日本最古の歴史書とされる『古事記』が完成してからわずか8年後に誕生した、もう一つの歴史書『日本書紀』
両書は、神々による日本の創造と、その子孫である天皇が国家元首としての正統性を持つことを示す内容を含み、大きな流れとしては共通している
しかし、これらを読み比べると、細部には相違点が見られる
なぜこれほど近い時期に、二つの歴史書が編纂されたのだろうか
その上、同じ背景を持ちながら、なぜ内容に違いが生じたのだろうか
『日本書紀』の全体像を明らかにし、その編纂の経緯や目的を『古事記』との比較を通じて掘り下げてみたい
『日本書紀』とは?
『日本書紀』は、養老4年(720年)に天武天皇の第6皇子である舎人親王(とねりしんのう)が完成を奏上し、第44代元正天皇に献上された日本最古の正史である
その編纂には約40年もの歳月が費やされた
編纂の経緯については諸説あるが、通説では天武天皇10年(681年)、第40代天武天皇が川島皇子(かわしまのみこ、第38代天智天皇の子)や忍壁皇子(おさかべのみこ、自身の第9皇子)ら12名に対し、「帝紀」および「上古諸事」の編纂を命じたことがその始まりとされている
『日本書紀』は、日本の成立と天皇家の正統性を記録する目的で編纂されたものであり、古代律令国家時代に作成された「六国史(りっこくし)」の最初の正史にあたる
全30巻で構成され、神代から持統天皇の時代までの歴史を網羅している
『古事記』と『日本書紀』は、なぜ天武天皇指示で作られたのか?
『古事記』と『日本書紀』には共通点が多いが、その中でも注目すべきは、いずれも天武天皇の命により編纂が開始された点である
飛鳥時代後半から編纂された書物であり、日本の古代史を研究するための基本史料といえる
天武天皇の時代、天皇を神格化する動きが進行していた
そのため、ともに神代の日本神話から編纂当時の近代天皇までの歴史が整備され、まとめられているのである
では、なぜ同時期に同じような歴史書が編纂されたのであろうか
一番の理由は、それまでの歴史書が失われたという事情があった
645年の乙巳の変(いっしのへん)において、中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足が蘇我入鹿を討った際、蘇我蝦夷は自邸に火を放ち自害した
このとき、朝廷の多くの書庫も焼失し、聖徳太子(厩戸皇子)と蘇我馬子が編纂したとされる『天皇記』や『国記』などの歴史書が失われたという
なお、日本書紀の皇極天皇4年6月条には、『国記』は火の中から取り出され、中大兄皇子に渡されたとの記述があるものの、現存していない
663年「白村江の戦い」で唐・新羅連合軍に敗北した日本は、国防に追われ、歴史書を新たに編纂する余裕がなかった
しかし、壬申の乱以降、政治が安定しつつあった天武天皇の治世において、歴史の記録が失われないようにするための歴史書づくりとして、編纂指示が出されたのである
なぜ2つの歴史書が別々に編纂されたのか?
『古事記』と『日本書紀』という二つの歴史書が編纂されたことについて、疑問を感じる方もいるかもしれない
その存在意義は、両書が全く異なる編纂目的を持っていたことに起因している
『古事記』は、当時伝えられていた天皇家の歴史や口伝えの伝承を記録することを目的として作成された、国内向けの歴史書である
その内容は上・中・下の三巻で構成され、天地の始まりから第33代推古天皇までの歴史が記されている
一方、『日本書紀』は、唐や新羅といった当時の周辺国に向けて、日本の正史を示すために編纂された書物であるとされる
対外的な公式記録としての性格を持つため、漢文体で記述されており、神代から持統天皇に至るまでの歴史をより詳細に記録している
また、複数の史料や伝承が存在する場合はそれらを併記する形を取るため、全30巻という膨大な内容となった
『古事記』は、官人の稗田阿礼(ひえだのあれ)が暗記した内容を、民部卿を務めた貴族の太安万侶(おおのやすまろ)が記録する形で完成した
一方で、『日本書紀』は多くの人物が関与し、その編纂には約40年という長い期間が費やされた
編纂の命は同時期に出されていたものの、このような編纂過程の違いが、両書の完成時期に影響を与えたのである
内容の違い
『古事記』と『日本書紀』の編纂目的の違いは、その内容の差異にも表れている
この違いは、神話のエピソードや登場人物の性格描写において特に際立っている
たとえば、「因幡の白兎」の物語は『古事記』に記載されているが、『日本書紀』には登場しない
また、天照大御神の弟神であるスサノオの扱いも大きく異なる
『古事記』では、粗暴でありながらも敬われる神として描かれる一方、『日本書紀』では天照大御神を引き立てるため、スサノオの粗暴さが強調される傾向にある
物語の始まりについても相違がある
『古事記』は天地が既に分かれた状態から物語を展開するが、『日本書紀』は世界の始まりから物語を始め、日本の国がどのように形成されたかを示す内容となっている
さらに、『日本書紀』では天皇以外の人物にスポットが当てられる場面も多い
たとえば、第14代仲哀天皇の皇后である神功皇后(じんぐうこうごう)に焦点を当てた記述や、壬申の乱に関する詳細な描写がその例である。
これらの記述は、天皇の系譜だけでなく、日本国の成立過程や政治的背景を描き出すことに重きを置いた『日本書紀』の特徴を示しているといえよう
『日本書紀』も『古事記』同様に、古代日本の謎を秘めた書物である
前述したように、なぜスサノオがより乱暴な神として強調されているのかなども謎に包まれている
『日本書紀』は、各地の風土記や伝承された神話を盛り込んだ内容であり、『古事記』との読み比べを通じて、その違いを楽しむこともできるだろう
参考 :
『日本美を守り伝える「紡ぐプロジェクト」』
『いっきに学び直す日本史 古代・中世・近世 教養編』
『公益社団法人 島根県観光連盟 古事記の神話』
文 /草の実堂編集部
(この記事は、草の実堂の記事で作りました)
古事記と日本書紀
共通点
製作開始時期が近く、天皇の正統性、神話の記述がある
違い
古事記は国内向け、日本書紀は唐や新羅など周辺国向け
編纂時期・扱う年代が日本書紀の方が長い
内容に若干の違い
古事記と日本書紀を読み比べ違いを味あうのもいいかも・・・
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日本書紀の分かりやすい解説書
古事記と日本書紀をあわせて読むと本当の日本がわかる
2024年12月23日
古代中国の女性にとって最も屈辱的だった「恥ずかしい」刑罰とは
古代中国の女性たちは、現代の私たちが想像するよりもはるかに厳しい社会的制約の中で生きていた
特に漢〜三国時代頃から儒教の影響が色濃くなり、徐々に女性への束縛が厳しくなっていった
男性中心の封建社会では、女性の役割は家族の名誉を守り、貞節を保つことが最も重要とされ、その人生は「父に従い、夫に従い、子に従う」という一連の従属関係に縛られていた
しかし、こうした社会規範を外れたり、法律に触れたりした場合、女性たちは容赦ない刑罰の対象となることがあった
その中でも「杖刑(じょうけい)」は、刑としては重くなかったが、精神的な屈辱を伴う刑罰として、女性にとって極めて過酷だったという
杖刑を受けることで、女性の名誉は完全に失墜し、社会的な死を宣告されたも同然だったのだ
なぜ杖刑は、当時の女性にとってこれほど過酷だったのだろうか
杖刑とは
杖刑(じょうけい)とは、罪を犯した者の背中や臀部を、杖や竹板で叩く刑罰である
いわゆる「お尻ぺんぺん」だ
中国には古代から「五刑制度」というものあり、国や民族、時代によって5つの刑罰の中身は様々である
共通して言えるのはどの時代においても最も重い刑罰は「死刑」ということである
杖刑の歴史は古く、前漢時代にはすでに存在していたとされる
基本的には命には別状がないことから、どの時代においても最も軽い部類の刑罰である
隋唐時代以降、杖刑は五刑の一つとして正式に制度化され、軽犯罪に適用された
打たれる回数も、罪の重さに応じて決まっていた
例えば、唐代の歴史家・杜佑(とゆう)によって編纂された歴史書『通典』には、以下のように回数が記されている
其制罪:一曰杖刑五,自十至五十。
意訳 :
杖刑には五段階があり、10回から50回の打撃が科される。
出典:『通典』「刑法二」
明代では3尺5寸(約1メートル)、清代では5尺5寸(約1.8メートル)の竹板が使用されるなど、時代によって道具にも変化があった
また、杖刑は単に犯罪者を罰するだけでなく、社会全体への警告としての役割も担っていた
罪を犯した者を公衆の面前で罰することで、他者への教訓とする意図があったのだ
そのため、社会的な羞恥心を与える公開刑でもあった
これが男性ならまだしも、女性であればどうだろうか
女性にとって耐え難い屈辱
女性にとって、杖刑は名誉や社会的地位を一瞬にして失わせるものだった
刑罰としては軽いとはいえ、執行される際には衣服を脱がされ、臀部を晒さなければならなかったのである。
さらに公衆の面前で執行されることから、「貞操」を重んじる古代の価値観においては最も耐え難い屈辱であった
杖刑を受けた女性は、その後も社会からの侮蔑や孤立に苦しむことが多く、自ら命を絶つ者も少なくなかったという
また、杖刑の影響は受刑者本人にとどまらず、家族や地域社会全体にも広がった
女性が杖刑を受けることは、家族全体の名誉を汚す行為とみなされ、家族が社会から孤立することもあった
そのため、家族が受刑者を事実上追放するケースや、家族内での関係が崩壊する事例も見られた
女性受刑者は単なる犯罪者としてではなく、社会的な「恥さらし」として扱われたのである
経済的格差と男女の差
また、杖刑の執行には経済的な格差も大きく影響していた
清代の『獄中雑記』には、賄賂や贖金によって刑罰が軽減、または回避された具体的な例が記されており、裕福な者は軽い打撃で済ませられた一方、貧しい者は過酷な打撃を受け、深刻な後遺症や死に至ることもあったという
一方で、一部の男性にとっては、杖刑が「名誉」とされる場合もあった
特に直言を行う官僚たちは、皇帝の怒りを買い、杖刑を受けることで「忠臣」としての名声を得ることができたからである
あえて、厳しい刑罰を受けることで忠誠心が証明され、民間からも高い評価を得ることがあったのだ
女性の例とは真逆である
このように、杖刑は「平等」という観点においても多くの問題を抱えていた
終わりに
杖刑は長い歴史の中で、罪に応じて科される刑罰として、法制度の一部を担っていた
しかし女性に適用される場合、単なる罰にとどまらず、実質的には名誉や人生を根底から揺るがすものであった
公衆の面前で屈辱を受ける杖刑は、女性にとって耐え難いものであり、その影響は生涯にわたったのだ
杖刑は清朝末期になると廃止された
社会が進化し、人々の価値観が変化する中で、人権を侵害する行為として認識されるようになったからである
杖刑の歴史は、単なる刑罰の記録ではなく、人間の尊厳や平等の意味を深く考えさせるものといえるだろう
参考 : 『通典』『獄中雑記』『文化杂谈』他
文 / 草の実堂編集部
(この記事は、草の実堂の記事で作りました)
辱めを受ける刑罰、公開刑は、ある意味では犯罪抑止もあったかもしれない
しかし、人権、尊厳、名誉などを傷つけるものだ
今の価値観では受け入れられないだろうし、個人的にも受け入れられない
禁断の中国史 単行本(ソフトカバー)
私は中国へ短期留学したことがある
そんな私が感じた中国・中国人に嫌悪感は抱かなかった
ただし、中国人に「したたかさ」があるのも確かだ
本書の内容に書かれていることも一面ではあるかもとは思った
特に漢〜三国時代頃から儒教の影響が色濃くなり、徐々に女性への束縛が厳しくなっていった
男性中心の封建社会では、女性の役割は家族の名誉を守り、貞節を保つことが最も重要とされ、その人生は「父に従い、夫に従い、子に従う」という一連の従属関係に縛られていた
しかし、こうした社会規範を外れたり、法律に触れたりした場合、女性たちは容赦ない刑罰の対象となることがあった
その中でも「杖刑(じょうけい)」は、刑としては重くなかったが、精神的な屈辱を伴う刑罰として、女性にとって極めて過酷だったという
杖刑を受けることで、女性の名誉は完全に失墜し、社会的な死を宣告されたも同然だったのだ
なぜ杖刑は、当時の女性にとってこれほど過酷だったのだろうか
杖刑とは
杖刑(じょうけい)とは、罪を犯した者の背中や臀部を、杖や竹板で叩く刑罰である
いわゆる「お尻ぺんぺん」だ
中国には古代から「五刑制度」というものあり、国や民族、時代によって5つの刑罰の中身は様々である
共通して言えるのはどの時代においても最も重い刑罰は「死刑」ということである
杖刑の歴史は古く、前漢時代にはすでに存在していたとされる
基本的には命には別状がないことから、どの時代においても最も軽い部類の刑罰である
隋唐時代以降、杖刑は五刑の一つとして正式に制度化され、軽犯罪に適用された
打たれる回数も、罪の重さに応じて決まっていた
例えば、唐代の歴史家・杜佑(とゆう)によって編纂された歴史書『通典』には、以下のように回数が記されている
其制罪:一曰杖刑五,自十至五十。
意訳 :
杖刑には五段階があり、10回から50回の打撃が科される。
出典:『通典』「刑法二」
明代では3尺5寸(約1メートル)、清代では5尺5寸(約1.8メートル)の竹板が使用されるなど、時代によって道具にも変化があった
また、杖刑は単に犯罪者を罰するだけでなく、社会全体への警告としての役割も担っていた
罪を犯した者を公衆の面前で罰することで、他者への教訓とする意図があったのだ
そのため、社会的な羞恥心を与える公開刑でもあった
これが男性ならまだしも、女性であればどうだろうか
女性にとって耐え難い屈辱
女性にとって、杖刑は名誉や社会的地位を一瞬にして失わせるものだった
刑罰としては軽いとはいえ、執行される際には衣服を脱がされ、臀部を晒さなければならなかったのである。
さらに公衆の面前で執行されることから、「貞操」を重んじる古代の価値観においては最も耐え難い屈辱であった
杖刑を受けた女性は、その後も社会からの侮蔑や孤立に苦しむことが多く、自ら命を絶つ者も少なくなかったという
また、杖刑の影響は受刑者本人にとどまらず、家族や地域社会全体にも広がった
女性が杖刑を受けることは、家族全体の名誉を汚す行為とみなされ、家族が社会から孤立することもあった
そのため、家族が受刑者を事実上追放するケースや、家族内での関係が崩壊する事例も見られた
女性受刑者は単なる犯罪者としてではなく、社会的な「恥さらし」として扱われたのである
経済的格差と男女の差
また、杖刑の執行には経済的な格差も大きく影響していた
清代の『獄中雑記』には、賄賂や贖金によって刑罰が軽減、または回避された具体的な例が記されており、裕福な者は軽い打撃で済ませられた一方、貧しい者は過酷な打撃を受け、深刻な後遺症や死に至ることもあったという
一方で、一部の男性にとっては、杖刑が「名誉」とされる場合もあった
特に直言を行う官僚たちは、皇帝の怒りを買い、杖刑を受けることで「忠臣」としての名声を得ることができたからである
あえて、厳しい刑罰を受けることで忠誠心が証明され、民間からも高い評価を得ることがあったのだ
女性の例とは真逆である
このように、杖刑は「平等」という観点においても多くの問題を抱えていた
終わりに
杖刑は長い歴史の中で、罪に応じて科される刑罰として、法制度の一部を担っていた
しかし女性に適用される場合、単なる罰にとどまらず、実質的には名誉や人生を根底から揺るがすものであった
公衆の面前で屈辱を受ける杖刑は、女性にとって耐え難いものであり、その影響は生涯にわたったのだ
杖刑は清朝末期になると廃止された
社会が進化し、人々の価値観が変化する中で、人権を侵害する行為として認識されるようになったからである
杖刑の歴史は、単なる刑罰の記録ではなく、人間の尊厳や平等の意味を深く考えさせるものといえるだろう
参考 : 『通典』『獄中雑記』『文化杂谈』他
文 / 草の実堂編集部
(この記事は、草の実堂の記事で作りました)
辱めを受ける刑罰、公開刑は、ある意味では犯罪抑止もあったかもしれない
しかし、人権、尊厳、名誉などを傷つけるものだ
今の価値観では受け入れられないだろうし、個人的にも受け入れられない
禁断の中国史 単行本(ソフトカバー)
私は中国へ短期留学したことがある
そんな私が感じた中国・中国人に嫌悪感は抱かなかった
ただし、中国人に「したたかさ」があるのも確かだ
本書の内容に書かれていることも一面ではあるかもとは思った
競馬、第69回有馬記念はレガレイラが優勝
22日に競馬の第69回有馬記念(G1、中山芝2500メートル)が行われ、5番人気の戸崎圭太騎手騎乗のレガレイラが優勝
2着はハナ差で10番人気のシャフリヤール、3着はさらに1馬身1/2差で2番人気のダノンデサイル
(この記事は、JRAのホームページの記事で作りました)
勝ったレガレイラは3歳牝馬で史上2頭目の有馬記念制覇
2歳時にG1・ホープフルステークスを勝ち、3歳の今年は牡馬と混じり、皐月賞6着、日本ダービー5着、秋は牝馬戦線でローズステークス5着、エリザベス女王杯5着で今回の有馬記念制覇
2着はハナ差で10番人気のシャフリヤール、3着はさらに1馬身1/2差で2番人気のダノンデサイル
(この記事は、JRAのホームページの記事で作りました)
勝ったレガレイラは3歳牝馬で史上2頭目の有馬記念制覇
2歳時にG1・ホープフルステークスを勝ち、3歳の今年は牡馬と混じり、皐月賞6着、日本ダービー5着、秋は牝馬戦線でローズステークス5着、エリザベス女王杯5着で今回の有馬記念制覇