11日午前3時10分ごろ、東京都世田谷区成城の元プロ野球選手、村田兆治さん(72)宅の2階で火事が発生、約40平方メートルが焼けた
警視庁などによると意識不明で病院に搬送された村田さんの死亡が確認された
午前3時13分に近隣住民が119番通報した
村田さんは搬送時に意識不明の重体で、午前5時57分に都内の病院で死亡が確認された
死因は一酸化炭素中毒とみられ、今後解剖される見通し
火災が発生した自宅は地上2階、地下1階
村田さんは火災発生当時、自宅に1人でおり、2階部分で発見された
建物2階部分の40平方メートルが焼け、1階部分はほぼ燃えていなかったという
村田さんは今年9月、羽田空港で保安検査員の女性の肩を押したとして暴行容疑で現行犯逮捕
その後釈放されたが、10月には沢村賞の選考委員を辞退していた
村田さんは1949年(昭和24年)、広島県生まれ
1967年、福山電波工高(現・近大広島高福山)からドラフト1位で東京(現・ロッテ)に入団
1969年に6勝をマークし、1971年には後に代名詞となる「マサカリ投法」で投げるようになり、ロッテが日本一になった1974年にはシーズン12勝、日本シリーズ第6戦で完投勝利を収め、胴上げ投手に
シリーズ最優秀投手賞を受賞した
1975、1976年にパ・リーグの2年連続最優秀防御率、1981年に開幕11連勝で最多勝のタイトルを獲得するなどリーグを代表する投手だったが、1982年に肘を痛め、1983年に渡米しフランク・ジョーブ博士による左腕の腱を右肘に移植するトミー・ジョン手術を受けた
1985年に開幕から11連勝するなど、17勝5敗の成績でカムバック賞を受賞
日曜日に先発しては白星を重ねることから「サンデー兆治」と呼ばれた
1989年5月13日の対日本ハム戦で通算200勝を達成
この年、3度目の最優秀防御率のタイトルを獲得した
1990年に引退
22年の選手生活での通算成績は604試合に登板し、215勝177敗33セーブ、防御率3.24だった
通算148の暴投数は日本記録
その生きざまを表現した「昭和生まれの明治男」は1990年の新語・流行語大賞の特別部門人語一体・語録賞に選ばれた
引退後は解説者、評論家を経て1995年から3年間、ダイエー(現・ソフトバンク)の1軍投手コーチを務め、2005年に野球殿堂入り
野球を通しての離島振興をライフワークとし、離島の中学校による野球大会「離島甲子園」を開催
引退後も140キロの速球を投げていた
(この記事は、スポニチアネックスの記事で作りました)
1971年から力感あふれたダイナミックな「マサカリ投法」でパ・リーグを代表する投手に
1982年に右肘を故障し、1983年にトミー・ジョン手術を受け、1985年に「サンデー兆治」といわれる活躍でカムバック賞
40歳まで現役で通算215勝33セーブ
現役引退後も140キロの速球を投げ、2007年には135キロを計測
高齢になってもあまり衰えぬ驚異の速球を披露した
今年9月に逮捕の波乱の晩年


人生に、引退なし 65歳で140キロのストレートに挑む「肉体」と「心」の整え方
村田兆治さんは1990年に40歳で現役引退後の2007年に球速135キロを記録
村田兆治さんの「限界」に挑み続ける考え方に学ぶ