「漫画(マンガ)の神様」といわれた手塚治虫氏が1989年(平成元年)2月9日に亡くなったことにちなむとされます
手塚は、大阪帝国大学附属医学専門部在学中の1946年1月1日に、4コマ漫画「マアチャンの日記帳」(「少国民新聞」連載)で漫画家デビュー
1947年に、酒井七馬原案の描き下ろし単行本「新寶(宝)島」が大ベストセラーとなる
1950年より漫画雑誌に登場
次々とヒット作を手がけた
1963年に、自作を元に日本初のテレビアニメシリーズ「鉄腕アトム」を制作
1965年に、自作を元に日本初のカラーテレビアニメシリーズ「ジャングル大帝」を制作
デビューから1989年に亡くなるまで、低迷期もあったが、ほぼ第一線で作品を発表し続け、存命中から「マンガの神様」と呼ばれた
(手塚自身は「漫画」より「マンガ」の表記を好んだ)
自身も前述のように「現役の漫画家」として第一線で活躍したが、藤子不二雄(藤子・F・不二雄、藤子不二雄A)、石ノ森章太郎、赤塚不二夫、横山光輝など数多くの人間が影響を受け、漫画家へ
その影響力の大きさは「手塚山脈」ともいわれ、手塚が一時住み、後に他の漫画家も一時住むようになった「トキワ壮」は、「漫画の聖地」とされ、「漫画家の梁山泊」ともいわれた
大御所漫画家になっても、若い気鋭の漫画家にライバル心を燃やし、新しい手法やタッチなどをどん欲に学び、吸収していった
死ぬまで「現役」の「第一線」の「漫画家」であることにこだわり続けた
アニメーションは必ずしも「成功した」といえないが、こちらも最後までこだわり続けた
手塚治虫のマンガの教科書―マンガの描き方とその技法
「マンガの神様」によるマンガの描き方や技法の「教科書」
マンガの描き方や「基礎」の大切さを教えてくれます
ちなみに、手塚治虫氏は、「漫画」より「マンガ」の表記を好んだ