2024年01月31日

NY株は、4営業日続伸

30日(現地時間)のNY株(ダウ平均株価)は、4営業日続伸し、終わらせ前日比133ドル86セント高の3万8467ドル31セントと4営業日連続で過去最高値を更新

ハイテク株中心のナスダックは118.14ポイント安の1万5509.90



30日(日本時間)の日経平均株価は小幅続伸し、終値は前日比38円92銭高の3万6065円86銭


(この記事は、ネットニュースの記事で作りました)
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ヒトの胎児の脳細胞から「ミニ脳」の作成に成功 最先端の立体臓器「オルガノイド」とは何か?

<オランダの研究者らが、中絶されたヒトの胎児の脳組織を使用して「脳オルガノイド(ミニ脳)」を培養することに成功した
iPS細胞を用いたものとはどう違うのか
オルガノイド作成の意義と歴史を紹介する>

「臓器(organ)のようなもの」が語源の「オルガノイド」は、試験管など生体外で栽培された3次元の構造体で、特定の臓器の細胞と機能を模倣します
拡大しても模倣した臓器とそっくりの解剖的な特徴を示しますが、大きくても数ミリメートル程度のため「ミニ臓器」とも呼ばれます
【茜 灯里(作家・科学ジャーナリスト/博士[理学]・獣医師)】

オランダのプリンセス・マキシマ小児腫瘍センターとヒューブレヒト研究所の研究者らは、中絶されたヒトの胎児の脳から採取した細胞を用いて「脳オルガノイド(ミニ脳)」を培養することに成功したと発表しました
研究の詳細は、8日付の医学学術誌「Cell」に掲載されました

オルガノイドは、多能性幹細胞(ES細胞やiPS細胞)や生物個体のターゲットとなる組織幹細胞から形成されます
脳の場合、これまでは多能性幹細胞から脳細胞を誘導して本物のヒトの脳に近い構造を持つ「ミニ脳」を作成することには成功していましたが、様々な臓器の中で唯一、脳だけが該当する組織幹細胞から直接オルガノイドを作ることができていませんでした

オルガノイドを作り出す技術は20世紀に生まれ、2010年代になって急速に発展しました
本研究の内容とともに、オルガノイドを作成する意義についても概観しましょう

<アルツハイマー研究の前進にも貢献か>

ヒトの発生や疾患の研究を進めるとき、少し前までは二次元的に細胞を培養したり、マウスなどのモデル動物を使ったりすることが主流でした
ところが、2010年代になると、疾患モデルや薬物試験、再生医療において、オルガノイドが重要な役割を果たすようになりました

たとえば、脳オルガノイドは神経疾患の研究に、肝臓オルガノイドは薬物代謝の研究に使用されています
私たちの臓器は複数種類の細胞で構成されており、それぞれが相互に作用して自己組織化し、秩序のある構造物を作っています
オルガノイドは実際の臓器どおりの3次元構造で複雑な環境をより正確に再現できることから、従来の2次元の細胞培養よりも優れています

また、アルツハイマー病の研究にはマウスなどのモデル動物が使われますが、マウスは自然の状態ではアルツハイマー病を発症しないため、人工的に発症させなければなりません
アルツハイマー病の治療薬の候補は、実験に使用した動物に効いたものとしてこれまでに400種以上も見つかっていますがヒトにも効くとは限らず、画期的な治療薬は未だに見つかっていません
そこで、脳オルガノイドを用いたアルツハイマー研究が、期待されています

<オルガノイド作成の歴史>
臓器を生体外で作る試みは、米ノースカロライナ大のヘンリー・ヴァン・ピーターズ・ウィルソン博士によって1907年に初めて報告されました
ウィルソン博士は、海綿動物を細胞までバラバラにすると、その細胞が再集合して自己組織化し、生体を再構成できることを確かめました

その後、20世紀末まではさほど研究が進みませんでしたが、ヒトES細胞が90年代に、ヒトiPS細胞が2000年代に樹立し、同時期に組織幹細胞を試験管内で培養する技術が確立されたことから、オルガノイド研究は急速に発展しました
現在は、脳のほかにも網膜、腸、肝臓、肺、前立腺など、多様な「ミニ臓器」が世界中で作られています

とくに最近は、iPS細胞を用いた脳オルガノイドに関する成果がいくつか話題となりました
たとえば21年8月には、ドイツの研究チームが「視神経を持ち、光を検知する目を持った脳オルガノイド」を作成
同年12月には、オーストラリアとイギリスの研究チームが「卓球のビデオゲーム"PONG"を脳オルガノイドにプレイさせたら、AIよりも優れていた」ことを発表しています

<iPS細胞を用いた脳オルガノイドとの違い>

今回のオランダの研究チームは、匿名かつ無償提供のドナーから提供された、妊娠12週から15週の胎児の脳組織を実験に用いました
栄養素と成長因子を用いて作成を始めてから4~8日後、研究者らは組織的で複雑な立体構造を持つオルガノイドに成熟したことを確認しました

彼らはかつてiPS細胞を用いた脳オルガノイドを作成したこともありましたが、iPS細胞は脳の様々な部分の細胞になるように誘導しなければならないのに対して、胎児の脳から直接採取した脳組織は多種類の細胞がもとから含まれており、特定の発達段階を正確に捉えて適切に成長したと言います

また、前者は細胞が成長するための「足場」を外部から用意する必要がありましたが、後者は足場となる「細胞外マトリックスタンパク質」を自力で作ることができました

胎児の脳から作成したミニ脳はおよそ米粒ほどの大きさで、「外側放射状グリア」が多いことも特徴して挙げられます

外側放射状グリアはヒトの大脳皮質に特徴的な細胞で、マウスでは認められません
ヒトの大脳皮質の拡大や構造の複雑化に関わっていると考えられており、作成された脳オルガノイドが実際のヒトの脳によく似た構造を持っていることの証拠となりました

胎児由来のミニ脳は、シャーレの中で6カ月以上増殖し続けました
1回の組織サンプルの回収で複数のミニ脳を作ることが可能なため、追試やサンプル数を増やして信頼性の高いデータを得ることもできるでしょう

<脳腫瘍の疾病モデルにも>
さらに、研究チームは、脳腫瘍の疾病モデルにこのミニ脳が使えるかどうかも調査しました
遺伝子編集ツールのCRISPR-Cas9を使って、オルガノイド内の少数の細胞でがん抑制遺伝子TP53に遺伝的欠陥を導入すると、3カ月後にTP53 に欠陥のある細胞はオルガノイド内の健康な細胞の数を越えました
これは、遺伝的欠陥を持つ細胞ががん細胞の典型的な特徴である成長上の優位性を獲得したことを意味すると言います

<臓器移植の代替として>

オルガノイドのような生体外での立体臓器の作成は、宇宙空間の微小重力の環境下のほうが有利と考えられています
ヒトは臓器が発生する胎児の時に子宮内の羊水中におり、浮力で重力がキャンセルされている状態なので、宇宙空間は地球上よりも子宮内の環境により近いと考えられるからです

実際に20年12月にはISS(国際宇宙ステーション)の「きぼう」実験棟で野口聡一宇宙飛行士によって、ヒトiPS細胞から作製した肝臓の基(器官原基)を使った宇宙実験が行われました
23年7月にはISS National Lad(ISS国立研究所)から「地球上でヒトiPS細胞から脳細胞を作り、ISSの微小重力下でミニ脳を組み立てる」実験の実施が正式発表されました

具体的には、地球上でヒトの皮膚細胞から iPS細胞を作り出し、ニューロン・ミクログリア・アストロサイトの3種類の脳細胞に分化させてそれぞれ培養し、これらの培養物をISSに送り、微小重力下で3次元脳スフェロイド(オルガノイドよりも単純な構造を持つ立体臓器の1種)に組み立てられる予定です

オルガノイドは、患者自身の細胞から作れるので、臓器移植の代替として期待されています
加えて、創薬の臨床試験に動物実験に替わって使われれば、各国の当局は動物のデータよりもヒト組織を用いたデータを望ましいと考える可能性が高く、将来的には医薬品の承認のスピードが改善されるきっかけになるかもしれないとも考えられています

ただし脳オルガノイドは、将来的に研究がさらに発展すると、意識を持つのではないかという懸念が専門家から指摘されています

すべての新しい科学技術に共通することですが、倫理面の議論の発展が科学技術の発展スピードに取り残されないようにしなければなりませんね

(この記事は、ニューズウィーク日本版の記事で作りました)

ヒトの胎児の脳細胞から「ミニ脳」の作成に成功は、すごいですが、これらでいつも問題になるのは倫理面です

しかし、臓器移植の代替や創薬のヒトへの正確・安全への期待(動物実験より)もできます

ES細胞、iPS細胞など幹細胞研究も次世代医療などで注目だがオルガノイド研究も今後の医療への応用などで注目だ

医学のあゆみ オルガノイド再生医学 -ミニ臓器を作る挑戦と応用の可能性

ミニ臓器を作るオルガノイドの本書発刊時の現状・挑戦とその応用や可能性を探る
倫理面などに課題はあるが、ヒトの細胞で作られており、安全・確実な医療への応用・可能性が期待できる
posted by june at 03:51| Comment(0) | ニュース | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年01月30日

NY株は、3営業日続伸

29日(現地時間)のNY株(ダウ平均株価)は、3営業日続伸し、終値は前週末比224ドル02セント高の3万8333ドル45セントで前週末につけた過去最高値をさらに更新

ハイテク株中心のナスダックは172.69ポイントDikano628.05




29日(日本時間)の日経平均株価は反発し、終値は前週末比275円87銭高の3万6026円94銭


(この記事は、ネットニュースの記事で作りました)
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天才軍師・諸葛孔明の最大のライバル司馬懿とは何者か?

三国時代の天才軍師といわれる諸葛孔明がもっとも苦戦したのが、司馬懿(しばい)だ
天才の最大のライバルは、どんな人物だったのか
諸葛亮と対峙する前、青年期の彼の来歴を、その時代とともに振り返る(井波律子『裏切り者の中国史』より一部編集のうえ引用する)

魏の曹操を支える清流派

後漢王朝(二五~二二〇)は、その成立の当初から外戚と宦官の勢力争いに揺れつづけた

二世紀後半、貪欲な宦官派がヘゲモニーをとるや、ただでさえ不安定な後漢王朝の統治力は加速度的に失われ、中国全土は群雄割拠の騒乱状態におちいった
しのぎをけずる激戦のすえ、三世紀前半、北中国を支配する曹操(そうそう)(一五五~二二〇)の魏、益州(四川省)を支配する劉備(りゅうび)(一六一~二二三)の蜀、江南を支配する孫権(そんけん)(一八二~二五二)の呉の三国分立、三極分化へと、天下の情勢は固まってゆく

三国分立とはいえ、圧倒的優勢を誇ったのは、曹操の魏だった
曹操は、建安十三年(二〇八年)、「赤壁の戦い」で、孫権と劉備の連合軍に大敗を喫し、天下統一こそならなかったものの、政治・文化の中心地である北中国を支配し、南中国の地方政権にすぎない蜀や呉をはるかに凌駕する、強力な政権を保持しつづけた

曹操を群雄のトップに押し上げた軍師の荀イク(じゅんいく[特殊文字])(一六三~二一二)は、もともと後漢末、きびしい弾圧にさらされながら、宦官およびこれと結託する悪徳官僚を批判しつづけた、知識人グループ「清流派」の有力なメンバーであった
曹操こそ乱世をおさめ、太平の世をもたらす人物だと見込んだ荀イクは、初平二年(一九一)、東郡(河南省濮陽県付近)に自立の拠点を得たばかりの曹操の協力者となった

以来、荀イクは、清流派知識人のネットワークを通じて、次々に有能な人材を推挙し、着々と曹操政権の基盤を固めた
こうして荀イクがデザインした強力な頭脳集団に支えられ、曹操は、建安五年(二〇〇)、軍事力にまさるライバルの袁紹(えんしょう)を撃破したのを皮切りに、華北さらには北中国を制覇しえたのだった
その後、政治・経済のテクノクラートとなった清流派出身の知識人は、軍人をおさえて曹操の魏政権の中枢を占めるに至る

荀イクの推薦、曹操の誘い

のちに曹操の子孫の立てた魏王朝の脅威となった、司馬懿(しばい)あざな仲達(一七九~二五一)も、もともとは荀イクに推挙され、曹操の傘下に入った清流派知識人である
父の司馬防(しばぼう)(一四九~二一九)は、後漢末、首都洛陽の知事をつとめた人物であり、若き日の曹操を洛陽北部尉(洛陽北部の警察署長)に推薦したこともあったという
司馬防には、「八達」と称される八人の優秀な息子があった
八人ともあざなに「達」がつくため、こう呼ばれたのである
司馬懿はその二男だった

司馬懿は、曹操が「官渡の戦い」で袁紹を撃破し、華北の覇者となった翌年の建安六年(二〇一)、二十三歳のとき、出身地河内郡(河南省)の地方役人になった
まもなく荀イクの推薦により、曹操は彼を中央に任用しようとした

しぶしぶ曹操の傘下に入る
曹操にしてみれば、昔、父の司馬防に世話になったこともあり、息子の司馬懿を引き立ててやろうという気もあったのだろう
しかし、司馬懿のほうは、権謀術数に富む曹操の政治手法に違和感をもち、病気(風痺すなわち関節麻痺)を口実に召聘に応じなかった
仮病でないかと疑った曹操が人をやって、就寝中の司馬懿を針でつかせたところ、司馬懿はピクリともせず、完璧に関節麻痺を装いとおした

しかし、曹操はいったんこれと目をつけた者は、どうあっても傘下に加えなければ気のすまない性格である
建安十三年(二〇八)、北中国を完全制覇し、丞相となるや、ふたたび司馬懿を召し出し、文学掾に任用しようとした
応じなければ、逮捕も辞さない構えである
かくて司馬懿はやむなく出仕に踏み切ったのだった

『晋書』武帝紀は、司馬懿が曹操政権に加わった最初の風景を、以上のように描いている

演技か本心か定かでないが、司馬懿が欣喜雀躍して曹操の傘下に入ったのでないことだけは、確かだ
ちなみに、このときすでに長兄の司馬朗(しばろう)(一七一~二一七)は曹操政権のスタッフであり、すぐ下の弟の司馬孚(しばふ)(一八〇~二七二)も、まもなく曹操の息子曹植(そうしょく)(一九二~二三二)の文学掾に起用されている

年若く、活躍する機会がない
しぶしぶ出仕したにしては、その後の司馬懿は、官吏として順調に昇進をつづけた
司馬懿に幸いしたのは、曹操の後継者として最有力視される、曹操の息子曹丕(そうひ)(一八七~二二六)とウマが合ったことだった
こうして早くから曹丕と深く結び付いたことが、後年、司馬懿を大きく飛翔させる原動力となる

とはいえ、文武両面にわたって、超一流の人材がひしめく曹操政権において、頭角をあらわすのは、容易なことではなかった

司馬懿は、曹操が群雄の一人として旗揚げした当初から、曹操に協力した荀イクら第一世代の重臣に比べると、格段に年も若く(荀イクより十六歳下)、いわば曹操政権の第二世代に属している
このため、表舞台に出て、はなばなしい活躍をする機会に恵まれないまま、数年が経過した
がまん強く機会を待ったかいあって、とうとう時節到来、司馬懿に出番がまわってくる

曹操への進言、受け入れられず
北宋の歴史家司馬光(しばこう)(一〇一九~一〇八六)が著した編年体の歴史書『資治通鑑』に、司馬懿が本格的に登場するのは、建安二十年(二一五)からである

この年、曹操は大軍を率いて、漢中(陝西省西南部)に依拠する道教系の新興宗教、五斗米道の教祖張魯(ちょうろ)の討伐に向かった
首尾は上々、曹操は張魯を降伏させ、首尾よく漢中を制覇することができた
おりしも、この前年の建安十九年(二一四)、劉備は漢中に隣接する蜀を手中におさめたばかりであった

当時、丞相主簿(しゅぼ)(総務部長格)として、曹操に随行していた司馬懿は、蜀の国内情勢がまだ安定していない今こそ、千載一遇の好機、蜀に進撃すべきだと進言した
「いま漢中が陥落したため、益州ははげしく動揺しております。軍を進め攻撃したならば、必ず瓦解するでありましょう。聖人は天の与えた時にたがってはならぬもの、時機を失ってはなりません」と

しかし、曹操は「すでに隴(甘粛省)を得たのに、このうえまだ蜀を望むとは」と、強引な彼にしてはめずらしく弱気なところを見せ、司馬懿の時宜をえた提案を受け入れなかった
この『資治通鑑』の記述から、けっきょく曹操を動かすことはできなかったものの、建安二十年の時点で、司馬懿の存在感が増しているさまが読み取れる

世代交代で出番が回ってくる
ちなみに、曹操の最良の軍師だった荀イクは曹操とそりが合わなくなり、すでに建安十七年(二一二)、迫られて服毒自殺をしている
晩年に入った曹操は権力欲をつのらせ、後漢王朝最後の皇帝献帝に取ってかわろうとしはじめた
もともと後漢末の清流派知識人が、宦官の専横による政局の腐敗をきびしく糾弾したのは、後漢王朝の浄化を願ったためであった
そんな彼らにはむろん、後漢王朝じたいを否定する発想はない

こうした清流派の伝統を受け継ぐ荀イクが、簒奪の意図をあらわにした曹操と、最終的に対立する羽目になったのも、当然といえば当然である荀イクの死の二年後の建安十九年(二一四)、荀イクに勝るとも劣らぬブレーンだった荀攸(じゅんゆう)(荀イクの従子、一五七~二一四)も病死した

こうして曹操政権を支えた第一世代の重臣が、一人また一人と退場するにつれ、その欠を補うべく、司馬懿が徐々に前面に出てくるわけだ
さらに司馬懿に幸いしたのは、建安二十二年(二一七)、曹丕が魏王曹操の後継者に指名され、太子となったことだった
これによって、曹丕と結び付きの深い司馬懿の展望は、いっきょに開ける。[後略]

(この記事は、現代ビジネスの記事で作りました)

司馬懿仲達は三国時代を終わらせた人物だ

最初は後漢の地方役人から魏に仕え、結果的に魏を裏切り晋王朝を築き、三国時代を終わらせた

最初はしぶしぶ魏に仕えた

司馬家は官位の三公の一つ・司馬の名を姓に賜った名門で仲達自身も「司馬の八達」といわれた秀才

利発で名門の仲達から見れば「成り上がり物」の曹操の魏に仕えることをよしとしなかっかようだ

しかし、曹操の「出来る」仕事ぶり、将としての魅力などにもひかれ、ウマが合った曹丕(曹操の子)がやがて太子、二代目魏王(初代魏王・曹操に継ぐ)となり重用された

元々優秀で時節もあり重用された仲達・・・

曹丕の死後、権力闘争に勝ち、魏から政権を奪い、三国時代を終わらせ、晋王朝を築いた

仲達はフィクション要素もある「三国志演義」では諸葛孔明に翻弄される武将で描かれているが、実際の仲達は数字に強く、頭が切れ、即断即決、権謀術数荷も優れ、冷静で、冷酷な面もあったようだ

裏切り者の中国史 (講談社学術文庫) 文庫

中国史は人間ドラマの歴史でもある
その中には権謀術数矢いわゆる「裏切り」もある
いわゆる「裏切り者の歴史・中国史」をひもとく


司馬仲達―「三国志」の覇者 (PHP文庫) 文庫

混迷の三国時代を終わらせ、いわゆる三国志の覇者・勝利者となったのは司馬仲達だ
裏切り者、権謀術数の寝業師のあまり人気のないイメージもある仲達だが、混迷の三国志の覇者に学ぶべき点も多い
私の愛読書
posted by june at 04:43| Comment(0) | ニュース | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2024年01月29日

身長3メートルで史上最大の類人猿、食べ物の好みを変えられずに絶滅していた

ギガントピテクス・ブラッキー(Gigatopithecus blacki)は史上最大の類人猿だった
おとなの身長は約3メートル、体重は200~300キロもあり、現在の中国にあたる地域の深い森林に生息していた

1月10日付けで学術誌「ネイチャー」に発表された論文は、地質年代と花粉記録、化石の歯の中に保存された手がかりを組み合わせて、ギガントピテクス・ブラッキーが衰退し、絶滅するまでの道のりを詳しく明らかにした

この印象的な草食動物が考古学者によって発見されてから100年近くになるが、絶滅の原因ははっきりしていなかった
新たな分析の結果、ギガントピテクスの独特なライフスタイルが生き残りを困難にしていたことが明らかになった

論文の筆頭著者の一人で、オーストラリア、マッコーリー大学の地質年代学者であるキラ・ウェスタウェイ氏は、「私の同僚の張穎奇(チャン・インチー)氏は、10年以上前からギガントピテクス・ブラッキーの研究をしていました」と言う
最大の謎の一つは、彼らが絶滅した年代だった

ウェスタウェイ氏は、ギガントピテクスの化石が発見された堆積物の年代を、より正確に特定できないかと考えた
そうすれば、ギガントピテクスがどのような世界で暮らし、なぜ絶滅してしまったのかを、より詳しく解き明かせる

これまで専門家たちは、密林を好んだギガントピテクスは生息地の樹木がまばらになるにつれて絶滅に追い込まれたと推測していた
だが、これまでに見つかった化石からは、その仮説を検証するために必要となる明確な年代が分からなかった
「時系列が明確になっていないと、間違った場所で手がかりを探すことになりかねません」とウェスタウェイ氏は言う

ギガントピテクス・ブラッキーと同じ時代に生きていた他の類人猿が生き残ったことは、謎を深めるばかりだった
実際、現在のオランウータンに近い仲間のポンゴ・ワイデンライヒー(Pongo weidenreichi)は、ギガントピテクスを絶滅に追いやった変化に耐えることができた

ウェスタウェイ氏らは、ギガントピテクス・ブラッキーが中国に生息していた時期を230万年前から21万5000年前までと推定した
「約200万年前の洞窟では、彼らの歯が何百本も見つかっています」と氏は言う
「けれども、彼らが絶滅寸前だった約30万年前の洞窟からは数本しか見つかっていません」

好物の食べ物が見つからなくなった
研究チームは、ギガントピテクスの化石が発見された場所の花粉化石を調べることで、この期間に彼らの生息環境に起きた変化を明らかにすることができた
その結果、彼らが暮らしていたマツ、カバノキ、クリなどが生い茂る森林は、約70万年前には木がまばらになり、より開けた草原に変化していたことが明らかになった
ギガントピテクスは、この環境の変化とともに衰退し、やがて姿を消したのだ

ギガントピテクスがこの変化を感じていたことは、歯を調べれば分かる
彼らの歯の化石には、食べた植物の影響を受けた痕跡が封じ込められているからだ
かつてギガントピテクス・ブラッキーとポンゴ・ワイデンライヒーは、樹木がうっそうと生い茂った森林に暮らし、ほぼ一年中、おいしい木の葉や果実や花を食べていた

しかし、やがて季節の変化が著しくなり、森林がまばらになってくると、ギガントピテクスは好物を見つけるのが難しくなった
一方、ポンゴ・ワイデンライヒーは食生活を変えて、手に入りやすい繊維質の植物を食べるようになった

オーストラリア、グリフィス大学の古生物学者であるジュリアン・ルイ氏は今回の研究には参加していないが、「研究チームは、ギガントピテクス・ブラッキーがこれまでの環境に特化しすぎて変化に適応できなかったことを見事に示しました」と言う

ギガントピテクスが生息していた時代、東南アジアは急激な環境の変化に見舞われていた
プレートの沈下により、地域の気候や生息地が大きく変化していたのだ
「米国の中央部の大部分が海中に沈んだらどんな変化が起こるか、想像してみてください」

しかし、ギガントピテクス・ブラッキーが絶滅に追いやられたのは、単に環境が変化したからではなく、彼らが速やかに適応することができなかったからだ。
ギガントピテクスの運命を決定づけたのは、変化
への対応のしかたでした」とウェスタウェイ氏は言う

彼らは体が非常に大きかったので樹上ではなく地上を移動しなければならず、餌を探しに行ける範囲が限られていたのだ
彼らは小枝や木の皮など、手の届くところにあった堅いものをできるだけ食べようとしたが、それも十分ではなかった

いまだ残る謎
約21万5000年前、最後のギガントピテクスは生息地の変化についていけずに絶滅した
しかし、物語の結末を知ったからといって、ギガントピテクスの謎がすべて解決したわけではない
ウェスタウェイ氏によると、最後のギガントピテクスの中には最大級の個体もいたが、その理由はまだ解明されていないという

さらにルイ氏によると、タイ、ベトナム、そしておそらくジャワ島からもギガントピテクスの化石が発見されているという
彼らも、同じ絶滅への道をたどったのだろうか? 
それとも生息地によって異なる道をたどったのだろうか?

「今回の論文のおかげで、この時期の東南アジアにおける絶滅のダイナミクスについての私たちの理解は大きく深まりました」とルイ氏は言う史上最大の類人猿が姿を消した経緯は明らかになったが、同時に新たな謎も生まれた

(この記事は、NATIONAL GEOGRAPHIC日本版の記事で作りました)

身長3メートルで史上最大の類人猿・ギガントピテクス・ブラッキーは、食べ物の好みを変えられずに絶滅していたようだ

いわゆる変化に対応できず、「自然淘汰」され、絶滅したようだ

大きい身体も行動範囲を狭め、絶滅につながったのかも・・・

わけあって絶滅しました。 世界一おもしろい絶滅したいきもの図鑑 単行本(ソフトカバー)

さまざまな理由で絶滅していった生き物たちの「わけあり」絶滅原因を紹介
絶滅にもさまざまな理由・原因があります
絶滅しそうでしなかった生き物・理由も紹介
posted by june at 12:30| Comment(0) | ニュース | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする