日本に初めてジャイアントパンダがやって来てから、28日で50年を迎える
日中国交正常化を記念して中国から贈られたカンカン(雄)とランラン(雌)以降、昨年生まれた双子パンダまで、上野動物園(東京都台東区)のパンダは世代を超えて高い人気を保ってきた
1972年9月29日、田中角栄首相(当時)らが日中共同声明に署名した後、国交回復を記念して中国側からパンダ2頭が贈られることが発表された
受け入れ先となった上野動物園では急きょ準備を始めたが、実物のパンダを見たことがあったのは当時の飼育課長1人だけ
大橋直哉・教育普及課長は「どんな動物かも、どう飼えばいいかも分からない。不安はかなりあっただろう」と苦労を推し量る
同園の職員だった佐川義明さんは翌1973年から通算23年間、計9頭のパンダを飼育した経験を持つ
1972年10月28日にカンカンとランランが来園した当時は別の動物の飼育員で、2頭を初めて見たのは約1カ月後
「大きいな」というのが第一印象だったという
パンダは空前のブームを巻き起こし、1974年度には入園者数が過去最多の764万人に達した
パンダ担当となった佐川さんは繁殖に向けて試行錯誤を重ねていたが、カンカンとの3回目の交配後、ランランが突然倒れた
妊娠中毒と腎不全と診断され、三日三晩、寝ずに看病したが死んだ
死後の解剖でおなかに胎児がいたことが分かり、「残念というか、何と言っていいか分からない」と今も悔しがる
この経験を次につなげようと、カンカン、ランランの次に来たフェイフェイ(雄)とホアンホアン(雌)では人工授精に挑戦
ようやく生まれたチュチュ(雄)は生後2日で死んだが、その後も人工授精が成功し、トントン(雌)とユウユウ(雄)が生まれた
パンダが一時不在となった時期もあったが、今は5頭のパンダが元気に過ごしている
佐川さんは「上野といえばパンダ。今後も飼育を続けてほしい」と話す
上野動物園によると、来園当初から受け継がれる飼育日誌は166冊目に入った
前園長で日本パンダ保護協会会長の土居利光さんは「当初は国交正常化の象徴や珍獣のイメージが強かったが、今は『かわいい』存在になった」と分析
「パンダを通じて種の保存や動物の保護についても考えるきっかけになれば」と期待した
(この記事は、Jiji.comの記事で作りました)
パンダが日本に来るきっかけとなった日中交渉は途中まで「難航」いていたという
打開できたのは田中首相(当時)の明るい快活さ・前向きさと大平外相(当時)、外務省職員のたゆまぬ尽力だった
田中首相は金権政治など負の部分もあったが、日中国交回復、パンダが日本に来たの他に、ルーブル美術館の至宝で門外不出といわれた名画「モナ・リザ」を日本に招いたのも田中氏だった
日本列島改造計画も田中氏が強力に推し進めた
政治の是非はいろいろ意見があるだろうが決断と実行はあった
パンダは上野動物園に行った時、たくさんの観覧者が並んでいて見れなかったのをわずかに覚えています
パンダは初代のカンカン、ランランの時でした
「パンダが日本にやって来た」~カンカン重病・知られざる11日間 ―翼よ、よみがえれ プロジェクトX~挑戦者たち~
パンダ2頭、カンカンとランランが日本に日中国交回復の記念に1973年10月28日二やってきた
日本ではパンダはほとんど知られておらず飼育をした上野動物園の職員たちの悪縁苦闘の軌跡
2022年10月29日
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