学校の授業で教わる歴史には、偉人たちの「すごい」逸話が数多く出てきます
しかし、ただ単に「すごい」だけの人物は、この世に一人としていません
実は、歴史の中には、「すごい」人の「やばい」記録もたくさん残っているそうです
そんな「すごい」と「やばい」の両面から日本史の人物の魅力に迫ったのが、東京大学史料編纂所教授の本郷和人さんが監修をつとめた『東大教授がおしえる やばい日本史』シリーズです
シリーズ最新刊の『東大教授がおしえる さらに!やばい日本史』より一部を抜粋・編集して、森鷗外が蹴落とそうとした「天才医学者」との論争をご紹介します
● 鷗外のエリート人生
津和野藩(島根)の藩医を代々つとめる家に生まれた森鷗外は、医学界でも文学界でも超エリート
わずか12才でいまの東京大学医学部に入学し、陸軍の軍医としてドイツに4年間留学しました
この留学中の実体験をもとに、日本人留学生が恋人のドイツ人女性を捨てて帰国するという小説『舞姫』を書いて28才のときに発表
当時まだめずらしかった外国人との恋と、その悲しい結末は文学界に衝撃を与えました
一方で、鷗外は軍医としても出世街道まっしぐら
31才で陸軍軍医学校長となり、日清戦争・日露戦争にも行きました
そのかたわら、小説や翻訳、評論などでもマルチに活躍し、47才で文学博士の学位まで手に入れたのです
● 鷗外が「フェイクニュース」を流した理由
森鷗外は、天才医学者の北里柴三郎を勝手に敵視していました
当時、日本軍兵士に多かった脚気という病気の原因を「菌」だと思っていた鷗外に対して、柴三郎が「脚気は菌じゃない。栄養不足が原因だ」と反論したのを根にもっていたのです
その後、柴三郎が香港でペスト菌を発見すると、鷗外は自分の名を伏せて読売新聞に「北里の発見は欧米でもウソだと言われている」と書きました
これは事実無根のフェイクニュース
鷗外は自分より優秀なライバルをこっそり蹴落そうとしたのです
しかし実際、脚気の原因は栄養不足でした
鷗外は脚気論争に敗れ、柴三郎は伝染病研究の第一人者となり日本の医学を大いに発展させました
● 人は「すごい」と「やばい」でできている
「歴史」とは、過去の人々が残した記録です
そこに名前が残るのは、何か「すごい」ことをした人たち
でも「すごい」だけの人なんて、この世にひとりもいません
とんでもない失敗をしたり、激怒されたり、ドン引きされたり・・・
歴史のなかには「すごい」人の「やばい」記録も残っています
だけど、人間ってそういうものです
時代や、年齢や、その場の空気や相手によって、人の考えや行動はガラリと変わります
「すごい」日もあれば、「やばい」日もあり、そういう日々が重なって、とてつもない偉業を成しとげたりもする
だからこそ、人はおもしろいのです!
(本稿は、『東大教授がおしえる さらに!やばい日本史』から一部を抜粋・編集したものです)
本郷和人(ほんごう・かずと)
東京大学史料編纂所教授
東京都出身
東京大学・同大学院で石井進氏・五味文彦氏に師事し日本中世史を学ぶ
大河ドラマ『平清盛』など、ドラマ、アニメ、漫画の時代考証にも携わっている
おもな著書に『新・中世王権論』『日本史のツボ』(ともに文藝春秋)、『戦いの日本史』(KADOKAWA)、『戦国武将の明暗』(新潮社)など
監修を務めた『東大教授がおしえる やばい日本史』はシリーズ77万部
最新刊『東大教授がおしえる さらに!やばい日本史』も発売中
(この記事は、DIAMOND onlineの記事で作りました)
森鷗外は、わずか12歳で今の東大医学部に入った超エリート
国費でドイツに留学
医者として陸軍軍医となり、31歳で陸軍軍医学校長となり、日清・日露戦争にも帯同
ドイツ留学の経験から小説を書き文豪に・・・
医学でも文学でもある意味頂点を極めています
そんな森鴎外が一方的に敵視・ライバル視したのが新千円札の顔・北里柴三郎です
地位では森鷗外が上回りましたが、北里柴三郎は医者として細菌学者として実績では上回りました
東大教授がおしえる さらに! やばい日本史 単行本(ソフトカバー)
偉人達の「表の顔(光)」と「裏の顔(影)」を紹介
人間・・・「凄い」面もあれば「やばい」面もある
2024年08月16日
NY株は3日続伸、日経平均株価は4日続伸
15日(現地時間)のNY株(ダウ平均株価)は、3日続伸し、終値は前日比554ドル67セント高の4万0563ドル06セントと大幅上昇
ハイテク株中心のナスダックは401.90ポイント高の1万7594.50も大幅上昇
S&P500は88.01ポイント高の6643.22と大きく上昇
15日(日本時間)の日経平均株価は4日続伸し、終値は前日比284円21銭高の3万6726円64銭
(この記事は、ネットニュースの記事で作りました)
15日のダウ平均株価の終値は前日比400ドル超の大幅上昇
ハイテク株中心のナスダックは401.90ポイント高の1万7594.50も大幅上昇
S&P500は88.01ポイント高の6643.22と大きく上昇
15日(日本時間)の日経平均株価は4日続伸し、終値は前日比284円21銭高の3万6726円64銭
(この記事は、ネットニュースの記事で作りました)
15日のダウ平均株価の終値は前日比400ドル超の大幅上昇
なぜ地動説は「コペルニクス革命」と呼ばれるのか・・・
古代ギリシャの原子論から、コペルニクスの地動説、ガリレオの望遠鏡、ニュートン力学、ファラデーの力線、アインシュタインの相対性理論まで、この世界のしくみを解き明かす大発見はどのように生まれてきたのか?
親子の対話形式でわかりやすく科学の歴史を描き出した新刊『父が子に語る科学の話』から、偉大な科学者たちの驚くべき発見物語の一端をご紹介しよう
*本記事は、ヨセフ・アガシ著/立花希一訳『父が子に語る科学の話 親子の対話から生まれた感動の科学入門』(ブルーバックス)をオンライン向けに再編集したものです
「コペルニクス革命」の真の意味
「コペルニクス革命」とよばれる理由は、当時コペルニクスにならう人々があまり過去をふり返らなくなり、よりいっそう未来に目を向けるようになったからだ
当時、未来志向であることはとても革命的で、驚くべきことであり、また信じがたいことでもあった
特筆すべきは、コペルニクス自身でさえ、ほとんど過去に目を向けていたということだ
今日、ほとんどすべての人が未来志向的だ
この変化は、われわれがしばしば忘れてしまいがちなことだ
革命の主な結果として、人々は過去よりも未来に目を向けるようになったのだが、これこそが革命とよばれる理由なのだ
「太陽が宇宙の中心だ」という考えは、実際には古い考えだった
コペルニクスが最初にその考えを思いつき、その後で同様の考えを古代の文献の中に見つけたのか、それとも、かれはその考えを古代の文献の中で初めて発見し、しかもとても気に入ったのでそれにならったのか、そのどちらなのかわれわれにはわからない
しかし、それは確かに古い考えであった
太陽が宇宙の中心だという考えは、アリスタルコス(紀元前310?~紀元前230?)という古代ギリシャ人によって説かれたものだった
今日、かれの本はもはや存在しないけれども、コペルニクスがアリスタルコスの考えを真剣にとり上げた最初の人であることは知られている
アリスタルコスが「マイナーな理由」
それならなぜ、それ以前の人々はアリスタルコスを信じなかったのか
地球全体が動いているという考えはかなり現実ばなれしている
地球がどんなに大きいかを知っているだろうし、地球が太陽のまわりを回るためにはどんなに速く動かなければならないかということもわかるだろう
また、地球が24時間で昼と夜をくり返すためにはどのくらいの速さで自転をする必要があるかもわかるだろう
地球というこの巨大な物体が自転しつつ、かなりの速さで太陽のまわりを回っているなどと信じられるかい?
だれかがそう言ったからという理由だけで
ただ科学者であるというだけで、科学者を信じてしまうのはとても非科学的なことだ
単に教師だからという理由で教師を信じてしまうことがとても非科学的であるのと、ちょうど同じように、だ
この地動説の考えがそれ以前のものよりも優れていると思える理由を自分で説明しなければならない
そして、自分の考えのほうが、よりよい理解をあたえること、世界についてのより正しい像であることを示さなければならないはずだ
ただ、「よい理解」とは何か、私にもまだそれをうまく説明する自信はないし、コペルニクスもまたその時代の人々もそれが何であるのか知らなかった
しかしかれらはひとつのことは知っていた
すなわち、かれらは世界についてよく理解することは可能であると心から信じており、自分たちより以前のギリシャ人たちはそのような理解をもっていたと信じていたのだ
かつての「黄金時代」を信じた人々
中世の人々は、自分たちの生きている状況をどのようにしたら改善できるのかわからなかった
かれらは悲惨、無知、貧困、戦争、そして疫病の中に暮らしていた
そして当時の学者たちは、人々がそれほど無知でなかった黄金時代の物語を語っていた
この黄金時代というのは世界のもっともよい時代につけられた名前で、古代ギリシャの歴史時代のことだ
人々は、黄金時代が終わったのは人間が何か悪いことをしたからだと信じていた
そして、かれらは、もし自分たちが一生懸命に徳をつめば、黄金時代は復活するだろうと考えていた
中世のもっとも重要な学者たちは、どうしたら黄金時代を復活させることができるのかという問題に関心をもっていた
かれらはその答えを黄金時代、すなわちギリシャや古代イスラエルの文明に残る古い書物の中に探し求めた
しばらくすると、奇妙なことに、事態がよい方向に動き出した
黄金時代から残る書物やこれらの書物に関する理解が、西欧にますます多くもたらされるようになったのだ
西欧の人々は主としてラテン語を読んだ
かれらは世界の他の地域との接触をもっていなかった
なぜなら、かれらはカトリック信者でない人々とのつき合いを望んでいなかったからだ
西欧には、少数のユダヤ人が住んでいたが、かれらは世界の他の場所にいるユダヤ人と接触をもっていた
そのような地域にはギリシャから伝わる書物をもつ多くのアラブ人もいた
これらの書物はアラブ世界からキリスト教世界へ伝えられ、ラテン語に翻訳された
このようにして、人々は黄金時代に関するさらに多くの情報を手に入れた
人々はまた黄金時代にはなかった新しい知識も身につけた
かれらは羅針盤や火薬について学んだのだ
一五世紀の終わりには、さらに重要なできごとも起きた
アメリカ大陸の発見だ
中世のヨーロッパ人は突如として、ギリシャ人が知らなかった物事を自分たちは知っているのだという気持ちを抱きはじめた
そこで、一部の人々は、「われわれは自分たちが考えているほど愚かではないかもしれない」と言い出した
他にもさまざまな理由で人々は自信をもつようになり、自分たちもまた何かをなしとげることができると信じはじめた。アメリカ大陸発見以前にも少しは見られたが、かれらは新たな事業達成にともなって黄金時代を復活させようと試みた
「ルネサンス」のはじまり
このようにして、コペルニクス革命の時代は再生に乗り出したので、現在、その時代はルネサンス(再生)として知られている
再生に向けた運動はイタリアで始まったが、その人々は古代ギリシャやローマで生活していた人と同じような生き方をしようと努めた
かれらは、ギリシャ・ローマ的な様式で絵を描き、彫刻をし、本や詩を書いた
アメリカ大陸発見後まもなくして、コペルニクスやその後につづくガリレオ・ガリレイ(1564~1642)は、ギリシャやローマの科学を再び創造しようと試みた。
それはとても困難だった。ギリシャの絵や彫刻は、壊れた彫刻や断片的な模造品だけしかなかったし、ギリシャの本も十分にはもっていなかったからだ。しかしかれらは、ギリシャ的生活様式を再構成しようとして、とても一生懸命に努力した。
かれらがギリシャ的生活に見出したものは、寛容であった
ギリシャ人はさまざまな意見をもっていたのだ
ルネサンス科学やコペルニクス革命の中でもっとも重要な発見はおそらく、ギリシャ人がすべて同じ意見をもっていたわけではないということだろう
素晴らしい人々であるギリシャ人が異なる意見をもっていたのだから、「われわれもまた異なる意見をもってなぜいけないのだろう」と多くのヨーロッパ人は考えるようになった
(この記事は、現代ビジネスの記事で作りました)
ルネサンスを経て人々が多様な意見を持ったことは、後の科学の発展・発見などに重要だ
コペルニクスやガリレオ(・ガリレイ)ももちろん偉大だが、ニュートン、アインシュタインは物理学の大偉人だ
ちなみに名競走馬で大種牡馬のガリレオ(馬)はガリレオ・ガリレイ(科学者)の名が由来とされる
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父が子に語るように科学の面白エピソードや科学の感動話を紹介
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「コペルニクス革命」とよばれる理由は、当時コペルニクスにならう人々があまり過去をふり返らなくなり、よりいっそう未来に目を向けるようになったからだ
当時、未来志向であることはとても革命的で、驚くべきことであり、また信じがたいことでもあった
特筆すべきは、コペルニクス自身でさえ、ほとんど過去に目を向けていたということだ
今日、ほとんどすべての人が未来志向的だ
この変化は、われわれがしばしば忘れてしまいがちなことだ
革命の主な結果として、人々は過去よりも未来に目を向けるようになったのだが、これこそが革命とよばれる理由なのだ
「太陽が宇宙の中心だ」という考えは、実際には古い考えだった
コペルニクスが最初にその考えを思いつき、その後で同様の考えを古代の文献の中に見つけたのか、それとも、かれはその考えを古代の文献の中で初めて発見し、しかもとても気に入ったのでそれにならったのか、そのどちらなのかわれわれにはわからない
しかし、それは確かに古い考えであった
太陽が宇宙の中心だという考えは、アリスタルコス(紀元前310?~紀元前230?)という古代ギリシャ人によって説かれたものだった
今日、かれの本はもはや存在しないけれども、コペルニクスがアリスタルコスの考えを真剣にとり上げた最初の人であることは知られている
アリスタルコスが「マイナーな理由」
それならなぜ、それ以前の人々はアリスタルコスを信じなかったのか
地球全体が動いているという考えはかなり現実ばなれしている
地球がどんなに大きいかを知っているだろうし、地球が太陽のまわりを回るためにはどんなに速く動かなければならないかということもわかるだろう
また、地球が24時間で昼と夜をくり返すためにはどのくらいの速さで自転をする必要があるかもわかるだろう
地球というこの巨大な物体が自転しつつ、かなりの速さで太陽のまわりを回っているなどと信じられるかい?
だれかがそう言ったからという理由だけで
ただ科学者であるというだけで、科学者を信じてしまうのはとても非科学的なことだ
単に教師だからという理由で教師を信じてしまうことがとても非科学的であるのと、ちょうど同じように、だ
この地動説の考えがそれ以前のものよりも優れていると思える理由を自分で説明しなければならない
そして、自分の考えのほうが、よりよい理解をあたえること、世界についてのより正しい像であることを示さなければならないはずだ
ただ、「よい理解」とは何か、私にもまだそれをうまく説明する自信はないし、コペルニクスもまたその時代の人々もそれが何であるのか知らなかった
しかしかれらはひとつのことは知っていた
すなわち、かれらは世界についてよく理解することは可能であると心から信じており、自分たちより以前のギリシャ人たちはそのような理解をもっていたと信じていたのだ
かつての「黄金時代」を信じた人々
中世の人々は、自分たちの生きている状況をどのようにしたら改善できるのかわからなかった
かれらは悲惨、無知、貧困、戦争、そして疫病の中に暮らしていた
そして当時の学者たちは、人々がそれほど無知でなかった黄金時代の物語を語っていた
この黄金時代というのは世界のもっともよい時代につけられた名前で、古代ギリシャの歴史時代のことだ
人々は、黄金時代が終わったのは人間が何か悪いことをしたからだと信じていた
そして、かれらは、もし自分たちが一生懸命に徳をつめば、黄金時代は復活するだろうと考えていた
中世のもっとも重要な学者たちは、どうしたら黄金時代を復活させることができるのかという問題に関心をもっていた
かれらはその答えを黄金時代、すなわちギリシャや古代イスラエルの文明に残る古い書物の中に探し求めた
しばらくすると、奇妙なことに、事態がよい方向に動き出した
黄金時代から残る書物やこれらの書物に関する理解が、西欧にますます多くもたらされるようになったのだ
西欧の人々は主としてラテン語を読んだ
かれらは世界の他の地域との接触をもっていなかった
なぜなら、かれらはカトリック信者でない人々とのつき合いを望んでいなかったからだ
西欧には、少数のユダヤ人が住んでいたが、かれらは世界の他の場所にいるユダヤ人と接触をもっていた
そのような地域にはギリシャから伝わる書物をもつ多くのアラブ人もいた
これらの書物はアラブ世界からキリスト教世界へ伝えられ、ラテン語に翻訳された
このようにして、人々は黄金時代に関するさらに多くの情報を手に入れた
人々はまた黄金時代にはなかった新しい知識も身につけた
かれらは羅針盤や火薬について学んだのだ
一五世紀の終わりには、さらに重要なできごとも起きた
アメリカ大陸の発見だ
中世のヨーロッパ人は突如として、ギリシャ人が知らなかった物事を自分たちは知っているのだという気持ちを抱きはじめた
そこで、一部の人々は、「われわれは自分たちが考えているほど愚かではないかもしれない」と言い出した
他にもさまざまな理由で人々は自信をもつようになり、自分たちもまた何かをなしとげることができると信じはじめた。アメリカ大陸発見以前にも少しは見られたが、かれらは新たな事業達成にともなって黄金時代を復活させようと試みた
「ルネサンス」のはじまり
このようにして、コペルニクス革命の時代は再生に乗り出したので、現在、その時代はルネサンス(再生)として知られている
再生に向けた運動はイタリアで始まったが、その人々は古代ギリシャやローマで生活していた人と同じような生き方をしようと努めた
かれらは、ギリシャ・ローマ的な様式で絵を描き、彫刻をし、本や詩を書いた
アメリカ大陸発見後まもなくして、コペルニクスやその後につづくガリレオ・ガリレイ(1564~1642)は、ギリシャやローマの科学を再び創造しようと試みた。
それはとても困難だった。ギリシャの絵や彫刻は、壊れた彫刻や断片的な模造品だけしかなかったし、ギリシャの本も十分にはもっていなかったからだ。しかしかれらは、ギリシャ的生活様式を再構成しようとして、とても一生懸命に努力した。
かれらがギリシャ的生活に見出したものは、寛容であった
ギリシャ人はさまざまな意見をもっていたのだ
ルネサンス科学やコペルニクス革命の中でもっとも重要な発見はおそらく、ギリシャ人がすべて同じ意見をもっていたわけではないということだろう
素晴らしい人々であるギリシャ人が異なる意見をもっていたのだから、「われわれもまた異なる意見をもってなぜいけないのだろう」と多くのヨーロッパ人は考えるようになった
(この記事は、現代ビジネスの記事で作りました)
ルネサンスを経て人々が多様な意見を持ったことは、後の科学の発展・発見などに重要だ
コペルニクスやガリレオ(・ガリレイ)ももちろん偉大だが、ニュートン、アインシュタインは物理学の大偉人だ
ちなみに名競走馬で大種牡馬のガリレオ(馬)はガリレオ・ガリレイ(科学者)の名が由来とされる
父が子に語る科学の話 親子の対話から生まれた感動の科学入門 (ブルーバックス B 2268) 新書
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