いわば初代・安打製造機
通算1000安打、2000安打の最年少到達者で、他に数々の高卒新人の記録を持っています
1955年に早実から毎日入り
139試合・592打席・490打数・24二塁打・7三塁打(タイ)、87四球・5敬遠・5犠飛・出塁率4割1分4厘はすべて高卒新人の歴代最高記録
打率2割9分8厘・67打点・232塁打・10死球は1986年に清原和博に破られるまで高卒新人の歴代最高記録だった
この年の新人王を獲得
そして新人にして安打製造機と呼ばれるようになります
1960年、1966年に2回の首位打者
1960年から1963年まで4年連続打率3割以上
1964年に打率2割9分8厘で僅かに3割を切る
榎本の打者としての評価は高い
同時代の強打者・張本勲は、榎本の打撃を高く評価している
同時代の投手たちも榎本の打撃を高く評価している
例えば、稲尾和久は、榎本を抑えるため、フォークボールを習得し、「榎本限定」でフォークボールを投げた
稲尾は、投げるのに苦労した打者に長嶋茂雄と榎本を挙げている
「打撃の神様」といわれた川上哲治は「打撃の神様の称号は自分ではなく、榎本の方がふさわしい」といったとされる
その実力を「長嶋(茂雄)を超える唯一の天才」とも
早実出身、荒川博を師としたことは、榎本は、王貞治と同じで、二人は選球眼のよさでも定評があったが、王より優れた選球眼とも
二人の師であった荒川博も榎本の打撃をより高く評価している
打撃に武道の要素を取り入れた点も共通している
野村克也は、「ささやき戦術」の全く通用しなかった代表に長嶋と榎本を挙げている
スポーツジャーナリストの二宮清純が、通算1000イニング以上投げた往年の投手たちへ、「最強打者は?」と質問したところ、最も多く返ってきたのが、榎本喜八だった
このように、榎本喜八は「最強打者」として恐れられた
打撃の神髄 榎本喜八伝 (講談社+α文庫)