普段何気なく使っていた言葉にはこんなルーツが!
そもそも、これってどう意味?
情報にあふれた今の世の中でも、意外と知らないことってありますよね
そんな日々の暮らしの中の「なぜ?」に答えてくれる雑学ウンチクを紹介します!
幅広い雑学を知っておくと、日々の会話やちょっとした雑談にも役立つはず
ビジネスの場や家庭、お酒の席などで、思わず誰かに話したくなることでしょう
※本記事は雑学総研著の書籍『大人の最強雑学1500』から一部抜粋・編集しました
犬が「ポチ」、猫が「タマ」になったワケ
犬の名前の定番「ポチ」の語源は諸説あり、英語で「まだら」を意味する「spotty(スポッティ)」、フランス語で「小さい、かわいい」を意味する「petit(プチ)」、米国で使われる英語の俗語で「犬」を意味する「pooch(プーチ)」などの説がよく知られている
猫の名前の定番「タマ」の語源も、じつにさまざま
宝玉のように珍重されたから、玉にじゃれるからという説のほか、霊的な存在として位置づけられていることから「魂」「霊」という意味で「タマ」と名づけられたという説がある
(この記事は、レタスクラブの記事で作りました)
「ポチ」も「タマ」も一見、日本的ネーミング
しかし、ポチは外国語由来が有力な説のようです
大人の最強雑学1500 文庫
社会・文化・歴史・科学・生活・スポーツなどあらゆるジャンルの雑学を収録
思わず誰かに話したくなる「雑学ウンチク」を一挙1500本
ビジネスの会話、日常生活の会話のネタ・きっかけに
2024年09月30日
光使う新量子コンピューター来年度にも実現へ 東京大チーム起業
東京大のチームが光を用いた独自の量子コンピューターを開発するスタートアップ「OptQC(オプトキューシー)」(東京都)を立ち上げ、来年度にも商用機を完成させると17日に発表した
実現の壁とされる心臓部の「量子ビット」の数を増やせるのが強みで、先行する米IBMなどに追い付き、普及させたい考えだ
ミクロの世界で働く「量子力学」を使う量子コンピューターは、計算エラーが起きやすい弱点があり、広く普及するには量子ビットと呼ばれる部品が100万個ほど必要になるとされる
世界最多のIBM製でも約1千個で、実用化の壁と考えられている
OptQCは、超伝導物質やイオンなど従来の量子ビットとは異なる「光量子コンピューター」の開発をめざす
光を量子ビットとして扱うことで、機器を巨大化せずにビット数を大幅に増やせるのが特長だという
17日の会見で、2025年度中にも実現させる計画を明らかにした
(この記事は、朝日新聞DIGTALの記事で作りました)
私の認識・理解度が正しければ、光量子コンピューターは、次世代のコンピューターとされる量子コンピューターでも本命とされる
従来とは違うアプローチで光量子コンピューターを目指すのは注目だ
光の量子コンピューター (インターナショナル新書) 新書
次世代のコンピューターといわれる量子コンピューターでも光量子コンピューターは本命とざれる
これまでとケタ違いの高性能が期待される
実現の壁とされる心臓部の「量子ビット」の数を増やせるのが強みで、先行する米IBMなどに追い付き、普及させたい考えだ
ミクロの世界で働く「量子力学」を使う量子コンピューターは、計算エラーが起きやすい弱点があり、広く普及するには量子ビットと呼ばれる部品が100万個ほど必要になるとされる
世界最多のIBM製でも約1千個で、実用化の壁と考えられている
OptQCは、超伝導物質やイオンなど従来の量子ビットとは異なる「光量子コンピューター」の開発をめざす
光を量子ビットとして扱うことで、機器を巨大化せずにビット数を大幅に増やせるのが特長だという
17日の会見で、2025年度中にも実現させる計画を明らかにした
(この記事は、朝日新聞DIGTALの記事で作りました)
私の認識・理解度が正しければ、光量子コンピューターは、次世代のコンピューターとされる量子コンピューターでも本命とされる
従来とは違うアプローチで光量子コンピューターを目指すのは注目だ
光の量子コンピューター (インターナショナル新書) 新書
次世代のコンピューターといわれる量子コンピューターでも光量子コンピューターは本命とざれる
これまでとケタ違いの高性能が期待される
競馬、第58回スプリンターズSはルガルが優勝
29日に競馬の第58回スプリンターズステークス(G1、中山芝1200メートル)が行われ、9番人気の西村淳也騎手騎乗のルガルが優勝
2着はクビ差で5番人気のトウシンマカオ、3着はさらにクビ差で4判人気のナムラクレア
(この記事は、JRAのホームページの記事で作りました)
勝ったルガルは高松宮記念を1番人気で10着後、骨折、休養以来半年ぶりの復帰優勝
2着はクビ差で5番人気のトウシンマカオ、3着はさらにクビ差で4判人気のナムラクレア
(この記事は、JRAのホームページの記事で作りました)
勝ったルガルは高松宮記念を1番人気で10着後、骨折、休養以来半年ぶりの復帰優勝
2024年09月29日
似ているようで違う!「おざなり」と「なおざり」の意味
普段何気なく使っていた言葉にはこんなルーツが!
そもそも、これってどう意味?
情報にあふれた今の世の中でも、意外と知らないことってありますよね
そんな日々の暮らしの中の「なぜ?」に答えてくれる雑学ウンチクを紹介します!
幅広い雑学を知っておくと、日々の会話やちょっとした雑談にも役立つはず
ビジネスの場や家庭、お酒の席などで、思わず誰かに話したくなることでしょう
※本記事は雑学総研著の書籍『大人の最強雑学1500』から一部抜粋・編集しました
「おざなり」と「なおざり」の違いを説明できる?
おざなりとは、「その場しのぎに適当に何かをする」という意味
「お座敷のなり」を短縮した言葉で、お座敷(宴席)での取り繕ったような言動になぞらえている
一方、なおざりとは、「すべきことをしないで、ほったらかしにする」ことをいう
こちらは、何もせずに遠ざけるという意味の「直去り」が語源といわれている
著=雑学総研/『大人の最強雑学1500』
(この記事は、レタスクラブの記事で作りました)
「おざなり」と「なおざり」は似ているようですが、違うそうです
その違いは・・・
おざなりとは、「その場しのぎに適当に何かをする」という意味
「お座敷のなり」を短縮した言葉で、お座敷(宴席)での取り繕ったような言動になぞらえている
一方、なおざりとは、「すべきことをしないで、ほったらかしにする」ことをいう
こちらは、何もせずに遠ざけるという意味の「直去り」が語源といわれている
だそうです
大人の最強雑学1500 文庫
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ビジネスの会話、日常生活の会話のネタ・きっかけに
そもそも、これってどう意味?
情報にあふれた今の世の中でも、意外と知らないことってありますよね
そんな日々の暮らしの中の「なぜ?」に答えてくれる雑学ウンチクを紹介します!
幅広い雑学を知っておくと、日々の会話やちょっとした雑談にも役立つはず
ビジネスの場や家庭、お酒の席などで、思わず誰かに話したくなることでしょう
※本記事は雑学総研著の書籍『大人の最強雑学1500』から一部抜粋・編集しました
「おざなり」と「なおざり」の違いを説明できる?
おざなりとは、「その場しのぎに適当に何かをする」という意味
「お座敷のなり」を短縮した言葉で、お座敷(宴席)での取り繕ったような言動になぞらえている
一方、なおざりとは、「すべきことをしないで、ほったらかしにする」ことをいう
こちらは、何もせずに遠ざけるという意味の「直去り」が語源といわれている
著=雑学総研/『大人の最強雑学1500』
(この記事は、レタスクラブの記事で作りました)
「おざなり」と「なおざり」は似ているようですが、違うそうです
その違いは・・・
おざなりとは、「その場しのぎに適当に何かをする」という意味
「お座敷のなり」を短縮した言葉で、お座敷(宴席)での取り繕ったような言動になぞらえている
一方、なおざりとは、「すべきことをしないで、ほったらかしにする」ことをいう
こちらは、何もせずに遠ざけるという意味の「直去り」が語源といわれている
だそうです
大人の最強雑学1500 文庫
社会・文化・歴史・科学・生活・スポーツなどあらゆるジャンルの雑学を収録
思わず誰かに話したくなる「雑学ウンチク」を一挙1500本
ビジネスの会話、日常生活の会話のネタ・きっかけに
江戸時代に本当にあった転生話 『勝五郎生まれ変わり物語』
「転生」とは、次の世で別の形に生まれ変わることを意味します
転生に関する民話や伝承は世界各地に多数存在するのですが、江戸時代、農民の勝五郎が語った自身の転生物語は「前世の人物が特定された」という点で、他の生まれ変わり話とは一線を画していました
そして、この勝五郎の物語をきっかけに、科学的なアプローチによる「生まれ変わり」研究を始めたのがヴァージニア大学の精神科医イアン・スティーヴンソン博士です
博士は前世を語る子どもたちの事例研究を行った「生まれ変わり現象」の大家であり、その研究は後続の研究者によって50年以上に渡って行われています
研究の契機となった『勝五郎生まれ変わり物語』をひも解いてみたいと思います
『勝五郎生まれ変わり物語』の概要
文政5年(1822年)11月、武蔵国多摩郡中野村(現在の東京都八王子市東中野)に住む8歳(今の7歳)の勝五郎が、「自分は程久保村(ほどくぼむら : 現在の東京都日野市程久保)に住んでいた藤蔵(とうぞう)で、6歳の時に疱瘡(天然痘)で死んだ」と語り始めました
勝五郎によると、藤蔵の父親の名は久兵衛、母親はしづといい、5歳の時に父親が亡くなり、その後、半四郎という人が新しい父親になったそうです
半四郎は本当の父親のように可愛がってくれましたが、藤蔵は6歳で疱瘡にかかり命を失いました
お弔いが済んで裏山の墓地に葬られる時に、体から魂が抜け出し、魂だけ家に帰ったそうです
藤蔵の魂は、泣いている母親に声をかけたのですが気づいてもらえず、そうこうしているうちに白いひげを生やして黒い着物をきたおじいさんに、あの世へ連れて行かれました
あの世で3年が過ぎた頃、おじいさんに「3年経ったから生まれ変わるのだ」と言われ、藤蔵は中野村の柿の木のある家にやって来ます
柿の木の下で佇んでいると、家の方から「おっとうの稼ぎが少ないから、おっかあが江戸に出稼ぎに行かなきゃならねえ」という話が聞こえてきて、「こんな家じゃイヤだ」と思い、3日間は庭で過ごしていたそうです
3日経ち、母親の江戸行きの話が無くなったのを聞いて安心した藤蔵は、雨戸の節穴を通って家に入りました。
その後3日間、かまどの横で家の様子をうかがってから母親のお腹に入り、文化12年(1815年)10月10日に勝五郎として生まれたといいます
程久保村を訪れた勝五郎
両親は、勝五郎の話をにわかには信じられませんでしたが、程久保村をよく知る人に話を聞いたところ、藤蔵の家は実在し、6歳の時に疱瘡で亡くなった子どもがいたことも分かりました
年が明けると、勝五郎が藤蔵の両親にしきりに会いたがったため、文政6年1月20日、祖母のつやとともに一里半(約5.9キロメートル)離れた程久保村の家を訪れました
程久保村に到着すると、勝五郎は「こっち、こっち」と藤蔵の家をつやに案内し、勝手知ったるといわんばかりに家の中へと入って行きます
家の中のこともよく知っており、それ以外にも「向かいのたばこや(屋号)の木が以前はなかった、屋根もなかった」などと語りました
勝五郎の話はすべて事実と符合していたため、人々は勝五郎が藤蔵の生まれ変わりだと確信しました
藤蔵の母・しづと義父の半四郎は、勝五郎が藤蔵によく似ていると言って大変喜び、その後、両家は親類のようにお互いの家を行き来する関係になりました
生まれ変わり話は大評判となり、勝五郎は「ほどくぼ小僧」というあだ名をつけられ、勝五郎をひと目見ようと見物人が来るほどだったそうです
「生まれ変わり」研究のきっかけになった勝五郎
江戸時代の転生話が、なぜ現代の研究に影響を与えたのかというと、「勝五郎の生まれ変わり物語』が伝承とは異なり、記録として残されていたからです
特に『勝五郎再生前生話』、『届書』、『勝五郎再生記聞』の3つは信頼性の高い記録とされています
勝五郎が程久保村を訪れた翌月、江戸から池田冠山(定常)という大名が勝五郎の家を訪れました
冠山は鳥取藩支藩の藩主で、当時は隠居の身でしたが、「生まれ変わりの話を、ぜひ聞きたい」と中野村までやって来たのです
しかし、大名の来訪に気後れした勝五郎はうまく話せず、代わりに祖母が語りました
冠山がまとめた『勝五郎再生前生話』は、松浦静山などの文人の目に留まり、勝五郎の生まれ変わりの噂は江戸中に広まりました
一方、中野村では勝五郎の転生騒ぎが大きくなり、知行所での騒動を見るに見かねた中野村の領主で旗本の多門傳八郎(おかど でんぱちろう)が、勝五郎と父親の源蔵を江戸へ召喚します
多門は、4月19日に勝五郎たちから話を聞き、調書を上司の御書院番頭佐藤美濃守に『届書』として提出しました
この『届書』の写しは、またたく間に多くの文人たちの手に渡り、その中でも深い関心を寄せたのが、国学者・平田篤胤(ひらた あつたね)でした
当時、篤胤は死後の世界に傾倒しており、江戸を訪れていた勝五郎たちから3日にわたって話を聞いています
篤胤は、勝五郎の話と自身の考察を『勝五郎再生記聞』にまとめ、7月に上洛した際には、光格上皇と皇太后に御覧に供しています
『勝五郎再生記聞』は、御所の女房たちに大変好評だったそうです
時代は下って明治30年(1897年)、勝五郎の物語は、小泉八雲ことラフカディオ・ハーンの短編集『仏陀の国の落穂』で紹介され、英訳された勝五郎の転生話は世界中に広まりました
そして、この転生話に惹きつけられたのが、イアン・スティーヴンソン博士であり、勝五郎の話は、博士が子どもを対象とした「生まれ変わり」研究に専心するきっかけの一端となりました
博士が開設したヴァージニア大学医学部知覚研究室は、約50年にわたり「生まれ変わり」現象の研究を行っています
調査は世界40カ国以上にのぼり、前世の記憶を持つ子どもの事例を精査したデータは2600を越えているということです
薄れていく過去生の記憶
勝五郎の記録の特徴として、転生話を始めてから5か月以内という短期間に、すべての記録の聞き取りが行われていることが挙げられます
ヴァージニア大学医学部知覚研究所に蓄積された「過去生(かこしょう、前世)を語る子どもの事例」データベースの分析によると、子どもたちが過去生を語り始めるのはだいたい3歳くらい
話さなくなるのは7歳くらいで、幼い頃に過去生の話をし出すものの、成長に従って記憶は薄れていき、やがて忘れてしまうそうです
勝五郎も7歳で語り始めた時、「3歳くらいまでは全て覚えていたけれど、その後はどんどん忘れてしまった」と言っているので、ギリギリ間に合ったケースだと思われます
ちなみに、子どもたちが語る過去生の人物が特定される割合は、7割強だそうです
おわりに
江戸に召喚された勝五郎は平田篤胤の門人となり、1年ほど学舎・気吹舎(いぶきのや)にいた後、中野村へ帰りました
その後は、農業の傍ら目籠(めかご)の仲介にいそしみ、裕福な生活を送ったそうです
転生話で一躍時の人となった勝五郎は、明治2年(1869年)12月4日、55歳で亡くなりました
『勝五郎の生まれ変わり物語』を後世に残る貴重な記録にした最大の立役者は、池田冠山でしょう
冠山には51歳のときに授かった露姫という娘がいました
年を取ってからの子どもは可愛いと言いますし、末娘の露姫は冠山にとって目に入れても痛くない存在だったのでしょう
しかし、露姫は文政5年11月に疱瘡のため、数え年6歳で亡くなってしまいます
悲嘆に暮れる冠山が、同じ歳で同じ病で亡くなった藤蔵の再生話に心惹かれたのは想像に難くありません
最愛の娘の生まれ変わりを信じ、はやる心を抑えながら、片田舎の農民の家へと自ら足を運んだ冠山
子を思う親の強い愛情が巡りめぐって、現代の「生まれ変わり」研究の一助となったのかもしれません
参考文献 :
勝五郎生まれ変わり物語探求調査団『ほどくぼ小僧 勝五郎生まれ変わり物語調査報告書』日野市郷土資料館
大門正幸『「生まれ変わり」を科学する』桜の花出版
投稿 江戸時代に本当にあった転生話 『勝五郎生まれ変わり物語』 は 草の実堂 に最初に表示されました
(この記事は、草の実堂の記事で作りました)
勝五郎の転生話は、昔、愛読していた「ムー」で読んだことがあります
「生まれ変わり」「転生」を信じる衝撃の内容でした
前世の記憶は幼少時はあるようですが、その後、成長で薄れ、なくなっていくようです
勝五郎など前世を語る子たちはギリギリ前世の記憶が残っているケースのようです
「生まれ変わり」「転生」は不思議だけど魅惑の話ですね
「生まれ変わり」を科学する ―過去生記憶から紐解く「死」「輪廻転生」そして人生の真の意味― 単行本
「生まれ変わり」「転生」はあるのかはよく考えます
前世の記憶がある子供たちの話は「生まれ変わり」「転生」
この世に、生きている、生かされている真の意味を考え、「今」を生きる指針の一冊
転生に関する民話や伝承は世界各地に多数存在するのですが、江戸時代、農民の勝五郎が語った自身の転生物語は「前世の人物が特定された」という点で、他の生まれ変わり話とは一線を画していました
そして、この勝五郎の物語をきっかけに、科学的なアプローチによる「生まれ変わり」研究を始めたのがヴァージニア大学の精神科医イアン・スティーヴンソン博士です
博士は前世を語る子どもたちの事例研究を行った「生まれ変わり現象」の大家であり、その研究は後続の研究者によって50年以上に渡って行われています
研究の契機となった『勝五郎生まれ変わり物語』をひも解いてみたいと思います
『勝五郎生まれ変わり物語』の概要
文政5年(1822年)11月、武蔵国多摩郡中野村(現在の東京都八王子市東中野)に住む8歳(今の7歳)の勝五郎が、「自分は程久保村(ほどくぼむら : 現在の東京都日野市程久保)に住んでいた藤蔵(とうぞう)で、6歳の時に疱瘡(天然痘)で死んだ」と語り始めました
勝五郎によると、藤蔵の父親の名は久兵衛、母親はしづといい、5歳の時に父親が亡くなり、その後、半四郎という人が新しい父親になったそうです
半四郎は本当の父親のように可愛がってくれましたが、藤蔵は6歳で疱瘡にかかり命を失いました
お弔いが済んで裏山の墓地に葬られる時に、体から魂が抜け出し、魂だけ家に帰ったそうです
藤蔵の魂は、泣いている母親に声をかけたのですが気づいてもらえず、そうこうしているうちに白いひげを生やして黒い着物をきたおじいさんに、あの世へ連れて行かれました
あの世で3年が過ぎた頃、おじいさんに「3年経ったから生まれ変わるのだ」と言われ、藤蔵は中野村の柿の木のある家にやって来ます
柿の木の下で佇んでいると、家の方から「おっとうの稼ぎが少ないから、おっかあが江戸に出稼ぎに行かなきゃならねえ」という話が聞こえてきて、「こんな家じゃイヤだ」と思い、3日間は庭で過ごしていたそうです
3日経ち、母親の江戸行きの話が無くなったのを聞いて安心した藤蔵は、雨戸の節穴を通って家に入りました。
その後3日間、かまどの横で家の様子をうかがってから母親のお腹に入り、文化12年(1815年)10月10日に勝五郎として生まれたといいます
程久保村を訪れた勝五郎
両親は、勝五郎の話をにわかには信じられませんでしたが、程久保村をよく知る人に話を聞いたところ、藤蔵の家は実在し、6歳の時に疱瘡で亡くなった子どもがいたことも分かりました
年が明けると、勝五郎が藤蔵の両親にしきりに会いたがったため、文政6年1月20日、祖母のつやとともに一里半(約5.9キロメートル)離れた程久保村の家を訪れました
程久保村に到着すると、勝五郎は「こっち、こっち」と藤蔵の家をつやに案内し、勝手知ったるといわんばかりに家の中へと入って行きます
家の中のこともよく知っており、それ以外にも「向かいのたばこや(屋号)の木が以前はなかった、屋根もなかった」などと語りました
勝五郎の話はすべて事実と符合していたため、人々は勝五郎が藤蔵の生まれ変わりだと確信しました
藤蔵の母・しづと義父の半四郎は、勝五郎が藤蔵によく似ていると言って大変喜び、その後、両家は親類のようにお互いの家を行き来する関係になりました
生まれ変わり話は大評判となり、勝五郎は「ほどくぼ小僧」というあだ名をつけられ、勝五郎をひと目見ようと見物人が来るほどだったそうです
「生まれ変わり」研究のきっかけになった勝五郎
江戸時代の転生話が、なぜ現代の研究に影響を与えたのかというと、「勝五郎の生まれ変わり物語』が伝承とは異なり、記録として残されていたからです
特に『勝五郎再生前生話』、『届書』、『勝五郎再生記聞』の3つは信頼性の高い記録とされています
勝五郎が程久保村を訪れた翌月、江戸から池田冠山(定常)という大名が勝五郎の家を訪れました
冠山は鳥取藩支藩の藩主で、当時は隠居の身でしたが、「生まれ変わりの話を、ぜひ聞きたい」と中野村までやって来たのです
しかし、大名の来訪に気後れした勝五郎はうまく話せず、代わりに祖母が語りました
冠山がまとめた『勝五郎再生前生話』は、松浦静山などの文人の目に留まり、勝五郎の生まれ変わりの噂は江戸中に広まりました
一方、中野村では勝五郎の転生騒ぎが大きくなり、知行所での騒動を見るに見かねた中野村の領主で旗本の多門傳八郎(おかど でんぱちろう)が、勝五郎と父親の源蔵を江戸へ召喚します
多門は、4月19日に勝五郎たちから話を聞き、調書を上司の御書院番頭佐藤美濃守に『届書』として提出しました
この『届書』の写しは、またたく間に多くの文人たちの手に渡り、その中でも深い関心を寄せたのが、国学者・平田篤胤(ひらた あつたね)でした
当時、篤胤は死後の世界に傾倒しており、江戸を訪れていた勝五郎たちから3日にわたって話を聞いています
篤胤は、勝五郎の話と自身の考察を『勝五郎再生記聞』にまとめ、7月に上洛した際には、光格上皇と皇太后に御覧に供しています
『勝五郎再生記聞』は、御所の女房たちに大変好評だったそうです
時代は下って明治30年(1897年)、勝五郎の物語は、小泉八雲ことラフカディオ・ハーンの短編集『仏陀の国の落穂』で紹介され、英訳された勝五郎の転生話は世界中に広まりました
そして、この転生話に惹きつけられたのが、イアン・スティーヴンソン博士であり、勝五郎の話は、博士が子どもを対象とした「生まれ変わり」研究に専心するきっかけの一端となりました
博士が開設したヴァージニア大学医学部知覚研究室は、約50年にわたり「生まれ変わり」現象の研究を行っています
調査は世界40カ国以上にのぼり、前世の記憶を持つ子どもの事例を精査したデータは2600を越えているということです
薄れていく過去生の記憶
勝五郎の記録の特徴として、転生話を始めてから5か月以内という短期間に、すべての記録の聞き取りが行われていることが挙げられます
ヴァージニア大学医学部知覚研究所に蓄積された「過去生(かこしょう、前世)を語る子どもの事例」データベースの分析によると、子どもたちが過去生を語り始めるのはだいたい3歳くらい
話さなくなるのは7歳くらいで、幼い頃に過去生の話をし出すものの、成長に従って記憶は薄れていき、やがて忘れてしまうそうです
勝五郎も7歳で語り始めた時、「3歳くらいまでは全て覚えていたけれど、その後はどんどん忘れてしまった」と言っているので、ギリギリ間に合ったケースだと思われます
ちなみに、子どもたちが語る過去生の人物が特定される割合は、7割強だそうです
おわりに
江戸に召喚された勝五郎は平田篤胤の門人となり、1年ほど学舎・気吹舎(いぶきのや)にいた後、中野村へ帰りました
その後は、農業の傍ら目籠(めかご)の仲介にいそしみ、裕福な生活を送ったそうです
転生話で一躍時の人となった勝五郎は、明治2年(1869年)12月4日、55歳で亡くなりました
『勝五郎の生まれ変わり物語』を後世に残る貴重な記録にした最大の立役者は、池田冠山でしょう
冠山には51歳のときに授かった露姫という娘がいました
年を取ってからの子どもは可愛いと言いますし、末娘の露姫は冠山にとって目に入れても痛くない存在だったのでしょう
しかし、露姫は文政5年11月に疱瘡のため、数え年6歳で亡くなってしまいます
悲嘆に暮れる冠山が、同じ歳で同じ病で亡くなった藤蔵の再生話に心惹かれたのは想像に難くありません
最愛の娘の生まれ変わりを信じ、はやる心を抑えながら、片田舎の農民の家へと自ら足を運んだ冠山
子を思う親の強い愛情が巡りめぐって、現代の「生まれ変わり」研究の一助となったのかもしれません
参考文献 :
勝五郎生まれ変わり物語探求調査団『ほどくぼ小僧 勝五郎生まれ変わり物語調査報告書』日野市郷土資料館
大門正幸『「生まれ変わり」を科学する』桜の花出版
投稿 江戸時代に本当にあった転生話 『勝五郎生まれ変わり物語』 は 草の実堂 に最初に表示されました
(この記事は、草の実堂の記事で作りました)
勝五郎の転生話は、昔、愛読していた「ムー」で読んだことがあります
「生まれ変わり」「転生」を信じる衝撃の内容でした
前世の記憶は幼少時はあるようですが、その後、成長で薄れ、なくなっていくようです
勝五郎など前世を語る子たちはギリギリ前世の記憶が残っているケースのようです
「生まれ変わり」「転生」は不思議だけど魅惑の話ですね
「生まれ変わり」を科学する ―過去生記憶から紐解く「死」「輪廻転生」そして人生の真の意味― 単行本
「生まれ変わり」「転生」はあるのかはよく考えます
前世の記憶がある子供たちの話は「生まれ変わり」「転生」
この世に、生きている、生かされている真の意味を考え、「今」を生きる指針の一冊