クラシックソムリエが語る「名曲物語365」
クラシック音楽を楽しく学べるトリビアをお届け
イラスト/なめきみほ
難しいイメージのあるクラシック音楽も、作品に秘められた思いやエピソードを知ればぐっと身近な存在に
人生を豊かに彩る音楽の世界を、クラシックソムリエの田中 泰さんが案内します
サリエリ オペラ『タラール』 忘れ去られたヨーロッパ随一の人気作曲家
今日8月18日は、イタリアの作曲家、アントニオ・サリエリ(1750~1825)の誕生日です
映画『アマデウス』によって、モーツァルトの敵役としてすっかり有名になってしまったサリエリですが、ウィーン宮廷作曲家として活躍していた時代は、王侯貴族から絶大な信頼を得ていたヨーロッパ随一の人気作曲家でした
その影響力は、口利きによってロレンツォ・ダ・ポンテを台本作家に仕立て上げたという、昨日ご紹介した逸話にも表れています
そしてなにより重要なポイントは、ベートーヴェンやシューベルト、リストらを育てた名教師であったことでしょう
一方、作曲家としてのサリエリは、イタリアの様式にフランス的な色を重ねた技法によって、40曲以上のオペラを手がけたほか、宗教曲などにも多くの名作を残しています
パリを席巻したオペラ『タラール』は、フランスの劇作家ボーマルシェとの共同作業によって生まれた名作です
この作品をウィーンで上演するために、イタリア語に改作したのがダ・ポンテであったことも、サリエリの影響力が感じられる出来事です
田中 泰/Yasuhi Tanaka
一般財団法人日本クラシックソムリエ協会代表理事
ラジオや飛行機の機内チャンネルのほか、さまざまなメディアでの執筆や講演を通してクラシック音楽の魅力を発信している
(この記事は、家庭画報.comの記事で作りました)
アントニオ・サリエリは、一時ヨーロッパ随一の人気作曲家でした
これだけの名声を得る才能あふれる作曲家でしたが、同時代にはあのモーツァルトがいました
サリエリも優れた作曲家で秀才でしたが、モーツァルトは超天才でした
そして皮肉なことにモーツァルトの天才ぶりを理解する「聴力」だけはサリエリはありました
誰よりモーツァルトの天才ぶり、音楽の凄さ、素晴らしさを理解し、彼の最高のファン(推し)となりました
モーツァルトの破天荒で型破りの人間性と音楽の天才ぶりに嫉妬し、愛憎うずまき、葛藤し、悩み、苦しんだ様子は映画「アマデウス」でも丹念に描かれています
どこまで真実かはわかりませんが、個人的には真実に近いと思っています
モーツァルトの死因は謎ですが、「アマデウス」では、サリエリがモーツァルトの死に関わっています
時を経て、モーツァルトの曲はますます輝き不朽となっていくが、サリエリの曲は忘れ去られた
アマデウス ディレクターズカット [DVD]
映画「アマデウス」のディレクターズカット版
いわば完全版といえ、前後の流れもわかる
この映画は天才・モーツァルトが主人公の作品だが、もう1人の主人公の秀才・サリエリにも注目
サリエリの嫉妬、葛藤、苦悩などが丹念に描かれている
2024年09月11日
NY株は反落、日経平均株価は6営業日続落
10日(現地時間)のNY株(ダウ平均株価)は反落し、終値は前日比92ドル63セント安の4万0736ドル96セント
ハイテク株中心のナスダックは141.28ポイント高の1万7025.88
S&P500は24.47ポイント高の5495.52
10日(日本時間)の日経平均株価は6営業日続落し、終値は前日比56円59銭安の3万6159円16銭
(この記事は、ネットニュースの記事で作りました)
ハイテク株中心のナスダックは141.28ポイント高の1万7025.88
S&P500は24.47ポイント高の5495.52
10日(日本時間)の日経平均株価は6営業日続落し、終値は前日比56円59銭安の3万6159円16銭
(この記事は、ネットニュースの記事で作りました)
【家康を追い詰めた日本一の兵】 真田幸村の足跡を尋ねてみた
NHK大河ドラマにより一躍有名になった「真田丸」は、大坂冬の陣で真田幸村(信繁)が築いた出城(砦)です
大坂城の南側を守る、要塞としての役割を果たしました
また、大坂夏の陣においても、幸村が徳川軍を迎え撃った天王寺公園の茶臼山周辺には、今もなお、彼の足跡を感じることができます
本稿では、大阪の上町台地(うえまちだいち)にあるこれらの史跡を訪れ、真田幸村の足跡を辿ります
大阪の上町台地とは
「上町台地」とは、大阪市の中央部に位置し、東西および北の三方を低地に囲まれた台地状の地域を指します
約7000~6000年前、この地は東に河内湾、西に大阪湾が広がる半島でありましたが、淀川や大和川などの河川が運ぶ土砂による堆積により低湿地化し、さらに陸地化が進行しました
現在では、上町台地は大阪市中央区、天王寺区、阿倍野区、住吉区にわたり、幅2~3km、長さ12kmに及ぶ台地として大阪平野を二分しています
この台地は、大阪の歴史においても重要な役割を果たしてきました
真田幸村が大坂城に入場するまで
真田幸村の名が知れ渡っていますが、諱は「信繁(のぶしげ)」です
直筆の書状や、生前の史料等で「幸村」の名が使われているものは存在しませんが、ここでは知られている「幸村」と記させていただきます
幸村は1567年もしくは1570年に、信濃国小県郡の国衆であった真田昌幸の次男として生まれました
真田家は当初、武田家に仕えていましたが、武田家が織田・徳川連合軍により滅ぼされた後は、織田家に恭順しました
信長の死後、昌幸は真田家の存続のために臣従先を上杉・北条・徳川と、その時々の状況に合わせて変えています
結局、真田家は上杉家に帰属し、現在の上田市内において千貫以上の領地を有するまでに至りました
そして秀吉が台頭すると、父の昌幸は秀吉に服属し、大名としての地位が与えられます
この時期の幸村についての動向はよくわかっていませんが、秀吉の馬廻衆として父とは別に1万9千石を与えられ、大坂や伏見に屋敷を構え、大名として扱われていたことが分かっています
こうして秀吉に服従していた昌幸と幸村は、1600年の関ヶ原の戦いでは西軍として戦います。
西軍が敗北すると、本来であれば敗軍の将として処刑されるところでした
ただでさえ真田家は、第一次、第二次上田合戦において、徳川家に苦渋を味わわせた相手であったため、やっかいな存在だったのです
しかし、東軍についた幸村の兄・信之と、その義父である本多忠勝の取りなしにより死罪は免れ、高野山での蟄居を命じられるに留まりました
昌幸は、その蟄居中の1611年に亡くなります
一方、関ヶ原で敗北した豊臣家は、滅亡を免れたものの、依然として大坂城を中心に存続していました
しかし1614年、豊臣家の滅亡を画策して発生した方広寺鐘銘事件により、徳川と豊臣の関係は急激に悪化し、大坂冬の陣・夏の陣へと突き進むことになります
この際、九度山に蟄居していた幸村のもとにも、豊臣家から参戦要請の使者が派遣されました
幸村はこれに応じ、信州にいる父・昌幸の旧臣たちに参戦を呼びかけた上で、九度山を脱出し、大坂城に入城したのです
大坂冬の陣と真田丸
徳川軍は豊臣家を滅ぼすべく、1614年に大軍を大坂に派遣しました
このとき、幸村は京都・滋賀に打って出ることを主張しましたが、この案は受け入れられず、大坂城に籠城する策が決定されました
それを受けて、幸村は出城(砦)の真田丸を築きました
大坂城は、先述した上町台地の北端に位置し、三方を川や湿地といった天然の要害に囲まれていましたが、南側の防御が手薄でした
幸村はこの真田丸を築くことで、大坂城の守りを万全なものとし、徳川軍の進攻に備えたのです
さらに幸村は、この真田丸から攻撃を仕掛け、家康が本陣を置いた茶臼山を狙って攻撃を行い、徳川軍を一時的に追い払うことに成功しました
この真田丸の跡地は、大阪環状線の玉造駅から西へ少し進んだ場所に位置しており、現在でもその地形から往時の様子を感じ取ることができます
その周辺には、大坂城と繋がっていたとされる抜け穴がある三光神社があります
その抜け穴跡とされる洞窟の入り口の横には、勇猛に戦いを指揮する幸村の銅像が建てられています
また、三光神社の向かい側に位置する心願寺には、幸村と父・昌幸の墓があり、往時の面影をわずかに偲ぶことができます
大坂夏の陣と幸村終焉の地
大坂冬の陣では、豊臣軍が徳川勢を一時的に追い払う形で和平が成立しました
しかし、家康は和平の間に外堀を埋める謀略を実行し、翌1615年には再び大坂城を攻めることとなりました
これが大坂夏の陣です
大坂夏の陣における幸村は、徳川軍の本陣を何度も急襲し、家康を追い詰めました
幸村の攻勢は本陣の馬印を引き倒すほどで、家康が自害を覚悟するほどの勢いでした
家康が馬印を倒されたのは武田信玄との「三方ヶ原の戦い」以来です
しかし、最終的には徳川軍の援軍により形勢が逆転し、豊臣軍は劣勢となります
激しい戦いの末、疲れ果てた幸村は、茶臼山からほど近い安居天満宮の境内で、傷ついた身体を木にもたれかけて休めているところを、越前松平家の鉄砲組・西尾宗次に発見されました
幸村は「この首を手柄にされよ」との最後の言葉を残し、ここで討ち死にしたのです
現在、この小さな安居天満宮の境内には、幸村の死を悼んで、彼が座っている姿をかたどった銅像が設置されています
最後に
今回は、大坂冬の陣で真田幸村が拠点を築いた真田丸跡、そして夏の陣で拠点とした茶臼山周辺を巡ってみました
もちろん、往時の様子を示すものはほとんどありませんが、心願寺にある幸村を慰霊するお墓や、三光神社や安居神社に建てられた幸村像に、その面影をわずかに偲ぶことができました
また、幸村が大坂の人にいかに愛された武将であるかを再認識することもできました
大阪城を訪れる際には、これらの史跡にもぜひ足を延ばしてみることをお勧めします
参考 : 「地形からみた上町台地の歴史」他
文 / 草の実堂編集部
投稿 【家康を追い詰めた日本一の兵】 真田幸村の足跡を尋ねてみた ~大阪の上町台地 は 草の実堂 に最初に表示されました
(この記事は、草の実堂の記事で作りました)
私はNHK人形劇「真田十勇士」を視聴していた影響もあり、豊臣・真田びいきです
大坂夏の陣において、真田幸村は家康を自決寸前まで追い込んでいます
家康の馬印が倒れたのは、三方ヶ原の戦いとこの大坂夏の陣の2度のみ
最後は敗れたとはいえ、この奮戦ぶりは「日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」と称えられました
真田幸村 家康をもっとも追いつめた男 (小学館新書 242) 新書
日本一の兵(ひのもといちのつわもの)といわれ天下人となる家康を最も追い込んだ男・真田幸村
私も好きな戦国武将で、今なお絶大な人気のある幸村の魅力のすべてと壮絶な最期の奮戦を追う
大坂城の南側を守る、要塞としての役割を果たしました
また、大坂夏の陣においても、幸村が徳川軍を迎え撃った天王寺公園の茶臼山周辺には、今もなお、彼の足跡を感じることができます
本稿では、大阪の上町台地(うえまちだいち)にあるこれらの史跡を訪れ、真田幸村の足跡を辿ります
大阪の上町台地とは
「上町台地」とは、大阪市の中央部に位置し、東西および北の三方を低地に囲まれた台地状の地域を指します
約7000~6000年前、この地は東に河内湾、西に大阪湾が広がる半島でありましたが、淀川や大和川などの河川が運ぶ土砂による堆積により低湿地化し、さらに陸地化が進行しました
現在では、上町台地は大阪市中央区、天王寺区、阿倍野区、住吉区にわたり、幅2~3km、長さ12kmに及ぶ台地として大阪平野を二分しています
この台地は、大阪の歴史においても重要な役割を果たしてきました
真田幸村が大坂城に入場するまで
真田幸村の名が知れ渡っていますが、諱は「信繁(のぶしげ)」です
直筆の書状や、生前の史料等で「幸村」の名が使われているものは存在しませんが、ここでは知られている「幸村」と記させていただきます
幸村は1567年もしくは1570年に、信濃国小県郡の国衆であった真田昌幸の次男として生まれました
真田家は当初、武田家に仕えていましたが、武田家が織田・徳川連合軍により滅ぼされた後は、織田家に恭順しました
信長の死後、昌幸は真田家の存続のために臣従先を上杉・北条・徳川と、その時々の状況に合わせて変えています
結局、真田家は上杉家に帰属し、現在の上田市内において千貫以上の領地を有するまでに至りました
そして秀吉が台頭すると、父の昌幸は秀吉に服属し、大名としての地位が与えられます
この時期の幸村についての動向はよくわかっていませんが、秀吉の馬廻衆として父とは別に1万9千石を与えられ、大坂や伏見に屋敷を構え、大名として扱われていたことが分かっています
こうして秀吉に服従していた昌幸と幸村は、1600年の関ヶ原の戦いでは西軍として戦います。
西軍が敗北すると、本来であれば敗軍の将として処刑されるところでした
ただでさえ真田家は、第一次、第二次上田合戦において、徳川家に苦渋を味わわせた相手であったため、やっかいな存在だったのです
しかし、東軍についた幸村の兄・信之と、その義父である本多忠勝の取りなしにより死罪は免れ、高野山での蟄居を命じられるに留まりました
昌幸は、その蟄居中の1611年に亡くなります
一方、関ヶ原で敗北した豊臣家は、滅亡を免れたものの、依然として大坂城を中心に存続していました
しかし1614年、豊臣家の滅亡を画策して発生した方広寺鐘銘事件により、徳川と豊臣の関係は急激に悪化し、大坂冬の陣・夏の陣へと突き進むことになります
この際、九度山に蟄居していた幸村のもとにも、豊臣家から参戦要請の使者が派遣されました
幸村はこれに応じ、信州にいる父・昌幸の旧臣たちに参戦を呼びかけた上で、九度山を脱出し、大坂城に入城したのです
大坂冬の陣と真田丸
徳川軍は豊臣家を滅ぼすべく、1614年に大軍を大坂に派遣しました
このとき、幸村は京都・滋賀に打って出ることを主張しましたが、この案は受け入れられず、大坂城に籠城する策が決定されました
それを受けて、幸村は出城(砦)の真田丸を築きました
大坂城は、先述した上町台地の北端に位置し、三方を川や湿地といった天然の要害に囲まれていましたが、南側の防御が手薄でした
幸村はこの真田丸を築くことで、大坂城の守りを万全なものとし、徳川軍の進攻に備えたのです
さらに幸村は、この真田丸から攻撃を仕掛け、家康が本陣を置いた茶臼山を狙って攻撃を行い、徳川軍を一時的に追い払うことに成功しました
この真田丸の跡地は、大阪環状線の玉造駅から西へ少し進んだ場所に位置しており、現在でもその地形から往時の様子を感じ取ることができます
その周辺には、大坂城と繋がっていたとされる抜け穴がある三光神社があります
その抜け穴跡とされる洞窟の入り口の横には、勇猛に戦いを指揮する幸村の銅像が建てられています
また、三光神社の向かい側に位置する心願寺には、幸村と父・昌幸の墓があり、往時の面影をわずかに偲ぶことができます
大坂夏の陣と幸村終焉の地
大坂冬の陣では、豊臣軍が徳川勢を一時的に追い払う形で和平が成立しました
しかし、家康は和平の間に外堀を埋める謀略を実行し、翌1615年には再び大坂城を攻めることとなりました
これが大坂夏の陣です
大坂夏の陣における幸村は、徳川軍の本陣を何度も急襲し、家康を追い詰めました
幸村の攻勢は本陣の馬印を引き倒すほどで、家康が自害を覚悟するほどの勢いでした
家康が馬印を倒されたのは武田信玄との「三方ヶ原の戦い」以来です
しかし、最終的には徳川軍の援軍により形勢が逆転し、豊臣軍は劣勢となります
激しい戦いの末、疲れ果てた幸村は、茶臼山からほど近い安居天満宮の境内で、傷ついた身体を木にもたれかけて休めているところを、越前松平家の鉄砲組・西尾宗次に発見されました
幸村は「この首を手柄にされよ」との最後の言葉を残し、ここで討ち死にしたのです
現在、この小さな安居天満宮の境内には、幸村の死を悼んで、彼が座っている姿をかたどった銅像が設置されています
最後に
今回は、大坂冬の陣で真田幸村が拠点を築いた真田丸跡、そして夏の陣で拠点とした茶臼山周辺を巡ってみました
もちろん、往時の様子を示すものはほとんどありませんが、心願寺にある幸村を慰霊するお墓や、三光神社や安居神社に建てられた幸村像に、その面影をわずかに偲ぶことができました
また、幸村が大坂の人にいかに愛された武将であるかを再認識することもできました
大阪城を訪れる際には、これらの史跡にもぜひ足を延ばしてみることをお勧めします
参考 : 「地形からみた上町台地の歴史」他
文 / 草の実堂編集部
投稿 【家康を追い詰めた日本一の兵】 真田幸村の足跡を尋ねてみた ~大阪の上町台地 は 草の実堂 に最初に表示されました
(この記事は、草の実堂の記事で作りました)
私はNHK人形劇「真田十勇士」を視聴していた影響もあり、豊臣・真田びいきです
大坂夏の陣において、真田幸村は家康を自決寸前まで追い込んでいます
家康の馬印が倒れたのは、三方ヶ原の戦いとこの大坂夏の陣の2度のみ
最後は敗れたとはいえ、この奮戦ぶりは「日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」と称えられました
真田幸村 家康をもっとも追いつめた男 (小学館新書 242) 新書
日本一の兵(ひのもといちのつわもの)といわれ天下人となる家康を最も追い込んだ男・真田幸村
私も好きな戦国武将で、今なお絶大な人気のある幸村の魅力のすべてと壮絶な最期の奮戦を追う