2024年11月30日

天狗や河童は架空の存在ではない─「キツネにだまされていた」時代の自然観

なぜ昔の日本人は、不可解な現象を「キツネ」のせいにして納得できていたのか
それは、現代の科学的な自然観とも、正統の神話とも異なる世界観が浸透していたからのようだ

外国人記者が日本を旅して感じた「純粋な畏敬の念」と「人生への活力」

※本記事は『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』(内山節)の抜粋です

正統の「神話」とは異なる神々の世界

ところで人間たちがキツネにだまされていた時代には、だますわけではないが、人々はいまよりもっと多くの生命を山の世界に感じていた
たとえば群馬県上野村の私の家の近くには天狗岩という山がある
いうまでもなくそこは天狗が住んでいた山である
カラス天狗という鳥もいた
頭に烏帽子を被り、小さな下駄をはいて飛んでいくカラスである

川には河童もいた
もっともそれらの生き物たちを架空のものとして退けてしまうのは簡単である
しかし、次のことは記憶しておいてもよい

上流域の川を歩いていると河原に大きな岩があって、その上に小さな社の祀られていることがある
日本では自然物自体が神として祈りの対象になることがよくあるが、修験道では霊山といわれた山自体が「御神体」である
大木が神として祀られていることも、水自体が「御神水」であることもめずらしくはない
神が降臨し宿ったのではなく、自然の生命それ自体が神であり、その「生命」が岩や水、山として現われているのである

ここには天から神が降臨し、その子孫が神々になっていった「日本」神話とは異なる神々の世界がある

偏在する「次元の裂け目」

山の神、水神、田の神、・・・、村の世界はさまざまな神々の世界であり、それとどこかで結びつくさまざまな生命の世界であった
自分の生きている世界には、「次元の裂け目」のようなものがところどころにあって、その「裂け目」の先には異次元の世界がひろがっていると考える人々も多かった
その異次元の世界に「あの世」をみる人もいた
ときにはオオカミはこの「裂け目」を通って、ふたつの世界を移動しながら生きていると考える人たちもいた

可視的な、不可視的なさまざまな生命の存在する世界、それがかつて村人が感じていた村の世界である

とすれば、天狗やカラス天狗といった生命が山の世界のなかに感じとられていたとしても、それはそのまま受け取っておけばよい、現在の私たちの世界では架空の生き物であったとしても、その頃の村の人たちの生命世界のなかでは感じとられていたものなのである

それが人々がキツネにだまされていた時代の生命世界であった

(この記事は、クーリエ・ジャパンの記事で作りました)

日本人は、現代の科学的な自然観とも、正統の神話とも異なる世界観が浸透していたようだ

自然に精霊、神、魂が宿っている考えは日本以外にもある

しかし、「キツネにだまされた時代」の自然観は日本独特のものに感じる

自然への畏敬などが強くあったからこそ、当時は純粋で「キツネにだまされた」時代だったかも



日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか (講談社現代新書) 新書

キツネにだまされた時代の我々の自然観、死生観は変わった
日本人のこの「精神」の変化が起こった「地殻変動」を探る
posted by june at 12:19| Comment(0) | ニュース | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

NY株は反発、日経平均株価は反落

29日(現地時間)のNY株(ダウ平均株価)は、感謝祭の休日を挟み反発し、終値は前営業日比188ドル59セント高の4万4910ドル65セントで2営業日ぶりに史上最高値を更新し、一時300ドル超上昇し、4万5000ドル台に乗せる場面もあった

ハイテク株中心のナスダックは157.69ポイント高の1万9218.17

S&P500は33.64ポイント高の6032.38




29日(日本時間)の日経平均株価は反落し、終値は前日比141円03銭安の3万8208円03銭


(この記事は、ネットニュースの記事で作りました)
posted by june at 07:10| Comment(0) | 株価動向 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

【犠牲者数250万人?】国が滅ぶほど過酷すぎた隋の暴君・煬帝の大運河工事とは

隋朝とは

隋(ずい)は、中国史において幾つかの面で重要な役割を果たした王朝である

西暦581年に楊堅(ようけん)が建国し、西暦618年に滅亡するまでのわずか37年間であったが、後世に大きな影響を及ぼした

隋の統一は魏晋南北朝時代の混乱を終結させ、中央集権的な国家体制を再構築する契機となった
隋朝の政策はその後の唐朝に継承され、中国の安定した発展に寄与した

隋はまた、日本とも交流を深めたことで知られる

特に607年、推古天皇の命を受けた小野妹子(おののいもこ)が第二回遣隋使として派遣されたことは、歴史の教科書にも必ず出てくる

この際、日本は隋に「日出ずる処の天子」から「日没する処の天子」へ、と宛てた国書を持参した

この表現は隋の第2代皇帝煬帝(ようだい)に対し、対等な外交関係を求める意図が含まれていたとされ、煬帝が「天子」という言葉に不快感を示したという逸話は有名である

遣隋使の派遣は、単なる外交目的に留まらず、文化や制度の吸収という意味でも重要であった
小野妹子をはじめとする使節団は隋から仏教、法律、行政制度などを学び、それらを日本に持ち帰った

特に仏教文化は、日本における宗教的発展の礎となった

隋の大運河建設

隋は、魏晋南北朝時代の争いを終結させ、中国を再び統一した
その結果、全体的な経済と文化の発展が促進された

その象徴的な成果の一つが、大運河の建設である

この大規模な土木事業は、南北の経済的な結びつきを強化するだけでなく、その後の中国史において、物流や行政の基盤として欠かせない存在となった

隋の大運河は、中国の主要な河川を結ぶ壮大なインフラとなり、具体的には、黄河・長江・淮河(わいが)が運河によって連結された

淮河は、日本ではあまり馴染みがないかもしれないが、黄河と長江の間を、西から東に流れる川である

司馬炎が建国した西晋が滅亡して以降、およそ300年間、中国は南北に分裂した状態が続いていた
この分裂が長期化した一因として、淮河と長江の間に存在する無数の小河川が挙げられる

この地形が軍の進軍を妨げ、北方からの攻撃が南方へ及びにくくなっていたのである
例えば、曹操が敗北した赤壁の戦いや、苻堅が敗北を喫した淝水の戦いなどは、いずれも北方の騎馬軍団が南方の水軍に劣勢を強いられた結果と見ることができるだろう

この運河建設は、隋の初代皇帝・文帝(楊堅)の治世に着工され、2代皇帝・煬帝(楊広)の治世で完成した

建設期間は595年から608年までとされ、その全長は1700kmにも及ぶ

現代のような高度な技術がない時代に、これほどの大事業を可能にしたのは、多大な人力の投入によるものであった

しかし、その規模と労働環境の過酷さから、建設には多くの犠牲が伴った

大運河建設の犠牲者たち
この大運河建設の壮大なプロジェクトの陰では、計り知れない数の労働者が命を落とし、隋朝滅亡の一因になった。

特に2代皇帝・煬帝の治世では、3度にわたる大規模な労働力の徴用が行われたと伝えられる

推定ではあるが500万人以上が工事に駆り出され、その多くが命を落としたという

たとえば、大業元年(605年)には河南地方から100万人以上が徴用され、黄河や淮河を結ぶ運河の掘削が進められた
同年、淮南地方でも10万人以上が動員され、邗溝(かんこう)と呼ばれる水路の修復工事が行われた

この水路は、淮水から長江へ至る重要なルートであり、南北物流の要であった

しかし、これらの工事の代償は大きかった
過酷すぎる労働環境が労働者たちを苦しめたのである

唐代に記された雑録ではあるが『開河記』によれば、煬帝は「開河に反対する者は斬首する」と布告し、15歳以上の男子が強制的に徴用されたという
女性や子どもたちも、食事の提供や作業補助に駆り出された
しかも、人員を隠匿した者は三族皆殺しであった

監督官による暴力的な管理のもと、労働者は逃げ出す自由すらなく、次々と命を落としていったという
飢餓や病気が蔓延し、監督官の厳しい取り締まりも相まって、1年足らずで動員された360万人のうち、250万人が死亡したとされる

現場の環境は劣悪で、労働者は栄養不足や過労に苦しみ、医療もほとんど受けられなかった
「人が人を食べた」という伝説が残るほど地獄のような環境だったのだ

運河が完成した後、煬帝はその壮大さに満足し、巡幸を行った
しかし、大運河建設の過剰な労働力の動員や、度重なる高句麗遠征の失敗などが重なり、隋朝の国力は著しく低下していた

このような状況に、次第に民衆たちの不満は高まり、各地で反乱が相次ぐようになる

最終的に、煬帝はクーデターにより命を落とし、隋朝も滅亡した

おわりに

煬帝は「中国史を代表する暴君」とされる一方で、この大運河は隋の滅亡後も唐や宋の時代に受け継がれ、中国の発展に欠かせない存在となった

物流の効率化をもたらし、経済や文化の交流を支える基盤となったのだ

しかし、これほどの成果を生むまでには多くの犠牲があった
隋朝の大運河建設は、その壮大さとともに、過酷な歴史の一面を物語る遺産でもあるのだ

参考 : 『開河記』『隋唐大運河 中史百科』
文 / 草の実堂編集部

(この記事は、草の実堂の記事で作りました)

犠牲者250万人ともいわれる国が滅ぶほど過酷すぎた隋の暴君・煬帝の大運河工事

煬帝は「中国史を代表する暴君」とされる一方で、この大運河は隋の滅亡後も唐や宋の時代に受け継がれ、中国の発展に欠かせない存在となった

物流の効率化をもたらし、経済や文化の交流を支える基盤となったのだ

しかし、これほどの成果を生むまでには多くの犠牲があった
隋朝の大運河建設は、その壮大さとともに、過酷な歴史の一面を物語る遺産でもあるのだ

この運河工事は過酷さ・多くの犠牲を伴ったが、隋後の歴代王朝の物流などの基盤となった



隋の煬帝 改版 (中公文庫 み 22-19 BIBLIO) 文庫

煬帝は「中国史を代表する暴君」といわれる
過酷で非情の人だったようだが、結果的には隋後の歴代王朝の基盤となった面も
隋王朝は短命だったが、後への影響力は大きい
posted by june at 04:39| Comment(0) | ニュース | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする