岩崎宏美が明かす阿久悠像
時代が歌をつくり、歌が時代をつくった’70年代
作詞家・阿久悠は、〈歌は時代とのキャッチボール〉をモットーに、’67年の作詞家デビューから’07年に亡くなるまで、実に5000曲以上を手がけてきた
シングル総売り上げ6800万枚という大記録もさることながら、日本レコード大賞受賞は史上最多の5回
ピンク・レディー「UFO」や都はるみ「北の宿から」など、あらゆるジャンルでヒット曲を生み、スターを世に送り出していった
阿久が企画し、審査員も務めた『スター誕生!』(日本テレビ系)を経て高校生の時にデビューした、歌手の岩崎宏美氏もその一人だ
「阿久先生は最初、無駄に笑わない、怖い印象がありました
でも、詞をいただくたび、『こんなに年が離れているのに、どうして私の気持ちが分かるのかしら』と不思議で
阿久先生が亡くなる数ヵ月前、ラジオ番組でご一緒した時、『僕は岩崎宏美をどうやって成人させるか、いつも考えていたんだよ』と教えてくれました
そこまで親身になって考えてくださったのか、と胸が熱くなったことを覚えています」
歌ありきではなく、どうやって歌手自身にドラマや個性を与えるか
そんな歌づくりをする阿久について、盟友・小林亜星は生前、こう評している「究極の人好きの人見知りだ」と
クールな関係を好み、人と馴れ合うことはしない
けれど、人間が持つ物語や才能には惜しみなく好奇心を注ぎ込んだ
『不機嫌な作詞家 阿久悠日記を読む』の著者、三田完氏もこう分析する
「阿久さんの好きな言葉に『チャンスの前髪』というものがあります。チャンスを司る神様には前髪しかなく、通り過ぎてからはつかめない。だから常に時代の先を行く『異端』であるべきと考えていました
それゆえに、易々と人の言うことは信じないし、流行っている事象を鵜呑みにはしない〈人見知り〉の面があり、一方で、人々の気持ちを汲む努力を怠らない〈人好き〉の面があった。これこそヒットメーカーとしてチャンスの前髪をつかんだ秘訣だったのでしょう」
息子から見た父・阿久悠
「物心ついた時には、父が家にいないのが普通でした。家で何かして遊んでもらったとかいう記憶はないんです」
そう回顧するのは、阿久の息子、深田太郎氏
「職業作詞家」として多忙な日々を過ごす阿久の姿はどのように映っていたのか
「とにかくストイックでしたね。作詞は1曲2時間までと決め、早ければ1曲数十分、一日に何曲も書き上げることもザラでした。飲みに行くことはまったくなく、東京に出ていく時も、クラブなど女性がいるところは嫌っていたそうです」
きらびやかな作品群とは裏腹に、実生活には堅実さを求めた阿久
その背景には、父親の影響があったのでは、と深田氏は言う
「たぶん、厳格な警察官の息子だったからだと思います。若い頃はそれが嫌で、違う生き方をしようと上京し、放送作家や作詞家という華やかな道を目指した。けれど、最終的に父は、自身のルーツである地味で真面目な生き方に回帰した感じがします。
たとえ天才と呼ばれようと、苦労はたくさんあったはず。父が私にかけた『どんなにつまらない仕事でも、一生懸命にやっていれば必ず誰か見てくれる』という言葉からも分かります。河島英五さんの『時代おくれ』(’86年)の詞そのままに、昔の、不器用な男の生き様こそ、父そのものなんです」
目立たず、はしゃがず、身の丈に合わないことはせず、ただ、人の心を見つめる
それが時代をつくった男の流儀だった
(この記事は、現代ビジネスの記事で作りました)
阿久悠さんは驚異のヒットメーカーの作詞家だった
特に70年代は、ヒット曲のあれもこれも阿久悠さんの作詞なのか!?と驚いたものです
時代とともにあった印象ですね
昭和と歌謡曲と日本人 新書
時代とともに歩んだ阿久悠
人見知りながら人を愛した稀代のヒットメーカーであり、作詞家の阿久悠による魂を揺さぶるメッセージ
2024年09月10日
NY株は反発、日経平均株価は5営業日続落
9日(現地時間)のNY株(ダウ平均株価)は、反発し、終値は前週末比484ドル18セント高の4万0829ドル59セント
ハイテク株中心のナスダックは193.77ポイント高の1万6888.60
S&P500は62.63ポイント高の5471.05
9日(日本時間)の日経平均株価は5営業日続落し、終値は前週末比175円72銭安の3万6215円75銭
前週末の米ハイテク株安の流れを引き継ぎ、東京市場でも半導体関連株を中心に売られ、日経平均を押し下げた
日経平均の下げ幅は一時1100円を超え、取引時間中としては約1カ月ぶりに3万5000円台となった
ただ、円高一服などを背景に売り一巡後は下げ渋り、大引けにかけて急速に下げ幅を縮小した
(この記事は、ネットニュースの記事で作りました)
ハイテク株中心のナスダックは193.77ポイント高の1万6888.60
S&P500は62.63ポイント高の5471.05
9日(日本時間)の日経平均株価は5営業日続落し、終値は前週末比175円72銭安の3万6215円75銭
前週末の米ハイテク株安の流れを引き継ぎ、東京市場でも半導体関連株を中心に売られ、日経平均を押し下げた
日経平均の下げ幅は一時1100円を超え、取引時間中としては約1カ月ぶりに3万5000円台となった
ただ、円高一服などを背景に売り一巡後は下げ渋り、大引けにかけて急速に下げ幅を縮小した
(この記事は、ネットニュースの記事で作りました)
「怨霊になる」と恐れられた後鳥羽上皇、30人の子供を作った後醍醐天皇
後醍醐天皇は復古主義者でありオカルティストでもあった
その後醍醐が信奉したのは真言立川流で、立川流の成立には陰陽師も関わっていたので陰と陽、男と女を不可分の関係する考え方で貫かれていた
後醍醐がはまった真言立川流は、人間の男女を金剛界曼荼羅と胎臓界曼荼羅の大日如来に見立て、男女の性交で得られる快感により即身成仏の最高の境地に達するというものであった
当時の常識からは考えにくいものであったため真言宗の正統派からは邪教として忌み嫌われたという
大の女好きであった後醍醐天皇が夢中になった真言立川流について歴史作家・島崎晋氏が解説する
※本記事は、『呪術の世界史―神秘の古代から驚愕の現代』より一部を抜粋編集したものです
怨霊になることを恐れられた後鳥羽上皇
後鳥羽上皇は1221年の承久の乱における敗者である
最初から倒幕を計画していたわけではなく、当人は3代将軍源実朝の遠隔操作に自信を持っていた
鎌倉に下向させた源仲章を通じて鎌倉幕府とは上手くやっていける
摂関政治から院政、平氏政権、鎌倉幕府と続いた歴史の流れを、院政まで巻き戻すことができると
しかし、1219年正月17日、肝心の実朝と仲章が同時に暗殺されたことで、後鳥羽の目論見はくも崩れた
これを境に後鳥羽は五壇法や仁王経法を頻繁に催すようになる
五壇法は五大明王を本尊とした呪法で、中央に不動明王、東壇に降三世明王、南壇に軍荼利明王、西壇に大威徳明王、北壇に金剛夜叉明王の五大尊を連ね、息災や調伏を祈願するもの
天皇や国家の大事の際に行なわれる修法で、明王からして仏法に従わないものを力ずくで帰依させる役目の仏だった
一方の仁王経法は鎮護国家を祈願して修される秘法
後鳥羽の立場からすれば、この秘法を修すること自体には問題ないが、五壇法とこれの頻度の高さからすれば、その目的はやはり関東調伏の可能性が高く、側近の二位法印尊長を羽黒山の総長吏に、子息の尊快法親王を天台座主とした人事もあわせ考えると、鎌倉幕府に不満を抱く呪術師を総動員しようとしたとも受け取れる
鎌倉に下向した陰陽師たちがサボタージュに出て、御家人の離反も相次ぐだろうから、軍を関東に下向させるまでもない
後鳥羽はこのように読んでいたようだが、それははなはだ楽観的にすぎた
現実には鎌倉で重用されていた陰陽師たちに寝返る気はなく、御家人たちも分裂するどころか逆に連帯を強め、頼みの比叡山延暦寺からも見放されたことから、承久の乱は一方的な展開で後鳥羽上皇の敗北に終わった
後鳥羽は責任を問われ、隠岐島へと配流
帰京はおろか、二度と島の外へ出ることなく、1239年2月22日に永眠するが、鎌倉幕府は警戒を緩めなかった
後鳥羽に関しては生前より死後の方が厄介で、後鳥羽の性格からして、怨霊と化し幕府に仇なすは必定と認識していたからである
事実、平経高という同時代の貴族が残した日記『平戸記』には、北条義時の盟友であった三浦義村と義時の弟時房の相次ぐ死と鎌倉で連続連夜起きている放火事件を後鳥羽の怨霊と結びつけ、「関東の運も衰えてきたのだろうか」「武家滅亡の兆しではなかろうか」などと、怨霊にされる幕府をするような記述が溢れていた
平経高の期待に反して、鎌倉幕府はそう簡単には滅びなかったが、朝廷の側に天皇という、ひときわ個性の強い人物が登場するに及び、大局が動き始めた
性欲旺盛な後醍醐天皇
一言で表現するなら、後醍醐天皇は復古主義者にして理想主義者。それと同時にオカルティストでもあった
後醍醐が信奉したのは真言密教から派生した一派で、平安時代末期の武蔵国立川に始まることから真言立川流、または単に立川流と呼ばれる
真言宗の僧侶だけでなく、成立には陰陽師も関わっていたため、立川流には陰と陽、男と女を不可分の関係する考え方が貫かれた
具体的には、人間の男女を金剛界曼荼羅と胎蔵界曼荼羅の大日如来に見立て、男女の性交で得られる快感により即身成仏の最高の境地に達するというもので、真言宗の正統派からは邪教として忌み嫌われた。
一時は途絶えかかった立川流だが、醍醐寺座主にして後醍醐の護持僧でもあった文観(もんかん)が復興させ、後醍醐にも伝授した。目的を精神的なものではなく、倒幕と天皇親政の復活に置き換えたのではないかと言われている。
後醍醐は大の女好きで、肉体関係にあった女性は文献上確認できるだけで18人、生ませた子どもは30人以上というから、実際に関係をもった女性はその2倍か3倍いたとも推測される
だが、後醍醐が立川流の信者であれば、女性との性行為は性欲に基づくというより、倒幕と天皇親政という2つの野望の達成を第一としていた可能性が高い
室町時代に再び邪教とされ、江戸時代に途絶えた流派であるため、立川流について伝えられる話がどこまで事実なのか疑問の余地は残るが、立川流ではを本尊とし、性行為は髑髏の前で行なうこととされていた
後醍醐が悲願とした鎌倉幕府の討滅は叶えられた
天皇親政の実現も叶えられはしたが、短命に終わった
2つの待望を叶えるには男女交合の数が足りなかったのか、それとも他に原因があったのか
少なくとも言えることは、同時代にもその後にも、後醍醐天皇に倣い、立川流の教えで大望を叶えた者は皆無であること
実践した者はいたかもしれないが、歴史に痕跡が残るレベルの者は二度と現われることはなかった
(この記事は、現代ビジネスの記事で作りました)
後鳥羽上皇の「怨霊」は恐れられたようだ
この時代は陰陽師、仏教などの影響も大きく、呪術や怨霊も恐れられたのだろう
ちなみに日本3大怨霊は、菅原道真、平将門、崇徳天皇(崇徳院)といわれています
後醍醐天皇は、真言宗立川流を信奉していました
後醍醐がはまった真言立川流は、人間の男女を金剛界曼荼羅と胎臓界曼荼羅の大日如来に見立て、男女の性交で得られる快感により即身成仏の最高の境地に達するというものであったためか子供が30人以上いたとか
これもある種の願望達成の呪術といえるかも
ちなみに子だくさんでいえば徳川11代将軍・家斉が特定されるだけで16人の妻妾を持ち、53人の子女(男子26人・女子27人)を儲けたとか
呪術の世界史 - 神秘の古代から驚愕の現代 - 単行本(ソフトカバー)
呪術は世界のいたるところにある
怪異・呪術が世界を動かす
その後醍醐が信奉したのは真言立川流で、立川流の成立には陰陽師も関わっていたので陰と陽、男と女を不可分の関係する考え方で貫かれていた
後醍醐がはまった真言立川流は、人間の男女を金剛界曼荼羅と胎臓界曼荼羅の大日如来に見立て、男女の性交で得られる快感により即身成仏の最高の境地に達するというものであった
当時の常識からは考えにくいものであったため真言宗の正統派からは邪教として忌み嫌われたという
大の女好きであった後醍醐天皇が夢中になった真言立川流について歴史作家・島崎晋氏が解説する
※本記事は、『呪術の世界史―神秘の古代から驚愕の現代』より一部を抜粋編集したものです
怨霊になることを恐れられた後鳥羽上皇
後鳥羽上皇は1221年の承久の乱における敗者である
最初から倒幕を計画していたわけではなく、当人は3代将軍源実朝の遠隔操作に自信を持っていた
鎌倉に下向させた源仲章を通じて鎌倉幕府とは上手くやっていける
摂関政治から院政、平氏政権、鎌倉幕府と続いた歴史の流れを、院政まで巻き戻すことができると
しかし、1219年正月17日、肝心の実朝と仲章が同時に暗殺されたことで、後鳥羽の目論見はくも崩れた
これを境に後鳥羽は五壇法や仁王経法を頻繁に催すようになる
五壇法は五大明王を本尊とした呪法で、中央に不動明王、東壇に降三世明王、南壇に軍荼利明王、西壇に大威徳明王、北壇に金剛夜叉明王の五大尊を連ね、息災や調伏を祈願するもの
天皇や国家の大事の際に行なわれる修法で、明王からして仏法に従わないものを力ずくで帰依させる役目の仏だった
一方の仁王経法は鎮護国家を祈願して修される秘法
後鳥羽の立場からすれば、この秘法を修すること自体には問題ないが、五壇法とこれの頻度の高さからすれば、その目的はやはり関東調伏の可能性が高く、側近の二位法印尊長を羽黒山の総長吏に、子息の尊快法親王を天台座主とした人事もあわせ考えると、鎌倉幕府に不満を抱く呪術師を総動員しようとしたとも受け取れる
鎌倉に下向した陰陽師たちがサボタージュに出て、御家人の離反も相次ぐだろうから、軍を関東に下向させるまでもない
後鳥羽はこのように読んでいたようだが、それははなはだ楽観的にすぎた
現実には鎌倉で重用されていた陰陽師たちに寝返る気はなく、御家人たちも分裂するどころか逆に連帯を強め、頼みの比叡山延暦寺からも見放されたことから、承久の乱は一方的な展開で後鳥羽上皇の敗北に終わった
後鳥羽は責任を問われ、隠岐島へと配流
帰京はおろか、二度と島の外へ出ることなく、1239年2月22日に永眠するが、鎌倉幕府は警戒を緩めなかった
後鳥羽に関しては生前より死後の方が厄介で、後鳥羽の性格からして、怨霊と化し幕府に仇なすは必定と認識していたからである
事実、平経高という同時代の貴族が残した日記『平戸記』には、北条義時の盟友であった三浦義村と義時の弟時房の相次ぐ死と鎌倉で連続連夜起きている放火事件を後鳥羽の怨霊と結びつけ、「関東の運も衰えてきたのだろうか」「武家滅亡の兆しではなかろうか」などと、怨霊にされる幕府をするような記述が溢れていた
平経高の期待に反して、鎌倉幕府はそう簡単には滅びなかったが、朝廷の側に天皇という、ひときわ個性の強い人物が登場するに及び、大局が動き始めた
性欲旺盛な後醍醐天皇
一言で表現するなら、後醍醐天皇は復古主義者にして理想主義者。それと同時にオカルティストでもあった
後醍醐が信奉したのは真言密教から派生した一派で、平安時代末期の武蔵国立川に始まることから真言立川流、または単に立川流と呼ばれる
真言宗の僧侶だけでなく、成立には陰陽師も関わっていたため、立川流には陰と陽、男と女を不可分の関係する考え方が貫かれた
具体的には、人間の男女を金剛界曼荼羅と胎蔵界曼荼羅の大日如来に見立て、男女の性交で得られる快感により即身成仏の最高の境地に達するというもので、真言宗の正統派からは邪教として忌み嫌われた。
一時は途絶えかかった立川流だが、醍醐寺座主にして後醍醐の護持僧でもあった文観(もんかん)が復興させ、後醍醐にも伝授した。目的を精神的なものではなく、倒幕と天皇親政の復活に置き換えたのではないかと言われている。
後醍醐は大の女好きで、肉体関係にあった女性は文献上確認できるだけで18人、生ませた子どもは30人以上というから、実際に関係をもった女性はその2倍か3倍いたとも推測される
だが、後醍醐が立川流の信者であれば、女性との性行為は性欲に基づくというより、倒幕と天皇親政という2つの野望の達成を第一としていた可能性が高い
室町時代に再び邪教とされ、江戸時代に途絶えた流派であるため、立川流について伝えられる話がどこまで事実なのか疑問の余地は残るが、立川流ではを本尊とし、性行為は髑髏の前で行なうこととされていた
後醍醐が悲願とした鎌倉幕府の討滅は叶えられた
天皇親政の実現も叶えられはしたが、短命に終わった
2つの待望を叶えるには男女交合の数が足りなかったのか、それとも他に原因があったのか
少なくとも言えることは、同時代にもその後にも、後醍醐天皇に倣い、立川流の教えで大望を叶えた者は皆無であること
実践した者はいたかもしれないが、歴史に痕跡が残るレベルの者は二度と現われることはなかった
(この記事は、現代ビジネスの記事で作りました)
後鳥羽上皇の「怨霊」は恐れられたようだ
この時代は陰陽師、仏教などの影響も大きく、呪術や怨霊も恐れられたのだろう
ちなみに日本3大怨霊は、菅原道真、平将門、崇徳天皇(崇徳院)といわれています
後醍醐天皇は、真言宗立川流を信奉していました
後醍醐がはまった真言立川流は、人間の男女を金剛界曼荼羅と胎臓界曼荼羅の大日如来に見立て、男女の性交で得られる快感により即身成仏の最高の境地に達するというものであったためか子供が30人以上いたとか
これもある種の願望達成の呪術といえるかも
ちなみに子だくさんでいえば徳川11代将軍・家斉が特定されるだけで16人の妻妾を持ち、53人の子女(男子26人・女子27人)を儲けたとか
呪術の世界史 - 神秘の古代から驚愕の現代 - 単行本(ソフトカバー)
呪術は世界のいたるところにある
怪異・呪術が世界を動かす