『[ヴィジュアル版]バクテリアの神秘の世界:人間と共存する細菌』(原書房)著者:タル・ダニノ
家、土壌、人体など、あらゆる場所に存在するバクテリア
人に害を与えるものとされがちだが、現代ではさまざまに有益な形で役立てられている
多様な形、動き、はたらきをもつバクテリアについて、美しく彩色した図版とともに解説した書籍『[ヴィジュアル版]バクテリアの神秘の世界』より、はじめにを公開します
◆バクテリアは美しい
肉眼では見えない微生物の世界は一種のルネッサンスを迎えている
いまでは微生物はもっぱら病気をもたらす原因とはみられなくなっている
それどころか、バクテリアやウイルスから真菌、古細菌、原生生物に至るこうした微生物は多くの人を魅了する存在となっているのである
微生物の影響は、私たちのマイクロバイオーム(一定の区域に生息する多様な微生物の集団)が健康にもたらす影響、気候変動や地球の健康において環境微生物が果たしている役割、バイオテクノロジーの可能性など、公的な場でも内輪の場でも話の種になっているのだ
バクテリアの驚くべき性質に触発されて、私は、人類が微生物をいかに生物工学で操作し、有益な目的に役立てられるかを考えている
私はシンセティック・バイオロジカル・システムズ・ラボラトリー(「ダニノラボ」と呼ばれることが多い)にいる多くのバクテリア好きの仲間のひとりだ──このラボは科学、工学、デザイン、アートの各分野出身で、進化によりバクテリアが行った発明を別の目的に活用することに打ち込んでいる多彩な人材からなる驚くべきグループである
私たちのような合成生物学者は、微生物を、体内に導入し、病気を調べ、発見し、治療することのできるプログラム可能な極小機械と捉えている
体表や体内でバクテリアが占めている多様なニッチを利用して、私たちはそうしたバクテリアを人間の健康を増進するよう個別に設計したバクテリアで置き換えることができるのだ
このような操作はバクテリアが関わる他の生態系や応用分野にも広がっている
本書はペトリ皿の中のバクテリアを取り上げたものである
このような単純なプラットフォームによっていかに微生物の信じがたい多様性と複雑さを示すことができるかに私は長らく魅了されてきた
ペトリ皿の中で、シンプルなコミュニケーションルールに支配される個々のバクテリアから群集が出現し、雪の結晶のようなパターンを形成する
人体や環境中の試料から得たバクテリアを培養することで、ダニノラボで私たちはこうした生物を美的形態へと成形し、それをメディアとして活用することで、バクテリアの歴史、その複雑なライフスタイル、世界にもたらす影響、またいかに彼らを有用な用途に利用できるかを伝える
結局のところ、人間はいまでもカビや腐敗をもたらすバクテリアなどの微生物を悪いイメージで捉えがちである
私たちが進化の過程で得た本能のおかげで、人類は微生物を避けるよう条件づけられているからだ
だが私たちの進化は、例えば、動物界に色覚をもたらした花や果物の鮮やかな色彩などの、自然界に存在する美の現れを感じ取る生来の性質とも結びついている
人類はその歴史を通じ、動植物を自分たちの美的感覚に沿うように選んで育種してきた──であれば微生物にもそうしない手があるだろうか? 美しいバクテリアが、科学的原理を伝えるのに役立つだけでなく、科学研究の新しくクリエイティブな方向性をも刺激しないはずがあるだろうか?
ラボでの私たちとのコラボレーションで、バクテリアたちは雪の結晶、魚や鳥の群れ、植物の葉の反復パターンのような自然界のプロセスに似た、肉眼で見える群集を形成する
バクテリアの成長と対称的な形態は、魅力的なパターンや心を捉える色彩として現れ、見た目に楽しいものだ
私たちはバクテリアに特定の環境条件を与えることでバクテリアをコントロールしたり、精度を高めるために遺伝子操作したりする──だがバクテリアはしばしば私たちの意図からそれて混沌をもたらし、彼ら自身がアート作品創造の能動的な参加者となる
そうして得られた画像は苦労の跡もなく落ち着いて見えるが、その画像を生み出すためには、ペトリ皿をデジタル技術ではなく、科学用色素や美術用色素を使って手作業で着色するなどの時間と手間がかかっている
本書に掲載している拡大したペトリ皿はそれぞれが小宇宙の世界に似ている
ある画像を見ても、それが海底に存在している何かなのか、あるいは遠い銀河を着色した画像なのかを見分けることは難しい
こうした尺度を変えても変化しないペトリ皿の性質に触れれば、バクテリアの世界からより広い宇宙における生命の可能性について思いをはせることもできる
生きているバクテリアを観察するとき、私たちはこのような微生物と私たちが共有する環境についての物語を読み解き──究極的には生命それ自体についての理解を深めることができるのだ
[書き手]タル・ダニノ(コロンビア大学教授)
ニューヨーク市にあるコロンビア大学の生物医学工学部教授
学際的な合成生物学研究室を率い、バクテリアを「プログラム」し、さまざまなタイプのメディアを活用してそうしたバクテリアをアートワークに変容させている
ロサンゼルス出身で、カリフォルニア大学サンディエゴ校で生物工学の博士号を取得し、マサチューセッツ工科大学で博士号取得後の研究を行い、現在はTEDフェローとなっている
【書誌情報】
[ヴィジュアル版]バクテリアの神秘の世界:人間と共存する細菌著者:タル・ダニノ
翻訳:野口 正雄
出版社:原書房
装丁:大型本(184ページ)
発売日:2024-09-25
(この記事は、ALL REVIEWSの記事で作りました)
[ヴィジュアル版]バクテリアの神秘の世界:人間と共存する細菌 大型本
あらゆる場所に存在するバクテリア
人に害するものとされがちだが、最近ではその有益性に注目されている
人間と共存する細菌の神秘の世界
2024年12月17日
NY株は8営業日続落、日経平均株価は続落
16日(現地時間)のNY株(ダウ平均株価)は、8営業日続落し、終値は前週末比110ドル58セント安の4万3717ドル48セント
ハイテク株中心のナスダックは大きく上昇し、247.17ポイント高の2万073.69
S&P500は22.99ポイント高の6074.08
16日(日本時間)の日経平均株価は続落し、終値は前週末比12円95銭安の3万9457円49銭
(この記事は、ネットニュースの記事で作りました)
ハイテク株中心のナスダックは大きく上昇し、247.17ポイント高の2万073.69
S&P500は22.99ポイント高の6074.08
16日(日本時間)の日経平均株価は続落し、終値は前週末比12円95銭安の3万9457円49銭
(この記事は、ネットニュースの記事で作りました)
『83万人の命を奪った明の大地震』 嘉靖大地震とは
近年の地震の発生率
日本は、世界でも有数の地震多発国として知られている
地震が多い理由は、日本列島が環太平洋火山帯という地震・火山活動が活発な地域に位置し、複数のプレートが交差する地殻構造を持つためである
特に南海トラフやフィリピン海プレートなどが関与する地域では、大規模な地震が発生しやすく、津波の危険性も高い
こうした特徴から、日本では「南海トラフ地震」についての話題が近年注目を集めている
報道やSNSなどでは憶測や不確かな情報が飛び交うこともあり、中には発生日付を具体的に予測するようなデマも見られる
筆者が住む台湾もまた、地震が頻繁に発生する地域である
特に東部地域はプレート境界に位置しており、活発な地震活動が記録されている
古来より地震は、その地域の社会や文化、さらには歴史そのものにも大きな影響を及ぼしてきた
明朝時代に起こった「嘉靖(かせい)大地震」に焦点を当ててみたい
明代の大地震「嘉靖大地震」
1556年1月23日(嘉靖34年12月12日)、冬の冷え込みが人々を家の中へ閉じ込めていた夜明け前、突然の地鳴りが関中平原を震撼させた
人々が最初に感じたのは足元の異変だった
床が震え、壁が微かに軋みを上げた
しかしそれは序章に過ぎなかった
次の瞬間、轟音が辺りを包み、地面が波のようにうねり始めたのだ
瓦が崩れ、柱が折れ、家々が人々の頭上に容赦なく崩れ落ちた
深夜という時間帯が、この災害をさらに悲惨なものにした
多くの人が眠っている最中に家が倒壊し、逃げ出す暇もなく命を奪われたのだ
中には家族全員が瓦礫の下敷きとなり、生き残った者が一人もいない村もあったという
『明史』によると、死者数はなんと官民含めて83万人に及んだとされ、「嘉靖大地震」として知られている
官吏、军民压死八十三万有奇。
意訳:官吏や軍民を含む83万人以上が圧死した。
引用 :『明史』《志第六 五行三》
83万人という数字は、当時の明の人口の1%以上である※約50年前の明武宗正德元年(1506年)の記録で46802050人
これは、現在の視点で考えても驚異的な規模であり、この地震の破壊力がいかに甚大だったかを物語る
嘉靖地震の被害
嘉靖大地震は非常に大きく、広範囲にわたって破壊的な揺れを引き起こした
特に深刻な被害を受けたのは陝西省で、この地域特有の住居である「窰洞(ようどう)」が、より被害を拡大させたという
窰洞とは、黄土の崖を掘って作られる横穴式の住居で、快適な住環境を提供していたが、地震には非常に脆弱だった
突然の揺れで多くの窰洞が崩壊し、中にいた人々は瓦礫に埋もれて命を落とした
地震が深夜に発生したことも不運だった
住民が熟睡していたため、逃げる間もなく被害に巻き込まれたのである
さらに、この地震は地形そのものにも大きな影響を与えた
山が崩れて河川がせき止められ、天然のダムが形成された場所もあったという
その結果、洪水が発生し、さらに多くの命が奪われることとなった
また、地震の余波として、地滑りや液状化現象が広がり、地域の生活を根底から変えてしまったのである
また地震後「黄河の水が一時的に澄み、その底が見えた」という不思議な現象も記録されている
この現象は、地震による河川流路の変化や土砂の流入減少が原因とされているが、当時の人々には「天地の異変」として強い恐怖を与えた
余震も深刻な問題だった
地震直後から数年間、断続的に余震が続き、人々は揺れに見舞われるたびに恐怖に怯えた
さらにこの余震によって復旧作業が妨げられ、水源や農地も大きく損壊したため、食糧不足や飲料水の確保が難しくなり、災害後の生活は非常に過酷なものとなった
嘉靖地震で被害を受けたある人物の墓
このようにたくさんの命を奪った嘉靖大地震だが、その被害は意外なところにまで及んでいた
それは唐の女帝・武則天の墓である
彼女と夫である唐高宗・李治が合葬された墓「乾陵(けんりょう)」は、被災地の陝西省にあった。
乾陵の前には、墓を守るための石像が61体配置されている
しかし、これらの石像の多くには頭部がなく、体の一部も失われているものがある
この奇妙な姿は、歴史上さまざまな議論を呼んできた
中でも有力視されているのが、この「嘉靖大地震」によるものだ
激しい揺れで石像が倒れ、その衝撃で頭部や体の一部が破壊されたと考えられている
この説は、考古学者の研究でも多く支持されている
また、異なる説としては「武則天の政治が苛烈であったために、その後の時代の人々が意図的に石像を破壊した」というものもある
終わりに
嘉靖地震は災害に留まらず、当時の社会や政治に深い影響を与えた
古代中国では、大地震などの天災は「天命が変わる兆し」や「天罰」として解釈されることが多く、その責任は皇帝に帰せられた
当時の嘉靖皇帝は、無能とされることが多く、大規模な災害に対処するだけの資金や物資を十分に供給できない状況にあった
このため、災害後の復興は極めて困難を極めたと考えられる
さらに、この大地震の余波は長く続き、なんと17年にわたり余震が記録されている
この長期にわたる地震活動は、復興作業をさらに遅らせ、被災地域の住民にとって絶え間ない恐怖を与えた
嘉靖地震は、その規模と影響の広がりにおいて、単なる自然災害を超え、当時の社会と歴史に深い爪痕を残したのである
参考 : 『明史』『資治通鑑』他
文 /草の実堂編集部
(この記事は、草の実堂の記事で作りました)
明代に起きた嘉靖大地震は、夜中に起こったので、より被害が大きくなったようです
この地震の余波は長く続き、17年にも及んだという
この余震も当時の人々を苦しめた
余震が続くため、恐怖が続き、復興も遅れたようだ
嘉靖地震は、その規模と影響の広がりにおいて、単なる自然災害を超え、当時の社会と歴史に深い爪痕を残した
紫禁城の栄光―明・清全史 (講談社学術文庫) 文庫
中華皇帝の王城=紫禁城は、モンゴル人が建設し、満洲人が遺したものである
世紀後半の元の北帰と明の興起から、清の落日が始まる19世紀初頭まで、アジア激動の450年を描く
中国の王朝が終わる終盤の明・清代と紫禁城の栄光を振り返る
日本は、世界でも有数の地震多発国として知られている
地震が多い理由は、日本列島が環太平洋火山帯という地震・火山活動が活発な地域に位置し、複数のプレートが交差する地殻構造を持つためである
特に南海トラフやフィリピン海プレートなどが関与する地域では、大規模な地震が発生しやすく、津波の危険性も高い
こうした特徴から、日本では「南海トラフ地震」についての話題が近年注目を集めている
報道やSNSなどでは憶測や不確かな情報が飛び交うこともあり、中には発生日付を具体的に予測するようなデマも見られる
筆者が住む台湾もまた、地震が頻繁に発生する地域である
特に東部地域はプレート境界に位置しており、活発な地震活動が記録されている
古来より地震は、その地域の社会や文化、さらには歴史そのものにも大きな影響を及ぼしてきた
明朝時代に起こった「嘉靖(かせい)大地震」に焦点を当ててみたい
明代の大地震「嘉靖大地震」
1556年1月23日(嘉靖34年12月12日)、冬の冷え込みが人々を家の中へ閉じ込めていた夜明け前、突然の地鳴りが関中平原を震撼させた
人々が最初に感じたのは足元の異変だった
床が震え、壁が微かに軋みを上げた
しかしそれは序章に過ぎなかった
次の瞬間、轟音が辺りを包み、地面が波のようにうねり始めたのだ
瓦が崩れ、柱が折れ、家々が人々の頭上に容赦なく崩れ落ちた
深夜という時間帯が、この災害をさらに悲惨なものにした
多くの人が眠っている最中に家が倒壊し、逃げ出す暇もなく命を奪われたのだ
中には家族全員が瓦礫の下敷きとなり、生き残った者が一人もいない村もあったという
『明史』によると、死者数はなんと官民含めて83万人に及んだとされ、「嘉靖大地震」として知られている
官吏、军民压死八十三万有奇。
意訳:官吏や軍民を含む83万人以上が圧死した。
引用 :『明史』《志第六 五行三》
83万人という数字は、当時の明の人口の1%以上である※約50年前の明武宗正德元年(1506年)の記録で46802050人
これは、現在の視点で考えても驚異的な規模であり、この地震の破壊力がいかに甚大だったかを物語る
嘉靖地震の被害
嘉靖大地震は非常に大きく、広範囲にわたって破壊的な揺れを引き起こした
特に深刻な被害を受けたのは陝西省で、この地域特有の住居である「窰洞(ようどう)」が、より被害を拡大させたという
窰洞とは、黄土の崖を掘って作られる横穴式の住居で、快適な住環境を提供していたが、地震には非常に脆弱だった
突然の揺れで多くの窰洞が崩壊し、中にいた人々は瓦礫に埋もれて命を落とした
地震が深夜に発生したことも不運だった
住民が熟睡していたため、逃げる間もなく被害に巻き込まれたのである
さらに、この地震は地形そのものにも大きな影響を与えた
山が崩れて河川がせき止められ、天然のダムが形成された場所もあったという
その結果、洪水が発生し、さらに多くの命が奪われることとなった
また、地震の余波として、地滑りや液状化現象が広がり、地域の生活を根底から変えてしまったのである
また地震後「黄河の水が一時的に澄み、その底が見えた」という不思議な現象も記録されている
この現象は、地震による河川流路の変化や土砂の流入減少が原因とされているが、当時の人々には「天地の異変」として強い恐怖を与えた
余震も深刻な問題だった
地震直後から数年間、断続的に余震が続き、人々は揺れに見舞われるたびに恐怖に怯えた
さらにこの余震によって復旧作業が妨げられ、水源や農地も大きく損壊したため、食糧不足や飲料水の確保が難しくなり、災害後の生活は非常に過酷なものとなった
嘉靖地震で被害を受けたある人物の墓
このようにたくさんの命を奪った嘉靖大地震だが、その被害は意外なところにまで及んでいた
それは唐の女帝・武則天の墓である
彼女と夫である唐高宗・李治が合葬された墓「乾陵(けんりょう)」は、被災地の陝西省にあった。
乾陵の前には、墓を守るための石像が61体配置されている
しかし、これらの石像の多くには頭部がなく、体の一部も失われているものがある
この奇妙な姿は、歴史上さまざまな議論を呼んできた
中でも有力視されているのが、この「嘉靖大地震」によるものだ
激しい揺れで石像が倒れ、その衝撃で頭部や体の一部が破壊されたと考えられている
この説は、考古学者の研究でも多く支持されている
また、異なる説としては「武則天の政治が苛烈であったために、その後の時代の人々が意図的に石像を破壊した」というものもある
終わりに
嘉靖地震は災害に留まらず、当時の社会や政治に深い影響を与えた
古代中国では、大地震などの天災は「天命が変わる兆し」や「天罰」として解釈されることが多く、その責任は皇帝に帰せられた
当時の嘉靖皇帝は、無能とされることが多く、大規模な災害に対処するだけの資金や物資を十分に供給できない状況にあった
このため、災害後の復興は極めて困難を極めたと考えられる
さらに、この大地震の余波は長く続き、なんと17年にわたり余震が記録されている
この長期にわたる地震活動は、復興作業をさらに遅らせ、被災地域の住民にとって絶え間ない恐怖を与えた
嘉靖地震は、その規模と影響の広がりにおいて、単なる自然災害を超え、当時の社会と歴史に深い爪痕を残したのである
参考 : 『明史』『資治通鑑』他
文 /草の実堂編集部
(この記事は、草の実堂の記事で作りました)
明代に起きた嘉靖大地震は、夜中に起こったので、より被害が大きくなったようです
この地震の余波は長く続き、17年にも及んだという
この余震も当時の人々を苦しめた
余震が続くため、恐怖が続き、復興も遅れたようだ
嘉靖地震は、その規模と影響の広がりにおいて、単なる自然災害を超え、当時の社会と歴史に深い爪痕を残した
紫禁城の栄光―明・清全史 (講談社学術文庫) 文庫
中華皇帝の王城=紫禁城は、モンゴル人が建設し、満洲人が遺したものである
世紀後半の元の北帰と明の興起から、清の落日が始まる19世紀初頭まで、アジア激動の450年を描く
中国の王朝が終わる終盤の明・清代と紫禁城の栄光を振り返る