中国史には「紅顔禍水」と呼ばれる女性が多く登場する
「紅顔」とは美人のことを指し、「禍水」は災いを引き起こす人やものを指す
つまり、「美人は災いのもと」という意味である。
その中でも春秋時代の女性、夏姫(かき)は群を抜いている
彼女の人生は波乱に満ちており、息子1人、夫3人、君主1人、さらに大臣2人が彼女の影響で死や逃亡に追いやられた
最終的に一国が滅亡し、その余波は周辺諸国の勢力図を揺るがし、歴史的にも多大な影響を及ぼした
そのため、彼女は「史上最強の紅顔禍水」として知られ、その波乱の生涯は『春秋左氏伝』や『列女伝』といった歴史書にも記録されている
ここでは史実に基づき、夏姫が引き起こした事件や、その影響で運命を狂わされた人々、国の滅亡に至る経緯を掘り下げていく
夏姫の出自
古代中国、春秋時代は混乱と動乱の象徴ともいえる時代であった
紀元前8世紀から紀元前5世紀にかけて、周王朝の衰退に伴い、諸侯たちが覇権を競い合い、国家間の争いが繰り広げられた
彼女は春秋時代の鄭国第十一代君主・穆公(ぼくこう)の娘であり、その美貌はまさに「傾国の美女」にふさわしいほど圧倒的だったという
後に彼女は、陳国の大夫である夏御叔(か ぎょしゅく)と結婚し、息子の夏徴舒(か ちょうじょ)をもうけた
しかし、夫の夏御叔は若くして亡くなり(夏姫が殺したとも)、未亡人となった夏姫は陳国の大夫・孔寧(こうねい)、儀行父(ぎこうほ)、さらには陳の君主・霊公とも関係を持つようになった
ある日、彼ら3人はよほど有頂天だったのか、夏姫の衣服を身にまとって朝廷内で戯れていたという
それを大夫の洩冶(しょうや)が目撃し、「君主が不善を行うなら、それを隠すのが臣下の役目であろう。それを率先して公開し、朝廷で戯れるとは何たることか!」と諫言した
孔寧と儀行父はこの言葉を霊公に告げると、洩冶は捕えられて殺害されてしまった
翌年、霊公は孔寧、儀行父と共に、夏氏の家で酒宴を開いた
その席で、霊公たちは冗談交じりに語り合った
霊公が「夏徴舒(夏姫の息子)は、お前たちに似ているな」と言うと、孔寧たちは「いやいや、霊公にも似ていますよ」と答え、場は笑いに包まれた
しかし、この冗談を耳にした夏徴舒は激怒した
彼にとって、この言葉は父や母を侮辱されただけでなく、自身の誇りを傷つけられるものだったのだろう
翌朝、霊公が夏氏の邸から退出する際、夏徴舒は馬小屋に身を潜め、待ち伏せていた
そして、霊公に向かって矢を放ち、射殺してしまったのである
この事件の後、孔寧と儀行父は楚に逃亡し、霊公の太子である嬀午(ぎご)は、晋に亡命した
そして夏徴舒は自ら「陳侯」と名乗ったのである
夏姫を巡る諸侯たちの争い
夏徴舒の暴挙により陳の霊公が命を落としたことで、陳国内の秩序は崩壊
陳国の後継者を巡る問題は、列強諸国を巻き込む大きな争いへと発展していった
事件後の紀元前598年、陳国の内乱を鎮めるべく、楚の荘王(そうおう)が軍を率いて陳国に進軍した
荘王はこの時、単に秩序の回復を目的としたのではなく、陳国そのものを楚の勢力下に置くことを狙っていた
夏徴舒を捕らえ、厳刑に処した後、荘王は亡命していた霊公の太子・嬀午を晋から呼び戻し、陳の君主として即位させた
これにより、表向きは陳の秩序は回復したように見えたが、実際には楚の影響力が強まり、陳は楚の属国のような立場に置かれることになった
一方で夏姫自身も、楚の荘王の目に留まる存在となっていた
彼女の美貌は荘王をも虜にし「楚に連れ帰りたい」という誘惑を抱かせるほどだったのだ
しかし、荘王に仕える臣下・巫臣(ふしん)は、これを諫めた
「夏姫は災いを呼ぶ女であり、その美貌によってすでに陳国は滅亡寸前です。彼女を取り込むことは、楚国に新たな禍を招くことになるでしょう」
荘王は、この巫臣の言葉を受け入れ、夏姫を楚に連れ帰ることを断念した
それでもなお、夏姫を巡る争いは続いた
荘王が夏姫を手放すことを決めた後、楚の将軍・子反(しはん)が彼女を妻に迎えようとしたのである
これに対し、巫臣が再び諫めた
巫臣は以下のように述べた
是不祥人也,是夭子蠻,殺御叔,弒靈侯,戮夏南,出孔儀,喪陳國,何不祥如是,人生實難,其有不獲死乎,天下多美婦人,何必是
意訳 : 「夏姫は非常に不吉な女性です。彼女のせいで子蠻(御叔)が若くして命を落とし、霊公が殺され、夏南が殺されました。また、孔寧や儀行父は国から追放され、陳国は滅亡に追いやられました。これほどの不吉をもたらす女性が他にいるでしょうか。世の中には美しい女性がたくさんいるというのに、なぜこの女性にこだわるのですか?」
『春秋左氏伝』より引用
子反はこれを聞き、夏姫を娶ることをやめた
最終的には楚の別の将軍・襄老(じょうろう)が、夏姫を娶った
しかし襄老は、紀元前597年に楚と晋が激突した「邲(ひつ)の戦い」で、戦死してしまうのである
密かに夏姫を狙っていた男
襄老の死後、彼の遺体は晋軍に奪われたまま戻らず、夏姫は楚の荘王に遺体の返還を懇願した
荘王は彼女の願いを受け入れて交渉を開始したが、晋との交渉は難航し、遺体を取り戻すことは叶わなかった
このような中で、夏姫に新たな男が現れた
なんとその人物は荘王や子反を諌めた、あの巫臣(ふしん)だった
巫臣は以前、夏姫を「不吉な女性」として厳しく批判し、荘王や子反が彼女を娶ることを思いとどまらせていた
しかし、いつしか彼自身が夏姫の美貌に魅了され、妻とすることを強く望むようになっていた
もしかすると巫臣は、最初から夏姫を手に入れるために、荘王や子反を諌めるという策を巡らせていたのかもしれない
巫臣は楚を離れ、夏姫を伴って亡命する計画を立てた
彼は荘王を説得し、夏姫を一時的に故郷である鄭に帰すことを提案した
荘王はこの案を受け入れ、夏姫は鄭国に送り返されたが、実際にはこれは逃亡計画の一環であった
巫臣はその後、夏姫と共に鄭を経由し、最終的には晋国へと逃亡したのである
この行動により、巫臣は楚の王室を完全に裏切る形となった
巫臣の裏切りに激怒した楚の王室は、彼の一族に厳しい報復を行った
巫臣の親族たちは捕らえられて処罰されてしまったのだ
歴史を変えた美貌
巫臣は、楚を裏切り晋へ亡命した後、晋と呉の国交樹立に尽力した
さらに巫臣は、呉に戦車の運用法や軍事戦術を伝授し、自らの子を外交官として呉に送り込むことで、その基盤を支えた
こうして呉は、軍事力と外交力を兼ね備えた強国へと成長していくのである
その結果、呉は後の世において楚を脅かす存在となり、ついには楚を滅亡寸前にまで追い込む強国へと台頭するのである
歴史において、女性の存在がこれほどまでに大きな変革をもたらした事例は珍しい
もし夏姫がいなければ、呉が楚に対抗する強国へと成長する道筋は大きく異なっていただろう
夏姫は、単に「紅顔禍水」だけの人物ではない
彼女の存在は、古代中国における国家間の力学にすら影響を及ぼしたのだ
参考 : 『春秋左氏伝』『列女伝』他
文 / 草の実堂編集部
(この記事は、草の実堂の記事で作りました)
中国史上に名を残した女性は、妲己、楊貴妃、呂后、則天武后、西太后などいるが、本記事の夏姫も国家間の力学にすら影響を及ぼした前記の女性に劣らぬ人物だ
絶世の美女は時に「恐ろしい」「凄い」一面も
中国列女伝: 三千年の歴史のなかで (中公新書 166) 新書
中国は儒教の影響もあったのか男尊女卑の時代も
そうした時代背景の中力強く生きた女性をピックアップ
2025年02月08日
NY株は4日ぶりに反落し大幅下落・ナスダックも大きく下落、日経平均株価は4日ぶりに反落
7日(現地時間)のNY株(ダウ平均株価)は、続落し、終値は前日比444ドル23セント安の4万4303ドル40セント、トランプ米大統領が7日、米国の関税率に関して、貿易相手国と同じ水準となるよう引き上げる方針を示唆したと報じられた、貿易の混乱やインフレ(物価上昇)への懸念が強まり、スポーツ用品大手ナイキやネット通販大手アマゾン・ドット・コムなど幅広い銘柄が売られた
ハイテク株中心のナスダックは268.59ポイント安の1万9523.40
S&P500は57.58ポイント安の6025.99
7日(日本時間)の日経平均株価は4日ぶりに反落し、終値は前日比279円51銭安の3万8787円02銭、外国為替市場での円高・ドル安進行が輸出関連株の重荷となったほか、決算発表を受けて値がさの東エレクが大幅安となり、日経平均の下げ幅は一時300円を超えた
(この記事は、ネットニュースの記事で作りました)
7日のダウ平均株価の終値は前日比440ドル超の大幅下落
ナスダックも大きく下落
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S&P500は57.58ポイント安の6025.99
7日(日本時間)の日経平均株価は4日ぶりに反落し、終値は前日比279円51銭安の3万8787円02銭、外国為替市場での円高・ドル安進行が輸出関連株の重荷となったほか、決算発表を受けて値がさの東エレクが大幅安となり、日経平均の下げ幅は一時300円を超えた
(この記事は、ネットニュースの記事で作りました)
7日のダウ平均株価の終値は前日比440ドル超の大幅下落
ナスダックも大きく下落
【中世ヨーロッパの騎士道】切っても切れない人馬の関係とは
西洋中世の華麗な騎士たち
彼らが仕え守るべき存在である貴婦人、そして騎士文化を陰で支えた「馬」
騎士が馬に跨らずにいる姿など、想像することは難しいでしょう
まるで人類の歴史を共に歩んできたかのように、常に人間のそばに寄り添ってきた「馬」という存在が、いかにして騎士たちの相棒として欠かせないものとなったのか
その過程を紐解いていきます
馬と人の黎明期
馬が家畜化されたのは、紀元前4000年紀に、シベリア南部から黒海北部にかけて広がるステップ地帯からだとされています
それ以降、馬は農業や商業、軍事において重要な役割を果たし、文明や文化の発展にも多大な貢献をしていきました
西洋では、古代からギリシャ人やローマ人、ビザンツ人がすでに馬を利用していました
その用途は輸送や戦争に限らず、情報の伝達や戦車競走など多岐にわたっていました
しかし、この時代の馬と戦士の関係は、中世の騎士たちが築いたような密接なものではありませんでした
その理由として、重い甲冑を身に着けた戦士を支えるためには、重量に耐えられる頑丈な馬が必要だったことに加え、武器を使いこなしながら馬を巧みに操るための様々な道具の開発が必要だったからです
ヨーロッパ原産の馬ではヨーロッパで戦えなかった
8世紀に入ると、ヨーロッパにおける騎兵の重要性が広く認識される転機が訪れました
そのきっかけとなったのが、723年のトゥール・ポワティエ間の戦いです
この戦いでは、フランク王国の宮宰カール・マルテルが率いる連合軍が、イスラム帝国ウマイヤ朝の侵攻を迎え撃ちました
カールの軍は歩兵隊を中心に堅固な陣形を築き、侵攻を撃退することに成功します
しかし、イスラム側の騎兵隊が縦横無尽に動き回り、フランク軍の歩兵を翻弄したことで、カールは騎兵の重要性を痛感しました
そこでカールは、フランク王国における騎兵隊の創設に着手します
ですが、課題は軍事目的に耐えうる馬の確保でした
当時のヨーロッパ原産の馬は小型で、重装備の戦士を支えるには力不足だったのです
そこで、アラブ世界を経由して中央アジアやアフリカ原産の、大型で丈夫な馬が初めてヨーロッパに導入されました
これらの馬は重武装の騎士を支えるのに適していましたが、安定した供給を実現するためには、長期間にわたる飼育や交配の努力が必要でした
8世紀から9世紀にかけて在位したカール大帝も、この課題に高い関心を寄せ、馬の育種や管理に力を入れました
このようにして、騎兵の強化が進められ、馬は軍事だけでなくヨーロッパ文化の中でさらに重要な役割を担うようになったのです
騎士の時代
やがて騎士の時代が訪れると、それに伴いさらに大型の馬への需要が高まっていきました
騎士が身に着ける甲冑は次第に重量化し、それに対応するために、馬も大きな鞍や鉄製の装飾馬具を装備するようになったからです
重武装した騎士と馬具の総重量は軽く100kgを超え、12世紀には約170kg、16世紀にはなんと約220kgに達しました
当然、これを支える馬には、高い耐久性と筋力が求められます
しかし、馬は単なる運搬役や戦いの道具ではありませんでした
騎士にとって馬は、理想を達成するための相棒であり、かけがえのない仲間だったのです
戦場や狩り、そして馬上槍試合であるトーナメントなど、騎士と馬は常に行動を共にしました
それを可能にするのは、騎士が日常的に馬を世話し、語りかけ、深い愛情を注ぐことで築かれる信頼関係でした
また、馬は騎士の社会的地位を象徴する存在でもありました
その姿から騎士の素性や美徳が評価される一方で、馬を失うことや、下馬して戦わざるを得ない状況は、騎士にとって屈辱的なこととされました
このように、騎士にとっての馬は、単なる支配下の動物ではなく、共に目標を追い、信頼を築く存在でした
それは聖書「創世記」第一章二十八節に描かれる「人間が動物を支配する」関係とは、一線を画すものであったと言えるでしょう
愛すべき馬たち
忠実なしもべであり、共に戦う仲間であり、友でもある馬には、その主の思いや特徴を表す個性的な名前が付けられていました
フランス最古の叙事詩『ロランの歌』には、そうした馬たちの名が数多く登場しています
たとえば、勇将ロランの愛馬は「ヴェイヤンティフ」と呼ばれ、その名は勇敢さや雄々しさを意味します
また、カール大帝の馬には灰白色を意味する「タンサンデュール」、ジェレールの馬には鹿を追い越すという意味の「パスセルフ」という名が付けられており、それぞれの馬にふさわしい個性を反映したものとなっています
馬がこの世を去る際には、騎士たちは深い悲しみに包まれました
その心情は中世の文学においても感動的に描かれています
12世紀末から13世紀初頭にかけてロレーヌ地域で綴られた武勲詩『ジュルベール・ド・メス』では、愛馬フロリが瀕死の状態に陥った場面が記されています
主である騎士は嘆き悲しみながらも、愛する馬が敵の手に落ちず、自分のそばで息絶えることが唯一の慰めであると語ります
彼は愛馬の生き生きとした仕草や、遠く離れていても耳に届いた大きな嘶きを思い返しながら、その英雄的な最期を称えました
このように騎士と馬の物語を例に紐解くと、人類の歴史とは決して人間だけで作られてきたものではないと、感じ入ることができるのではないでしょうか
参考文献:『図説 騎士の世界』/池上 俊一(著)
文 / 草の実堂編集部
(この記事は、草の実堂の記事で作りました)
本記事を読んだり、ヨーロッパにおける人馬の関係の歴史を振り返ると、人と馬の関係のヨーロッパでの深さを感じる
それはヨーロッパ競馬の強さ、奥深さにも通じる
人馬の関係の深さはモンゴルなども深いが、こと競馬ではヨーロッパが深い
新装版 図説 騎士の世界 (ふくろうの本) 単行本(ソフトカバー)
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中世ヨーロッパを彩る騎士の世界を多角的に紹介
彼らが仕え守るべき存在である貴婦人、そして騎士文化を陰で支えた「馬」
騎士が馬に跨らずにいる姿など、想像することは難しいでしょう
まるで人類の歴史を共に歩んできたかのように、常に人間のそばに寄り添ってきた「馬」という存在が、いかにして騎士たちの相棒として欠かせないものとなったのか
その過程を紐解いていきます
馬と人の黎明期
馬が家畜化されたのは、紀元前4000年紀に、シベリア南部から黒海北部にかけて広がるステップ地帯からだとされています
それ以降、馬は農業や商業、軍事において重要な役割を果たし、文明や文化の発展にも多大な貢献をしていきました
西洋では、古代からギリシャ人やローマ人、ビザンツ人がすでに馬を利用していました
その用途は輸送や戦争に限らず、情報の伝達や戦車競走など多岐にわたっていました
しかし、この時代の馬と戦士の関係は、中世の騎士たちが築いたような密接なものではありませんでした
その理由として、重い甲冑を身に着けた戦士を支えるためには、重量に耐えられる頑丈な馬が必要だったことに加え、武器を使いこなしながら馬を巧みに操るための様々な道具の開発が必要だったからです
ヨーロッパ原産の馬ではヨーロッパで戦えなかった
8世紀に入ると、ヨーロッパにおける騎兵の重要性が広く認識される転機が訪れました
そのきっかけとなったのが、723年のトゥール・ポワティエ間の戦いです
この戦いでは、フランク王国の宮宰カール・マルテルが率いる連合軍が、イスラム帝国ウマイヤ朝の侵攻を迎え撃ちました
カールの軍は歩兵隊を中心に堅固な陣形を築き、侵攻を撃退することに成功します
しかし、イスラム側の騎兵隊が縦横無尽に動き回り、フランク軍の歩兵を翻弄したことで、カールは騎兵の重要性を痛感しました
そこでカールは、フランク王国における騎兵隊の創設に着手します
ですが、課題は軍事目的に耐えうる馬の確保でした
当時のヨーロッパ原産の馬は小型で、重装備の戦士を支えるには力不足だったのです
そこで、アラブ世界を経由して中央アジアやアフリカ原産の、大型で丈夫な馬が初めてヨーロッパに導入されました
これらの馬は重武装の騎士を支えるのに適していましたが、安定した供給を実現するためには、長期間にわたる飼育や交配の努力が必要でした
8世紀から9世紀にかけて在位したカール大帝も、この課題に高い関心を寄せ、馬の育種や管理に力を入れました
このようにして、騎兵の強化が進められ、馬は軍事だけでなくヨーロッパ文化の中でさらに重要な役割を担うようになったのです
騎士の時代
やがて騎士の時代が訪れると、それに伴いさらに大型の馬への需要が高まっていきました
騎士が身に着ける甲冑は次第に重量化し、それに対応するために、馬も大きな鞍や鉄製の装飾馬具を装備するようになったからです
重武装した騎士と馬具の総重量は軽く100kgを超え、12世紀には約170kg、16世紀にはなんと約220kgに達しました
当然、これを支える馬には、高い耐久性と筋力が求められます
しかし、馬は単なる運搬役や戦いの道具ではありませんでした
騎士にとって馬は、理想を達成するための相棒であり、かけがえのない仲間だったのです
戦場や狩り、そして馬上槍試合であるトーナメントなど、騎士と馬は常に行動を共にしました
それを可能にするのは、騎士が日常的に馬を世話し、語りかけ、深い愛情を注ぐことで築かれる信頼関係でした
また、馬は騎士の社会的地位を象徴する存在でもありました
その姿から騎士の素性や美徳が評価される一方で、馬を失うことや、下馬して戦わざるを得ない状況は、騎士にとって屈辱的なこととされました
このように、騎士にとっての馬は、単なる支配下の動物ではなく、共に目標を追い、信頼を築く存在でした
それは聖書「創世記」第一章二十八節に描かれる「人間が動物を支配する」関係とは、一線を画すものであったと言えるでしょう
愛すべき馬たち
忠実なしもべであり、共に戦う仲間であり、友でもある馬には、その主の思いや特徴を表す個性的な名前が付けられていました
フランス最古の叙事詩『ロランの歌』には、そうした馬たちの名が数多く登場しています
たとえば、勇将ロランの愛馬は「ヴェイヤンティフ」と呼ばれ、その名は勇敢さや雄々しさを意味します
また、カール大帝の馬には灰白色を意味する「タンサンデュール」、ジェレールの馬には鹿を追い越すという意味の「パスセルフ」という名が付けられており、それぞれの馬にふさわしい個性を反映したものとなっています
馬がこの世を去る際には、騎士たちは深い悲しみに包まれました
その心情は中世の文学においても感動的に描かれています
12世紀末から13世紀初頭にかけてロレーヌ地域で綴られた武勲詩『ジュルベール・ド・メス』では、愛馬フロリが瀕死の状態に陥った場面が記されています
主である騎士は嘆き悲しみながらも、愛する馬が敵の手に落ちず、自分のそばで息絶えることが唯一の慰めであると語ります
彼は愛馬の生き生きとした仕草や、遠く離れていても耳に届いた大きな嘶きを思い返しながら、その英雄的な最期を称えました
このように騎士と馬の物語を例に紐解くと、人類の歴史とは決して人間だけで作られてきたものではないと、感じ入ることができるのではないでしょうか
参考文献:『図説 騎士の世界』/池上 俊一(著)
文 / 草の実堂編集部
(この記事は、草の実堂の記事で作りました)
本記事を読んだり、ヨーロッパにおける人馬の関係の歴史を振り返ると、人と馬の関係のヨーロッパでの深さを感じる
それはヨーロッパ競馬の強さ、奥深さにも通じる
人馬の関係の深さはモンゴルなども深いが、こと競馬ではヨーロッパが深い
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中世ヨーロッパを彩る騎士の世界を多角的に紹介