2025年01月25日

『古代中国』妃が入浴する際、付き添う宦官はなぜ怯えていたのか?

古代中国の宮廷で、宦官(かんがん)は特異な存在であった

彼らは去勢を施されることで後宮における「安全な存在」とされ、妃や側室の身の回りの世話を任されていた

『後漢書』宦者列伝には以下の記述がある

「寺人掌王宮之內人及女宮之戒命」

意訳 :寺人は王宮内の女性たちおよび女宮(後宮)の規律や指示を管理する

「寺人」とは、後宮(皇后や妃の住む宮殿)を管理する宦官の役職である
宦官は単なる使用人ではなく、後宮全体の秩序を守る重要な存在であった

その中でも、妃の入浴に付き添う役割は特に緊張を強いられるものであった
些細な失敗が妃の不興を買い、厳罰に処される危険があったからである

宦官が妃の入浴を支える際に恐れていたのは、ただ規律や罰則だけではない

後宮は権力闘争の場でもあり、一つの小さな行動が誤解を招き、常に自身の地位を危うくする可能性があった

宦官は時には国家の中枢にまで影響力を及ぼす存在であったが、多くの宦官は日々の緊張感の中で命じられた仕事を遂行していたのである


入浴の文化的意義

中国の伝統文化において、入浴は身体を清潔に保つだけでなく、精神的な清浄さを象徴する行為でもあった


『論語』「憲問」には、「孔子沐浴して朝(まい)る」と記され、身体を清めて礼儀正しく行動することが儒教の教えとして重視されていた
この価値観は宮廷文化にも影響を与え、妃の入浴もまた清潔さや健康を保つための重要な行為とされていた

妃たちは階級に応じて木製や錫製の浴槽を使用し、香料や薬草を加えた湯で身体を清めた
麝香や沈香、薬草などの香料は、健康や美しさを保つために用いられた

例えば唐代には「浴蘭節」という伝統行事があり、薬草を湯に入れて健康や美容を保つ風習が広まっていた

また、伝承ではあるが清朝の乾隆帝が寵愛した香妃(こうひ)は、特に入浴を愛したと伝えられる
彼女のために乾隆帝が専用の浴室を建設し、香料を豊富に使用した入浴が行われたという逸話がある

これらの準備を担当したのが宦官であり、湯の温度管理や香料の調合は慎重を極める作業であった

入浴準備

妃の入浴準備は、宦官たちにとって最初の重要な任務であった

湯を準備するためには、大きな水桶に熱湯を運ぶ必要があり、これが日々の重労働となった
冬場の寒さや夏場の蒸し暑さの中で、この業務は特に厳しいものだった

また、妃の好みに合わせて湯の温度を一定に保つことが求められ、湯が冷めないように頻繁に熱湯を注ぎ足す作業も宦官の役割であった

香料の調合も、宦官が担当する重要な業務の一つである
妃たちは香りに非常に敏感であり、麝香、沈香、さらには薬草を用いた湯を好んだ

これらの香料や薬草は高価であり、調合には細心の注意が必要だった
香料の選定や配分を誤ると、妃の機嫌を損ねる可能性があり、厳しい叱責や罰を受けるリスクを伴った

入浴中の仕事

入浴中、宦官たちは決して妃の視界に入らず、目を合わせることなく、膝をついて命令に従わなければならなかった

この無言の奉仕の中で、妃の機嫌や反応を常に気にしながら、仕事を進める必要があった
特に高位の妃ほど、その要求は高く、わずかな失敗が命取りになりかねなかった

妃の背中を拭う「搓背」や、特定の方法でのマッサージが求められる場合もあった
これらの作業には繊細な技術が必要であり、妃の期待に応えられなければ即座に罰則が科されることもあった

特にマッサージは、妃がリラックスするための重要な工程であり、力加減や手法に対する要求が細かかった
宦官たちは過去の経験や妃の好みを記憶し、繰り返しの練習を通じて技術を磨いた

また、作業中に妃の体に視線を向けたり、声を立てたりすることは厳しく禁じられており、宦官たちは極度の緊張状態に置かれていた
特に唐や清の時代には、こうした規則が厳格だったとされる

入浴後の仕事

入浴後も、宦官の任務は終わることなく続いた

妃が浴室から出た後、最初に宦官が行うのは衣服の着付けである
浴後の妃は新しい衣服に着替えることが求められ、その際、衣服の選定や着付けの仕方も慎重に行う必要があった
衣服にしわがないか、布地がきれいに整っているかを確認し、妃が着心地よく過ごせるように配慮することが求められた

特に高位の妃においては、衣服の選定がその日の気分や儀式の目的に影響を与えるため、宦官たちは妃の好みや宮廷の慣習を十分に理解し、適切な衣装を選ぶ必要があった
着付けをしながら衣服を引き伸ばして調整し、完璧な状態に仕上げるのだ

衣服を整えた後、次に行うべきは髪の手入れである
髪を乾かし、整え、場合によっては香油を塗布することが必要だった
香油は、妃の肌に優しく、彼女の気に入った香りを慎重に選んだ

暖かい飲み物を用意することも、宦官たちの重要な仕事の一つである
例えば、甘いお茶や薬草を使った温かい飲み物は、入浴後に妃が体を温め、リラックスするために効果的であった

このように、宦官の仕事は単なる物理的な労働だけでなく、常に緊張感を伴うものであり、仕事の一つ一つが、彼らの地位や命運を左右していたのである

おわりに

宦官たちの生活は、常に恐怖と緊張が付きまとっていた

宦官制度は封建社会に深く根付いており、その過酷さは多くの宦官たちの人生に影を落としただろう
彼らの奉仕の裏にあった苦しみと困難は、歴史を振り返る際に忘れてはならない一面である

参考 : 『後漢書』『清史稿』他
文 / 草の実堂編集部

(ここでは草の実堂の記事で作りました)

宦官とは去勢された役人

彼らは去勢を施されることで後宮における「安全な存在」とされ、妃や側室の身の回りの世話を任されていた

中国などでの制度で、日本は多くの制度を中国にならったが、宦官は取り入れられなかった

宦官というとその「地位」を利用し、政権の中枢で権力闘争をしたイメージがあるが、多くは緊張の連続の職務に追われた

妃の入浴の際も細心の注意をはらい、彼女らの機嫌を損ねず、宮中の慣習にも注意をはらった

宦官たちの生活は、常に恐怖と緊張が付きまとっていた

宦官制度は封建社会に深く根付いており、その過酷さは多くの宦官たちの人生に影を落としただろう
彼らの奉仕の裏にあった苦しみと困難は、歴史を振り返る際に忘れてはならない一面である




宦官: 側近政治の構造 (中公新書 7) 新書

宦官は去勢された役人であり、後宮などを管理し、政権の中枢、権力闘争の中心にいたものも・・・
宦官制度は中国などにあったが、日本には取り入れられなかった
(個人的には人道面で疑問の制度)
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NY株は5営業日ぶりに反落、日経平均株価は5日ぶりに小幅反落

24日(現地時間)のNY株(ダウ平均株価)は、5営業日ぶりに反落し、終値は前日比140ドル82セント安の4万4424ドル25セント

ハイテク株中心のナスダックは99.38ポイント安の1万9954.30

S&P500は17.47ポイント安の6101.24



24日(日本時間)の日経平均株価は5日ぶりに反落し、終値は前日比26円89銭安の3万9931円98銭、日銀は24日まで開いた金融政策決定会合で政策金利である無担保コール翌日物金利の誘導目標を0.25%から0.5%に引き上げることを決めた、結果発表後に国内債券市場では長期金利が上昇し、株式の割高感を意識した売りが次第に強まった


(この記事は、ネットニュースの記事で作りました)
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自己顕示欲のない天才――和算家・関孝和

鎖国下の江戸時代、日本独自の数学文化「和算」が華ひらく
天才和算家・関孝和のベルヌーイ数発見のような、世界にさきがけた業績がなぜ生み出されたのか
『江戸の天才数学者:世界を驚かせた和算家たち』(鳴海風著/新潮選書)から一部を抜粋・再編集して江戸流イノベーションの謎に迫る

***

素性不明の大数学者

日本独自の和算文化を、数学としても世界に通用するレベルまで押し上げた最大の功労者は、やはり関孝和(せきたかかず)だろう

没後「算聖(さんせい)」と称えられ、その名を冠した「関流」は、和算最大の流派として、明治初期にいたるまで日本の数学発展の中心に位置していた
そして、没後300年以上を経た今日でも、孝和の数学は世界の人々を魅了し、多くの数学者の研究対象となっている

確かに、孝和の数学上の業績は抜きん出ている。鎖国政策が徹底されていた江戸時代に、中国の数学を出発点としながらもそこから飛躍し、独自の方法論で、部分的には同時代の西洋数学に匹敵するレベルにまで到達した
世界に先駆けて行列式やベルヌーイ数を発見するなど、膨大な研究成果を残している

ところが、孝和の人生そのものについては不明な点が多く、まさに謎に包まれていると言ってもいいのだ

そもそも、孝和がいつどこで生まれたかすらもはっきりしない
幕臣・内山永明の次男として誕生したが、出生年は寛永17年(1640)前後と推定されているだけで、特定されるにいたっていない
父永明が幕臣に取り立てられ、上野国藤岡(現群馬県藤岡市)から江戸牛込(現東京都新宿区)に移り住んだのは寛永16年であるから、出生年が特定されれば、出生地も確定する可能性が高い
しかし、もし江戸という結論になった場合はひと騒動だろう
なにしろ、「和算の大家、関孝和」として上毛かるたにも含まれている孝和は、群馬県にとって大切な郷土の偉人の一人なのである

さらに、孝和が甲府藩の関家に養子に入った年も不明であるし、そもそも養父とされる人物の名前が甲府藩の記録の中に見つからないのである

和算界のスーパースターともいうべき孝和の、そんな基本的なプロフィールすらわかっていないのは、不思議な気もする
いや、むしろ、わからない部分が多いからこそ、孝和は人々を惹きつけてやまないのかもしれない

自己顕示欲のない天才

和算の歴史の中で、関孝和の数学は明らかに次元が異なっている
鎖国時代に、どのような研究プロセスを経て、行列式やベルヌーイ数の発見に到達し得たのだろうか
これは数学史研究の重要なテーマであり、今でも多くの数学者がこの謎に挑んでいる

しかし、孝和がいつ数学と出会い、どのようにそれを進化させていったのかは、まだほとんどわかっていない
そもそも関孝和のデビュー作である『発微算法(はつびさんぽう)』からして、出版までの経緯は謎に包まれている
同時代の和算家からすれば、まさにある日突然彗星のように出現した天才に見えたはずだ

『発微算法』の出版は、延宝2年(1674)のことである
孝和が発明した、未知数を含む係数の方程式を解く方法・傍書法(ぼうしょほう)が含まれていた
それまで最先端の数学とされてきた中国の天元術を超えて、和算を大きく進歩させた画期的な数学書である

日本にはじめて天元術を伝えた本は『算学啓蒙(さんがくけいもう)』である
元の朱世傑(しゅせいけつ)が1299年に出版した本で、朝鮮を経て日本にもたらされた
万治元年(1658)に、訓点をつけた『新編算学啓蒙』として復刻されたが、当時の和算家たちの中には、理解できる者はほとんどいなかった

天元術を理解して最初に本にしたのは、大坂の鳥屋町に住む沢口一之で、実に13年後のことである
一之は、『改算記』と『算法根源記』の遺題を天元術で解いて『古今算法記』を出版したのだが、その巻末には通常の天元術を使っても解けない十五問の遺題(いだい)がつけられていた

この未解決の難題を、鮮やかに解いてみせたのが、孝和の『発微算法』であった
出版されたのは『古今算法記』から3年後の延宝2年(1674)であるが、どうやら孝和は『古今算法記』の遺題を見た瞬間に、その解法もわかっていたようである
いつでも解法を出版できる状態だったが、当時甲府藩では深刻な不作から一揆が発生し、それが江戸桜田の屋敷への門訴にまで発展していて、御用第一の孝和には数学書を出版するのは憚られたのであろう

それでも、家老らの免職処分という形で甲府藩の一連の騒動が決着してから、わずか2ヶ月後に『発微算法』は出版された

『発微算法』の序文には、そういった背景や孝和の気持が書かれていた
そこでは「世の中で数学が流行していて、門を立て、書を著すものは枚挙にいとまがない」とあり、孝和は続々と出版される数学書を読んでいたことがわかる
そして、『古今算法記』の難問に答える数学書が出ていないことも知っていた
「自分は回答できたが公開を遠慮していた」と書いている
しかし、「弟子たちが皆、学問を修めていない人のために伝えるべきだというので、ようやく出版することにした」という

弟子が何人いたかはわからないが、三瀧四郎右衛門と三俣八左衛門という2人が、『発微算法』の校正をしたことが書かれている
この2人は、出版を勧めた弟子たちの中心だったはずだ
ところが、2人とも素性も数学上の業績もはっきりしない

中国の数学書にもない画期的な傍書法を発明し、誰も回答できない『古今算法記』の遺題を解いたわけだから、多少なりとも気負いが見られてもおかしくない
しかし、「弟子たちが勧めるので出版することにした」というほど、孝和は自己顕示欲がない男だった

実際、この『発微算法』が孝和の生涯で唯一の出版物となり、この本以降、彼が自分の名前で出版したものは一冊もない
独創的な研究成果を多く残したにもかかわらず、である
孝和にとって、数学の研究はあくまで楽しみであり、他人に自慢するようなものではなかった

膨大な研究成果

鳴海風『江戸の天才数学者:世界を驚かせた和算家たち』(新潮選書)

孝和は、出版こそしていないが、膨大な著述を残している
興味深いのは、天文暦学を題材にした著述をいくつか残している点である
延宝8年(1680)の『授時発明』、天和元年(1681)の『授時暦経立成』、貞享3年(1686)の『関訂書』などがそれにあたる
観測記録である『日景実測』や『二十四気昼夜刻数』も孝和の著述らしく、実際に日影の長さから1年(太陽年)の長さも知ろうとしていたようだ

この頃は、ちょうど渋川春海が改暦に取り組んでいた時代で、孝和も同じく改暦を目的とした天文暦学の研究をしていたという説があった
春海に改暦を指示したのが保科正之なら、孝和も藩主の徳川綱重から密命を帯びていたのではないかという、とても興味深い話である

筆者もかつてこの説にインスピレーションを得て、『算聖伝』という小説を書いたことがあるが、現在の最新研究では、彼の関心はやはり数学であり、翦管術(せんかんじゅつ)の研究のために天文暦学を取り上げていたと考えられている
翦管術は天文暦学に必要な剰余方程式の解法で、『楊輝算法』の中にも現れている用語である

貞享の改暦がなされたころは、甲府藩は不作続きで一揆が続発していたし、藩主も綱重から綱豊へ代替わりした時期で改暦どころではなかった
孝和自身は、『発微算法』出版後に弟子にした建部兄弟の指導と、検地役人としての御用に励んでおり、藩命を背負って改暦に挑んでいたとは考えにくい

ただし、孝和の著述が最も集中したのは、この同じ時期、天和3年(1683)から貞享3年(1686)までの3年間だった

天和3年(1683)の著述としては、『拾遺諸約之法・翦管術解』、『方陣之法』、『円攅之法(えんさんのほう)』、『角法並演段図』、そして数学遊戯「継子立(ままこだて)」と「目付字(めつけじ)」それぞれの理論化である『算脱之法』と『験符之法』などがある
もっとも特筆すべきは『解伏題之法』で、ライプニッツの個人ノートを除けば、世界で最も早い行列式の理論を述べた本であった

貞享2年(1685)の著述には、ホーナーの方法と同じ数字係数方程式の解法を示した『解隠題之法』や、『開方翻変之法(かいほうほんぺんのほう)』、『題術弁議之法』、『病題明致之法』などがある
翌3年には、『関訂書』、『天文大成諺解(てんもんたいせいげんかい)』がある
『解見題之法』も貞享年間だと推定されている。数学者として
もっとも脂が乗っていた時期であった

元禄年間に入ると、孝和の数学研究にはあまり大きな動きが見られなくなる。元禄年間も後半になると、後継ぎがいなかった孝和は真剣に養子を取ることを考えはじめ、実弟永行の子だった新七郎を養子に迎える
新七郎は数学とは無関係だったから、数学の後継者として新七郎を選んだわけではない
あくまで武士として関家の存続を願ったのである

宝永3年(1706)、新七郎を将軍綱吉に拝謁させると、その2年後に孝和はおよそ70年弱の生涯を閉じた

それから200年余り後、幕末から明治維新にかけて、日本は近代化を進めるため西洋数学を受け入れたが、それができたのは関流が数学として真に優れたものだったからだ

その後日本は、世界的な数学者を輩出してきたが、ある意味、日本の数学は孝和を中心に発展を遂げてきたとも言える
現在も日本数学会における最高の賞が「関孝和賞」とされているのももっともな話である

◎鳴海風(なるみ・ふう)1953年、新潟県生まれ
東北大学大学院機械工学専攻修了(工学修士)後、株式会社デンソーに勤務
愛知工業大学大学院で博士(経営情報科学)、名古屋商科大学大学院でMBAを取得
1992年『円周率を計算した男』で第16回歴史文学賞
2006年日本数学会出版賞
『円周率の謎を追う 江戸の天才数学者・関孝和の挑戦』(くもん出版)が第63回青少年読書感想文全国コンクール中学校の部課題図書
主な著書に『算聖伝 関孝和の生涯』(新人物往来社)、『江戸の天才数学者』(新潮選書)、『美しき魔方陣』(小学館)などがある

(この記事は、新潮社フォーサイトの記事で作りました)

関孝和といえば日本独自の和算文化で和算界のスーパースターであり、日本の数学を世界レベルに押し上げた人物

私も孝和を通じ和算を知った

没後「算聖(さんせい)」と称えられ、その名を冠した「関流」は、和算最大の流派として、明治初期にいたるまで日本の数学発展の中心に位置していた
そして、没後300年以上を経た今日でも、孝和の数学は世界の人々を魅了し、多くの数学者の研究対象となっている

確かに、孝和の数学上の業績は抜きん出ている。鎖国政策が徹底されていた江戸時代に、中国の数学を出発点としながらもそこから飛躍し、独自の方法論で、部分的には同時代の西洋数学に匹敵するレベルにまで到達した
世界に先駆けて行列式やベルヌーイ数を発見するなど、膨大な研究成果を残している

ところが、孝和の人生そのものについては不明な点が多く、まさに謎に包まれていると言ってもいいのだ

そもそも、孝和がいつどこで生まれたかすらもはっきりしない
幕臣・内山永明の次男として誕生したが、出生年は寛永17年(1640)前後と推定されているだけで、特定されるにいたっていない
父永明が幕臣に取り立てられ、上野国藤岡(現群馬県藤岡市)から江戸牛込(現東京都新宿区)に移り住んだのは寛永16年であるから、出生年が特定されれば、出生地も確定する可能性が高い
しかし、もし江戸という結論になった場合はひと騒動だろう
なにしろ、「和算の大家、関孝和」として上毛かるたにも含まれている孝和は、群馬県にとって大切な郷土の偉人の一人なのである

さらに、孝和が甲府藩の関家に養子に入った年も不明であるし、そもそも養父とされる人物の名前が甲府藩の記録の中に見つからないのである

和算界のスーパースターともいうべき孝和の、そんな基本的なプロフィールすらわかっていないのは、不思議な気もする
いや、むしろ、わからない部分が多いからこそ、孝和は人々を惹きつけてやまないのかもしれない

孝和は自己顕示欲のない天才で著作は多いが出版物は一冊しかない

宝永3年(1706)、養子の新七郎を将軍綱吉に拝謁させると、その2年後に孝和はおよそ70年弱の生涯を閉じた

それから200年余り後、幕末から明治維新にかけて、日本は近代化を進めるため西洋数学を受け入れたが、それができたのは関流が数学として真に優れたものだったからだ

その後日本は、世界的な数学者を輩出してきたが、ある意味、日本の数学は孝和を中心に発展を遂げてきたとも言える
現在も日本数学会における最高の賞が「関孝和賞」とされているのももっともな話である




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日本が世界に誇る和算
平和の時代が続いたからこそ生まれた和算文化と江戸時代の天才数学者たち
posted by june at 04:24| Comment(0) | ニュース | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする