横浜市出身
難病「全身性アミロイドーシス」で闘病中だった
2、3日前から低血糖で体調を崩し、自宅での療養生活が続いていた
前日持ち直したが、この日の朝、状態が悪化し自宅で息を引き取った
1943年(昭和18年)生まれ
5歳で父親を亡くし、13歳で家族とともにブラジルへ渡り、コーヒー農場などで働く
現地の陸上競技大会の砲丸投げで優勝した際、ブラジル遠征中だった故力道山さんにスカウトされプロレスの道へ
日本プロレス入りし。1960年9月30日、プロ野球からプロレスに転向した故ジャイアント馬場さんと同日デビューを果たし、1962年からリングネーム「アントニオ猪木」を名乗る
米国への武者修行、日本プロレスからの離脱、復帰、追放を経て、1971年に女優の倍賞美津子さんと結婚(後に離婚)
1972年に新日本プロレスを立ち上げ、その後プロレス全盛時代を築いた
1976年6月のボクシング世界ヘビー級王者・モハメド・アリさんとの「異種格闘技戦」は注目を浴び、世界中にテレビ中継された
政治家としては1989年に「スポーツ平和党」を立ち上げ、「国会に卍固め」、「消費税に延髄斬り」をキャッチフレーズに同年の第15回参議院選挙に比例区から出馬し初当選
史上初のレスラー出身の国会議員となった
(この記事は、スポニチアネックスの記事で作りました)
同日デビューのジャイアント馬場さんとの対戦成績は16戦全敗だった
(この内訳は
3本勝負4戦のうち3回は1-2、1回は0-2で4戦全敗
1本勝負は12戦全敗)
その後、猪木さんは新日本、馬場さんは全日本を立ち上げ、交わることはなった
猪木さんは異種格闘技戦などで格闘技的プロレス、馬場さんは正統的なプロレス、いわあゆる王道プロレス進めた
路線や考え方の違いもあったが、もし対戦したら!?
興味深くはあります
アリ選手との異種格闘技戦も当時は「世紀の凡戦」といわれましたが、近年はお互い制約の多い中での真剣勝負だったと再評価されています
アリ選手へのスライディング・キックの通称「アリ・キック」のダメージでアリ選手は血栓症で入院しています
猪木さんは異種格闘技戦や政界進出など常に仕掛けていた印象です
対する馬場さんはバラエティなどにも出ましたが基本はプロレスでした
「動」の猪木、「静」の馬場といったところか!?
猪木さんは病をおして8月の日本テレビ「24時間テレビ」に生出演しました
その2カ月足らず後の今回の訃報でした
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