地球上で起きていること、どれだけ知っている?
この地球で当たり前に感じていることでも、うまく説明できないことがありますよね
例えば、「青い空が夕暮れに赤く染まるのはなぜ?」「台風が日本列島めがけてやってくる理由は?」
そんな地球に生きる私たちが知っておくべき「理系雑学」をご紹介します
太陽系を含む地球の歴史をはじめ、地球上で成立した大自然や気候、動植物、資源など、地球をめぐる大疑問にスッキリ回答!
あらためて考えると、私たちはこの地球にまつわるさまざまなことを、じつはほとんど知らないのかもしれないかもしれません
※本記事は雑学総研著の書籍『人類なら知っておきたい 地球の雑学』から一部抜粋・編集しました
実は凶暴!? チンパンジー
ユーモラスな姿で親しみを感じさせるチンパンジーが、凶暴な一面も持っていることはあまり知られていない
オスのチンパンジーは殺し合いや、ほかのグループを襲って子殺しまですることがあるのだ
これまで、このような殺し合いは人間の影響だという説が唱えられてきた
人間が狩猟や森林伐採をしてきた結果、生息地が狭くなり、食べ物を得にくくなったため、生存をかけた争いをしているうちに攻撃的な性質が強くなったというものだ
だが、アメリカのリンカーンパーク動物園などの科学者らが、アフリカの森林地帯で生息する18のチンパンジーの群れを半世紀にわたって観察し、152件の殺害行為を詳しく調査した結果、それらが人間の存在とは関係なく、チンパンジー本来の性質によるものだと考えられるようになった
殺害行為の大半は、人間による狩猟や森林伐採がもっとも少ない東アフリカ地域で発生していた
殺害行為は、複数のオスが徒党を組むかのようにしてほかのグループのオスと子どもを殺すことが多く、それでもメスには危害を加えないのが特徴だ
こうした襲撃は、食料とメスを奪う目的で行なわれるのだろう
また、人間の手で自然が荒らされた地域のチンパンジーのあいだでも同じような行動が見られるため、人間の影響とは関わりがない可能性が高い
同種間で殺し合いをする哺乳類は少ないが、霊長類には多い
そして縄張り意識や社交性を持つ動物ほど、殺し合いも多くなるという
同種間の殺し合いがもっとも多いのは、言うまでもなく人間である
ところで、チンパンジーの握力は300キログラムもある
動物園でうっかり触ったりしては、大変なことになると肝に銘じておこう
(この記事は、レタスクラブの記事で作りました)
チンパンジーは見た目の愛らしさに反し、攻撃的であり、その握力は300キロあるという
霊長類は同種間で殺し合いをすることが多いという
その中で、同種間の殺し合いがもっとも多いのは、言うまでもなく人間である
争いは絶えない
人類なら知っておきたい 地球の雑学 (中経の文庫) 文庫
地球(を含めた宇宙)には謎や不思議、ギモンが多くあります
空はなぜ青く、夕焼けは赤いのだろうか!?とか・・・
そんな「理系雑学」を楽しくわかりやすく解説
2024年11月16日
NY株は続落、日経平均株価は4日ぶりに反発
15日(現地時間)のNY株(ダウ平均株価)は、続落し、終値は前日比305ドル87セント安の4万3444ドル99セント
ハイテク株中心のナスダックは427.53ポイント安の1万8690.12
S&P500は78.55ポイント安の5870.62
15日(日本時間)の日経平均株価は4日ぶりに反発し、終値は前日比107円21銭高の3万8642円91銭
(この記事は、ネットニュースの記事で作りました)
15日のダウ平均株価の終値は前日比300ドル超の大幅下落
ナスダックも大幅下落、S&P500も下落
ハイテク株中心のナスダックは427.53ポイント安の1万8690.12
S&P500は78.55ポイント安の5870.62
15日(日本時間)の日経平均株価は4日ぶりに反発し、終値は前日比107円21銭高の3万8642円91銭
(この記事は、ネットニュースの記事で作りました)
15日のダウ平均株価の終値は前日比300ドル超の大幅下落
ナスダックも大幅下落、S&P500も下落
狂気と情熱の画家・ゴッホ 死後に有名画家となった理由とは
ゴッホは、アートに詳しくない人でも『ひまわり』の画家として知られているだろう
生前は1枚しか絵が売れず、死後ようやく評価された画家としても有名である
死後100年以上が経過した現在、ゴッホの作品はオークションで何十億円の値がつくほどの高い評価を受けている
しかし、なぜ生前はほとんど評価されなかったゴッホの絵が、これほどまでに称賛されるようになったのだろうか
ゴッホの人生を辿りながら、彼を支え、その作品を世に広めた影の立役者にも焦点を当てていきたい
転職を繰り返して画家へ
フィンセント・ファン・ゴッホ(以下、ゴッホ)は1853年、オランダのズンデルトに生まれた
父テオドルスはオランダ改革派教会の牧師であり、ゴッホは6人兄弟の長男として育った
子どもの頃のゴッホは癇癪もちで、兄弟の中でもとりわけ扱いにくい子と見られていた
16歳になると、老舗の画廊・グーピル商会に就職し、その後は教師や伝道師などの仕事にも就いた
しかし、どの仕事もうまくいかなかった
繊細で気難しい性格のゴッホは、家族とも度々衝突し、父親によって精神病院へ入れられそうになったこともあったという
さらにゴッホは、未亡人になった7歳年上の従姉に恋心を抱いて、プロポーズするも断られ、ストーカーまがいの行動を取ったこともあった
そんなゴッホだったが、20代後半だったこの頃に、本格的に画家を志すようになる
ゴーギャンとの共同生活と耳切り事件
1888年、彼は南フランス・アルルでの画家仲間との共同生活を計画し、尊敬するポール・ゴーギャンを招待した
ゴッホの最も有名な作品である『ひまわり』は、ゴーギャンの到着を待ちながら、その部屋に飾るために描かれたものである
しかし、「憧れのゴーギャンが来てくれた!」と喜んだのも束の間、芸術観の相違から関係が悪化し、ゴッホとゴーギャンはおよそ2か月で決別してしまった
有名なゴッホの「耳切り事件」はこの時期に起きた
あるときゴーギャンと口論になり、ゴッホは自らの耳を切り落とし、さらにその肉片を馴染みの娼婦に届けて警察沙汰になってしまったのだ
この事件が原因でゴッホは精神病を疑われ、アルル市立病院の監禁室に隔離されることとなる
兄を献身的に支えた弟の存在
そんなゴッホをただ一人、ずっと応援してくれたのは弟のテオドルス(通称テオ)であった
テオはうだつの上がらない芸術家の兄を、10年間にわたって支援し続けたのだ
経済的にも精神的にも兄を支え、手紙のやり取りも頻繁におこなった
1889年にヨハンナ・ボンゲル(通称ヨー)と結婚しても、翌年に子供が生まれても、兄に仕送りを続けた
それだけではない
テオは一人息子に、兄ゴッホと同じ「フィンセント」という名前を付けたのである
ゴッホはさぞ嬉しかったことだろう
ゴッホは甥を可愛がったが、それと同時に、テオに家族ができたことで自分は見捨てられるのではないか、自分は邪魔な存在なのだ、と自責の念に苛まれた
ゴッホ兄弟の死
すっかり精神を病んでしまったゴッホは、入退院を繰り返し、度重なる発作の合間を縫うように絵を描き続けた
体調が回復した1890年5月、オーヴェル=シュル=オワーズにある食堂の屋根裏部屋を借りて生活を始める
しかし、それから約2か月後の7月27日、ゴッホはピストルで自分の左胸付近を打ち抜いた
銃弾は心臓から外れていたため、まだかろうじて息はあった
ゴッホの主治医だったガシェからの電報により、テオはすぐにオーヴェルに駆け付けた
このとき、ゴッホはまだ意識があり会話もできたが、29日午前1時半に37歳で他界した
このピストル自殺については、現場を目撃した者がいないことから他殺説もある(地元の少年たちとの小競り合いの中で銃が暴発したなど)
テオは、たった一人で葬儀の一切を取り仕切った
当時のカトリックの教えでは、自殺者は天国に行けず、教会で葬式をあげることが許されなかった
棺桶を運ぶ馬車すら出してもらえず、隣村でわざわざ借りてきて墓地まで運んだという
その後テオは、亡き兄のために展覧会をやろうと奔走する。
しかし、もともと病弱だったテオは、兄の死をきっかけに衰弱し、その半年後の1891年1月25日、ゴッホの後を追うように33歳で亡くなった
ゴッホを人気画家にした影の功労者
テオの死後、ゴッホの知名度向上に一役買ったのは、テオの妻・ヨーであった
彼女は幼子を女手一つで育てながら、テオの意思を引き継ぎ、ゴッホの展覧会を実現させたのだ
テオが残していたゴッホからの手紙をまとめて書簡集を出版し、ゴッホの回顧展を開催するなど、彼らの偉業を世に知らしめた
その結果、ゴッホの絵の知名度はみるみるうちに向上し、芸術評論家からも賞賛されるようになった
そして1990年には、『医師ガシェの肖像』が日本のある実業家によって、日本円にして約125億円で落札されるまでになったのだ
現在、オーヴェルにはゴッホとテオ、2人の墓が並んでいる
テオが亡くなった際、オランダのユトレヒトに埋葬されたが、その後、テオの墓はヨーによってゴッホの墓の隣に改葬された
隣り合った2つの墓は、蔦で覆われている
木蔦の花言葉は「分かちがたい魂」だという
参考 :
『ゴッホのあしあと』著/原田マハ
『ゴッホの手紙』著/小林英雄
文 /小森涼子 校正 / 草の実堂編集部
(この記事は、草の実堂の記事で作りました)
ゴッホは感情的、情熱的で気難しい面もあったようだ
そんな兄を物心両面で支えたのが弟・テオだった
そしてゴッホ死後、ゴッホが有名画家となれたのは、弟・テオの妻のヨ―の尽力だった
ちなみにゴッホは私が好きな画家の一人です
ゴッホのあしあと (幻冬舎文庫) 文庫
生前には1枚しか絵が売れなかったゴッホが死後には世界的高評価
狂気と情熱の炎の画家といわれたゴッホ
フランス各地のゴッホの辿った「あしあと」を追い人間・ゴッホに迫る
生前は1枚しか絵が売れず、死後ようやく評価された画家としても有名である
死後100年以上が経過した現在、ゴッホの作品はオークションで何十億円の値がつくほどの高い評価を受けている
しかし、なぜ生前はほとんど評価されなかったゴッホの絵が、これほどまでに称賛されるようになったのだろうか
ゴッホの人生を辿りながら、彼を支え、その作品を世に広めた影の立役者にも焦点を当てていきたい
転職を繰り返して画家へ
フィンセント・ファン・ゴッホ(以下、ゴッホ)は1853年、オランダのズンデルトに生まれた
父テオドルスはオランダ改革派教会の牧師であり、ゴッホは6人兄弟の長男として育った
子どもの頃のゴッホは癇癪もちで、兄弟の中でもとりわけ扱いにくい子と見られていた
16歳になると、老舗の画廊・グーピル商会に就職し、その後は教師や伝道師などの仕事にも就いた
しかし、どの仕事もうまくいかなかった
繊細で気難しい性格のゴッホは、家族とも度々衝突し、父親によって精神病院へ入れられそうになったこともあったという
さらにゴッホは、未亡人になった7歳年上の従姉に恋心を抱いて、プロポーズするも断られ、ストーカーまがいの行動を取ったこともあった
そんなゴッホだったが、20代後半だったこの頃に、本格的に画家を志すようになる
ゴーギャンとの共同生活と耳切り事件
1888年、彼は南フランス・アルルでの画家仲間との共同生活を計画し、尊敬するポール・ゴーギャンを招待した
ゴッホの最も有名な作品である『ひまわり』は、ゴーギャンの到着を待ちながら、その部屋に飾るために描かれたものである
しかし、「憧れのゴーギャンが来てくれた!」と喜んだのも束の間、芸術観の相違から関係が悪化し、ゴッホとゴーギャンはおよそ2か月で決別してしまった
有名なゴッホの「耳切り事件」はこの時期に起きた
あるときゴーギャンと口論になり、ゴッホは自らの耳を切り落とし、さらにその肉片を馴染みの娼婦に届けて警察沙汰になってしまったのだ
この事件が原因でゴッホは精神病を疑われ、アルル市立病院の監禁室に隔離されることとなる
兄を献身的に支えた弟の存在
そんなゴッホをただ一人、ずっと応援してくれたのは弟のテオドルス(通称テオ)であった
テオはうだつの上がらない芸術家の兄を、10年間にわたって支援し続けたのだ
経済的にも精神的にも兄を支え、手紙のやり取りも頻繁におこなった
1889年にヨハンナ・ボンゲル(通称ヨー)と結婚しても、翌年に子供が生まれても、兄に仕送りを続けた
それだけではない
テオは一人息子に、兄ゴッホと同じ「フィンセント」という名前を付けたのである
ゴッホはさぞ嬉しかったことだろう
ゴッホは甥を可愛がったが、それと同時に、テオに家族ができたことで自分は見捨てられるのではないか、自分は邪魔な存在なのだ、と自責の念に苛まれた
ゴッホ兄弟の死
すっかり精神を病んでしまったゴッホは、入退院を繰り返し、度重なる発作の合間を縫うように絵を描き続けた
体調が回復した1890年5月、オーヴェル=シュル=オワーズにある食堂の屋根裏部屋を借りて生活を始める
しかし、それから約2か月後の7月27日、ゴッホはピストルで自分の左胸付近を打ち抜いた
銃弾は心臓から外れていたため、まだかろうじて息はあった
ゴッホの主治医だったガシェからの電報により、テオはすぐにオーヴェルに駆け付けた
このとき、ゴッホはまだ意識があり会話もできたが、29日午前1時半に37歳で他界した
このピストル自殺については、現場を目撃した者がいないことから他殺説もある(地元の少年たちとの小競り合いの中で銃が暴発したなど)
テオは、たった一人で葬儀の一切を取り仕切った
当時のカトリックの教えでは、自殺者は天国に行けず、教会で葬式をあげることが許されなかった
棺桶を運ぶ馬車すら出してもらえず、隣村でわざわざ借りてきて墓地まで運んだという
その後テオは、亡き兄のために展覧会をやろうと奔走する。
しかし、もともと病弱だったテオは、兄の死をきっかけに衰弱し、その半年後の1891年1月25日、ゴッホの後を追うように33歳で亡くなった
ゴッホを人気画家にした影の功労者
テオの死後、ゴッホの知名度向上に一役買ったのは、テオの妻・ヨーであった
彼女は幼子を女手一つで育てながら、テオの意思を引き継ぎ、ゴッホの展覧会を実現させたのだ
テオが残していたゴッホからの手紙をまとめて書簡集を出版し、ゴッホの回顧展を開催するなど、彼らの偉業を世に知らしめた
その結果、ゴッホの絵の知名度はみるみるうちに向上し、芸術評論家からも賞賛されるようになった
そして1990年には、『医師ガシェの肖像』が日本のある実業家によって、日本円にして約125億円で落札されるまでになったのだ
現在、オーヴェルにはゴッホとテオ、2人の墓が並んでいる
テオが亡くなった際、オランダのユトレヒトに埋葬されたが、その後、テオの墓はヨーによってゴッホの墓の隣に改葬された
隣り合った2つの墓は、蔦で覆われている
木蔦の花言葉は「分かちがたい魂」だという
参考 :
『ゴッホのあしあと』著/原田マハ
『ゴッホの手紙』著/小林英雄
文 /小森涼子 校正 / 草の実堂編集部
(この記事は、草の実堂の記事で作りました)
ゴッホは感情的、情熱的で気難しい面もあったようだ
そんな兄を物心両面で支えたのが弟・テオだった
そしてゴッホ死後、ゴッホが有名画家となれたのは、弟・テオの妻のヨ―の尽力だった
ちなみにゴッホは私が好きな画家の一人です
ゴッホのあしあと (幻冬舎文庫) 文庫
生前には1枚しか絵が売れなかったゴッホが死後には世界的高評価
狂気と情熱の炎の画家といわれたゴッホ
フランス各地のゴッホの辿った「あしあと」を追い人間・ゴッホに迫る