25日(現地時間)のNY株(ダウ平均株価)は、6お営業日ぶりに反落し、終値は前日比299ドル05セント安の3万9112ドル16セント
ハイテク株中心のナスダックは220.83ポイント高の1万7717.65
S&P500は21.43ポイント高の5469.30
25日(日本時間)の終値は前日比368円50銭高の3万9173円15銭
(この記事は、ネットニュースの記事で作りました)
25日の日経平均株価の終値は前日比360円超の大幅上昇
2024年06月26日
「男色」に無関心だった豊臣秀吉は珍しかった?「とんでもない変人」と言われた秀吉の男色の逸話
■ 江戸時代に「無体」と非難された男色
豊臣秀吉と男色の関係イメージを眺めていると、大元の逸話が拡大解釈されている感がある
まず男色(なんしょく)とは何かを説明しておこう
男色は、上位の年長者が下位の年少者を抱く関係であった
端的にいえば性的な搾取であるが、そこから純愛に発展していくこともある
これは現代の芸能界や風俗世界でもあることだろう
戦国時代は、武士の間で男色が流行したが、成人男性同士というわけではなく、多くは大人の武士と少年の小姓との関係であった
そして性的に愛玩される少年たちの間には不本意なものも少なからずいたことは想像に難くない
実際に、江戸時代前期には武士が男色を行なうのは少年に「無体」なことだからと、禁止令が発せられている
ということは、武士の中にも、「男色は楽しい、大好きだ」と思う層と、そうではない層の両方がいたということである
よく「男色は武士の嗜みだった」というが、これは根拠のない現代人の一解釈に過ぎない
■ 豊臣秀吉と男色の逸話
さて、豊臣秀吉である
秀吉には、こんな逸話があると、インターネットやライトな歴史の書籍でよく語られている
武士ならば誰でも関心があるはずの男色に、天下人の秀吉はまるで関心を寄せなかった
家臣たちは、「殿下が武士出身ではなく、百姓出身だからかもしれないぞ」と、その趣味を訝しんだ
そこで気の利いた家臣が評判の美少年を呼び出し、秀吉と2人きりになるよう仕向けた
ところがこの少年はすぐに秀吉のもとを辞した
家臣がどうだったか聞いてみると、「太閤殿下は、私に『お前に姉か妹はいるか?』と尋ねただけで返しました」と答えた──
秀吉はとんでもない変人だったのだという
ここでこの逸話の初出史料を見てみよう
■ 実際の秀吉の男色話
戦国時代を生きた儒者の口述筆記『老人雑話』に次の記事が見える
羽柴長吉(ちょうきち)は太閤(豊臣秀吉)の小姓、比類なき美少年なり
太閤ある時、人なき所にて近く召す
ひごろ男色を好み給(たま)はぬ故(ゆえ)に、人みな奇特の思ひをなす
太閤問ひ給ふは、汝(なんじ)が姉か妹ありやと
長吉顔色(がんしょく)好き故なり
冷静に読み返してみよう
ここでは秀吉を男色に興味がないからと変わり者扱いをしてはいない
美少年と2人きりになったのも、家臣たちのお膳立てではなく、自分の意思で行なったものである
つまり元々は、秀吉は男色を好まないのに、わざわざ美少年を召し出したので、人々は変わったことをするなと疑問に思ったが、何のことはなく、秀吉はこの美少年に、「姉か妹はいないかね?」と尋ねただけであったという筋書きである
これに、当時は男色を経験するのが武士の常識であったとする俗説が結びつき、尾鰭がついて拡散しているのである
■ 男色に興味がないのは武士でも普通
秀吉が男色を好まなかったのも、百姓出身だからではなく、そういう人物だったからだろう
百姓出身なら、幕末の新撰組も「局中しきりに男色流行」したことが、当時の近藤勇書状に記されている
文章の前後を読む限り、これは彼らが闇営業の陰間(男色を売るお店)に通い詰めていたもののようである
正規の武士でなくとも金があまれば、男色を楽しみにお店へ通うことはあったのだ(拙著『戦国武将と男色 増補版』ちくま文庫)
豊臣秀吉は、身分に関係なく男色に無関心だったのであり、家臣たちもその趣味はおかしいと思って余計なお世話をしたのではなく、「あの殿下にしては珍しいな」と不思議がっただけである
【乃至政彦】ないしまさひこ
歴史家
1974年生まれ
高松市出身、相模原市在住
著書に『戦国大変 決断を迫られた武将たち』『謙信越山』(ともにJBpress)、『謙信×信長 手取川合戦の真実』(PHP新書)、『平将門と天慶の乱』『戦国の陣形』(講談社現代新書)、『天下分け目の関ヶ原の合戦はなかった』(河出書房新社)など
書籍監修や講演でも活動中
現在、戦国時代から世界史まで、著者独自の視点で歴史を読み解くコンテンツ企画『歴史ノ部屋』配信中
(この記事は、JB Pressの記事で作りました)
男色は戦国時代は多く見られたようだ
しかし男色という嗜好というか性癖はなんでもそうだが個人にもよる
豊臣秀吉の本記事のエピソードは私も知っていた
(読んだことがある)
豊臣秀吉は天下人で当時の少数派で注目されたのだろう
ちなみ戦国武将の男色では織田信長と森蘭丸がそうだったとして知られている
戦国武将と男色 増補版 (ちくま文庫 な-60-1) 文庫
戦国時代に男色は多く見られたという
戦国時代という「非常時」だからこそ多く見られたのかもしれない
豊臣秀吉と男色の関係イメージを眺めていると、大元の逸話が拡大解釈されている感がある
まず男色(なんしょく)とは何かを説明しておこう
男色は、上位の年長者が下位の年少者を抱く関係であった
端的にいえば性的な搾取であるが、そこから純愛に発展していくこともある
これは現代の芸能界や風俗世界でもあることだろう
戦国時代は、武士の間で男色が流行したが、成人男性同士というわけではなく、多くは大人の武士と少年の小姓との関係であった
そして性的に愛玩される少年たちの間には不本意なものも少なからずいたことは想像に難くない
実際に、江戸時代前期には武士が男色を行なうのは少年に「無体」なことだからと、禁止令が発せられている
ということは、武士の中にも、「男色は楽しい、大好きだ」と思う層と、そうではない層の両方がいたということである
よく「男色は武士の嗜みだった」というが、これは根拠のない現代人の一解釈に過ぎない
■ 豊臣秀吉と男色の逸話
さて、豊臣秀吉である
秀吉には、こんな逸話があると、インターネットやライトな歴史の書籍でよく語られている
武士ならば誰でも関心があるはずの男色に、天下人の秀吉はまるで関心を寄せなかった
家臣たちは、「殿下が武士出身ではなく、百姓出身だからかもしれないぞ」と、その趣味を訝しんだ
そこで気の利いた家臣が評判の美少年を呼び出し、秀吉と2人きりになるよう仕向けた
ところがこの少年はすぐに秀吉のもとを辞した
家臣がどうだったか聞いてみると、「太閤殿下は、私に『お前に姉か妹はいるか?』と尋ねただけで返しました」と答えた──
秀吉はとんでもない変人だったのだという
ここでこの逸話の初出史料を見てみよう
■ 実際の秀吉の男色話
戦国時代を生きた儒者の口述筆記『老人雑話』に次の記事が見える
羽柴長吉(ちょうきち)は太閤(豊臣秀吉)の小姓、比類なき美少年なり
太閤ある時、人なき所にて近く召す
ひごろ男色を好み給(たま)はぬ故(ゆえ)に、人みな奇特の思ひをなす
太閤問ひ給ふは、汝(なんじ)が姉か妹ありやと
長吉顔色(がんしょく)好き故なり
冷静に読み返してみよう
ここでは秀吉を男色に興味がないからと変わり者扱いをしてはいない
美少年と2人きりになったのも、家臣たちのお膳立てではなく、自分の意思で行なったものである
つまり元々は、秀吉は男色を好まないのに、わざわざ美少年を召し出したので、人々は変わったことをするなと疑問に思ったが、何のことはなく、秀吉はこの美少年に、「姉か妹はいないかね?」と尋ねただけであったという筋書きである
これに、当時は男色を経験するのが武士の常識であったとする俗説が結びつき、尾鰭がついて拡散しているのである
■ 男色に興味がないのは武士でも普通
秀吉が男色を好まなかったのも、百姓出身だからではなく、そういう人物だったからだろう
百姓出身なら、幕末の新撰組も「局中しきりに男色流行」したことが、当時の近藤勇書状に記されている
文章の前後を読む限り、これは彼らが闇営業の陰間(男色を売るお店)に通い詰めていたもののようである
正規の武士でなくとも金があまれば、男色を楽しみにお店へ通うことはあったのだ(拙著『戦国武将と男色 増補版』ちくま文庫)
豊臣秀吉は、身分に関係なく男色に無関心だったのであり、家臣たちもその趣味はおかしいと思って余計なお世話をしたのではなく、「あの殿下にしては珍しいな」と不思議がっただけである
【乃至政彦】ないしまさひこ
歴史家
1974年生まれ
高松市出身、相模原市在住
著書に『戦国大変 決断を迫られた武将たち』『謙信越山』(ともにJBpress)、『謙信×信長 手取川合戦の真実』(PHP新書)、『平将門と天慶の乱』『戦国の陣形』(講談社現代新書)、『天下分け目の関ヶ原の合戦はなかった』(河出書房新社)など
書籍監修や講演でも活動中
現在、戦国時代から世界史まで、著者独自の視点で歴史を読み解くコンテンツ企画『歴史ノ部屋』配信中
(この記事は、JB Pressの記事で作りました)
男色は戦国時代は多く見られたようだ
しかし男色という嗜好というか性癖はなんでもそうだが個人にもよる
豊臣秀吉の本記事のエピソードは私も知っていた
(読んだことがある)
豊臣秀吉は天下人で当時の少数派で注目されたのだろう
ちなみ戦国武将の男色では織田信長と森蘭丸がそうだったとして知られている
戦国武将と男色 増補版 (ちくま文庫 な-60-1) 文庫
戦国時代に男色は多く見られたという
戦国時代という「非常時」だからこそ多く見られたのかもしれない