うなぎ好きが垂涎する「土用の丑の日」が今年もやってくる
日本人とうなぎの関わりのルーツは、縄文時代までさかのぼるが、より関係が深まったのは江戸時代
運河の開削によって江戸前=うなぎとなり、うなぎ店の命である蒲焼の「たれ」が登場
そこからの「うな丼」誕生秘話までを一気にたどる
本稿は、高城 久『読めばもっとおいしくなる うなぎ大全』(講談社)の一部を抜粋・編集したものです
● うなぎの蒲焼の「たれ」は こうして誕生した
うなぎに関わる江戸三大事件は?と尋ねられたらまず第一は、徳川家康による運河の開削工事です
これによって、江戸前=うなぎという図式が成立しました
たくさん捕れる江戸前うなぎは、最初は串に刺して焼いて食されていました
家康が入府後すぐに取り組んだ治水工事の目的は、江戸を大都市に仕立てることでした
さまざまな河川工事を実施し、これらを進めるとともに船による物資輸送の体系を整備していきました
中でも大規模だった事業が、「利根川の東遷、荒川の西遷」です
読んで字のごとく、利根川を東へ、荒川を西へ移す工事です
江戸湾に注いでいた利根川の川筋を東へ移して渡良瀬川と合流させ、銚子(千葉県)に流しました
実に60年にも及ぶ歳月をかけた大事業で、この結果、江戸の町は太平洋へと直接つながることになります
また、渡良瀬川の最下流部分は江戸川と名前を変え、利根川の分流となります
同じように、荒川は入間川とつなげられ、上流で隅田川と分岐して江戸湾に流れ込むようになりました
これらの治水工事が思わぬところでうなぎ文化の発展に貢献することになります
1603(慶長8)年の江戸開府前後に、上方から醤油醸造の技術が関東へ伝えられます
1616(元和2)年に銚子でたまり醤油の醸造が始まり、1661(寛文元)年に野田(千葉県)で醤油が商品化されます
野田の醤油は水運に乗って江戸で消費されるようになり、やがて1697(元禄10)年には、現在のヒゲタ醤油の五代目田中玄蕃によって濃口醤油が造られ、江戸で大流行します
さらに100年少々の時を経て1814(文化11)年には、流山(千葉県)の相模屋の二代目堀切紋次郎が流山白味淋を生み出します
上品な甘みとうま味を持つ新しいみりんは、酒として楽しむ飲み物から調味料へと転身し、江戸前の料理に広く浸透していきます
芳醇な香りの濃口醤油と、まろやかな甘みのみりん
これで蒲焼のたれを発明したのが誰なのかは記録がありません
しかしながら、醤油とみりんの到来によって蒲焼が生まれ、江戸庶民の圧倒的支持を得たことは間違いありません
これが江戸三大事件、第二の事件です
現在も老舗うなぎ屋はたれを命とばかりに守り続けています
一方で、大手調味料メーカーから「うなぎのたれ」が発売され、京丸うなぎ(静岡県沼津市)など、通販でたれを販売するうなぎ問屋もあり、いまや、うなぎなしに、たれだけでも楽しめる時代となりました
● 土用の丑の日=うなぎ この風習が生まれた要因
寒梅の かをりはひくし 鰻めし
寒い時期にうなぎを思い出すとは、大のうなぎ好きとして知られる正岡子規らしい句です
この句は季語が2つ入った季重なりです
晩冬の季語「寒梅」と、そう、もうひとつは夏季語「鰻」です
では、何故うなぎは夏と定着したのでしょう
「土用の丑の日にうなぎを食べる」という風習は江戸時代中頃に広まった習慣とされています
由来については諸説ありますが、平賀源内(1728~1780)が発案したという説がよく知られています
味にうるさい江戸っ子は、産卵前の脂がのった秋から冬のうなぎを「旬」としていました
ですから、夏のうなぎは人気がありませんでした
そこで、あるうなぎ屋が博識の源内先生に相談しました
源内先生は店先に「本日丑の日」と書いた紙を貼ることを提案
本草学にも通じていた源内先生は、もともと丑の日に「う」のつく食べ物で精をつけるという古来の考えにうなぎをつなげたのです
結果、うなぎ屋は大繁盛
江戸中のうなぎ屋が真似たため、土用の丑の日にうなぎを食べる習慣が急速に広まった、というものです
ただし、平賀源内が広めたという確かな証拠はありません
1882(文政5)年に青山白峰によって書かれた随筆集『明和誌』には、土用の丑の日にうなぎを食べる習慣が始まったのは安永天明期(1772~1789)とあります
また、夏だけでなく冬の土用の丑の日にもうなぎを食べる習慣があったとあります
季節の変わり目の土用は年4回ありますが、現在はいつの間にやら夏のイメージが定着し、毎年7月になると「土用の丑の日」ののぼりが立ち、うなぎファンならずとも購買意欲がそそられます
実際のところ、家庭でのうなぎの蒲焼の購買率は1年の中で7月が最も高く、1世帯当たり年間支出金額に対してうなぎが占める割合を算出した総務省の統計(2002年度)によると、7月は平均23.3%と、突出した数値を記録しています
一方、毎年土用の丑の日は休業するうなぎ店もあります
炭焼きの店 うな豊(愛知県名古屋市瑞穂区)の店主服部公司さんは、毎年市内の長楽寺に足を運び、うなぎ供養をしています
養殖うなぎがほとんどとなった現在は、夏のうなぎは身がやわらかくあっさり、秋冬のうなぎは皮が締まってうま味が増して脂ののりがよくなります
つまり年間を通して季節ごとにそれぞれのおいしさが味わえる、というのが令和のうなぎ事情なのです
● 蒲焼+白飯の「うな丼」は 偶然によって産まれたもの
文化文政期(1804~1830)には化政文化が花開きます
食文化の面では、現在につながる江戸料理が定着した時代でもあります
その花形は、浮世絵などにも数多く描かれたうなぎの蒲焼です
江戸の蒲焼屋の始まりは、元禄時代(1688~1704)に創業したと伝わる上野山下仏店(現在の京成上野駅正面口付近)の「大和屋」だといわれています
蒲焼は酒の肴として提供されていました
酒の飲めない人はご飯の持ち込み可だったようで、そのうち、店も「つけめし」といって蒲焼と一緒に白飯を出すようになります
その後、ご飯に蒲焼を載せた「うなぎめし」を日本橋葺屋町(現在の人形町)の「大野屋」が売り出して大評判となります
「うなぎめし」は、文化年間(1804~1818)に大久保今助が考案したといわれており、私はこれこそうなぎに関する江戸三大事件の第三の事件と考えています
今助は、常陸(茨城県)の農民の出でしたが、江戸に出て商売で財を成し、日本橋堺町(現在の人形町)にあった芝居小屋・中村座の金方(出資者)をしていました
今助が故郷へ帰る途中、牛久沼(茨城県龍ヶ崎市)の渡しに来た時のこと
船を待って茶店で蒲焼と丼飯を頼んだものの、配膳されたちょうどその時に出航の合図
やむなく店で皿を借り、丼飯の上に蒲焼を乗せて皿で蓋をして船に乗り込みます
対岸に着いて、食べてみると蒲焼はご飯でほどよく蒸され、ご飯にもたれがしみてとてもおいしかったのでした!
今助はふだん芝居小屋では、隣町の大野屋から蒲焼の出前をとっていましたが、蒲焼が冷めてしまうのに難儀していました
江戸に帰った今助は、早速大野屋に、丼飯の上に蒲焼を載せて蓋をして出前をさせました
大野屋は他の客にもこのスタイルで提供したところ「冷めずにおいしく食べられる!」と大好評
これを見た他のうなぎ屋も真似をして江戸中で「うなぎめし」ブームが起こったという話です
蒲焼は冷めると皮が硬くなってしまいます
偶然の産物とはいえ、うまいことを考えついたものです
牛久沼は現在も「うな丼発祥の地」として知られており、湖畔の国道6号線沿いには、鶴舞家、桑名屋(茨城県龍ヶ崎市)など、老舗うなぎ店があり、「うなぎ街道」として親しまれています
また、東京都内ではメニューにうな丼のないうなぎ専門店もありますが、つきじ宮川本廛(東京都中央区築地)は、うな丼も選べます
歌舞伎鑑賞の帰りに足をのばして往時をしのぶのもよいでしょう
(この記事は、DIAMOND onlineの記事で作りました)
土用の丑の日に「休業する」うなぎ店が代わりにやっていることはうなぎ供養だそうです
うなぎのおけげで生活ができているうなぎ店ならではですね
ちなみにうなぎが好きな私は土用の丑の日はもちろん、いつ食べても美味しいです
読めばもっとおいしくなる うなぎ大全 単行本
うなぎに関するあれこれを解説
・うなぎの松・竹・梅の違い
・一年で一番うなぎが美味しいのは
・うなぎ「通」の店の選び方
など
うなぎ愛にあふれたうなぎ好きのガイド
2024年08月18日
天才ガリレオでもうまく説明できなかった・・・衛星の大発見
古代ギリシャの原子論から、コペルニクスの地動説、ガリレオの望遠鏡、ニュートン力学、ファラデーの力線、アインシュタインの相対性理論まで、この世界のしくみを解き明かす大発見はどのように生まれてきたのか?
親子の対話形式でわかりやすく科学の歴史を描き出した新刊『父が子に語る科学の話』から、偉大な科学者たちの驚くべき発見物語の一端をご紹介しよう
*本記事は、ヨセフ・アガシ著/立花希一訳『父が子に語る科学の話 親子の対話から生まれた感動の科学入門』(ブルーバックス)をオンライン向けに再編集したものです
ローマ法王を説得できなかったガリレオ
人々はガリレオを畏れていたから、かれは火あぶりにされなかった
とにかく、カトリック教徒のみんながみんな、火刑に処す人々の側についていたわけではない
ローマにあるローマ学院では、人々は天文学を勉強したし、その大学の天文学者たちはガリレオに耳を傾けた
ガリレオは、フィレンツェからローマへはるばるやってきた
かれはもう若くはなく、病気にもかかっていたが、訪れたのだ
かれは自分のつくった望遠鏡とその研究成果を天文学者たちに見せ、自分の見解について、かれらと議論をした
かれはその天文学者たちを納得させたが、ローマ法王を納得させることはできなかった
また、そのわずか12~3年前に、ジョルダーノ・ブルーノを火あぶりにしたベラルミノ枢機卿を納得させることもできなかった
ガリレオは自分が観察した月にある山やその他のものについて議論した
かれの発見でとても興味をそそられるもののひとつが、木星の衛星、すなわち木星の月だ
衛星はどうやって発見されたのか
惑星の衛星をどうやって発見するのか知っているだろうか
望遠鏡を動かして、注意深くその惑星のまわりを見回しても、見えるのはその惑星の近くにある、星のようなほんの小さな点だけだ
問題なのは、それらの点が木星の月であって、木星の近くにあるかのように見えるだけのとても離れた星ではないことをいかにしてたしかめるのかだ
衛星は惑星のまわりをいつもぐるぐる回っているから、その運動によってどれが衛星なのかわかるとおもうかもしれない
しかし、それらの点が円を描いて動くのは見えないだろう
それらが時には惑星の右に見えたり、時には惑星の左に見えたりするだけだ
観察されるのは、衛星の惑星からの距離がたえず変わるとしても、その変化がいつも小さいことだ
ただ見るだけでは衛星を観察することはできない
見て、そして、考えなければならない
衛星ならどのように見えるのかを考えなければならない
次に、それを観察できるかどうかを、見てたしかめなければならないのだ
それができなければ、たとえかなり強力な望遠鏡をもっていたとしても、衛星を発見することはけっしてできない
衛星が惑星のまわりを運動するという事実について徹底的に考えないと、衛星を発見できるはずがないのだ
それでは、何でガリレオは衛星について考えたのだろう?
衛星を探しさえすればそれを見ることができると考えた最初の人物がガリレオだったのはなぜだろうか
その理由は「月の山」にあった
コペルニクス以前の人々は、地球が宇宙の中心にあり、しかも地球は地球以外のすべての宇宙とはまったく異なっていると考えていた
地球以外の宇宙は、月、太陽そして星々からなり、それらはすべて高貴な物質でできているが、他方、地球は、泥や棒、石ころなどといったみすぼらしい物質でできている
16世紀の人々は、一方では、地球は宇宙の中心にあるからとても重要なものだと言い、また一方では、星々が水晶や火、あるいはそれらよりももっとすばらしい物質でできているのに、地球は棒や石ころのような物質でできているので、地球は「みすぼらしい」とも言ったわけだ
ガリレオは、コペルニクスの正しい面を明らかにした
なぜならガリレオは、地球と月のあいだには何の差異もないことを立証したからだ
地球と月はどちらも山があり、棒や石ころのような物質でできている
したがって、地球が宇宙の他の物体と著しく異なっていると想定する理由はまったくないのだと
(この記事は、現代ビジネスの記事で作りました)
ガリレオ(本記事内のガリレオ・ガリレイ)は、地球の衛星である月や木星の衛星から「地動説」の正しさを説いた
この説明は天文学者は納得させたが、(「天動説」を主張する聖書に帰依する)ローマ法王などは納得させられなった・・・
天才・ガリレオでさえも・・・
ちなみにアイルランド産・アイルランド調教のガリレオ(馬)という競馬の名競走馬でヨーロッパの生産界に君臨する大種牡馬はガリレオ(・ガリレイ)が名の由来とされます
父が子に語る科学の話 親子の対話から生まれた感動の科学入門 (ブルーバックス B 2268) 新書
父が子に語るように科学の面白エピソードや科学の感動話を紹介
わかりやすく、科学の魅力がわかる入門書
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ローマ法王を説得できなかったガリレオ
人々はガリレオを畏れていたから、かれは火あぶりにされなかった
とにかく、カトリック教徒のみんながみんな、火刑に処す人々の側についていたわけではない
ローマにあるローマ学院では、人々は天文学を勉強したし、その大学の天文学者たちはガリレオに耳を傾けた
ガリレオは、フィレンツェからローマへはるばるやってきた
かれはもう若くはなく、病気にもかかっていたが、訪れたのだ
かれは自分のつくった望遠鏡とその研究成果を天文学者たちに見せ、自分の見解について、かれらと議論をした
かれはその天文学者たちを納得させたが、ローマ法王を納得させることはできなかった
また、そのわずか12~3年前に、ジョルダーノ・ブルーノを火あぶりにしたベラルミノ枢機卿を納得させることもできなかった
ガリレオは自分が観察した月にある山やその他のものについて議論した
かれの発見でとても興味をそそられるもののひとつが、木星の衛星、すなわち木星の月だ
衛星はどうやって発見されたのか
惑星の衛星をどうやって発見するのか知っているだろうか
望遠鏡を動かして、注意深くその惑星のまわりを見回しても、見えるのはその惑星の近くにある、星のようなほんの小さな点だけだ
問題なのは、それらの点が木星の月であって、木星の近くにあるかのように見えるだけのとても離れた星ではないことをいかにしてたしかめるのかだ
衛星は惑星のまわりをいつもぐるぐる回っているから、その運動によってどれが衛星なのかわかるとおもうかもしれない
しかし、それらの点が円を描いて動くのは見えないだろう
それらが時には惑星の右に見えたり、時には惑星の左に見えたりするだけだ
観察されるのは、衛星の惑星からの距離がたえず変わるとしても、その変化がいつも小さいことだ
ただ見るだけでは衛星を観察することはできない
見て、そして、考えなければならない
衛星ならどのように見えるのかを考えなければならない
次に、それを観察できるかどうかを、見てたしかめなければならないのだ
それができなければ、たとえかなり強力な望遠鏡をもっていたとしても、衛星を発見することはけっしてできない
衛星が惑星のまわりを運動するという事実について徹底的に考えないと、衛星を発見できるはずがないのだ
それでは、何でガリレオは衛星について考えたのだろう?
衛星を探しさえすればそれを見ることができると考えた最初の人物がガリレオだったのはなぜだろうか
その理由は「月の山」にあった
コペルニクス以前の人々は、地球が宇宙の中心にあり、しかも地球は地球以外のすべての宇宙とはまったく異なっていると考えていた
地球以外の宇宙は、月、太陽そして星々からなり、それらはすべて高貴な物質でできているが、他方、地球は、泥や棒、石ころなどといったみすぼらしい物質でできている
16世紀の人々は、一方では、地球は宇宙の中心にあるからとても重要なものだと言い、また一方では、星々が水晶や火、あるいはそれらよりももっとすばらしい物質でできているのに、地球は棒や石ころのような物質でできているので、地球は「みすぼらしい」とも言ったわけだ
ガリレオは、コペルニクスの正しい面を明らかにした
なぜならガリレオは、地球と月のあいだには何の差異もないことを立証したからだ
地球と月はどちらも山があり、棒や石ころのような物質でできている
したがって、地球が宇宙の他の物体と著しく異なっていると想定する理由はまったくないのだと
(この記事は、現代ビジネスの記事で作りました)
ガリレオ(本記事内のガリレオ・ガリレイ)は、地球の衛星である月や木星の衛星から「地動説」の正しさを説いた
この説明は天文学者は納得させたが、(「天動説」を主張する聖書に帰依する)ローマ法王などは納得させられなった・・・
天才・ガリレオでさえも・・・
ちなみにアイルランド産・アイルランド調教のガリレオ(馬)という競馬の名競走馬でヨーロッパの生産界に君臨する大種牡馬はガリレオ(・ガリレイ)が名の由来とされます
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