2024年08月04日

なぜ西行がこれほど日本人の心の琴線にふれるのか

◆桜の季節日本的な自由人の生き方

日本人は西行が好きで本も多いが、本書は西行の書物として近年稀にみる良書である
著者の寺澤行忠氏は西行の歌集『山家集』の緻密な校合(きょうごう)で知られる
西行が極めて適切かつ中立的に評されている
西行はその和歌が盛んに写された
だが、それが災いし、西行の和歌は原形が怪しくなっていた
昔は名門近衛家伝来の陽明文庫の写本なら善本と早合点
誤写が二百カ所以上もあるこの本で西行を理解していた
しかし実際には木版本など流布本の内容も軽視できない
特に上賀茂神社の三手(みて)文庫の写本などは誤写が少なく、西行の元の和歌に近づく手がかりになる
これを指摘されたのが寺澤氏であった

だから過去の西行論の修正も丁寧になされている
例えば、藤原定家と西行の関係
かつては対立的にとらえられた
著者は小林秀雄の西行論から西行の魅力にひかれたそうだが、その小林秀雄にしても両者を対立的にみている
しかし著者の書きぶりは愉快なほど公平である
学者は他人の小さな論の傷をみつけると、鬼の首をとったように、その人の論全体が誤っていると言い立てがち
ところが著者は西行について無知に論じた論者や一部誤解の論者に対しても、全体像や本質は「的確に理解していた」と評する
例えば、松尾芭蕉
十分な情報があった時代ではないが、西行理解に本質的誤りはないとする
西行は高度な知識がない人でも理解に到達できる人物であり、論評できると、西行研究の第一人者が言ってくれている

本書はほとんどの和歌に達意平明の現代語訳を付けている
著者の配慮に敬服する
学問はこのように一般にも専門外にも開かれた普遍をめざすものであって欲しい
西行は専門の歌人でないのに、新古今集に最多九十四首選ばれ、その数は定家より多い
桜の歌が多く、全体の1割を超える
本書は日本人の桜好きに西行の影響を見る
また西行といえば旅だが、目的を二の次にした不要不急の旅
西行が旅で得る心の自由を日本人にひろめた点も指摘する
芭蕉も西行五百回忌で東北へ旅立った
本書からはずれるが、高杉晋作は幕末長州の志士だが「西へ行く人を慕いて東行く、わが心をば神ぞ知るらん」と詠み、東行(とうぎょう)と号して、僧形(そうぎょう)で諸国を旅した

なぜ西行がこれほど日本人の心の琴線にふれるのか
人生は無常である
栄達長寿など不変を求めても必ず死ぬ
そこで無常を自覚する生き方のほうが自由になれると考えた
官位や定住を捨て、旅に生き、和歌を詠み、人間の完成をめざす道に入り、捨てて逆に自由を得る
西行は日本的な自由人の生き方の典型を示した
そのため共感を得たのである
この死生観は「流れ散り漂い広がる」のを受け容れる
自然に身をゆだね自他を区別せず、宇宙と混然一体化する循環の中に生きる
桜は風に流れ散る
しかし、冬の寒に耐え、春にはまた刹那(せつな)の咲きがある
これを美しいと感じる日本的心性である
ピラミッドのミイラの如く、干からびてでも個体を保ち再生しようなどとは考えない
そういえば「西行をのこして富士は霞(かす)みけり」という巌谷小波(いわやさざなみ)の句を思い出した
この国は霞んでも西行は今も人々の心の中にいる

[書き手] 磯田 道史
歴史学者
1970(昭和45)年岡山市生れ
国際日本文化研究センター准教授
2002年、慶應義塾大学文学研究科博士課程修了
博士(史学)
日本学術振興会特別研究員、慶應義塾大学非常勤講師などを経て現職
著書に『武士の家計簿』(新潮ドキュメント賞)、『殿様の通信簿』『近世大名家臣団の社会構造』など

[書籍情報]『西行:歌と旅と人生』
著者:寺澤 行忠 / 出版社:新潮社 / 発売日:2024年01月25日 /ISBN:41060390 52

毎日新聞 2024年4月6日掲載

(この記事は、ALL REVIEWSの記事で作りました)

西行は私も好きな歌人・僧侶です

その生き方・考えに共感・・・

西行のエピソードでは・・・

■荒法師・文覚上人をも圧倒した歌人・西行法師の「迫力」■

鎌倉時代の西行法師は、自然を友とし、旅と歌を愛した人物として知られています。

西行は、元々は北面の武士でしたが、友人の死あるいは自身の失恋をきっかけに出家したといわれ、出家後はおもむくままに草庵をいとなみ、たびたび漂泊の旅をし、多くの歌を残しました。

僧侶としてより歌人としての方が有名かもしれません。

しかし西行は、歌人という「文人」の中に「武人」にもひけをとらない高僧としての「凄み」や「迫力」を内実していたようです。


西行の「凄み」や「迫力」を感じるエピソードとして、西行の数あるエピソードの中で最も好きなのは、文覚との対面についてのエピソードです。


文覚は、西行と同時代に生きた鎌倉時代の僧侶です。

気性が激しく、荒行により法力を身につけたとされる怪僧、荒法師として知られていました。

西行同様に、元々は北面の武士でしたが、恋人の夫(つまり恋人は人妻)を殺そうとして誤って恋人を殺害してしまい、出家したといわれます。

文覚は、神護寺の再興を訴えて後白河法皇の不興をかい、伊豆へ流されますが、ここで後に鎌倉幕府を開く源頼朝と対面し、感じ入った頼朝は、文覚に帰依したといわれます。

頼朝の挙兵は、文覚のアドバイスがきっかけとの説もあり、後に、文覚の平家の嫡流6代の助命も受け入れています。

頼朝が文覚には一目置いていたことは確かのようで、文覚は、只者ではない怪僧というべき存在だったのは間違いありません。


「井蛙抄」によれば、文覚は、僧侶でありながら仏門の修行もせず歌道の研鑽ばかりをしている西行を毛嫌いしており、「出会う機会があれば、(西行の)頭を打ち割ってやる」と公言していました。

(文覚が再興を進めた)神護寺の法会が行われた際に、参列した西行は文覚に一夜の宿をたのみます。

手ぐすねひいて待っていた文覚は、しばらく西行を見つめていましたが、やがてねんごろに招き入れて歓待して翌朝に西行を帰したといわれます。

西行との出会いにハラハラしていた文覚の弟子たちが、西行が帰った後に文覚の日頃の言動とは違うことを指摘すると、文覚は「あれ(西行)が文覚に打たれるものの面構えか、文覚こそ打たれるべきものだ」といったとされます。

後に天下に号令した頼朝をも圧倒した文覚が圧倒されるのですから西行の「凄み」や「迫力」はどんなものだったのかと驚かされます。

西行は、たしかに文覚のような仏門の荒行をやっていたわけではありませんが、自然を友とし、旅を通して歌を詠むこと自体が、自然という修行の場での修行であったのかも・・・。

自然という「無限の修行場」で修行した西行は、仏門の寺という「有限の修行場」で修行した文覚にとっては根本的なスケールで違ったのかもしれません。

自然を友とし、旅をし、歌を詠っているうちに仏門の荒行に勝る修行を「自然」にしていたということでしょうか。

このエピソードは、西行の「凄さ」や「迫力」を示すエピソードにはなっていますが、西行に内実する「凄さ」や「迫力」を感じ取った文覚も只者ではないと思います。

事実、臨席していた文覚の弟子たちは、文覚の西行に対する接し方について日頃の言動と違うと指摘しているように、西行の本当の意味での「凄み」や「迫力」に気づいていません。


西行は、勧進で奥州へ赴く際に、文覚同様に頼朝と対面していますが、弓矢や歌について問われますが答えず、その後の再度の求めで詳細に語ったとされます。

頼朝との面会でも文覚同様に頼朝を圧倒したようですね。

その点では西行は文覚以上の怪僧といえます。

弓矢について詳細に語れることからもわかるように武芸に優れていたようで、各地を旅した際に修験道の修行にも参加したこともあるとされ、体力面でも優れていたようです。

西行は頼朝から拝領した純銀の猫を通りすがりの子供に与えたといわれます。

このエピソードも私の好きな西行のエピソードです


があります


西行:歌と旅と人生 (新潮選書) 単行本(ソフトカバー)

西行のように自然をともとしたある意味「自由人」に憧れもあります
西行の魅力を人物関係、時代背景などから読み解きます
posted by june at 04:38| Comment(0) | ニュース | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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