遺伝的な要因がほとんどだが、環境的な影響もある
朝から活動的な「朝型」の人と、夜ふかしが得意な「夜型」の人の割合は、きれいな山型の曲線を描く正規分布です
半分ほどはどちらでもなく、ある程度の朝型と夜型が20%ずつ、極端なタイプが5%ずつの分布です
1日のなかでの体温の変化を比べると、朝型か夜型かがわかります
平均より前の時間帯にずれていれば朝型、後ろにずれていれば夜型ですが、その差はせいぜい2〜3時間程度です
朝型は、早朝から体温が上昇するので、覚醒の準備が早く整い、目覚めてすぐに活動をはじめられます
そして、夜になると体温が急激に低下するため入眠しやすく、眠りにつくまでの時間が短いのが特徴です
一方、夜型は夕方から夜にかけて体温の高い状態がつづくので、夜遅くまで元気にすごせます
その後、平均より遅い時間帯に体温が下がりはじめ、早朝にもっとも低くなります
朝の体温上昇も遅いので、覚醒レベルが上がるのも遅く、昼すぎくらいまですっきりしません
極端な「朝型」「夜型」は、遺伝で決まっているケースが大半とはいえ、多くの人は遺伝だけでなく、年齢や生活環境などの影響も受けるので、朝型、夜型が変わることもあります
ただし、異なる型へ変更することは遺伝的な素質に逆らうため、あまりおすすめしません
【出典】『眠れなくなるほど面白い 図解 睡眠の話』 監修:西野精治
(この記事は、ラブすぽの記事で作りました)
私は「朝型人間」ですね
早朝から頭がスッキリで、目覚めもよく、寝ていても物音ですぐ起きます
しかし、夜遅くまで起きていることも平気です
これは母の影響が大きいようで、さらにいえば、母の父(私から見れば祖父)からの影響のようです
(その先の先祖はわかりませんが)
眠れなくなるほど面白い 図解 睡眠の話 単行本(ソフトカバー)
睡眠は重要で心と身体の健康につながるようです
睡眠不足や質の低い睡眠は、肥満や生活習慣病、がん、うつなどの発症リスクとなるようです
最新の研究から睡眠のメカニズム、重要性、効果などを図解やイラストでわかりやすく解説
2024年12月02日
「日本一の兵」と称された真田信繁の妻・竹林院は、夫の死後どうなったのか?
戦国時代、過酷な状況に置かれたのは武将だけでなく、武家の女性たちも同じ
婚姻を通じて実家と婚家の間を取り結んだり、人質としての役割を果たすなど、覚悟をもって生きねばなりませんでした
そして時には、実家、婚家、あるいはその両方が滅ぶことも・・・
月刊誌『歴史街道』2024年12月号では、「戦国を生きた姫たち」と題して、督姫、初姫、竹林院、東向殿、五郎八姫、松姫の六人の女性の歩みを取り上げていますが、ここでは、真田信繁の妻・竹林院について紹介しましょう
真田信繁の正室・竹林院の生涯
竹林院は、豊臣政権の有力奉行・大谷吉継の娘で、「幸村」の名で知られる真田信繁の正室である
ただ竹林院に関して、詳しいことはほとんどわかっていない
生年も未詳であるが、父・吉継が永禄8年(1565)生まれ(永禄2年〈1559〉説あり)なのに対し、夫・信繁は永禄10年(1567)、あるいは元亀元年(1570)生まれとされ、年齢がそれほど違わないことから、信繁は竹林院よりかなり年上だったかもしれない
婚姻の時期も、文禄3年(1594)説や、吉継が病のため、文禄3年から数年の間、豊臣政権を離脱するので、それ以前の天正年間(丸島和洋『真田一族と家臣団のすべて』)など諸説がある
いずれにせよ、秀吉の意向による政略結婚であった
慶長5年(1600)9月の関ケ原合戦の際には、吉継も信繁も、いわゆる西軍についているが、周知の通り西軍は敗れ、吉継は自刃
信繁は父・真田昌幸とともに高野山、次いで九度山(和歌山県伊都郡九度山町)に配流された
このとき、竹林院も九度山で合流したと考えられている
九度山には信繁の側室も入っており、子の誕生が相次いだ
竹林院も、嫡男・大助、次男・大八、六女・阿菖蒲、七女・おかねを産んだ
不自由で貧しくはあったものの、竹林院は夫とともに比較的に平穏な日々を送ったとされる(花ヶ前盛明編『大谷刑部のすべて』所収 奥村徹也「大谷刑部の家族・一族」)
そうした九度山での暮らしは、大坂冬の陣の勃発により終わりを告げる
慶長19年(1614)10月、豊臣秀頼の誘いを受けた信繁は九度山を脱出し、大坂城に入った
竹林院も夫に従い、城内に与えられた屋敷に居を移した
夫の真田丸での華々しい活躍は、竹林院もさぞかし誇らしかっただろう
翌慶長20年(1615)の大坂夏の陣において、5月7日、信繁は家康本陣を急襲するも、力尽きて討ち取られた
豊臣秀頼と淀殿も自害し、豊臣家は滅亡
竹林院の嫡男・大助も殉死を遂げた
竹林院は子女を連れて、大坂城からの脱出に成功したが、紀伊伊都郡に潜伏しているところを捕らえられた
だが特に処罰を受けた様子もなく、その後、赦免されて落飾
京で余生を送った
竹林院は慶安2年(1649)5月18日に、この世を去った
七女・おかねの尽力により、龍安寺塔頭大珠院(京都市右京区)に信繁、竹林院、大助の墓が建立されたという(非公開)
激動の戦国時代を生き抜いた竹林院は、「日本一の兵」と称される夫と息子とともに、安らかに眠ることができたのだ
【鷹橋忍(作家)】
昭和41年(1966)、神奈川県生まれ
洋の東西を問わず、古代史・中世史の文献について研究している
著書に『戦国武将の合戦術』『滅亡から読みとく日本史』などがある
(この記事はPHP onlineの記事で作りました)
真田信繁、通称真田幸村
この通称の幸村の方が有名だろう
大坂冬の陣では大坂城に真田丸を築き奮戦
大坂夏の陣では、後の天下人・徳川家康の本陣を強襲
家康の馬印が倒れた(生涯2度しかない、三方ヶ原の戦い以来)
この時、家康は自害手前まで追い詰められた
最後は真田勢が力尽きた
しかし、この奮戦は後に「日本一の兵(ひのもといちのつわもの」と称えられた
そんな真田信繁(幸村)を夫に持つ竹林院・・・
夫の死後
竹林院は子女を連れて、大坂城からの脱出に成功したが、紀伊伊都郡に潜伏しているところを捕らえられた
だが特に処罰を受けた様子もなく、その後、赦免されて落飾
京で余生を送った
竹林院は慶安2年(1649)5月18日に、この世を去った
七女・おかねの尽力により、龍安寺塔頭大珠院(京都市右京区)に信繁、竹林院、大助の墓が建立されたという(非公開)
激動の戦国時代を生き抜いた竹林院は、「日本一の兵」と称される夫と息子とともに、安らかに眠ることができたのだそうです
真田幸村 家康をもっとも追いつめた男 (小学館新書 242) 新書
日本一の兵(ひのもといちのつわもの)といわれ天下人となる家康を最も追い込んだ男・真田幸村
私も好きな戦国武将で、今なお絶大な人気のある幸村の魅力のすべてと壮絶な最期の奮戦を追う
婚姻を通じて実家と婚家の間を取り結んだり、人質としての役割を果たすなど、覚悟をもって生きねばなりませんでした
そして時には、実家、婚家、あるいはその両方が滅ぶことも・・・
月刊誌『歴史街道』2024年12月号では、「戦国を生きた姫たち」と題して、督姫、初姫、竹林院、東向殿、五郎八姫、松姫の六人の女性の歩みを取り上げていますが、ここでは、真田信繁の妻・竹林院について紹介しましょう
真田信繁の正室・竹林院の生涯
竹林院は、豊臣政権の有力奉行・大谷吉継の娘で、「幸村」の名で知られる真田信繁の正室である
ただ竹林院に関して、詳しいことはほとんどわかっていない
生年も未詳であるが、父・吉継が永禄8年(1565)生まれ(永禄2年〈1559〉説あり)なのに対し、夫・信繁は永禄10年(1567)、あるいは元亀元年(1570)生まれとされ、年齢がそれほど違わないことから、信繁は竹林院よりかなり年上だったかもしれない
婚姻の時期も、文禄3年(1594)説や、吉継が病のため、文禄3年から数年の間、豊臣政権を離脱するので、それ以前の天正年間(丸島和洋『真田一族と家臣団のすべて』)など諸説がある
いずれにせよ、秀吉の意向による政略結婚であった
慶長5年(1600)9月の関ケ原合戦の際には、吉継も信繁も、いわゆる西軍についているが、周知の通り西軍は敗れ、吉継は自刃
信繁は父・真田昌幸とともに高野山、次いで九度山(和歌山県伊都郡九度山町)に配流された
このとき、竹林院も九度山で合流したと考えられている
九度山には信繁の側室も入っており、子の誕生が相次いだ
竹林院も、嫡男・大助、次男・大八、六女・阿菖蒲、七女・おかねを産んだ
不自由で貧しくはあったものの、竹林院は夫とともに比較的に平穏な日々を送ったとされる(花ヶ前盛明編『大谷刑部のすべて』所収 奥村徹也「大谷刑部の家族・一族」)
そうした九度山での暮らしは、大坂冬の陣の勃発により終わりを告げる
慶長19年(1614)10月、豊臣秀頼の誘いを受けた信繁は九度山を脱出し、大坂城に入った
竹林院も夫に従い、城内に与えられた屋敷に居を移した
夫の真田丸での華々しい活躍は、竹林院もさぞかし誇らしかっただろう
翌慶長20年(1615)の大坂夏の陣において、5月7日、信繁は家康本陣を急襲するも、力尽きて討ち取られた
豊臣秀頼と淀殿も自害し、豊臣家は滅亡
竹林院の嫡男・大助も殉死を遂げた
竹林院は子女を連れて、大坂城からの脱出に成功したが、紀伊伊都郡に潜伏しているところを捕らえられた
だが特に処罰を受けた様子もなく、その後、赦免されて落飾
京で余生を送った
竹林院は慶安2年(1649)5月18日に、この世を去った
七女・おかねの尽力により、龍安寺塔頭大珠院(京都市右京区)に信繁、竹林院、大助の墓が建立されたという(非公開)
激動の戦国時代を生き抜いた竹林院は、「日本一の兵」と称される夫と息子とともに、安らかに眠ることができたのだ
【鷹橋忍(作家)】
昭和41年(1966)、神奈川県生まれ
洋の東西を問わず、古代史・中世史の文献について研究している
著書に『戦国武将の合戦術』『滅亡から読みとく日本史』などがある
(この記事はPHP onlineの記事で作りました)
真田信繁、通称真田幸村
この通称の幸村の方が有名だろう
大坂冬の陣では大坂城に真田丸を築き奮戦
大坂夏の陣では、後の天下人・徳川家康の本陣を強襲
家康の馬印が倒れた(生涯2度しかない、三方ヶ原の戦い以来)
この時、家康は自害手前まで追い詰められた
最後は真田勢が力尽きた
しかし、この奮戦は後に「日本一の兵(ひのもといちのつわもの」と称えられた
そんな真田信繁(幸村)を夫に持つ竹林院・・・
夫の死後
竹林院は子女を連れて、大坂城からの脱出に成功したが、紀伊伊都郡に潜伏しているところを捕らえられた
だが特に処罰を受けた様子もなく、その後、赦免されて落飾
京で余生を送った
竹林院は慶安2年(1649)5月18日に、この世を去った
七女・おかねの尽力により、龍安寺塔頭大珠院(京都市右京区)に信繁、竹林院、大助の墓が建立されたという(非公開)
激動の戦国時代を生き抜いた竹林院は、「日本一の兵」と称される夫と息子とともに、安らかに眠ることができたのだそうです
真田幸村 家康をもっとも追いつめた男 (小学館新書 242) 新書
日本一の兵(ひのもといちのつわもの)といわれ天下人となる家康を最も追い込んだ男・真田幸村
私も好きな戦国武将で、今なお絶大な人気のある幸村の魅力のすべてと壮絶な最期の奮戦を追う
競馬、第25回チャンピオンズカップはレモンポップが優勝
1日に競馬の第25回チャンピオンズカップ(G1、中京ダート1800メートル)が行われ、1番人気の坂井瑠星騎手騎乗のレモンポップが優勝
2着はハナ差で2番人気のウィルソンテソーロ、3着はさらに1馬身1/2差で9番人気のドゥラエレーデ
(この記事は、JRAのホームページの記事で作りました)
勝ったレモンポップはこれで国内ダートG1・6戦無敗で国内ダート王者のまま現役引退
2着はハナ差で2番人気のウィルソンテソーロ、3着はさらに1馬身1/2差で9番人気のドゥラエレーデ
(この記事は、JRAのホームページの記事で作りました)
勝ったレモンポップはこれで国内ダートG1・6戦無敗で国内ダート王者のまま現役引退