2024年12月12日

豊臣秀吉 天下人の「悲惨すぎる末路」 お墓も廃墟に

朝鮮出兵のさなか、この世を去った豊臣秀吉
その墓所は、徳川の世では廃墟と化してしまうが、明治期になるとりっぱな墓碑銘がつくられることに
そしてその工事中、なんと秀吉の遺体らしき「ミイラ」が発見されたという
どういうことなのか?
書籍『日本史 不適切にもほどがある話』(堀江宏樹著/三笠書房)より一部を抜粋・再編集し、秀吉の死後、ミイラが発見されるに至る経緯について紹介する

■ 20世紀に見つかった「秀吉のミイラ」

慶長3(1598)年8月18日、大坂城で闘病していた豊臣秀吉が62歳で逝った

前年1月以来、秀吉の命によって日本中の武将たちは、徳川家康などごく一部を除いて、第二次朝鮮出兵(「慶長の役」)に出払っていたし、秀吉の死はその撤退が終わるまでは極秘機密となり、箝口令(かんこうれい)が敷かれることになった

その結果、内々での仏事が営まれただけで「黄金太閤」そして「天下人」秀吉にふさわしい葬儀などは行なわれないままに終わった
しかし水面下では秀吉の遺言を果たすべく、朝廷との交渉が始まっていた
秀吉は「神」になるつもりだったのだ
問題は、秀吉が熱望した「新八幡(いまはちまん)」という神号だった

朝廷からの返答を待たぬまま、秀吉という「神」のための社殿工事が急ピッチで進められていく
この年の12月18日、徳川家康など多くの大名たちが完成した京都・阿弥陀ヶ峰社殿に入っていくのを見て、のちに家康を「神」として久能山に葬る神事を執り行なった梵舜(ぼんしゅん)という神道関係者でさえ訝(いぶか)しげな様子で日記を書いている(『舜旧記(しゅんきゅうき)』)

秀吉の死後4カ月を過ぎてもなお、大坂城関係者以外に情報は伝えられず、秀吉死亡説さえも流れていなかったようだ

■「神」になりたかった太閤

阿弥陀ヶ峰の社殿は、秀吉ゆかりの方広寺の「東山大仏」関連の追加施設だと偽られていた(『義演准后日記』慶長三年九月十一日条)

慶長4(1599)年1月5日、石田三成たち五奉行は、昨年末に朝鮮からの兵の引き揚げが完了したことを契機に秀吉の死を公表し、建造中の社殿は大仏関係の施設ではなく、昨年亡くなった秀吉が「神」となって祀られるべき建物で、その墓所にもなるという説明をした

この時、豊臣家からは秀吉の神号が「新八幡」という情報まで流されてしまっていた
昨年打診して以来、朝廷から正式な返答はまだだったが、既成事実をつくることで拒絶できない空気をつくろうとしていたのだろうか

僧侶や公家の日記にも「八幡社見物」(『義演准后日記』)、「東山新八幡社」(『言経卿記』)という記述が見られるし、徳川家の史料である『当代記』にも、秀吉が「神」として八幡大菩薩になるという記述がある

しかし、あろうことか朝廷は「新八幡」の神号を拒絶してきた

理由は諸説あるが、一つに朝廷の神祇官の頂点に立つ、吉田兼見が反対したらしい
吉田は織田信長や明智光秀、そして生前の秀吉とも親交が深かったが、八幡とは八幡大菩薩の略で、神号にしては仏教色が強いから猛反発したのだともいう

その後、「新八幡」の代案として、吉田が当主を務める吉田神道では最高の神位である「大明神」を含む、「豊国大明神(とよくにだいみょうじん)」の神号を進呈するともいってきたので、「それなら・・・」と石田三成なども丸め込まれてしまったようだ

なぜ「豊国」なのかといえば、「豊」臣秀吉だからという単純な話ではなく、日本の古称は「豊葦原中津国(とよあしはらのなかつくに)」で、秀吉はこの国の主だったから「豊国大明神」にするということだった

しかし、農民出身という身分によって武家の棟梁(とうりょう)である征夷大将軍にはなれなかったとも囁かれる秀吉にとって、武家の守り神にして、軍神の「八幡」の号こそが「大明神」などより、よほどほしかったのではないか

秀吉本人は朝鮮半島に日本人が攻め込むのは『古事記』、『日本書紀』の神功皇后以来の快挙だと本気で考えていたようで、だからこそ、神功皇后とその皇子・応神天皇ゆかりともされる「八幡」の神号に固執したのかもしれない。

しかし、神道においては天照大神に次ぐ立場の神が八幡神なので、いくら「天下人」秀吉とはいえ、軽々しく進呈できるような神号ではなかった

■秀吉の亡骸が入った甕を開けてみたら・・・

「新八幡」よりも「豊国大明神」の神号の威力は薄かったのか、秀吉の死後、豊臣家と徳川家の抗争は激化し、二度の「大坂の陣」の末、戦国大名としての豊臣家は滅亡してしまった

徳川家康は豊国大明神の神号を廃止するだけでなく、豊国社(豊国神社)の建物も破却しようとした
しかし、秀吉未亡人の高台院(おね)から「崩れ次第になし給(たま)はれ」(『東照宮御実紀附録』)──人為的に壊すのではなく、せめて「荒れるがままに放置してください」と頼み込まれて、そのとおりにした

やがて秀吉の遺体が入った甕(かめ)を埋めた墳墓の名前も、徳川家を憚(はばか)って「馬塚」と呼ばれるようになってしまった
早くも豊国社は17世紀後半には廃屋と化し、盛者必衰の理(ことわり)を感じずにはいられない廃墟系名所になっていたようだ(『京童』)

状況が変わったのは、徳川幕府が倒れた明治の世だった
慶応4年=明治元(1868)年、明治天皇の大坂行幸が契機となって、豊国大明神の神号が復活し、明治13(1880)年には京都に豊国神社が再興されたのだ

そして明治23(1890)年6月25日には、黒田長成侯爵など、豊臣秀吉子飼いの大名の子孫たちが中心となり、秀吉の墓所にふさわしい墓碑銘を建てるべく「豊国会」が結成された

しかしその工事中、秀吉の遺体を収めた甕が出土してしまったのだ
その蓋を開けると、西向きに鎮座したミイラ化した秀吉の遺体があったという

意図しなかったにせよ、秀吉の墓荒らしをした「豊国会」の面々は、甕から秀吉の遺体を取り出そうと試みるという、さらに取り返しのつかぬミスまで犯してしまった
下手に動かしたせいで、それまではかろうじて人の形を保っていたものが、バラバラと崩れ落ちたのである

秀吉の遺体の破片のそれぞれが丁寧に絹の布に巻かれて桐の箱に収められ、銅製と石製の箱で二重にカバーされてから、地中に戻っていった

もし、科学が進んだその後のしかるべき時期に土中から発見されていたのなら、秀吉のミイラからどれほど有益な情報を知りえたかと思うと口惜しいものがある

(この記事は、歴史人の記事で作りました)

天下人・豊臣秀吉は、死後「豊国大明神」として「神」として扱われた

しかし徳川の世になると、秀吉を祀った「豊国神社」は廃墟へ

「豊国大明神」の神号も剥奪

神社が再興され、神号が復活したのは徳川幕府が滅びた明治の世になって

ちなみに秀吉の後の天下人・徳川江家康は秀吉の豊国「大明神」ではなく、東照「大権現」として神として扱われた
(徳川の世になっての秀吉の扱いも影響しているのでは)





日本史 不適切にもほどがある話: あまりに露骨すぎて「なかったこと」にされた史実 (王様文庫 A 91-9) 文庫

歴史には光と影がある
一般に知られない「日本史の不都合な話」、影の部分を紹介
posted by june at 12:16| Comment(0) | ニュース | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

NY株は4営業日続落・ナスダックは史上最高値を更新、日経平均株価は3日続伸

11日(現地時間)のNY株(ダウ平均株価)は、5営業日続落し、終値は前日比99ドル27セント安の4万4148ドル56セント

ハイテク株中心のナスダックは347.65ポイント高の1万2万0034.89で史上最高値を更新

S&P500は49.28ポイント高の6084.19



11日(日本時間)の日経平均株価は3日続伸し、終値は前日比4円65銭高の3万9372円23銭


(この記事は、ネットニュースの記事で作りました)

11日のナスダックは大幅上昇
posted by june at 06:56| Comment(0) | 株価動向 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「梅雨」がくるのはヒマラヤ山脈のせい!? 天気との意外な関係性

地球上で起きていること、どれだけ知っている?

この地球で当たり前に感じていることでも、うまく説明できないことがありますよね
例えば、「青い空が夕暮れに赤く染まるのはなぜ?」「台風が日本列島めがけてやってくる理由は?」

そんな地球に生きる私たちが知っておくべき「理系雑学」をご紹介します
太陽系を含む地球の歴史をはじめ、地球上で成立した大自然や気候、動植物、資源など、地球をめぐる大疑問にスッキリ回答!
あらためて考えると、私たちはこの地球にまつわるさまざまなことを、じつはほとんど知らないのかもしれないかもしれません

※本記事は雑学総研著の書籍『人類なら知っておきたい 地球の雑学』から一部抜粋・編集しました


日本に梅雨がくるのは、ヒマラヤ山脈のせい!? 意外な関係性

日本では、初夏のさわやかな時期はひどく短い
じめじめした梅雨が始まり、やっと終わったかと思うと暑い夏になってしまうからだ

梅雨は、オホーツク海高気圧の冷たく湿った空気と太平洋高気圧の暖かい空気が日本の上空でぶつかることで起こる
勢力が同等の冷たい空気と暖かい空気の境目が梅雨前線で、不安定な空気は雨をもたらし、前線が停滞するために長く続く

だが、世界のほかの地域で同じように寒気と暖気がぶつかる場があっても、梅雨のような長雨にはなっていない
梅雨は東アジア独特の現象なのである
そしてその原因は、平均高度が4000メートルを超えるヒマラヤ山脈とチベット高原にあるといわれている

この時期にオホーツク海高気圧が発生するのは、西から吹くジェット気流の流れの変化による
冬にヒマラヤ山脈の南側を通っていたジェット気流は、春に北側に移動すると、ヒマラヤ山脈とチベット高原にぶつかって二手に分かれる
北の流れは大気を冷やし、南の流れは大気を暖め、日本の東の海上で再び合流して高気圧をつくり出す

また、このジェット気流の蛇行がオホーツク海高気圧を持続させる働きをするため、梅雨はなかなか明けない
もっと季節が進むと、ジェット気流はヒマラヤ山脈とチベット高原の北だけを通るようになり、海水温の上昇で勢力を強めた太平洋高気圧がオホーツク海高気圧を押しやって前線が北上し、ようやく梅雨は終わるのだ

シミュレーションによると、もしもヒマラヤ山脈が今の半分の高さだったら、日本の雨量も半分程度になり、チベット高原の要素を外すと、梅雨は発生しなくなるという

(この記事は、レタスクラブの記事で作りました)

じめじめする梅雨はヒマラヤ山脈とチベット高原の影響だそうだ

冬にヒマラヤ山脈の南側を通っていたジェット気流は、春に北側に移動すると、ヒマラヤ山脈とチベット高原にぶつかって二手に分かれる
北の流れは大気を冷やし、南の流れは大気を暖め、日本の東の海上で再び合流して高気圧をつくり出す

また、このジェット気流の蛇行がオホーツク海高気圧を持続させる働きをするため、梅雨はなかなか明けない

「梅雨は、オホーツク海高気圧の冷たく湿った空気と太平洋高気圧の暖かい空気が日本の上空でぶつかることで起こる
勢力が同等の冷たい空気と暖かい空気の境目が梅雨前線で、不安定な空気は雨をもたらし、前線が停滞するために長く続く」
(ヒマラヤ山脈は平均高度4000メートル)

ちなみにシミュレーションによると、もしもヒマラヤ山脈が今の半分の高さだったら、日本の雨量も半分程度になり、チベット高原の要素を外すと、梅雨は発生しなくなるという



人類なら知っておきたい 地球の雑学 (中経の文庫) 文庫

地球(を含めた宇宙)には謎や不思議、ギモンが多くあります
空はなぜ青く、夕焼けは赤いのだろうか!?とか・・・
そんな「理系雑学」を楽しくわかりやすく解説
posted by june at 04:14| Comment(0) | ニュース | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする