

正確無比なコントロールだけでなく人格者としても知られた稲尾は、他チームの打者からも尊敬された

「あのシリーズの長嶋さんとの初対決。後楽園球場での第1戦、1回裏、2死1塁という状況です。私は、基本的にウイニングショットから逆算して配球を組み立てます。このときは4球目、外角低めのボールで三振をとるという組立てで、そこまで外、内、外で2ストライク1ボールと追い込んだ。長嶋さんは内角を意識して、肩を開き気味に構えていました。そこにストライクゾーンぎりぎりの外角低めを逃げていくスライダー。9割9分三振がとれると思った」

ところが、長嶋は完全に裏をかかれ、およいだ姿勢にもかかわらず、へっぴり腰でバットを伸ばし、ライト線への三塁打にしてしまうのだ

「びっくりしましたね。長嶋さん以外のバッターだったら、あの組立てであの球なら、よしんばバットに当てられても絶対にファウルにしかならない。それを三塁打ですからね。こりゃあ、ひと筋縄ではいかんぞと思いましたよ。それから、どうやって長嶋さんを打ち取るかを必死に考えているうちにどんどんリズムが狂って、安全パイのバッターにまで打たれるようになっちゃった。広岡(達朗)さんにホームランまで打たれてますからね」

この試合、稲尾は4回を投げて3失点、試合は9対2で巨人の勝利
第2戦も落とし(稲尾は登板なし)、第3戦、藤田元司、稲尾の両エースが投げ合い、1対0で巨人3連勝
あとのなくなった西鉄三原監督は、第4戦にも稲尾の先発という苦渋の決断をする
たとえ4連敗となっても、熱狂的な平和台球場の西鉄ファンを納得させられるのは、稲尾の先発しかないと判断したのだ

開き直りの采配だが、稲尾は初回に2失点、2回に1失点と本調子ではない
誰もがシリーズ4連敗、完敗を覚悟する展開だった
しかし、その裏、味方の反撃で同点となったところで、稲尾はある決断をする

「そこまで悩みに悩んで来たけど、わかったんだよ、2回の打席で。あの人(長嶋)は何も考えてない。考えてない人相手に考えても無駄。野性の勘といってもいいような感覚で勝負してくるんだから、こっちも感覚で行く。投げる瞬間にバッターの打ち気や構えを見て、コースと球種を決めることにしたんです。三原さんに言って、『ノーサインでいきたいから、キャッチャーを代えてください』って頼んだんです」

意を汲んだ三原は、キャッチャーをレギュラーの和田博実から、キャッチングのうまいベテラン日比野武に代える
リズムを取り戻した稲尾は、3回以降を1失点に抑え、3点を追加した西鉄が6対4でシリーズ初勝利を飾る

「日比野さんには、『どっしり真ん中に構えて、ボールだけを見ていてください』と頼んで、コース、球種は私が投げる瞬間に決めました」

この試合以降、稲尾&日比野のバッテリーは、緊迫の日本シリーズですべてノーサインの投球という離れ業を演じていたのだ

第5戦は、0対3の3回から登板し、巨人打線を零封
西鉄打線が、7回に2点、9回に1点をとり試合は延長へ
10回裏、稲尾がホームランを打ってサヨナラ勝ち
6戦、7戦とも稲尾が先発完投して2対0、6対1と連勝し、日本シリーズ初の3連敗から4連勝で日本一に輝いたのだ

稲尾の第4戦2回までの対長嶋の成績は、7打数1安打2打点と決して打ちこまれているわけではない
だが、絶妙のコントロールと理詰めの配球で打者をうち取る精密機械のような投手は、初めて野生動物のような天才打者と対面し、オーバーヒート状態に陥っていた
広岡(通算打率2割4分)や土屋正孝(通算打率2割3分9厘)、エンディ宮本(通算打率2割4分9厘)といった強打者とはいえないバッターにいいところで打たれ、試合を落としていたのだ

稲尾は、ノーサインで投げ始めた第4戦3回以降、4試合に32回を投げて2失点と巨人打線を完全に抑え込んでいる
長嶋との対戦も、12打数2安打1打点と4番の仕事をさせなかった

とはいえ、この4連勝、決してすいすい勝ったわけではなかった

狙いが読めなかった唯一の打者

2007年11月13日没
享年70
背番号24は西武ライオンズの永久欠番となっている

最大のヤマ場は、後楽園球場での第6戦にやってくる

西鉄が2対0とリードした9回の裏に、そのヤマ場はやってくる
2アウトランナー二塁の場面で、3番与那嶺要の打球は平凡な一塁ゴロ
試合終了かと思われたが、名手河野昭修にエラーが出て、二人の走者がたまる
ここでバッターは4番長嶋

「ここ一番という勝負の場面で打順が回ってくるんですからね。ホームランなら逆転サヨナラで巨人が日本一ですよ。なんて強い星の下に生まれた男かと思いましたよ」

三原監督はタイムをとってマウンドへ行く

「監督の指示は、『長嶋を歩かせて5番藤尾との勝負』でした。でも、『三連敗して一度はあきらめたシリーズやないですか。長嶋と勝負しましょう』と言ってしまった。『おまえがそう言うなら』とまかせてもらえましたが、今度は、『(ホームランだけは打たれないように)外角低めで勝負せい』と。でもね、初戦の第一打席の嫌な記憶があったから、勝負球には内角を選びました」

外角を2球続けて内角を意識させ、勝負は3球目
敢えて長嶋のホームランゾーンである内角での勝負を選択したのだ

「私の球種は三つ。直球にスライダーにシュート。ボールの握りは全部同じなんです。ボールを放す瞬間に人差し指を意識すればスライダー、中指を意識すればシュート。リリースする瞬間の判断でボールの軌道を変えることができました」

この取材のとき、実際にボールの握りを見せてくれた
人差し指と中指をそろえて指先を縫い目に合わせる通常のストレートの握りだ

「私は振りかぶったとき、打者の肩を見て、瞬時に投げる球種を変えることがありました。右打者なら、左肩が本塁よりに入っていればシュートに、逆に左肩を引いていればスライダーに。あのときも、長嶋さんの肩を見て、直球の軌道からボール半個内角に食い込むシュートで勝負にいった」

結果はキャッチャーへのファウルフライ
稲尾は長嶋との勝負に勝ち、巨人を完封して対戦成績を3勝3敗の五分に持ち込んだのだ

しかし、ボールを放す瞬間に、打者が打つ気があるのか、どのコースを狙っているのか判断じ、球種を変えるなんてとんでもない芸当が、本当にできるのだろうか

「私が漁師の息子だからですよ。小学生の頃から漁を手伝わされ、毎日、舟の櫓を漕いでいたから足腰が強くなって、それで投手として大成したという方がいますが、そうじゃない。漁師の息子だったことでいちばん役に立ったのは、その場の空気の動きや匂いを敏感に感じる能力が身についたことです」

稲尾は、小学校高学年の頃、父と漁に出たある日のことを鮮明に覚えているという

「その日は天気もよくて魚もよう釣れとったのに、親父が急に『帰るぞ』といって道具を片付けだして、大急ぎで舟を漕げと言う。港に戻ってから、『もっと釣れたろうに』と文句を言ったら、『後ろを見てみい』と怒鳴られた。振り返ったら、空は真っ黒になって大きな波が立っていたんです。漁師は、空の色、風の動き、匂いを敏感に感じなかったら簡単に死ぬんだということを徹底的に叩き込まれました。この感じる力が、野球をやって一番役に立ったことです」

まったく読めない動きで敵に襲いかかる野性と、瞬時に危険を察知してさっと身をかわす野性
この第6戦の最終打席は、究極の野性対決だったのだ

「このときの勝負には勝ちましたが、このシリーズで長嶋さんを抑えた感じがしないんですよ。初対決の第1戦の第一打席は三塁打、第7戦の最終打席ではランニングホームランを打たれてますからね。結局最後まで長嶋さんの狙いは読めなかった。対戦したなかでそんなバッターは長嶋さんだけでしたね」

稲尾は、その後も順調に勝ち星を重ね、昭和36(1961)年には歴代最高となる42勝をあげるが、登板過多がたたって入団9年目に肩を壊し、選手生命を縮めてしまった
14年の現役生活で、276勝137敗、通算防御率は1.98

この大投手が、対戦したなかで唯一無二と讃えた長嶋茂雄
アスリートを「常人を超える存在」だと規定するなら、この男こそが史上最高のアスリートだったのかもしれない

※この記事は、「ヤングマガジン2003年5月10日増刊 スポ増No.2」掲載の漫画『海童(うみわっぱ) 鉄腕・稲尾和久物語』(画/八坂考訓)の取材ノートを元に構成したものです

(この記事は、現代ビジネスの記事で作りました)

長嶋茂雄は、「ミスタープロ野球」といわれる

「究極の野生対決」に勝った稲尾和久も凄いが、その稲尾をして「狙いが読めなかった唯一の打者」言わしめた長嶋茂雄も凄い

野村克也も長嶋茂雄を「野球の天才」といっている



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プロ野球を国民的スポーツにした「ミスタープロ野球」長嶋茂雄
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posted by june at 04:23| Comment(0) | スポーツ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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