1980年代半ばに疲弊していた体制を立て直す「ペレストロイカ」政策に取り組んだが、結果としてソ連崩壊を招き、国内では批判にさらされた
一方でノーベル平和賞を受賞するなど外国では高く評価されて、皮肉な半生を送った政治家だった
1931年3月、ロシア共和国南部スタブロポリ地方に生まれた
1955年に名門モスクワ大法学部を卒業し、故郷で党官僚のキャリアを歩み始め、1971年にソ連共産党の中央委員に抜てきされた
1980年に政治局員となり、1985年に54歳でトップの党書記長に就いた
ソ連は1979年に始めたアフガニスタンへの軍事介入が泥沼化し、政治や経済の体制が疲弊していた
ゴルバチョフ氏はペレストロイカの旗振り役として個人の営業を認めるなど、経済改革に踏み切った
社会生活でも1986年4月にウクライナ共和国で起きたチェルノブイリ原発事故が引き金となり、情報公開(グラスノスチ)を進めた
外交ではシェワルナゼ外相と共に「新思考外交」を推進
1987年に米国と中距離核戦力(INF)全廃条約を結び、1989年にアフガンへの軍事介入を終わらせた
ベルリンの壁の崩壊など、東欧で社会主義政権が倒れていった際には介入を避けた
同年末には米国と共に冷戦の終結を宣言するなど、国際社会の緊張緩和に貢献し、1990年にノーベル平和賞を受賞した
内政では1990年に共産党の一党独裁を廃止し、初代のソ連大統領に就任するなど変革を試みたが、むしろ権力基盤は揺らいだ
当時のソ連国家保安委員会(KGB)ら保守派の反発を招き、1991年8月の休暇中に軟禁されるクーデター未遂事件を許した
事件はゴルバチョフ氏の権威を失墜させる一方で、徹底抗戦したエリツィン・ロシア共和国大統領(当時)による主導権の掌握を決定づけた
エリツィン氏らは1991年12月、ソ連を構成する共和国が参加した独立国家共同体(CIS)の発足を表明
ゴルバチョフ氏は大統領を辞任し、69年続いたソ連の歴史に幕が下ろされた
退任後はゴルバチョフ基金総裁に就き、国内外で評論活動などに従事した
1996年のロシア大統領選に出馬したが、得票率は1%に満たず、国内の低い評価は覆らなかった
日本にはソ連大統領時代の1991年4月に初訪問し、海部俊樹首相(当時)と北方領土問題を話し合ったが、進展を図れなかった
妻のライサさんとはモスクワ大学時代に結婚したが、1999年に先立たれていた
(この記事は、毎日新聞の記事で作りました)
ミハイル・ゴルバチョフ氏は、ソ連最後の指導者であり、東西冷戦を終結させました
ベルリンの壁崩壊など激動の時代を歩んだ政治家でしたね
ペレストロイカ、グラスノスチなどを進めソ連の指導者としては、かなり踏み込んだ改革をしましたが、民主化の流れは本人(ゴルバチョフ氏自身)の思った以上に進みました
本人の想定以上に、時代や民主化の流れは進み、国際的にはノーベル平和賞を受賞するなどしましたが、国内ではソ連の崩壊へ
時代に翻弄された政治家の一面もありました
ミハイル・ゴルバチョフ 変わりゆく世界の中で
ソ連最後の指導者で東西冷戦を終結させた一人とされるミハイル・ゴルバチョフ氏
ベルリンの壁崩壊など激動の時代を政治の指導者の一人として歩みました
激動する現在、そのゴルバチョフ氏が当時と今を語る