症状と漢方処方 疲労
朝目覚めたときに前日の疲れがとれていない、いつもと同じことをしていてもすぐに疲れてしまう、そんなときは気が不足していたり、気の巡りが滞っていることが考えられます
胃腸が弱って気・血をつくれなくなっていることもあります
疲労はため込まないことがいちばん
疲れを感じたら生活を見直してみましょう。
体質からみる気虚による疲労
夕方になると疲れが出てくる
処方:補中益気湯/六君子湯
気持ちをあげる漢方薬を
気虚の人は、夕方になると、疲れが増してきます
こまめに休みをとり、夜はしっかりと睡眠をとるように心がけましょう
このタイプは元気が出る升麻や柴胡が配合されている補中益気湯を使うと意欲をたかめることができます
また胃腸の薬として使われる六君子湯を用いて、消化吸収をよくすることで気を補ってもよいでしょう
体質からみる気血両虚による疲労
気虚がすすむと血も不足してしまう
処方:十全大補湯
寝汗が出るようなら要注意
気虚の人が、夜も頑張って仕事をしたり、目を使いすぎると血虚になりやすくなります
睡眠をとっても疲れが回復しない、寝汗をかくといった状態になると、かなり症状が悪化していると考えられます
補気補血の代表薬である十全大補湯を用いて、体力を回復させるようにします
自分の気血の容量を超えた生活をしている可能性があるので、生活を見直すことも大切です
体質からみる気滞による疲労
朝の動き出しがいちばんつらい
処方:四逆散
睡眠の質が低下している
朝起きて、動き出すときがいちばんつらく、いったん仕事をはじめて気が回りはじめると楽になってくるのが気滞タイプの特徴です
気を巡らせる四逆散を用います
養生・セルフケア
食べもの
気滞の人は、体が緊張してよく眠れていないために、疲れがとれていないのかもしれません
お酢などのすっぱいものは筋肉の緊張をとる効果があるので、疲れたときにとるようにしましょう
梅干しもおすすめです
【出典】『生薬と漢方薬の事典』著:田中耕一郎
(この記事は、ラブすぽの記事で作りました)
「病は気から」という言葉がある
病も「気持ち」からということだ
全ての病がそうだとは言えないがそういう場合もあるだろう
西洋医学では以前は「精神的原因」と片付けたのを、最近では「病」として治療するように
(もちろん精神病治療は以前からあったが「気持ち」のみ)
東洋医学では以前から気持ちも「精神的原因」だけでない治療も行ってきた
精神的不調も「身体を巡る気が悪くなった」と考える
心身両面を診てきたのだ
生薬と漢方薬の事典 単行本(ソフトカバー)
その人個人の「体質」に合わせ治療する漢方
心身一体の医学
生薬と漢方薬を紹介する事典
2024年12月31日
NY株は続落、日経平均株価は4営業日ぶりに反落
30日(現地時間)のNY株(ダウ平均株価)は、続落し、終値は前週末比418ドル48セント安の4万2573ドル73セント
ハイテク株中心のナスダックは235.25ポイント安の1万9486.78
S&P500は63.90ポイント安の5906.94
大納会となった30日(日本時間)の日経平均株価は4営業日ぶりに反落し、終値は前週末比386円62銭安の3万9894円54銭
年末時点としては、1989年の3万8915円を上回り最高となった
(この記事は、ネットニュースの記事で作りました)
30日のダウ平均株価の終値は前週末比410ドル超の大幅下落
ナスダックも大きく下落
30日の日経平均株価の終値は前週末比380円超の大幅下落
ハイテク株中心のナスダックは235.25ポイント安の1万9486.78
S&P500は63.90ポイント安の5906.94
大納会となった30日(日本時間)の日経平均株価は4営業日ぶりに反落し、終値は前週末比386円62銭安の3万9894円54銭
年末時点としては、1989年の3万8915円を上回り最高となった
(この記事は、ネットニュースの記事で作りました)
30日のダウ平均株価の終値は前週末比410ドル超の大幅下落
ナスダックも大きく下落
30日の日経平均株価の終値は前週末比380円超の大幅下落
毛沢東の4人の妻たち 〜その哀れな最後 「愛と権力に翻弄される」
毛沢東は、中華人民共和国の建国者として、その名を歴史に刻んでいる
その業績を評価する声も多い一方で、彼の施策が生んだ混乱や犠牲を批判する声も根強い
特に、彼が主導した「大躍進政策」や「文化大革命」は、膨大な人的被害と社会的混乱を招いたとして論争の的となっている
毛沢東の人物像を語る上で重要なのは、彼が多面的な人間であったという事実である
革命家、政治家、思想家としての顔を持つ一方で、彼の私生活は波乱に満ちていた
その人生には、数多くの女性たちも関わっていた
毛沢東の「主治医」であった李志綏(り しすい)は、その回想録『毛沢東私人医生回忆录』で毛の私生活について詳細に述べている
李によれば、毛は権力者としての側面を持つ一方で、非常に人間的な弱さや自己中心的な一面も持ち合わせていたという
毛主席对于爱情的理解,不是传统意义上的忠诚,而是权力的延伸。他把女人当作权力的体现。
意訳 : 毛主席にとって愛情とは、伝統的な忠誠の意味ではなく、権力の延長線上にあるものであった。彼は女性を権力の象徴として捉えていた。
李志綏『毛沢東私人医生回忆录』より引用
毛沢東の妻たちについて解説する
最初の妻・羅氏
毛沢東の最初の妻である羅氏(らし)との結婚は、彼自身の意思ではなく、家族が取り決めたものであった
毛が14歳頃のときのことで、羅氏は4つ年上の18歳、当時の慣習に従った形式的な結婚にすぎなかった
羅氏は毛沢東の家に迎えられたが、二人が実際に夫婦としての生活を送ることはなかったとされる
羅氏は結婚後、2年ほどで病に倒れ、1910年に20歳で亡くなった
そのため、彼女については記録も少なく、ほとんど知られていない
第2の妻・楊開慧(よう かいけい)
楊開慧(よう かいけい)は、毛沢東の第二の妻である
楊開慧は毛の教師であった楊昌済(よう しょうさい)の娘で、二人は1913年から1918年の間に知り合い、毛が楊家を頻繁に訪れる中で親交を深めた
1920年、二人は結婚するが、この結婚は単なる私的な愛情の結びつきにとどまらなかった
楊開慧は毛の革命思想を理解し、共産党活動を支える良き相談相手でもあったのだ
夫妻には3人の息子が生まれたが、家庭生活は順風満帆ではなかった
2人目の息子が誕生した直後、毛の浮気が発覚し、夫妻の間には大きな溝を生まれた
それでも、楊開慧は夫を支え続け、革命活動にも積極的に参加した
しかし、1930年、彼女は国民党政府により長沙の自宅で逮捕される
国民党は彼女に対し「毛沢東との関係を断ち、共産党を非難しろ」と強要したが、楊開慧はこれを断固拒否した
その結果、1930年11月14日、彼女は長沙郊外で銃殺されるという悲劇的な最期を遂げた
享年29
彼女の死に対し、毛は「彼女の死は百身を持ったとしても贖えぬ」と嘆息したとされる
しかし一方で、楊開慧がまだ生きていた1928年には、すでに当時17歳だった賀子珍(※後述)と結婚していた記録も残されており、この矛盾した行動は毛の複雑な人間性を浮き彫りにしていると言えるだろう
第3の妻・賀子珍(が しちん)
賀子珍(が しちん)は、毛沢東の第三の妻である
1928年、江西省井岡山で二人は出会った
当時、賀子珍は17歳で、共産党の活動に積極的に関与していた才色兼備の女性であった
その年、毛沢東との関係が深まり、事実上の結婚生活を始めたが、このとき毛沢東はまだ楊開慧と正式には離婚していなかった
賀子珍は毛沢東の革命運動を支えながら、彼との間に6人の子供をもうけた
しかし、この6人のうち4人は戦争や混乱の中で行方不明となったり、早逝している
その後、毛の浮気癖が原因で夫婦関係は次第に悪化していった
特に毛が通訳の呉光偉(ご こうけい)と不倫関係になると、賀子珍の精神状態は次第に不安定となり、自殺未遂に及ぶことさえあったという
1937年、毛は彼女を「治療」の名目でモスクワへ送り、事実上遠ざける決断を下した
ソ連での生活は孤独と困難に満ちており、彼女はそこで息子を出産するが、その子も生後間もなく亡くなっている
1946年、賀子珍は中国へ帰国した
しかし、すでに毛は後述する江青と結婚しており、賀子珍との関係は完全に終わっていた
1959年の廬山会議で22年ぶりに毛と再会するが、それが二人が顔を合わせた最後の機会となった
晩年は上海で軟禁状態に置かれながら過ごし、1984年に73歳でこの世を去った
吳廣惠(ご こうけい)
呉広恵(ご こうけい)は妻ではないが、前述したように賀子珍との関係を崩壊させるきっかけとなった女性である
呉広恵は北京大学を卒業した知識人であり、流暢な英語を操る翻訳者であった
彼女はその美貌と知性で多くの人々を魅了しており、共産党内でも注目を浴びる存在だった
毛は、彼女の知的な会話と洗練された態度に惹かれ、二人は急速に親密な関係となった
1930年代後半、毛と呉広恵の関係は隠し通せないほど明白なものとなっていた
賀子珍はこの関係に対して激しい怒りを示し、何度も抗議を繰り返したとされる
しかし、毛は彼女と正式に結婚することはなく、二人の関係は長続きしなかった
呉広恵自身のその後の人生については、ほとんど記録が残されていないが、彼女は毛の周囲で消耗し、その後表舞台から姿を消したとされる
第4の妻・江青(こうせい)
江青(こうせい)は、毛沢東の4番目の妻であり、最も政治的影響力を持った女性である
江青は山東省で生まれ、本名を李雲鶴(り うんかく)といった
上海で女優として活動し、演劇の才能で注目される一方、自由奔放な性格で知られていた
1930年代、共産党の思想に惹かれた彼女は活動に加わり、延安で毛沢東と出会った
二人は1938年に正式に結婚するが、当時の党幹部の中には、彼女の過去の経歴や性格を理由に反対する声も多くあった
それでも毛は江青を選び、彼女もまた毛を支えながら自らの地位を築き上げていった
1966年に始まった文化大革命では、江青は毛の思想を広める中核的役割を担い、「四人組」のリーダー格として活躍した
※四人組(よにんぐみ)とは、文化大革命において毛沢東を支持し、共産党内で権力を握った江青、張春橋、姚文元、王洪文の4人の政治集団を指す
彼女は文化人や知識人を弾圧し、多くの反対派を排除した
毛の主治医・李志綏(り しすい)は、江青と毛沢東の関係について次のように語っている
毛主席对江青的情感,始终是一种复杂的交织,既有爱情,也有政治上的考量。江青通过毛的权力,获得了自己的影响力。
意訳 : 毛主席の江青への感情は、常に愛情と政治的配慮が絡み合った複雑なものであった。江青は毛沢東の権力を通じて、自身の影響力を手に入れた。
引用 : 『毛沢東私人医生回忆录』李志綏
毛沢東が1976年に死去すると、江青の権力基盤は急速に崩壊した
彼女は「文化大革命の主導者」としての責任を問われ、「四人組」のメンバーとともに逮捕された
1981年の裁判では「反革命活動」の罪により死刑判決を受けるが、その後、無期懲役に減刑された
収監中の江青は、自身の行動を正当化しようと試みたものの、かつての栄光を取り戻すことはなかった
その後、1991年5月14日、北京の病院で首を吊り自殺した
享年77
終わりに
毛沢東の人生を通じて彼の妻たちは、ただの伴侶ではなく、時に革命の同志であり、時に彼の権力の象徴でもあった
その人生は、愛情や家族という枠を超え、政治と歴史の舞台に引き上げられることとなった
しかし、彼に選ばれた女性たちの多くが、過酷な運命に翻弄され、平穏な人生を送ることは叶わなかった
参考 : 『毛沢東私人医生回忆录』他
文 /草の実堂編集部
(この記事は、草の実堂の記事で作りました)
毛沢東は中華人民共和国建国のリーダーであり、カリスマだった
しかし、晩年は文化大革命など迷走、失策もあった
女性については複雑だ
毛沢東の人生を通じて彼の妻たちは、ただの伴侶ではなく、時に革命の同志であり、時に彼の権力の象徴でもあった
その人生は、愛情や家族という枠を超え、政治と歴史の舞台に引き上げられることとなった
しかし、彼に選ばれた女性たちの多くが、過酷な運命に翻弄され、平穏な人生を送ることは叶わなかった
毛沢東語録 (平凡社ライブラリー) 文庫
毛沢東が稀代の革命家であり、中華人民共和国建国の父であり、カリスマだった
晩年は失策もあった
毛沢東の語録から彼の考えた中国について考える
その業績を評価する声も多い一方で、彼の施策が生んだ混乱や犠牲を批判する声も根強い
特に、彼が主導した「大躍進政策」や「文化大革命」は、膨大な人的被害と社会的混乱を招いたとして論争の的となっている
毛沢東の人物像を語る上で重要なのは、彼が多面的な人間であったという事実である
革命家、政治家、思想家としての顔を持つ一方で、彼の私生活は波乱に満ちていた
その人生には、数多くの女性たちも関わっていた
毛沢東の「主治医」であった李志綏(り しすい)は、その回想録『毛沢東私人医生回忆录』で毛の私生活について詳細に述べている
李によれば、毛は権力者としての側面を持つ一方で、非常に人間的な弱さや自己中心的な一面も持ち合わせていたという
毛主席对于爱情的理解,不是传统意义上的忠诚,而是权力的延伸。他把女人当作权力的体现。
意訳 : 毛主席にとって愛情とは、伝統的な忠誠の意味ではなく、権力の延長線上にあるものであった。彼は女性を権力の象徴として捉えていた。
李志綏『毛沢東私人医生回忆录』より引用
毛沢東の妻たちについて解説する
最初の妻・羅氏
毛沢東の最初の妻である羅氏(らし)との結婚は、彼自身の意思ではなく、家族が取り決めたものであった
毛が14歳頃のときのことで、羅氏は4つ年上の18歳、当時の慣習に従った形式的な結婚にすぎなかった
羅氏は毛沢東の家に迎えられたが、二人が実際に夫婦としての生活を送ることはなかったとされる
羅氏は結婚後、2年ほどで病に倒れ、1910年に20歳で亡くなった
そのため、彼女については記録も少なく、ほとんど知られていない
第2の妻・楊開慧(よう かいけい)
楊開慧(よう かいけい)は、毛沢東の第二の妻である
楊開慧は毛の教師であった楊昌済(よう しょうさい)の娘で、二人は1913年から1918年の間に知り合い、毛が楊家を頻繁に訪れる中で親交を深めた
1920年、二人は結婚するが、この結婚は単なる私的な愛情の結びつきにとどまらなかった
楊開慧は毛の革命思想を理解し、共産党活動を支える良き相談相手でもあったのだ
夫妻には3人の息子が生まれたが、家庭生活は順風満帆ではなかった
2人目の息子が誕生した直後、毛の浮気が発覚し、夫妻の間には大きな溝を生まれた
それでも、楊開慧は夫を支え続け、革命活動にも積極的に参加した
しかし、1930年、彼女は国民党政府により長沙の自宅で逮捕される
国民党は彼女に対し「毛沢東との関係を断ち、共産党を非難しろ」と強要したが、楊開慧はこれを断固拒否した
その結果、1930年11月14日、彼女は長沙郊外で銃殺されるという悲劇的な最期を遂げた
享年29
彼女の死に対し、毛は「彼女の死は百身を持ったとしても贖えぬ」と嘆息したとされる
しかし一方で、楊開慧がまだ生きていた1928年には、すでに当時17歳だった賀子珍(※後述)と結婚していた記録も残されており、この矛盾した行動は毛の複雑な人間性を浮き彫りにしていると言えるだろう
第3の妻・賀子珍(が しちん)
賀子珍(が しちん)は、毛沢東の第三の妻である
1928年、江西省井岡山で二人は出会った
当時、賀子珍は17歳で、共産党の活動に積極的に関与していた才色兼備の女性であった
その年、毛沢東との関係が深まり、事実上の結婚生活を始めたが、このとき毛沢東はまだ楊開慧と正式には離婚していなかった
賀子珍は毛沢東の革命運動を支えながら、彼との間に6人の子供をもうけた
しかし、この6人のうち4人は戦争や混乱の中で行方不明となったり、早逝している
その後、毛の浮気癖が原因で夫婦関係は次第に悪化していった
特に毛が通訳の呉光偉(ご こうけい)と不倫関係になると、賀子珍の精神状態は次第に不安定となり、自殺未遂に及ぶことさえあったという
1937年、毛は彼女を「治療」の名目でモスクワへ送り、事実上遠ざける決断を下した
ソ連での生活は孤独と困難に満ちており、彼女はそこで息子を出産するが、その子も生後間もなく亡くなっている
1946年、賀子珍は中国へ帰国した
しかし、すでに毛は後述する江青と結婚しており、賀子珍との関係は完全に終わっていた
1959年の廬山会議で22年ぶりに毛と再会するが、それが二人が顔を合わせた最後の機会となった
晩年は上海で軟禁状態に置かれながら過ごし、1984年に73歳でこの世を去った
吳廣惠(ご こうけい)
呉広恵(ご こうけい)は妻ではないが、前述したように賀子珍との関係を崩壊させるきっかけとなった女性である
呉広恵は北京大学を卒業した知識人であり、流暢な英語を操る翻訳者であった
彼女はその美貌と知性で多くの人々を魅了しており、共産党内でも注目を浴びる存在だった
毛は、彼女の知的な会話と洗練された態度に惹かれ、二人は急速に親密な関係となった
1930年代後半、毛と呉広恵の関係は隠し通せないほど明白なものとなっていた
賀子珍はこの関係に対して激しい怒りを示し、何度も抗議を繰り返したとされる
しかし、毛は彼女と正式に結婚することはなく、二人の関係は長続きしなかった
呉広恵自身のその後の人生については、ほとんど記録が残されていないが、彼女は毛の周囲で消耗し、その後表舞台から姿を消したとされる
第4の妻・江青(こうせい)
江青(こうせい)は、毛沢東の4番目の妻であり、最も政治的影響力を持った女性である
江青は山東省で生まれ、本名を李雲鶴(り うんかく)といった
上海で女優として活動し、演劇の才能で注目される一方、自由奔放な性格で知られていた
1930年代、共産党の思想に惹かれた彼女は活動に加わり、延安で毛沢東と出会った
二人は1938年に正式に結婚するが、当時の党幹部の中には、彼女の過去の経歴や性格を理由に反対する声も多くあった
それでも毛は江青を選び、彼女もまた毛を支えながら自らの地位を築き上げていった
1966年に始まった文化大革命では、江青は毛の思想を広める中核的役割を担い、「四人組」のリーダー格として活躍した
※四人組(よにんぐみ)とは、文化大革命において毛沢東を支持し、共産党内で権力を握った江青、張春橋、姚文元、王洪文の4人の政治集団を指す
彼女は文化人や知識人を弾圧し、多くの反対派を排除した
毛の主治医・李志綏(り しすい)は、江青と毛沢東の関係について次のように語っている
毛主席对江青的情感,始终是一种复杂的交织,既有爱情,也有政治上的考量。江青通过毛的权力,获得了自己的影响力。
意訳 : 毛主席の江青への感情は、常に愛情と政治的配慮が絡み合った複雑なものであった。江青は毛沢東の権力を通じて、自身の影響力を手に入れた。
引用 : 『毛沢東私人医生回忆录』李志綏
毛沢東が1976年に死去すると、江青の権力基盤は急速に崩壊した
彼女は「文化大革命の主導者」としての責任を問われ、「四人組」のメンバーとともに逮捕された
1981年の裁判では「反革命活動」の罪により死刑判決を受けるが、その後、無期懲役に減刑された
収監中の江青は、自身の行動を正当化しようと試みたものの、かつての栄光を取り戻すことはなかった
その後、1991年5月14日、北京の病院で首を吊り自殺した
享年77
終わりに
毛沢東の人生を通じて彼の妻たちは、ただの伴侶ではなく、時に革命の同志であり、時に彼の権力の象徴でもあった
その人生は、愛情や家族という枠を超え、政治と歴史の舞台に引き上げられることとなった
しかし、彼に選ばれた女性たちの多くが、過酷な運命に翻弄され、平穏な人生を送ることは叶わなかった
参考 : 『毛沢東私人医生回忆录』他
文 /草の実堂編集部
(この記事は、草の実堂の記事で作りました)
毛沢東は中華人民共和国建国のリーダーであり、カリスマだった
しかし、晩年は文化大革命など迷走、失策もあった
女性については複雑だ
毛沢東の人生を通じて彼の妻たちは、ただの伴侶ではなく、時に革命の同志であり、時に彼の権力の象徴でもあった
その人生は、愛情や家族という枠を超え、政治と歴史の舞台に引き上げられることとなった
しかし、彼に選ばれた女性たちの多くが、過酷な運命に翻弄され、平穏な人生を送ることは叶わなかった
毛沢東語録 (平凡社ライブラリー) 文庫
毛沢東が稀代の革命家であり、中華人民共和国建国の父であり、カリスマだった
晩年は失策もあった
毛沢東の語録から彼の考えた中国について考える
2024年12月30日
【古代から語り継がれる火の鳥伝説】フェニックス、波山、ヒザマの伝承
「火の鳥」といえば、故・手塚治虫氏の名作漫画や、作曲家イーゴリ・ストラヴィンスキー氏によるバレエ音楽などが思い浮かぶだろう
それら作品の大元ともいえる存在が、ギリシャ神話における神秘の鳥・フェニックスである
この想像上の鳥は、約500年ごとに焼身自殺をし、そして灰の中から蘇ることから、不死鳥・火の鳥などと呼ばれた。
神話や伝承において、「火」と「鳥」は密接な関係を持つ事が多く、世界には数多くの「火の鳥」の伝説が語り継がれている
そんな、火にまつわる鳥の怪物たちについて、解説を行っていく
1.ベンヌ
ベンヌ(Bennu)とは、古代エジプトに伝わる神秘の鳥であり、フェニックスのルーツとなった鳥である
その姿は、青色のアオサギの形で表されることが多い(アオサギはその名前に反し、特に青くはない)
普段は「イシェド」という、聖なる樹木に留まっているという
伝承によれば、ベンヌは太陽が沈み、夕暮れになる頃には死んでしまうそうだ
だが、朝になり太陽が上ってくると、ベンヌは再び息を吹き返すという
このことから、この鳥は太陽そのものを象徴した存在だと考えられている
また、古代ギリシアの歴史家ヘロドトスは、以下のように語っている
(意訳・要約)
ヘリオポリス(古代エジプトの都市)の人間が言うには、エジプトには不死身の神秘的な鳥がいるそうだ。
この鳥の寿命は500年だが、己の死骸の中から復活する
残された死骸を、この鳥は没薬(防腐剤)で丁寧に包み、卵のような形にする
最後にその卵を、ヘリオポリスの太陽の神殿に運ぶ
この鳥はワシに似ており、羽の色は赤と金で、まるで太陽のようだという
エジプトの創世神話においても、ベンヌは重要な役割を果たしている
かつて世界は、混沌たる原初の海が広がるだけであった
やがて海から太陽の卵が誕生し、丘の上に打ち上げられた
その卵を抱いて孵化させたのが、ベンヌだとされている
太陽の表面温度は約6000℃といわれ、さらにその周囲には100万℃を越える太陽コロナが渦巻いている
こんな太陽を温めて孵化させるのだから、ベンヌもまた、恐るべき火の鳥に違いないのである。
2.波山
波山(ばさん)とは、伊予国(現在の愛媛県)に伝わる火の鳥である
江戸時代の妖怪図鑑『絵本百物語』において、その存在は描かれている
見た目はニワトリのようだが、鶏冠(とさか)がすこぶる発達しており、口からは怪しげな炎を吐き出すことができるという
不思議なことに、この炎は触っても熱さを感じず、草木を燃やすこともないそうだ
日中は、竹藪の奥深くにひっそりと潜んでおり、人前に姿を現すことはない
しかし夜になると、バサバサと騒がしく翼をはためかせ、周囲の村々の人々を脅かしたという
この「バサバサ」という怪音が、この妖怪の名前の由来だといわれている
波山のモデルは、インドネシアやオーストラリアに生息する「ヒクイドリ」ではないかという説がある
実は江戸時代には既に、南蛮貿易によりヒクイドリが日本に輸入されていた
寛永12年(1635年)、平戸藩が幕府にヒクイドリを献上したという記録が、日本における最古のものだとされる
江戸時代の絵巻物『薩摩禽譜圖巻』において、ヒクイドリは「ダチョウ」の名で紹介されている
他にも百科事典『和漢三才図会』では、「食火鶏」「馳蹄雞」といった名で、ヒクイドリの解説が書かれている
波山は人を怖がらすだけの無害な存在であるが、ヒクイドリは極めて狂暴な鳥であり、鋭い鉤爪で敵を蹴り殺す危険な生物だ
人的被害も多く、時には死亡事故さえ起きることがある
実在の動物が誇張されて、とんでもない化け物の伝承が生まれることは、往々にしてあることだ
しかし、元ネタの方が伝承よりも遥かに危険という例は、なかなか珍しい
3.ヒザマ
ヒザマとは、鹿児島県奄美群島・沖永良部島(おきのえらぶじま)に伝わる、火災を引き起こす恐るべき怪鳥である
その姿は頬の赤いニワトリそのものだが、胡麻塩色の羽が特徴的だという
家に空の水瓶や桶を置いてあると、どこからともなヒザマが入り込んで棲みつくという
そうするとその家は、火事になって焼け落ちてしまうと考えられていた
これを防ぐために、器を逆さまに伏せて置くか、水を満タンに入れておくことが、現地では推奨されていたそうだ
もしヒザマに棲みつかれてしまったら、家が燃えてしまう前に、速やかにユタ(沖縄県や奄美群島における祈祷師・シャーマン)に連絡し、お祓いを行わなければならないという
沖永良部島ではヒザマに対する畏れから、胡麻塩色の羽根を持つニワトリを飼うことは禁忌とされたそうだ
4.畢方
畢方(ひっぽう)とは、中国に伝わる大火をつかさどる怪鳥である
古代中国の妖怪図鑑「山海経」にて、その存在が言及されている
この鳥は「章莪」という荒れ果てた山に生息しているとされ、その見た目は鶴によく似ているそうだ
しかしその足は一本しかなく、クチバシの色は白、体色は青をメインに赤々とした斑点がついているという、毒々しいカラーリングをしている
鳴き声は「ヒッポーヒッポー」と聞こえ、これが名前の由来になったといわれている
畢方が現れた場所では、もれなく火元不明・原因不明の火事が起こるとされ、人々に恐れられたという
参考 : 『全国妖怪語辞典』『幻想世界の住人たち』他
文 /草の実堂編集部
(この記事は、草の実堂の記事で作りました)
火の鳥伝説は世界にあり、多くは再生することで不死鳥となることだ
手塚治虫の「火の鳥」も再生することで不死鳥となり、時代を越えて現れている
火の鳥 全14巻セット (角川文庫) 単行本
マンガの神様・手塚治虫のライフワーク・火の鳥の新装版全14巻セット
巻末には手塚治虫の生前のインタビューとともに、貴重な資料を完全収録
各巻の描き下ろしトリビュート・コミックも必見で
個人的には完結した「火の鳥」も見たかった
(未完で手塚氏が亡くなった)
それら作品の大元ともいえる存在が、ギリシャ神話における神秘の鳥・フェニックスである
この想像上の鳥は、約500年ごとに焼身自殺をし、そして灰の中から蘇ることから、不死鳥・火の鳥などと呼ばれた。
神話や伝承において、「火」と「鳥」は密接な関係を持つ事が多く、世界には数多くの「火の鳥」の伝説が語り継がれている
そんな、火にまつわる鳥の怪物たちについて、解説を行っていく
1.ベンヌ
ベンヌ(Bennu)とは、古代エジプトに伝わる神秘の鳥であり、フェニックスのルーツとなった鳥である
その姿は、青色のアオサギの形で表されることが多い(アオサギはその名前に反し、特に青くはない)
普段は「イシェド」という、聖なる樹木に留まっているという
伝承によれば、ベンヌは太陽が沈み、夕暮れになる頃には死んでしまうそうだ
だが、朝になり太陽が上ってくると、ベンヌは再び息を吹き返すという
このことから、この鳥は太陽そのものを象徴した存在だと考えられている
また、古代ギリシアの歴史家ヘロドトスは、以下のように語っている
(意訳・要約)
ヘリオポリス(古代エジプトの都市)の人間が言うには、エジプトには不死身の神秘的な鳥がいるそうだ。
この鳥の寿命は500年だが、己の死骸の中から復活する
残された死骸を、この鳥は没薬(防腐剤)で丁寧に包み、卵のような形にする
最後にその卵を、ヘリオポリスの太陽の神殿に運ぶ
この鳥はワシに似ており、羽の色は赤と金で、まるで太陽のようだという
エジプトの創世神話においても、ベンヌは重要な役割を果たしている
かつて世界は、混沌たる原初の海が広がるだけであった
やがて海から太陽の卵が誕生し、丘の上に打ち上げられた
その卵を抱いて孵化させたのが、ベンヌだとされている
太陽の表面温度は約6000℃といわれ、さらにその周囲には100万℃を越える太陽コロナが渦巻いている
こんな太陽を温めて孵化させるのだから、ベンヌもまた、恐るべき火の鳥に違いないのである。
2.波山
波山(ばさん)とは、伊予国(現在の愛媛県)に伝わる火の鳥である
江戸時代の妖怪図鑑『絵本百物語』において、その存在は描かれている
見た目はニワトリのようだが、鶏冠(とさか)がすこぶる発達しており、口からは怪しげな炎を吐き出すことができるという
不思議なことに、この炎は触っても熱さを感じず、草木を燃やすこともないそうだ
日中は、竹藪の奥深くにひっそりと潜んでおり、人前に姿を現すことはない
しかし夜になると、バサバサと騒がしく翼をはためかせ、周囲の村々の人々を脅かしたという
この「バサバサ」という怪音が、この妖怪の名前の由来だといわれている
波山のモデルは、インドネシアやオーストラリアに生息する「ヒクイドリ」ではないかという説がある
実は江戸時代には既に、南蛮貿易によりヒクイドリが日本に輸入されていた
寛永12年(1635年)、平戸藩が幕府にヒクイドリを献上したという記録が、日本における最古のものだとされる
江戸時代の絵巻物『薩摩禽譜圖巻』において、ヒクイドリは「ダチョウ」の名で紹介されている
他にも百科事典『和漢三才図会』では、「食火鶏」「馳蹄雞」といった名で、ヒクイドリの解説が書かれている
波山は人を怖がらすだけの無害な存在であるが、ヒクイドリは極めて狂暴な鳥であり、鋭い鉤爪で敵を蹴り殺す危険な生物だ
人的被害も多く、時には死亡事故さえ起きることがある
実在の動物が誇張されて、とんでもない化け物の伝承が生まれることは、往々にしてあることだ
しかし、元ネタの方が伝承よりも遥かに危険という例は、なかなか珍しい
3.ヒザマ
ヒザマとは、鹿児島県奄美群島・沖永良部島(おきのえらぶじま)に伝わる、火災を引き起こす恐るべき怪鳥である
その姿は頬の赤いニワトリそのものだが、胡麻塩色の羽が特徴的だという
家に空の水瓶や桶を置いてあると、どこからともなヒザマが入り込んで棲みつくという
そうするとその家は、火事になって焼け落ちてしまうと考えられていた
これを防ぐために、器を逆さまに伏せて置くか、水を満タンに入れておくことが、現地では推奨されていたそうだ
もしヒザマに棲みつかれてしまったら、家が燃えてしまう前に、速やかにユタ(沖縄県や奄美群島における祈祷師・シャーマン)に連絡し、お祓いを行わなければならないという
沖永良部島ではヒザマに対する畏れから、胡麻塩色の羽根を持つニワトリを飼うことは禁忌とされたそうだ
4.畢方
畢方(ひっぽう)とは、中国に伝わる大火をつかさどる怪鳥である
古代中国の妖怪図鑑「山海経」にて、その存在が言及されている
この鳥は「章莪」という荒れ果てた山に生息しているとされ、その見た目は鶴によく似ているそうだ
しかしその足は一本しかなく、クチバシの色は白、体色は青をメインに赤々とした斑点がついているという、毒々しいカラーリングをしている
鳴き声は「ヒッポーヒッポー」と聞こえ、これが名前の由来になったといわれている
畢方が現れた場所では、もれなく火元不明・原因不明の火事が起こるとされ、人々に恐れられたという
参考 : 『全国妖怪語辞典』『幻想世界の住人たち』他
文 /草の実堂編集部
(この記事は、草の実堂の記事で作りました)
火の鳥伝説は世界にあり、多くは再生することで不死鳥となることだ
手塚治虫の「火の鳥」も再生することで不死鳥となり、時代を越えて現れている
火の鳥 全14巻セット (角川文庫) 単行本
マンガの神様・手塚治虫のライフワーク・火の鳥の新装版全14巻セット
巻末には手塚治虫の生前のインタビューとともに、貴重な資料を完全収録
各巻の描き下ろしトリビュート・コミックも必見で
個人的には完結した「火の鳥」も見たかった
(未完で手塚氏が亡くなった)
トラはオスもメスも狩りをし、嚙む力は300kgもあるのに成功率が低い理由とは?
トラ
トラは、ネコ科の動物の中で最も体が大きいとされる動物です
頭蓋骨も大きく、上アゴと下アゴに2本ずつ長い牙があります
噛む力は約300kgにも及び、体重700kgのアジアスイギュウをくわえて引きずって運んだという記録もあるほどです
トラは背の高い草むらや熱帯林の中で暮らしています
体表のシマ模様は茂みに紛れるのに適していて、獲物に気付かれにくいというメリットがあります
またジャンプ力もあり、筋肉のついたたくましい後ろ脚で地面を蹴り、10m近くもジャンプして獲物を捕らえ、鋭い爪と牙でしとめます
トラはオスもメスも狩りをします
メスは、子どもとともに暮らし、オスは繁殖期を除いてほとんど単独で暮らしています
オスもメスも糞尿や爪跡で縄張りを広げて行動しますが、オスのほうが行動範囲は広く、1日に10~20km移動することもあります
メスは体が小さいこともあって、行動範囲はそれほど広くありません
「虎視眈々」といった言葉もあるように、トラには強くて威厳のある動物としてのイメージがあります
しかし、狩りの成功率は意外と低く、5%~10%程度
体が大きくて速く走れず、持久力もないため、獲物を追いかけるのは苦手なのです
大きい獲物をとれないことが続くと、小鳥やカエルなどの小さな獲物でしのぐこともあります
人を襲って食べることもあり、インドには400人以上を食べたトラの記録も残っています
トラは亜種を含めるとアジアから東南アジアに分布していましたが、毛皮や剥製、漢方薬などにするための密猟などで絶滅の危機に瀕しています
今や弱者と言っていい動物なのかもしれません
【出典】『眠れなくなるほど面白い 図解 ハンター生物の話』
監修:今泉忠明 日本文芸社刊
執筆者プロフィール
国立科学博物館で哺乳類の分類学・生態学を学ぶ。
上野動物園の動物解説員を経て、「ねこの博物館」(静岡県伊東市)館長。著書も多数
(この記事は、ラブすぽの記事で作りました)
トラは狩りの成功率が低く、5~10%
噛む力、ジャンプ力、者を運ぶ力はありますが、体が大きくて速く走れず、持久力もないため、獲物を追いかけるのは苦手なのです
ネコ科は水が苦手の傾向ですが、トラは水も苦にしないようです
毛皮や剥製、漢方薬などにするための密猟などで絶滅の危機に瀕しているある意味弱者といえる動物です
眠れなくなるほど面白い 図解 ハンター生物の話: 生きるために進化した生物たちの狩りワザを解説! 単行本
陸・海・空のハンター生物の狩りの方法をイラスト付きで紹介
私は動物に興味があり今泉忠明氏の関連本も多く愛読しました
トラは、ネコ科の動物の中で最も体が大きいとされる動物です
頭蓋骨も大きく、上アゴと下アゴに2本ずつ長い牙があります
噛む力は約300kgにも及び、体重700kgのアジアスイギュウをくわえて引きずって運んだという記録もあるほどです
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またジャンプ力もあり、筋肉のついたたくましい後ろ脚で地面を蹴り、10m近くもジャンプして獲物を捕らえ、鋭い爪と牙でしとめます
トラはオスもメスも狩りをします
メスは、子どもとともに暮らし、オスは繁殖期を除いてほとんど単独で暮らしています
オスもメスも糞尿や爪跡で縄張りを広げて行動しますが、オスのほうが行動範囲は広く、1日に10~20km移動することもあります
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トラは亜種を含めるとアジアから東南アジアに分布していましたが、毛皮や剥製、漢方薬などにするための密猟などで絶滅の危機に瀕しています
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【出典】『眠れなくなるほど面白い 図解 ハンター生物の話』
監修:今泉忠明 日本文芸社刊
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国立科学博物館で哺乳類の分類学・生態学を学ぶ。
上野動物園の動物解説員を経て、「ねこの博物館」(静岡県伊東市)館長。著書も多数
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トラは狩りの成功率が低く、5~10%
噛む力、ジャンプ力、者を運ぶ力はありますが、体が大きくて速く走れず、持久力もないため、獲物を追いかけるのは苦手なのです
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