2025年02月03日

【量子力学の社会進出】量子にしかできない「芸」とは?

量子が量子にしかできない「芸」を見せはじめた!

量子力学はここ15年を経て進展し、さらにこれからの20年ほどで大きく変わっていくと思います
それは「量子力学の社会進出」です

物理学者はこれまで「ふしぎな現実」である量子の世界を確認するために時間を費やしてきました
まずは「量子のふしぎ」を見て確認する、そこからはじまりました
その結果、実にふしぎだとされた「量子っぽさ」は、とても壊れやすいものだということがわかってきました

その状況を乗り越え、量子をきちんと見るために絶対零度付近まで冷やしたり、極限まで空っぽな真空装置をつくって邪魔がまったく入り込めないような工夫をしました。
そうした努力によって、量子は少しずつ正体を見せはじめたのです

正体探しは、例えるなら草むらに隠れている動物探しのようなお話です
初めは草ぼうぼうの中から鳴き声が聞こえたり、たまに姿がチラッと見えたりしましたが、どんな動物なのか確認できません
邪魔な草をむしると姿がおぼろげに見えてきました
そこで草をすべて刈り取ってみると、これまで見たことのないような、魅力的でふしぎな動物がいました
その動物はとても賢そうなので、引き取って少しずつわたしたちの言葉を教えました
繰り返し教えていくと、動物はいろいろなことができるようになってきました
しかも、この10年ほどでわたしたちの「できないこと」さえ簡単にこなすようになってきた!

というわけで、今後、この動物(量子)が何を見せてくれるのか楽しみになっているのです

さて、少し正体を見せはじめた量子は、わたしたちがこれまでできなかったさまざまなことをやってくれようとしています
「量子センサー」「量子通信」「量子シミュレーション」「量子コンピュータ」などの、いわば「芸」です
それも驚くような大技を見せてくれようとしているのです

量子力学はいよいよ社会進出しはじめた!

量子世界の「ふしぎな現実」も少しずつ正体を現すようになってきたことで、量子力学の社会進出は急ピッチで進む

量子の潜在能力はまだ未知だ!

大きな可能性を見せはじめてきた量子は、少し前までは思いもしなかった「芸」を示しはじめた
量子センサー、量子コンピュータ、量子シミュレーション、量子通信など、それらは驚愕するような大技といっていい
本書ではそうした量子力学の持つすごさを順を追って紹介していく

量子の「芸」は大技だ!

量子の可能性は進展し、特にこの10年ほどで人のできないことも簡単にこなすようになってきた
これからの進化に大きな期待が持たれている

【出典】『眠れなくなるほど面白い 図解 量子の話』著:久富隆佑、やまざき れきしゅう

(この記事は、ラブすぽの記事で作りました)

量子はまことに不思議な「ふるまい」をする

量子はシャイで暑がりでぜいたくで「量子を見る」ことは大変だったが、その「正体」が徐々に見えてきた

そこで期待されるのが、「量子力学の社会進出」「量子にかできない凄い「芸」」だ

【量子力学の社会進出】量子にしかできない「芸」とは?・・・

量子にしかできない「芸」とは「量子センサー」「量子通信」「量子シミュレーション」「量子コンピュータ」などだ

これらは大きく社会を発展させ変革させる可能性がある




眠れなくなるほど面白い 図解 量子の話: 量子の世界を知らずして たぶん 未来は語れない。 単行本

物理の世界を一変させた量子(力学)論
相対性理論もかなり「ぶっとんだ」理論だが、量子(力学)論も「ぶっとんだ」凄い理論だ
この驚異の量子の世界を追う
posted by june at 12:19| Comment(0) | ニュース | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

前漢の皇帝が酔って侍女と過ごした「一夜の過ち」が、漢王朝を200年延命させる

一夜の過ちが歴史を変えた

前漢の皇帝が、酒に酔った勢いで侍女と過ごした一夜

この出来事が、後に200年以上もの間、漢王朝を延命させるきっかけになるとは、誰も想像できなかっただろう

歴史の舞台は、前漢が内外の問題に直面していた紀元前2世紀頃
当時、初代皇帝・劉邦の建国から数十年を経て、漢王朝は未だ強大でありながらも、宮廷内の派閥争いや外敵への対応に追われていた

第6代皇帝・景帝(劉啓)が侍女と過ごした一夜が、どのようにして後の漢王朝の安定をもたらしたのかを探っていきたい

劉邦と項羽 漢王朝誕生への道筋

まずは前漢について簡単に説明したい

紀元前202年、初代皇帝となる劉邦は、西楚の覇王・項羽との長きにわたる覇権争いを制し、漢王朝を樹立した

劉邦の治世は、戦乱の続いた秦末期を収め、新たな秩序を築くものであった
だが、その成功は彼一人の手腕によるものではない
軍事的には韓信や彭越、政治的には蕭何や張良といった名将・名臣の助力を得て、劉邦は楚漢戦争に勝利したのである

一方、項羽は覇王と称されるほどの卓越した軍事力を誇ったが、その統治能力の欠如と敵への容赦ない行動が民心を失う原因となった
これが最終的に彼を敗北へと導き、劉邦の勝利を後押ししたのだ

漢王朝は内外の安定を目指し、中央集権化を進める一方、郡国制を採用して地方豪族の協力を得る方針をとった
しかしながら、この政策は後の皇室内の対立や地方反乱の火種を残すことにもなった

第6代皇帝・景帝(劉啓)の治世

劉邦の後、嫡長子の劉盈(恵帝)の早世や、その後を継いだ孫の劉弘の夭折などが続き、劉邦の四男である劉恒(文帝)が第5代として皇位に就いた

この時代は「文景の治」と称される平和な時代であり、国内の復興が進んだ

しかし、その後を受け継いだ第6代皇帝・景帝(劉啓)の治世は、必ずしも平穏ではなかった

景帝は紀元前157年に即位すると、文帝の路線を継承し、倹約を重んじた統治を行った

その一方で、重臣との軋轢が次第に浮き彫りとなった
特に「呉楚七国の乱」は、彼の統治を揺るがす重大な危機であった

この反乱は、諸侯王たちが自らの権益を守ろうとした結果であり、中央と地方の緊張を象徴する事件であった
景帝は、丞相の周亜夫ら有能な将軍の助けを借りてこの反乱を鎮圧したが、諸侯王の影響力をさらに削ぐため、地方統治の再編を余儀なくされた

また、景帝は政治的手腕だけでなく、家庭内でも課題を抱えていた

薄皇后との間に子供ができず、皇室内の後継問題も浮上していたのである

景帝と侍女の一夜の過ち

そんな中、偶然としか言いようのない運命の出来事が起きる。

ある晩、景帝は酒宴の席で深酔いし、最愛の側室である程姫を召して寝所に呼び寄せようとした
しかし、程姫は月経中で皇帝の召しを受けることができなかった

これを拒むことができなかった程姫は、急遽、自分の侍女である唐氏を盛装させ、代わりに寝所へ送る決断を下したのだ

酔った景帝はその代役が侍女であることに気づかず、唐氏と一夜を共にした

この出来事が、後の漢王朝に大きな影響を与えることになる

その後、唐氏は妊娠し、景帝の子を身ごもった
後に彼女は「唐姫」として妃の地位を授けられ、出産した子には「劉発(りゅう はつ)」と名付けられた

この名は、彼がこの運命的な一夜から生まれたことに由来するとされる

しかし、唐姫と劉発のその後の暮らしは、決して恵まれたものではなかった

唐姫が元々侍女であったことから、彼女と劉発は他の妃や皇子たちと比べて冷遇されることとなる

劉発の成長

劉発は、幼少期から母である唐姫と共に宮廷で慎ましい生活を送った

しかし、彼の誠実な性格と母への深い孝行心は、やがて彼を歴史に刻む人物へと導いていく

景帝前2年(紀元前155年)、劉発は長沙王に封じられた

しかし長沙は、中央から離れた経済的に恵まれない地域であった

兄弟たちが豊かな封地を与えられる中で、劉発だけが不遇な境遇に置かれたのである

それでも劉発は逆境に屈することなく、領地の発展に尽力した

彼の孝行心を象徴する逸話として「望母台」の物語がある

劉発は、遠く離れた長沙から母・唐姫の住む長安を想い続け、封地に「望母台」という高台を築き、そこから遠く長安の方向を眺める日々を送ったという
長沙から最良の米を取り寄せて、母へ贈り続けたという逸話もある

このような姿勢は、劉発が封地において人々から信頼を集める要因にもなった

他にもこんなエピソードがある

景帝後2年(紀元前142年)、諸王が長安での宴に招かれた際、劉発が披露した舞いは不恰好で周囲の笑いを誘った
景帝がその理由を尋ねると、劉発は「私の封地が狭いため、十分な練習ができません」と答えた

この返答に心を動かされた景帝は、長沙国に零陵、武陵、桂陽の三郡を加増したという

劉発の誠実さと智謀は長沙国の発展を支え、その統治は安定していた

しかし、彼の家系は「推恩令」によって徐々に勢力を削られていく

「推恩令」とは、封建諸侯の領地をその子孫に分割して相続させる政策である
この結果、中央集権化は進んだが、地方諸侯の影響力は弱体化していった

それでも、劉発の子孫たちは漢王朝の中で着実に生き延び、やがて歴史に再びその名を刻むことになる

劉発の家系と光武帝への道筋

劉発の兄である劉徹、すなわち第7代・武帝は、前漢の最大版図を築き上げた皇帝として名高い

彼の治世において、匈奴討伐や西域開拓が進められ、漢王朝は頂点を迎えた
しかし、武帝の晩年の政治と経済の疲弊が次第に王朝を蝕み、後継の皇帝たちはその立て直しに苦慮することとなる

やがて王莽(おうもう)が漢王朝を簒奪し、新朝を建てるに至る

王莽は周代の政治を理想とし、社会改革を試みたが、その現実離れした政策によって民心を失い、周辺諸国や内部での反乱を招いた
この混乱が漢王朝復興の端緒となり、劉氏一族が再び注目されはじめる

一方、劉発の家系は細々と存続していた

その中で劉発の13番目の子である劉買の家系が、後の光武帝・劉秀を輩出することになる

世祖光武皇帝諱秀,字文叔,南陽蔡陽人,高祖九世之孫也,出自景帝生長沙定王發。

意訳: 光武帝(劉秀)は、南陽の蔡陽(現・河南省南陽市)という場所の出身で、景帝の子である長沙定王・劉発の子孫にあたる。彼は、皇帝家系の高祖から数えて九代目の子孫でもある。

『後漢書』 光武帝紀より引用

劉秀は辺境の農村に生まれながら、乱世を利用して頭角を現し、漢王朝を再興する道を切り開いたのである

光武帝・劉秀の登場と漢王朝の復興

光武帝・劉秀は、劉発の血を引く地方豪族の一族として育った

王莽による新朝の政治は、民衆の支持を失って各地で反乱が相次いでいた

こうした混乱の中、劉秀とその兄・劉縯は、漢王朝の復興を掲げて挙兵したのである

特に「昆陽の戦い」では、劉秀の知略が光り、王莽率いる百万の大軍を打ち破るという歴史的な勝利を収めた
この戦いは、漢王朝再興への決定的な一歩となり、劉秀は民衆や諸侯の支持を得て帝位に就く

これにより後漢王朝が成立し、漢王朝の命運は結果的に200年以上も延命されることとなる

このようにして、景帝が酔いの中で唐姫と過ごした一夜の過ちは、偶然にも長い時を経て、光武帝という英雄を生み出すきっかけとなったのだ

歴史は時に、思いもよらぬ因果が未来を形作ることを、この物語は示している

参考 : 『後漢書』『漢書』他
文 / 草の実堂編集部

(この記事は、草の実堂の記事で作りました)

前漢の景帝の侍女との「一夜の過ち」が漢王朝を200年延命させるとは・・・

一夜の過ちで生まれた劉発が誠実で親孝行で人々の信頼を集めたのが、子孫の劉秀(のちの光武帝)への陰来、支持を呼んだ

景帝が酔いの中で唐姫と過ごした一夜の過ちは、偶然にも長い時を経て、光武帝という英雄を生み出すきっかけとなったのだ

歴史は時に、思いもよらぬ因果が未来を形作ることを、この物語は示している


ところで、漢王朝を作った劉邦は後の歴代王朝の皇帝の在り方を示した

劉邦個人は特に凄いわけではないが、彼の部下を適材適所で巧みに使い、部下に全幅の信頼をした

これが彼が皇帝になれた要素だった

劉邦はある意味「将の器のある」「リーダーの在り方の理想」「人間学の達人」だった



ビジネスに効く教養としての中国古典 単行本

中国古典には現代にも通じる多くの叡智が詰まっている
ビジネスや実生活に応用できる
特に守屋洋氏の著作は平易でわかりやすく私も愛読しているものが多い
実践的だ
posted by june at 04:00| Comment(0) | ニュース | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする