山口県豊北町(現下関市)出身
通夜、葬儀・告別式は家族葬で営まれる
下関商高2年の年の甲子園で春の選抜大会優勝、夏の全国選手権準優勝
初戦で敗れた1964年の選抜大会を制した徳島海南高の大型右腕の尾崎将司氏とともに2人は1965年、西鉄に投手として同期入団したが、池永氏を見た尾崎氏が「こんなにすごいやつがいたんじゃ」と後にプロゴルフに転向したという
漁師で宮相撲の横綱も務めた父から受け継いだ筋肉質で、ばねのある体が武器
低い重心から打者の胸元に真っすぐ、変化の大きなカーブを武器に高卒1年目に20勝を挙げて新人王に輝いた
「鉄腕」稲尾和久氏(故人)が酷使した肩の故障でリリーフに回った後は、池永氏が主戦として活躍し、1967年は23勝で最多勝
稲尾氏の後継者とされた
「黒い霧事件」に巻き込まれて1970年に永久失格処分を受けるが、2005年に解除されて復権
プロ通算103勝65敗、防御率2.36
同じ1946年度生まれには山本浩二氏、田淵幸一氏らがいる
(この記事は、西日本スポーツの記事で作りました)
尾崎将司氏(ジャンボ尾崎)にプロ野球をあきらめさせ、プロゴルファー転向をさせた男
稲尾和久氏の後継者といわれた男
八百長に関与したとされる「黒い霧事件」に巻き込まれなければもっと活躍したかも・・・
通算6年で3回20勝以上しています
(1965年=20勝(新人王)、1967年=23勝(最多勝)、1968年=23勝)
黒い霧事件に巻き込まれ永久追放になった1970年は5月25日に永久処分となっており、5年とちょっとのプロ野球人生だった
2005年に永久処分は解除され復権している
復権―池永正明、35年間の沈黙の真相
1970年に黒い霧事件で永久追放となり2005年に復権した池永正明氏の35年間の沈黙の真相に迫る