往路3位の駒大が大逆転で13年ぶり7度目の総合優勝
駒大は、昨秋の全日本大学駅伝との大学3大駅伝の2冠
往路を制した創価大が総合2位、往路2位の東洋大が総合3位
総合2連覇を狙った青学大は往路12位と出遅れたが、復路で追い上げ総合4位に
駒大は、最終10区(23.0キロ)までに、往路3位から2位に順位を上げ、10区の石川拓慎選手(3年)がトップの創価大と3分19秒差でスタート
21キロ手前で大逆転した
復路優勝は、往路で12位と出遅れた昨年総合優勝の青学大が「意地」を見せた
総合で4位
復路2位は、往路3位で総合優勝の駒大
復路3位は、往路で19位と出遅れた中大
総合で12位
また、この駅伝のMVPに当たる金栗四三杯は、2区区間新を出した東京国際大のケニア人留学生イェゴン・ヴィンセント選手(2年)が受賞
金栗四三杯を留学生、東京国際大が受賞するのは初
チーム初の連続シード権獲得(10位以内)にも貢献
金栗四三杯は、「日本マラソンの父」といわれ、箱根駅伝創設にも尽力した金栗四三氏の功績をたたえるために第80回(2004年)に創設
(この記事は、ネットニュースの時事通信、サンケイスポーツ、箱根駅サイト、月刊陸上競技を参考にしました)
あまりに細かすぎる箱根駅伝ガイド!2021
箱根駅伝を細かく解説
箱根駅伝をより楽しめます
Number(ナンバー)1017号[雑誌]
スポーツ雑誌Numberの箱根駅伝特集
走れ二十五万キロ マラソンの父 金栗四三伝 復刻版(第2版)
金栗四三氏は、前述のように、「日本マラソンの父」といわれ、箱根駅伝創設など日本陸上長距離に多大な尽力・貢献をした人物
1911年のストックホルム五輪のマラソン代表選考の予選会で当時のマラソン世界記録で優勝・・・
1912年のストックホルム五輪にマラソンの日本代表で出場するも、酷暑で気を失い民家で介抱され、途中棄権(正式な届出なし)・・・
途中棄権との正式な届け出もされておらず、記録では行方不明扱いになっていた・・・
その後の五輪ではベルリンが戦争で開催中止、アントワープが16位、パリが途中棄権・・・
ベルリン五輪(結局は戦争で開催中止)の前には当時の世界記録を出すなどしたが、計4回(ストックホルム、ベルリン、アントワープ、パリ)(出場は3回、ベルリンは戦争で開催中止で出場していない)の五輪の機会では、地力はありながら(特にストックホルムとベルリン)メダルを獲得できず、「縁」がなかった・・・
こうしたオリンピック挑戦の間に、前述の箱根駅伝開催など日本陸上長距離競走の発展に大きく貢献・・・
現役引退後も日本陸上長距離競走の発展に尽力・・・
1967年、スウェーデン・ストックホルムのオリンピック委員会は、金栗は行方不明扱いで正式に途中棄権がされていないと完走することを要請・・・
金栗が完走すると「日本の金栗、ただいまゴールイン。タイム、54年と8ヶ月6日5時間32分20秒3、これをもって第5回ストックホルムオリンピックの全日程を終了します」とアナウンスされた。
1983年死去、92歳没