古来より日本では、生物無生物問わず様々な対象に霊性や神性を見出して、神として崇拝してきた
大口真神(おおくちのまがみ、おおぐちまかみ)もまた、日本の山々にかつて生息していた野生動物、ニホンオオカミが神格化されて生まれた神だ
大口真神は、猪や鹿などから作物を守護する神として崇められ、人々の生活に近しい農耕神として、時には人をも食らう獰猛な荒ぶる神として、篤く崇敬されてきた
今回は日本の神々の中でも珍しい、実在した動物が神として崇められ、その動物の名前の由来にもなったとされる神「大口真神」について解説していこう
ニホンオオカミは、いつから神とみなされていたのか
初めに述べた通り、大口真神はニホンオオカミが神格化された神だ
「オオカミ」という名称は「大神」が語源とされており、大口真神は古くから聖獣とみなされて人々に崇拝されてきた
その歴史は少なくとも、奈良時代にまでさかのぼる
日本神話の中で大口真神が活躍する場面は、『日本書紀』や『大和国風土記』などの文献に記されている
日本武尊(やまとたけるのみこと)は東征の折、信濃の山の邪神の化身である白鹿を退治したあと、山中で道に迷ってしまった
そこに忽然と白く大きな山犬が現れて、日本武尊を導いた
その結果、日本武尊は無事美濃に脱出できたのである
日本武尊は自分たちを導いてくれた山犬に対して、「大口真神」としてその地に留まり守護するように告げた
そして山犬はその言葉に従って神となり「大口真神」が生まれたのだという
『古事記』や『日本書紀』と同時期に編纂された『万葉集』にも、「大口の まかみの原に ふる雪は いたくなふりそ 家もあらなくに」という和歌が記されている
かつて、大和国(現在の奈良県にあたる)の飛鳥の真神原に住んでいた老オオカミは、大勢の人間を捕食してきたため、その獰猛さに恐れをなした人々によって神格化された
真神原(まかみの原)という地名は、読んで字のごとく真神(まかみ)が住む草原という意味だ
これらの記述から、少なくとも8世紀頃にはオオカミが広く神として、日本人から崇められていた事実がうかがえる
大口真神の神性と、ニホンオオカミの習性
農作物を食害する猪や鹿を捕食してくれるオオカミは、農耕民族である日本人にとっては恐ろしくありつつ、とてもありがたい存在でもあった
それゆえに「大口真神」は、山間部では農業の守護神として、都市部では火難や盗難除けの神として崇められた
大口真神は人語を理解する賢さを持ち、それに加えて人間の性質を見分ける能力も持っており、善人を守護して悪人を罰するという
山に生息するというオオカミの性質上、大口真神は特に山岳信仰との結びつきが強い。
多くの大口真神を祀る神社では、大口真神は山の神の眷属とみなされている。
また、日本の各地には「送り犬」という伝承が残っている
送り犬とは妖怪の一種であり、夜中に人が山道を歩いていると、後を追うようについてくるという
もし山道で、何かの拍子に転んでしまうと送り犬に食い殺されてしまうが、たとえ転んだとしても「どっここいしょ」と声を出して座ったように見せかけたり、ため息をつきながら座り直して休憩を取っているように見せかければ襲われない
さらには正しく対処をすれば、襲うどころか道中の安全を守ってくれるという言い伝えも存在する
一説には、ニホンオオカミが自分の縄張りに侵入した人間を監視するように後をつけてくる習性を、人間が都合よく解釈したものが送り犬だといわれている
大口真神を祀る神社
大口真神を山の神の眷属として祀る神社は、日本各地に鎮座している
中でも有名なのは、奥多摩の武蔵御嶽神社や、秩父の三峯神社だ
日本武尊が東征中に創建したと伝わる三峯神社では、国生みの神である伊弉諾尊 (いざなぎのみこと)と伊弉册尊 (いざなみのみこと)が主祭神として祀られているが、摂社の「御仮屋」に神の眷属として大口真神が祀られている
通常、大口真神は山中にその身を置いているが、祭りを行うための仮の宮として、大口真神の宮には御仮屋という名が付けられた
三峯神社は南北朝時代に一時衰退したが、室町時代に再興し、江戸時代には秩父の山中に棲息していたオオカミを崇める狼信仰の中心地となった
三峯神社で狼の護符を受ける御眷属信仰が流行し、三峯の大口真神は「お犬さま」と呼ばれ親しまれた
奥多摩の武蔵御嶽神社は、武蔵御岳山の山上に鎮座する神社で、三峯神社と同様に御眷属として大口真神を祀っている
武蔵御嶽神社では日本武尊がオオカミに救われ、守護を命じた山こそが御岳山であると伝えられているという
武蔵御嶽神社の大口真神は、江戸時代の天保の頃から魔除けや盗難除けの霊験あらたかな「おいぬ様」として親しまれてきた
その愛称にちなんで近年は「愛犬の守り神」として人気を集め、愛犬の健康祈願が受けられる全国的にも珍しい神社となった
また、神社には狛犬が欠かせないものだが、三峯神社や武蔵御嶽神社をはじめとする大口真神を祀る神社の多くには、オオカミの姿を象った狛犬が鎮座しているのも特徴的だ
神でありながら絶滅してしまった「ニホンオオカミ」
かつては神として崇められたニホンオオカミだが、現在では残念ながら絶滅種となっている
1905年1月に、奈良県で捕獲された若いオスが確実な最後の生息情報であり、その後もニホンオオカミの可能性がある個体は確認されているものの、可能性の域を脱することはなかった
ニホンオオカミが絶滅した原因は、明治期以降に流入してきた西洋の犬から広まった狂犬病や、ジステンパーなどの病気、人為的な駆除、山林開発による食料や生息地の減少など、複数の要因が合わさってのものだと考えられている
1732年頃には、ニホンオオカミの間で狂犬病が流行して狂暴化し、駆除に拍車がかかってしまった上に、オオカミの頭骨などを魔除けの加持祈祷に用いる文化が広まり、多くのニホンオオカミが捕殺されてしまったことも絶滅の要因とされている。
しかし1970年代には、山中で捕獲されたイヌ科の動物がニホンオオカミではないか、と騒がれる事例がいくつかあった
それらの動物がタヌキやキツネ、野犬など他のイヌ科の動物である可能性や、ニホンオオカミと野犬が交雑して生まれた種であることも否定できないが、日本の国土のおよそ3分の2が森林であることを考えれば、今も山のどこかでニホンオオカミがひっそりと生きている可能性はゼロではないかもしれない
しかし、たとえ生き残っていたとしても、その数は限りなく少ないだろう
今、日本の山間部では、猪や鹿、猿などの野生動物が大繁殖し、農作物や森林に被害を大規模な被害を与えてしまうことが問題となっているが、これらの草食動物が増えすぎてしまったのは、捕食者であったニホンオオカミが絶滅してしまったからだともいわれている。
神の眷属を失ってしまった日本の山々は、今後どのように変化を遂げていくのだろうか。一部ではオオカミの再導入が検討されているというが、大いなる自然はいつでも人の想像をはるかに超えてくるものだ
私たち人間ができるせめてものことと言えば、これ以上人の手により絶滅する動物たちを増やさないようにして、自然に与える悪影響を少なくすることぐらいなのかもしれない
参考文献
茂木 貞純 (監修)『神社のどうぶつ図鑑』
宗像 充 (著) 『ニホンオオカミは消えたか?』
文 / 北森詩乃
(この記事は、草の実堂の記事で作りました)
古来より日本はありとあらゆるものが神として信仰の対象となってきた
今は絶滅したオオカミもそうだ
オオカミは恐れられながらの神として崇められてきた
オオカミといえば私は日本のオオカミではないが、シートン動物記の「オオカミ王ロボ」が印象深いですね
神社のどうぶつ図鑑 単行本
神社をめぐる動物図鑑
狛犬、キツネなど、これらは神に仕えるものと考えられ、神使あるいは眷属(けんぞく)といわれています
2024年10月25日
NY株は4日続落、日経平均株価は4日ぶりに反発
24日(現地時間)のNY株(ダウ平均株価)は、4日続落し、終値は前日比140ドル59セント安の4万2374ドル36セント
ハイテク株中心のナスダックは138.84ポイント高の1万8415.49
S&P500は12.44ポイント高の5809.86
24日(日本時間)の日経平均株価は4日ぶりに反発し、終値は前日比38円43銭高の3万8143円29銭
前日の米株安を受けた売りが先行し、朝方は400円近く下げたが、海外短期筋とみられる先物の断続的な買い戻しが主導して持ち直した
(この記事は、ネットニュースの記事で作りました)
ハイテク株中心のナスダックは138.84ポイント高の1万8415.49
S&P500は12.44ポイント高の5809.86
24日(日本時間)の日経平均株価は4日ぶりに反発し、終値は前日比38円43銭高の3万8143円29銭
前日の米株安を受けた売りが先行し、朝方は400円近く下げたが、海外短期筋とみられる先物の断続的な買い戻しが主導して持ち直した
(この記事は、ネットニュースの記事で作りました)
「もう一人の杉原千畝」
ナチス・ドイツなどから迫害を受けたユダヤ人難民に「命のビザ」を発給し続けた外交官・杉原千畝(ちうね)
約6000人の命を救ったことから、「東洋のシンドラー」とも呼ばれる
同じ頃、日本の敗戦直後に杉原の「10倍」、およそ6万人もの日本人難民の救出に尽力した男がいたことをご存じだろうか
敗戦まもない北朝鮮で「引き揚げの神様」とまで呼ばれたその人の名は、松村義士男(ぎしお)
金も権力も持たない一介の市民であり、戦前には労働運動へ身を投じたことで国家から弾圧されたアウトサイダーだった――
※本記事は、城内康伸氏による最新刊『奪還 日本人難民6万人を救った男』より一部を抜粋・再編集し、全6回にわたってお届けします
***
70万の日本人が「難民」に
1945(昭和20)年8月、敗戦によって日本の植民地支配が終わり、拠り所を失った朝鮮半島に住んでいた在留邦人は事実上の「難民」と化した
復員省などの調査によると、終戦当時、朝鮮半島には約70万人の一般邦人が住んでいた
そのうち北緯38度線以北、すなわち北朝鮮地域(以下、北朝鮮)に住んでいたのは約25万人と推定されている
さらに終戦前後には、満州から約7万人の避難民が北朝鮮になだれ込んだ
朝鮮半島は、北緯38度線を境として米軍とソ連軍の分割占領下に置かれた
北緯38度線以南の南朝鮮地域(以下、南朝鮮)に進駐した米軍は、在留邦人の日本本土への早期送還方針を徹底させ、南朝鮮に住んでいた日本人約45万人の引き揚げ作業は、終戦翌年の1946年春までにほぼ完了した
劣悪な環境下、6人に1人が死亡した地域も
一方、北朝鮮では違った
進駐したソ連軍は1945年8月25日までに、南北間を運行していた鉄道を北緯38度線で断ち、北緯38度線を事実上、封鎖した
これによって、南北間の交流は全て遮断された
北朝鮮の在留邦人は南朝鮮への移動を許されず、北朝鮮に閉じ込められる形になった
さらに、ソ連や旧満州と国境を接する北朝鮮北部の咸鏡北道(ハムギョンプクド、道は県に相当)は、ソ連軍による侵攻で直接、戦火にさらされた
終戦前には約7万4000人いた咸鏡北道の在留邦人のうち約6万人は、住み慣れた土地と家を捨てて避難のために南下した
咸鏡北道の南端と境界を接した咸鏡南道(ハムギョンナムド)に、とりわけ同道の中核都市だった咸興(ハムン)や興南(フンナム)、元山(ウォンサン)などに、どっと押し寄せた
こうした人々は「避難民」と呼ばれ、北部の山間部を長い場合には、1カ月以上も歩き続けた
逃避行の道中では、植民地支配の抑圧から解き放たれた朝鮮人による略奪に遭うことも多かった
体力を失った高齢者や幼い子供の中には、力尽きて仆(たお)れた人も少なくなかった
残暑の厳しい中、やっとの思いで辿り着いた避難先の街で、疲労困憊し、ほぼ無一文になっていた避難民を待ち受けていたのは、深刻な住居、食料の不足だった
例えば、終戦前には一般邦人の数が約1万2000人だった咸興の街には、1945年10月時点で、その倍以上の約2万5000人もの避難民が流入し、貧困者で溢れかえった
栄養失調と劣悪な環境下での集団生活
冬が近づくにつれて発疹チフスなどの感染症が猖獗(しょうけつ)を極めた
咸興では同年8月から翌年春にかけ約6300人が死亡した
6人に1人が命を落とした計算となり、北朝鮮で最悪の惨状を呈した
立ち上がったのは、警察にマークされていた「異端の人」
太平洋戦争の敗戦で朝鮮半島北部の邦人は難民に
飢餓や伝染病で斃れゆく老若男女の前に忽然と現れ、ソ連軍の監視をかいくぐり、母国へと導く男――彼はかつて国家から断罪されたアウトサイダーだった
時間も資金も情報もない中で、頭脳と度胸を駆使した決死の闘いが始まる
見返りを求めない「究極の利他」が胸を打つ実話 『奪還 日本人難民6万人を救った男』
そのような苦境において、咸鏡南道、咸鏡北道に取り残された日本人を日本本土に引き揚げさせるため、南朝鮮に次々と集団で脱出させた人物が北朝鮮にいた
その名を松村義士男(ぎしお)という
日本人の引き揚げ史に詳しい駒澤大学文学部教授の加藤聖文の著書『海外引揚の研究──忘却された「大日本帝国」』によると、日ソ開戦前、咸鏡南道、咸鏡北道に住んでいた日本人は旧厚生省の推計で約14万人、北朝鮮の日本人全人口の6割近くを占めていた
その両地域から在留邦人を大量脱出させる工作で、中心的な役割を果たしたのが松村だった
松村は、戦前には労働運動に加担したなどとして治安維持法違反で、2度にわたり検挙された元左翼活動家だった
このため、北朝鮮の新政権の中には、かつて共に辛酸を嘗めた共産主義者の知己が多く、こうした人脈を生かして日本人救済に尽力した
私の手元には背広姿で頬杖を突く松村の写真がある
武骨な雰囲気を湛え、天然パーマがかかったような短髪に大きな鼻、濃い眉毛に切れ長の細い目をしている
その瞳には強い意志が宿っているように見える
難民の救済といえば、第2次世界大戦中にナチス・ドイツの迫害から逃れたユダヤ難民に「命のビザ」を発給し、約6000人もの命を救ったとされる外交官の杉原千畝が有名だ
一方、咸鏡南道、咸鏡北道の都市から列車や船によって集団で南下した日本人の数を集計した資料を総合して推算すると、松村が直接・間接的に脱出を手助けした人の数はおよそ6万人に達するとみられる
松村は当時、34歳という若さであり、一介の民間人に過ぎなかった
しかも戦前には、治安当局の弾圧に遭い、世間からは「アカ」と白眼視された“アウトサイダー”だった
そんな人物がなぜ、敗戦によって日本が国家としての主権を失い無力だった状況で、在留邦人を引き揚げさせるために身を賭したのか──
その点に私は興味が湧いた
それから間もなく80年
彼を知る人は極めて少ない
だが、杉原に劣らぬ功績を残しながら、このまま忘れ去られていくのは、あまりに惜しい
***
※『奪還 日本人難民6万人を救った男』より一部抜粋・再編集
(この記事は、デイリー新潮の記事で作りました)
難民救済でいえば6000人ものユダヤ人を救った杉原千畝が有名だ
しかし、松村義士男という男も凄い
北朝鮮から6万人ほどの日本人を救った
松村は当時、34歳という若さであり、一介の民間人に過ぎなかった
しかも戦前には、治安当局の弾圧に遭い、世間からは「アカ」と白眼視された“アウトサイダー”だった
のに・・・
杉原千畝も、もちろん凄いが松村義士男も杉原に劣らず凄い!!
奪還:日本人難民6万人を救った男 単行本
北朝鮮から難民日本人6万人を救った男・松村義士男
「究極の利他」の感動の実話
約6000人の命を救ったことから、「東洋のシンドラー」とも呼ばれる
同じ頃、日本の敗戦直後に杉原の「10倍」、およそ6万人もの日本人難民の救出に尽力した男がいたことをご存じだろうか
敗戦まもない北朝鮮で「引き揚げの神様」とまで呼ばれたその人の名は、松村義士男(ぎしお)
金も権力も持たない一介の市民であり、戦前には労働運動へ身を投じたことで国家から弾圧されたアウトサイダーだった――
※本記事は、城内康伸氏による最新刊『奪還 日本人難民6万人を救った男』より一部を抜粋・再編集し、全6回にわたってお届けします
***
70万の日本人が「難民」に
1945(昭和20)年8月、敗戦によって日本の植民地支配が終わり、拠り所を失った朝鮮半島に住んでいた在留邦人は事実上の「難民」と化した
復員省などの調査によると、終戦当時、朝鮮半島には約70万人の一般邦人が住んでいた
そのうち北緯38度線以北、すなわち北朝鮮地域(以下、北朝鮮)に住んでいたのは約25万人と推定されている
さらに終戦前後には、満州から約7万人の避難民が北朝鮮になだれ込んだ
朝鮮半島は、北緯38度線を境として米軍とソ連軍の分割占領下に置かれた
北緯38度線以南の南朝鮮地域(以下、南朝鮮)に進駐した米軍は、在留邦人の日本本土への早期送還方針を徹底させ、南朝鮮に住んでいた日本人約45万人の引き揚げ作業は、終戦翌年の1946年春までにほぼ完了した
劣悪な環境下、6人に1人が死亡した地域も
一方、北朝鮮では違った
進駐したソ連軍は1945年8月25日までに、南北間を運行していた鉄道を北緯38度線で断ち、北緯38度線を事実上、封鎖した
これによって、南北間の交流は全て遮断された
北朝鮮の在留邦人は南朝鮮への移動を許されず、北朝鮮に閉じ込められる形になった
さらに、ソ連や旧満州と国境を接する北朝鮮北部の咸鏡北道(ハムギョンプクド、道は県に相当)は、ソ連軍による侵攻で直接、戦火にさらされた
終戦前には約7万4000人いた咸鏡北道の在留邦人のうち約6万人は、住み慣れた土地と家を捨てて避難のために南下した
咸鏡北道の南端と境界を接した咸鏡南道(ハムギョンナムド)に、とりわけ同道の中核都市だった咸興(ハムン)や興南(フンナム)、元山(ウォンサン)などに、どっと押し寄せた
こうした人々は「避難民」と呼ばれ、北部の山間部を長い場合には、1カ月以上も歩き続けた
逃避行の道中では、植民地支配の抑圧から解き放たれた朝鮮人による略奪に遭うことも多かった
体力を失った高齢者や幼い子供の中には、力尽きて仆(たお)れた人も少なくなかった
残暑の厳しい中、やっとの思いで辿り着いた避難先の街で、疲労困憊し、ほぼ無一文になっていた避難民を待ち受けていたのは、深刻な住居、食料の不足だった
例えば、終戦前には一般邦人の数が約1万2000人だった咸興の街には、1945年10月時点で、その倍以上の約2万5000人もの避難民が流入し、貧困者で溢れかえった
栄養失調と劣悪な環境下での集団生活
冬が近づくにつれて発疹チフスなどの感染症が猖獗(しょうけつ)を極めた
咸興では同年8月から翌年春にかけ約6300人が死亡した
6人に1人が命を落とした計算となり、北朝鮮で最悪の惨状を呈した
立ち上がったのは、警察にマークされていた「異端の人」
太平洋戦争の敗戦で朝鮮半島北部の邦人は難民に
飢餓や伝染病で斃れゆく老若男女の前に忽然と現れ、ソ連軍の監視をかいくぐり、母国へと導く男――彼はかつて国家から断罪されたアウトサイダーだった
時間も資金も情報もない中で、頭脳と度胸を駆使した決死の闘いが始まる
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そのような苦境において、咸鏡南道、咸鏡北道に取り残された日本人を日本本土に引き揚げさせるため、南朝鮮に次々と集団で脱出させた人物が北朝鮮にいた
その名を松村義士男(ぎしお)という
日本人の引き揚げ史に詳しい駒澤大学文学部教授の加藤聖文の著書『海外引揚の研究──忘却された「大日本帝国」』によると、日ソ開戦前、咸鏡南道、咸鏡北道に住んでいた日本人は旧厚生省の推計で約14万人、北朝鮮の日本人全人口の6割近くを占めていた
その両地域から在留邦人を大量脱出させる工作で、中心的な役割を果たしたのが松村だった
松村は、戦前には労働運動に加担したなどとして治安維持法違反で、2度にわたり検挙された元左翼活動家だった
このため、北朝鮮の新政権の中には、かつて共に辛酸を嘗めた共産主義者の知己が多く、こうした人脈を生かして日本人救済に尽力した
私の手元には背広姿で頬杖を突く松村の写真がある
武骨な雰囲気を湛え、天然パーマがかかったような短髪に大きな鼻、濃い眉毛に切れ長の細い目をしている
その瞳には強い意志が宿っているように見える
難民の救済といえば、第2次世界大戦中にナチス・ドイツの迫害から逃れたユダヤ難民に「命のビザ」を発給し、約6000人もの命を救ったとされる外交官の杉原千畝が有名だ
一方、咸鏡南道、咸鏡北道の都市から列車や船によって集団で南下した日本人の数を集計した資料を総合して推算すると、松村が直接・間接的に脱出を手助けした人の数はおよそ6万人に達するとみられる
松村は当時、34歳という若さであり、一介の民間人に過ぎなかった
しかも戦前には、治安当局の弾圧に遭い、世間からは「アカ」と白眼視された“アウトサイダー”だった
そんな人物がなぜ、敗戦によって日本が国家としての主権を失い無力だった状況で、在留邦人を引き揚げさせるために身を賭したのか──
その点に私は興味が湧いた
それから間もなく80年
彼を知る人は極めて少ない
だが、杉原に劣らぬ功績を残しながら、このまま忘れ去られていくのは、あまりに惜しい
***
※『奪還 日本人難民6万人を救った男』より一部抜粋・再編集
(この記事は、デイリー新潮の記事で作りました)
難民救済でいえば6000人ものユダヤ人を救った杉原千畝が有名だ
しかし、松村義士男という男も凄い
北朝鮮から6万人ほどの日本人を救った
松村は当時、34歳という若さであり、一介の民間人に過ぎなかった
しかも戦前には、治安当局の弾圧に遭い、世間からは「アカ」と白眼視された“アウトサイダー”だった
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杉原千畝も、もちろん凄いが松村義士男も杉原に劣らず凄い!!
奪還:日本人難民6万人を救った男 単行本
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