息子オイングスは白鳥となって恋愛成就
頼りがいがあり、ユーモラスなダグザ
多くの恋人がいて、何人もの子どもがいました
母であり、恋人のひとりだった川の女神ボアン
ボアンには夫がいましたが、ダグザの子どもオイングスを身ごもり、出産します
次の日に戻る予定のボアンの夫にこのことを隠すため、ダグザは太陽を静止させました
そして、9か月間という長きにわたって時間を止めることに成功したのです
こうして誕生した息子オイングスは、恋愛の神として成長します
容姿端麗なオイングスは、4羽のきらめく小鳥を連れていました
この小鳥は、人の胸に飛び込むことで恋の炎を燃え上がらせることができました
オイングス自身も、駆け落ちする男女を助けたり、異母兄ミディールの恋愛成就に一役買ったりと、さまざまな活躍をします
しかし、自分の恋心のコントロールは苦手だったオイングス
夢の中に現れた女性カエル・イヴォルベスに心を奪われますが、夢の中の人ではどうすることもできません
恋の病にとりつかれたオイングスは、ダグザたちに助けられてカエルを探し出します
白鳥の姿になることもあったカエル
オイングスはカエルを思うあまり、自分も白鳥に姿を変えてともに暮らすようになりました
ボアン:アイルランドのレンスター地方を流れているボイン川の女神とされる
川の名前ボインはボアンに由来する
恩恵、肥沃の象徴でもある
ダグザは女好きで子だくさん
【出典】『眠れなくなるほど面白い 図解 世界の神々』監修:鈴木悠介
(この記事は、ラブすぽの記事で作りました)
不倫を隠すために時間を止めるとは・・・凄い
ケルト神話の神・ダグザは女好きで子だくさんだったようです
このあたりはギリシア神話の神・ゼウスと似ています
関連記事:愛すべきケルト神話の大神「ダグザ」の大食いエピソードとは!?
眠れなくなるほど面白い 図解 世界の神々: 個性豊かで魅力たっぷり!神様のキャラクターを大解説 単行本
世界には様々な神話がある
各々の神話の特徴と神々のキャラクターを紹介
そこには、文化や死生観、宗教観、思想観などもうかがえる
2025年03月03日
三国志随一の美女 甄氏はなぜ死を命じられ、さらに辱められたのか?
三国志随一の美女・甄氏の誕生とその美貌
漢末の混乱期、中山郡毋極県(現在の河北省無極県)の名門・甄家に、後に「三国随一の美女」と称される女性が誕生した
彼女の名は甄氏(しんし)
本名は史書には伝わっていないが、後に魏の文昭皇后として歴史に名を残すことになる
甄氏は光和5年(183年)12月に生まれ、家族によれば「毎晩彼女が眠るたびに、まるで玉の衣がその身を包んでいるかのように見えた」という
これを聞いた人々は吉兆と捉えた
父の甄逸は上蔡県令を務めた地方の名士であったが、甄氏が3歳の時に亡くなり、幼い彼女は深い悲しみに沈んだ
その後、著名な相士・劉良が甄家を訪れて、彼女の面相を見ると「この子は将来、貴くなるだろう」と断言したという
成長するにつれ、甄氏の並外れた資質が明らかになっていった
8歳の頃、家の前で馬術の曲芸が披露されると、姉たちが興味津々に見物する中、彼女だけは冷静に座して「女子が見るべきものではない」と言い放った
その姿は、年齢を超えた品格がすでにあった
9歳になると読書に没頭して書を学んだ
兄から「女は機織りを学ぶものだ」とたしなめられると、「賢女は皆、歴史に学ぶものです」と返したという
184年、黄巾の乱が勃発すると、甄氏の聡明さが発揮されることとなる
当時、飢饉に苦しむ民衆たちは金銀財宝を売り払い、食料を確保しようとしていた
甄家はこの機に乗じて穀物を買い占めようとしたが、まだ十代半ばだった甄氏は母に進言した
「乱世に富を蓄えれば災いを招きます。それよりも困窮する人々を救い、徳を積むべきです」
この言葉に甄家は従い、蓄えていた穀物を民衆に施した
その結果、河北一帯を略奪の嵐が襲った際にも、恩義を感じた人々が甄家を守ったという
その美しさと知性、品格は、早くから河北全土に知れ渡っていた
建安年間になると、河北の雄・袁紹は、次男の袁熙(えんき)と甄氏の婚姻を決めた
人々は彼女を「天が授けた宝玉」と称賛した
肌は玉のように透き通り、柳の枝のようにしなやかな体躯、漆黒の瞳を持ち、「姿は驚鴻のごとく、游龍のごとし」と当時の記録にも残されている
袁熙の妻から曹丕の寵妃へ
しかし、建安9年(204年)、曹操軍が冀州の鄴城を攻略すると、彼女の運命は大きく変わることとなる
城が陥落した際、曹操の嫡子である曹丕(そうひ)は、いち早く袁家の屋敷に入り込んだ
そこでは、姑である劉夫人の膝に顔を伏せ、塵にまみれた甄氏の姿があったという
戦乱の混乱の中にあっても、その美しさは輝きを失わず、目にした曹丕の心を強く惹きつけた
『世説新語』には、曹丕が甄氏の乱れた髪を整え、顔の塵を拭う場面があり、この行為は単なる気まぐれではなく、彼女を手に入れたいという強い意志の表れとして描かれている
そして曹操もこの縁組を認め、甄氏は曹丕の側室となった
この婚姻の背景には、単なる個人的な情愛を超えた政治的な計算もあった
甄氏は袁紹の次男・袁熙の妻であり、袁氏は河北の有力な士族と深い関係を持っていた
そのため、彼女を迎え入れることは、袁氏の旧臣や河北の名族の心をつなぎとめる上でも、有効な手段と考えられたのである
しかし、この決断は倫理的な問題を孕んでいた
後世の逸話では、孔融が「武王が殷を滅ぼし、妲己を周公に与えた」と皮肉ったと伝えられる
いずれにせよ、敵将の妻を娶る行為は、当時の儒教的価値観から見ても異例のことであった
宮廷での栄華と失寵
こうして甄氏は曹丕の寵妃となり、建安21年(216年)までに曹叡(そうえい : 後の明帝)と、娘の東郷公主(とうきょうこうしゅ)を出産した
その後も甄氏は、曹丕に側室を迎えるよう勧めるなど、理想的な后妃としての振る舞いを見せていた
また、建安22年(217年)、義母である卞夫人が病床に伏せると、甄氏は昼夜を問わず看病し「真の孝婦」と評された
この頃の彼女は、曹操からも高く評価され、建安13年(208年)には夭折した曹沖の冥婚相手として甄家の娘が選ばれるなど、甄家と曹氏との結びつきは深まっていた
しかし、曹丕が皇帝に即位すると、甄氏の立場は一変してしまう
延康元年(220年)、曹操の死を受け、曹丕が魏王の座を継ぎ、まもなく魏の皇帝となると、宮廷内の勢力関係が大きく動き始めた
新たに郭貴嬪、李貴人、陰貴人といった側室たちが台頭し、甄氏の影は次第に薄くなっていったのだ
特に郭貴嬪(後の文徳郭皇后)は曹丕の寵愛を受けるようになり、甄氏との関係は決して良好ではなかったとされる
『漢晋春秋』には、甄氏が「新たな后妃たちが皇室の血を汚している」と発言したとされ、それを郭貴嬪が「皇帝を批判する謀反の言葉」として曹丕に報告したという記述がある
しかし、後世の歴史家で『三国志』に「注」を付した裴松之(はいしょうし)は、これを「誇張の可能性がある」と指摘しており、郭貴嬪の関与の程度については不明な点も多い
とはいえ、甄氏が冷遇されるようになった背景には、郭貴嬪ら新たな寵妃の存在が、少なからず影響していたことは確かだろう
賜死を命じられる
黄初2年(221年)6月、甄氏は「怨言を発した」との理由で、曹丕から賜死(しし)を命じられる
※賜死とは、皇帝が臣下に死を命じることで、毒酒や白綾(首を吊る布)を下賜され、自害を強制される
しかし、これは口実の一つで、政治的な理由も大きく関わっていたと考えられている
まず、甄氏の兄・甄儼がかつて袁紹の重臣だったことが問題視された
曹魏の新政権にとって、袁紹の旧臣との繋がりは潜在的な脅威とみなされていたのだ
次に、甄氏の息子・曹叡が15歳になる頃、「彼は本当に曹丕の子なのか?」という疑念が、宮廷内でささやかれ始めた
曹叡は、袁熙の妻だった甄氏が生んだ子であるため、「実は袁熙の子なのではないか?」という噂が絶えなかったのだ
さらに、甄氏の出身である河北の名門士族は、かつて曹操が勢力を広げる際には重要な役割を果たしたが、魏の皇帝となった曹丕にとっては、自身の権力を強化する上で邪魔な存在となりつつあった
そのため、甄氏を排除することで、河北士族の力を削ぐ狙いがあったと考えられる
死後の屈辱
甄氏の死は、単なる賜死にとどまらず、政治的な意味を持つ儀式的なものだった
彼女の亡骸は「髪を乱し、顔を覆い、糠で口を塞ぐ」という屈辱的な形で処理された
この異常な扱いには、三つの意図が込められていたとされる
第一に、怨霊が祟るのを防ぐための呪術的な処置
第二に、外戚の影響力を排除するための示威行為
第三に、彼女を皇后の資格すらない存在として扱うことで、その名を歴史から抹消しようとする試み
これはかつて、漢の呂后が戚夫人に対して行った無惨な処刑と同様に、見せしめの意味合いが強かった
しかし、甄氏の存在は決して消えることはなかった
彼女の息子・曹叡が即位すると、すぐに「文昭皇后」の諡号が贈られ、太和4年(230年)には大規模な改葬が行われた
曹叡の即位に関しては、先述したようにその血統を疑問視する声もあった
しかし曹叡は聡明で学問にも優れ、曹丕からも高く評価されていたため、黄初7年(226年)に曹丕が崩御すると、順当に後継者として帝位に就いた
『魏書』によると、改葬の際に「天子羨思慈親(天子は母を偲ぶ)」と刻まれた玉璽が納められたとされる
これは、曹叡が母の名誉を回復し、「聖母伝説」を築こうとした象徴的な行為だった
さらに、曹叡は甄氏の甥である甄像を伏波将軍に任命し、甄家の一族を次々と要職に登用することで、母の名を魏王朝に刻み込もうとした
また、曹叡の行動には母への追慕だけでなく、郭皇太后への強い恨みもあったようだ
『漢晋春秋』によれば、曹叡は郭皇太后が甄氏の死に関与したと考え、彼女を快く思っていなかったという
甄氏が臨終の際、「息子を李夫人に託す」と言い残していたこともあり、曹叡と郭皇太后の関係は良好ではなかった
青龍3年(235年)、郭皇太后が崩御すると、曹叡は彼女の遺体を甄氏と同じように「髪を乱し、顔を覆い、糠で口を塞ぐ」形で扱わせたという
これは母の死に対する報復であり、曹叡は母の正統性を再確認するとともに復讐を果たしたのだった
そして皮肉にも、曹丕が恐れていた「外戚の権勢」は、甄氏の死後に実現してしまう
魏晋時代を通じて、甄家は「皇后の実家」として影響力を持ち続け、西晋の成立にも関与することになる
甄氏を抹消しようとした試みは、逆に彼女の名を歴史に刻み込む結果となったのである
参考 : 『正史 三国志』『漢晋春秋』『魏書』他
文 / 草の実堂編集部
(この記事は、草の実堂の記事で作りました)
三国志随一の美女』甄氏は死を命じられ、さらに辱められた
彼女も政治・権力の「道具」にすぎなかった
しかし、その後に名誉回復、復讐を結果的に果たすことに・・・
皮肉ともいえる「結果」で、人間学の奥深さかもしれない
ビジネスに効く教養としての中国古典 単行本
中国古典には現代にも通じる多くの叡智が詰まっている
ビジネスや実生活に応用できる
特に守屋洋氏の著作は平易でわかりやすく私も愛読しているものが多い
実践的だ
漢末の混乱期、中山郡毋極県(現在の河北省無極県)の名門・甄家に、後に「三国随一の美女」と称される女性が誕生した
彼女の名は甄氏(しんし)
本名は史書には伝わっていないが、後に魏の文昭皇后として歴史に名を残すことになる
甄氏は光和5年(183年)12月に生まれ、家族によれば「毎晩彼女が眠るたびに、まるで玉の衣がその身を包んでいるかのように見えた」という
これを聞いた人々は吉兆と捉えた
父の甄逸は上蔡県令を務めた地方の名士であったが、甄氏が3歳の時に亡くなり、幼い彼女は深い悲しみに沈んだ
その後、著名な相士・劉良が甄家を訪れて、彼女の面相を見ると「この子は将来、貴くなるだろう」と断言したという
成長するにつれ、甄氏の並外れた資質が明らかになっていった
8歳の頃、家の前で馬術の曲芸が披露されると、姉たちが興味津々に見物する中、彼女だけは冷静に座して「女子が見るべきものではない」と言い放った
その姿は、年齢を超えた品格がすでにあった
9歳になると読書に没頭して書を学んだ
兄から「女は機織りを学ぶものだ」とたしなめられると、「賢女は皆、歴史に学ぶものです」と返したという
184年、黄巾の乱が勃発すると、甄氏の聡明さが発揮されることとなる
当時、飢饉に苦しむ民衆たちは金銀財宝を売り払い、食料を確保しようとしていた
甄家はこの機に乗じて穀物を買い占めようとしたが、まだ十代半ばだった甄氏は母に進言した
「乱世に富を蓄えれば災いを招きます。それよりも困窮する人々を救い、徳を積むべきです」
この言葉に甄家は従い、蓄えていた穀物を民衆に施した
その結果、河北一帯を略奪の嵐が襲った際にも、恩義を感じた人々が甄家を守ったという
その美しさと知性、品格は、早くから河北全土に知れ渡っていた
建安年間になると、河北の雄・袁紹は、次男の袁熙(えんき)と甄氏の婚姻を決めた
人々は彼女を「天が授けた宝玉」と称賛した
肌は玉のように透き通り、柳の枝のようにしなやかな体躯、漆黒の瞳を持ち、「姿は驚鴻のごとく、游龍のごとし」と当時の記録にも残されている
袁熙の妻から曹丕の寵妃へ
しかし、建安9年(204年)、曹操軍が冀州の鄴城を攻略すると、彼女の運命は大きく変わることとなる
城が陥落した際、曹操の嫡子である曹丕(そうひ)は、いち早く袁家の屋敷に入り込んだ
そこでは、姑である劉夫人の膝に顔を伏せ、塵にまみれた甄氏の姿があったという
戦乱の混乱の中にあっても、その美しさは輝きを失わず、目にした曹丕の心を強く惹きつけた
『世説新語』には、曹丕が甄氏の乱れた髪を整え、顔の塵を拭う場面があり、この行為は単なる気まぐれではなく、彼女を手に入れたいという強い意志の表れとして描かれている
そして曹操もこの縁組を認め、甄氏は曹丕の側室となった
この婚姻の背景には、単なる個人的な情愛を超えた政治的な計算もあった
甄氏は袁紹の次男・袁熙の妻であり、袁氏は河北の有力な士族と深い関係を持っていた
そのため、彼女を迎え入れることは、袁氏の旧臣や河北の名族の心をつなぎとめる上でも、有効な手段と考えられたのである
しかし、この決断は倫理的な問題を孕んでいた
後世の逸話では、孔融が「武王が殷を滅ぼし、妲己を周公に与えた」と皮肉ったと伝えられる
いずれにせよ、敵将の妻を娶る行為は、当時の儒教的価値観から見ても異例のことであった
宮廷での栄華と失寵
こうして甄氏は曹丕の寵妃となり、建安21年(216年)までに曹叡(そうえい : 後の明帝)と、娘の東郷公主(とうきょうこうしゅ)を出産した
その後も甄氏は、曹丕に側室を迎えるよう勧めるなど、理想的な后妃としての振る舞いを見せていた
また、建安22年(217年)、義母である卞夫人が病床に伏せると、甄氏は昼夜を問わず看病し「真の孝婦」と評された
この頃の彼女は、曹操からも高く評価され、建安13年(208年)には夭折した曹沖の冥婚相手として甄家の娘が選ばれるなど、甄家と曹氏との結びつきは深まっていた
しかし、曹丕が皇帝に即位すると、甄氏の立場は一変してしまう
延康元年(220年)、曹操の死を受け、曹丕が魏王の座を継ぎ、まもなく魏の皇帝となると、宮廷内の勢力関係が大きく動き始めた
新たに郭貴嬪、李貴人、陰貴人といった側室たちが台頭し、甄氏の影は次第に薄くなっていったのだ
特に郭貴嬪(後の文徳郭皇后)は曹丕の寵愛を受けるようになり、甄氏との関係は決して良好ではなかったとされる
『漢晋春秋』には、甄氏が「新たな后妃たちが皇室の血を汚している」と発言したとされ、それを郭貴嬪が「皇帝を批判する謀反の言葉」として曹丕に報告したという記述がある
しかし、後世の歴史家で『三国志』に「注」を付した裴松之(はいしょうし)は、これを「誇張の可能性がある」と指摘しており、郭貴嬪の関与の程度については不明な点も多い
とはいえ、甄氏が冷遇されるようになった背景には、郭貴嬪ら新たな寵妃の存在が、少なからず影響していたことは確かだろう
賜死を命じられる
黄初2年(221年)6月、甄氏は「怨言を発した」との理由で、曹丕から賜死(しし)を命じられる
※賜死とは、皇帝が臣下に死を命じることで、毒酒や白綾(首を吊る布)を下賜され、自害を強制される
しかし、これは口実の一つで、政治的な理由も大きく関わっていたと考えられている
まず、甄氏の兄・甄儼がかつて袁紹の重臣だったことが問題視された
曹魏の新政権にとって、袁紹の旧臣との繋がりは潜在的な脅威とみなされていたのだ
次に、甄氏の息子・曹叡が15歳になる頃、「彼は本当に曹丕の子なのか?」という疑念が、宮廷内でささやかれ始めた
曹叡は、袁熙の妻だった甄氏が生んだ子であるため、「実は袁熙の子なのではないか?」という噂が絶えなかったのだ
さらに、甄氏の出身である河北の名門士族は、かつて曹操が勢力を広げる際には重要な役割を果たしたが、魏の皇帝となった曹丕にとっては、自身の権力を強化する上で邪魔な存在となりつつあった
そのため、甄氏を排除することで、河北士族の力を削ぐ狙いがあったと考えられる
死後の屈辱
甄氏の死は、単なる賜死にとどまらず、政治的な意味を持つ儀式的なものだった
彼女の亡骸は「髪を乱し、顔を覆い、糠で口を塞ぐ」という屈辱的な形で処理された
この異常な扱いには、三つの意図が込められていたとされる
第一に、怨霊が祟るのを防ぐための呪術的な処置
第二に、外戚の影響力を排除するための示威行為
第三に、彼女を皇后の資格すらない存在として扱うことで、その名を歴史から抹消しようとする試み
これはかつて、漢の呂后が戚夫人に対して行った無惨な処刑と同様に、見せしめの意味合いが強かった
しかし、甄氏の存在は決して消えることはなかった
彼女の息子・曹叡が即位すると、すぐに「文昭皇后」の諡号が贈られ、太和4年(230年)には大規模な改葬が行われた
曹叡の即位に関しては、先述したようにその血統を疑問視する声もあった
しかし曹叡は聡明で学問にも優れ、曹丕からも高く評価されていたため、黄初7年(226年)に曹丕が崩御すると、順当に後継者として帝位に就いた
『魏書』によると、改葬の際に「天子羨思慈親(天子は母を偲ぶ)」と刻まれた玉璽が納められたとされる
これは、曹叡が母の名誉を回復し、「聖母伝説」を築こうとした象徴的な行為だった
さらに、曹叡は甄氏の甥である甄像を伏波将軍に任命し、甄家の一族を次々と要職に登用することで、母の名を魏王朝に刻み込もうとした
また、曹叡の行動には母への追慕だけでなく、郭皇太后への強い恨みもあったようだ
『漢晋春秋』によれば、曹叡は郭皇太后が甄氏の死に関与したと考え、彼女を快く思っていなかったという
甄氏が臨終の際、「息子を李夫人に託す」と言い残していたこともあり、曹叡と郭皇太后の関係は良好ではなかった
青龍3年(235年)、郭皇太后が崩御すると、曹叡は彼女の遺体を甄氏と同じように「髪を乱し、顔を覆い、糠で口を塞ぐ」形で扱わせたという
これは母の死に対する報復であり、曹叡は母の正統性を再確認するとともに復讐を果たしたのだった
そして皮肉にも、曹丕が恐れていた「外戚の権勢」は、甄氏の死後に実現してしまう
魏晋時代を通じて、甄家は「皇后の実家」として影響力を持ち続け、西晋の成立にも関与することになる
甄氏を抹消しようとした試みは、逆に彼女の名を歴史に刻み込む結果となったのである
参考 : 『正史 三国志』『漢晋春秋』『魏書』他
文 / 草の実堂編集部
(この記事は、草の実堂の記事で作りました)
三国志随一の美女』甄氏は死を命じられ、さらに辱められた
彼女も政治・権力の「道具」にすぎなかった
しかし、その後に名誉回復、復讐を結果的に果たすことに・・・
皮肉ともいえる「結果」で、人間学の奥深さかもしれない
ビジネスに効く教養としての中国古典 単行本
中国古典には現代にも通じる多くの叡智が詰まっている
ビジネスや実生活に応用できる
特に守屋洋氏の著作は平易でわかりやすく私も愛読しているものが多い
実践的だ