2025年12月16日

12代にわたって繁栄した名家がある。彼らがお金を増やし続けた意外すぎる方法

「長者三代なし」
お金持ちの家が3代以上続くのは難しいという意味のこの言葉は、世界の歴史を見ても明らか
ルネサンス期を華々しく彩ったイタリアのメディチ家ですら、200年ほどの繁栄でその富を失っていったのである
しかし、世界にはごくわずかながら長い繁栄を誇った名家が存在する
300年もの長きにわたり富と名誉を守り続けた韓国の一族、慶州チェ氏
彼らは12代にわたって「1万石(現代の価値に換算すれば数十億円相当)の収入」を維持し、代々エリート官僚を輩出してきた家系だ


なぜ彼らは、乱世や政治的争い、経済危機といったあらゆる困難を乗り越え、富を途切れさせることがなかったのか? 
その秘密は、彼らの「6つの家訓」にあった
一見すると、お金とは無関係に見えるこの原則こそ、究極の「共存共栄のしくみ」
現代の投資家や資産家にも共通する「リスク回避」と「情報戦略」のエッセンスが詰まっているのだ
現役投資アナリストとして富裕層と接してきた執筆者が、その著書『投資家の母が20歳になった娘にどうしても伝えたいお金の話』の中で、名家に学ぶ「リスク」「守り」「集中投資」「情報」の4つの視点を解説する

■慶州チェ氏一族「6つの原則」

「長者三代なし」
お金持ちの家が3代以上続くのは難しいという意味の言葉だ
実際に世界史上で3代以上続いた裕福な一族はとても少ない
世界的に有名なイタリアのメディチ家も、200年ほどしか続かなかった

ところが、韓国の慶州チェ氏一族は、9代にわたって進士(難関を突破したエリート官僚)を輩出し、12代にわたって、1万石の収入を維持した 彼らはどのようにして300年も富を守ることができたのだろうか? 

チェ氏一族には、先祖代々家訓のように受け継がれる、6つの原則があったのだという

その1 進士以上の官職につかないこと
その2 1万石以上の財産をつくらないこと
その3 過客を丁重にもてなすこと
その4 凶作の年は他人の畑を買わないこと
その5 嫁いできた女性には、3年間木綿の服を着せること
その6 周辺の100里以内で飢え死ぬ人を出さないこと

■一見、不思議なルールにも合理的な理由が

なぜ凶作の年に他人の畑を買ってはいけないのだろうか?

調べてみたところ、凶作で飢え死にするほどの危機に襲われると、人々は苦肉の策として畑を売ってお米を買っていたのだけれど、当時、お米は貴重だったため、畑を二束三文で売る人が多かったという

お米を十分に蓄えている上流階級の人々にとって、凶作の年は畑を破格の値段で買い、財産を増やす絶好の機会だったのだ
ところが、チェ氏一族はそれを禁じた
畑を売りに出し、心に深い傷を負った人々のうらみを買えば、一族にとって決して得にならないと判断したのだ

それどころか、チェ氏一族は凶作になると、周辺の100里以内で飢え死にする人が出ないように、困っている人々に穀物を分け与えたという

100里は、kmで換算すると、約400kmという広大な範囲を指す
このように、自分たちだけでなく、まわりの人まで食べ物に困らずに暮らせなければ、長いあいだ一族を保つことはできないと考えたのだ

チェ氏一族が300年にわたって一族を守れたのは、自分たちだけが共存共栄の哲学を誰よりもうまく実践したからだろう

わたし自身がアナリストとしてお金持ちと接するなかで感じてきたことと、彼らの原則は、次のような共通点がある

■お金持ちに共通する「4つの視点」

1つ目、お金持ちは、リスクを文字どおりリスク(危険)ととらえる

投資の本のなかには、「リスクとリターン(収益)は表裏一体だ」というものがある
お金を稼ぐためには、ある程度のリスクを負わなければならないと
期待される収益が高いと、それだけリスクも高く、期待される収益が低いとリスクも低いというのだ
ところが、わたしが知っているお金持ちたちは、リスクとリターンの確率が同じくらいのときは、決して投資をしない
彼らは、じっとチャンスを待ち、リスクがほとんどなく、リターンが圧倒的に大きい商品にだけ投資をする

チェ氏一族が子孫に進士以上の官職につくのを禁じた理由もこれと似ている

高い地位につけばつくほど政治的な争いに巻き込まれる確率が高くなる
だから、一族が滅びてしまうことを大きなリスクだと考えたのだ

2つ目、お金持ちは、稼ぐよりも守るほうがより大事だと考える

すでにたくさんのお金を持っているのだから、稼ぐよりも資産を守るのは当然だと思うかもしれないけれど、それは誤解だ
もし、資産の価値が10%下がると、元の価値に戻すには、11%引き上げなければならない
そして、価値が50%下がると、元の価値に戻すにはその2倍(100%)引き上げなければならない

つまり、お金を失うのは一瞬だけれど、それを元に戻すのには相当な努力が必要だということをお金持ちは本能的に知っている
だから、守りをより重視するのだ

■旅人を手厚くもてなした「目からウロコの理由」

3つ目、お金持ちは、分散投資をしない

投資の世界でもっとも有名な格言の1つに「卵を1つのカゴに盛るな」というのがある
(中略)ところが、わたしが出会ったお金持ちは、意外にも分散投資をしていなかった
人間が理解できる情報にはかぎりがあるため、その範囲が広がると、理解が雑になり、失敗が増えやすい
だから、お金持ちは自分がよく知っている分野に集中して投資をし、よく知らない分野へは絶対に投資をしないの

4つ目、お金持ちは、なんでもないときにまわりの人によくご飯をおごる

彼らは本能的に、お金になる情報は人から人に伝えられるということを知っている
だから、まわりの人を大切にし、誰かから頼まれれば、できるだけ応えようとする

チェ氏一族の家訓も同じだ
昔は、旅人がその道中で、まったく面識がなくても、その土地の裕福な家の離れに、何日か寝泊まりさせてもらうことがよくあった
チェ氏一族は、そうして訪れた過客を丁重にもてなすことで有名だった

その時代の旅人は全国各地の情報をリアルタイムで伝達するメッセンジャーの役割を担っていたからだ
おかげで、一族はみずから全国を回らなくても、世の中の変化をいち早く知ることができた

(この記事は東洋経済オンラインの記事で作りました)

「長者三代なし」
お金持ちの家が3代以上続くのは難しいという意味のこの言葉は、世界の歴史を見ても明らか
ルネサンス期を華々しく彩ったイタリアのメディチ家ですら、200年ほどの繁栄でその富を失っていったのである
しかし、世界にはごくわずかながら長い繁栄を誇った名家が存在する
300年もの長きにわたり富と名誉を守り続けた韓国の一族、慶州チェ氏
彼らは12代にわたって「1万石(現代の価値に換算すれば数十億円相当)の収入」を維持し、代々エリート官僚を輩出してきた家系だ


なぜ彼らは、乱世や政治的争い、経済危機といったあらゆる困難を乗り越え、富を途切れさせることがなかったのか? 
その秘密は、彼らの「6つの家訓」にあった
一見すると、お金とは無関係に見えるこの原則こそ、究極の「共存共栄のしくみ」
現代の投資家や資産家にも共通する「リスク回避」と「情報戦略」のエッセンスが詰まっているのだ
現役投資アナリストとして富裕層と接してきた執筆者が、その著書『投資家の母が20歳になった娘にどうしても伝えたいお金の話』の中で、名家に学ぶ「リスク」「守り」「集中投資」「情報」の4つの視点を解説する


彼らは利益を独り占めしようとしない

共存共栄、人に恨みを買わないようにした

これらの考えは「世界3大商人」の「華僑」や商売上手な中国人にも通じると私は思った



投資家の母が20歳になった娘にどうしても伝えたいお金の話: 好きなことで生きて、一生困らず自由でいるために 単行本

「お金がなくても、幸せになれる」という言葉を、信じないでほしい
投資のプロとして何千人ものお金持ちを見てきた母によるテクニック以前の「お金の基本」
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2025年12月15日

『関羽も敗北』実は名将キラーだった?五将軍・楽進はここまで強かった!

名脇役・楽進の実像

三国時代は、曹操・劉備・孫権の三勢力が中原の覇権を争い、幾度となく激戦が繰り広げられた動乱の時代である

中でも魏と呉が激突した「合肥の戦い」は、三国史上屈指の攻防戦として語り継がれる

この戦いで最も名を挙げた武将として広く知られているのが、魏の名将・張遼(ちょうりょう)である

張遼の突撃は、後世まで武勇の象徴として称えられ、数多の物語やエンタメ作品でも圧倒的な存在感を放っている

しかし、歴史の陰には必ず主役を支えた名脇役がいる

張遼と共に合肥の防衛に身命を賭して尽力しながら、後世の物語では語られることの少なかった武将・楽進(がくしん)の実像に迫りたい


古参として曹操軍を支えた武将

楽進は、三国志を題材とした小説や漫画、映像作品などで、その名を知る読者も多い武将である

筆者のイメージとしては、合肥の戦いで名前を見たという程度の認識であり、『三国志演義』では楽進の一番の見せ場である合肥の戦いで甘寧の矢を受けて「大丈夫か?」と心配になりながらそのままフェードアウトしてしまった

ところが、正史『三國志』における楽進はまったく異なる

曹操軍の名将として「五将軍(五子良将)」の一人に数えられ、古参の部類に入る人物である

正史には正式な加入時期の明記は無いが、黄巾の乱には参加しておらず、董卓討伐連合の成立前後、すなわち190年前後に曹操の幕下に加わったと推測されている

当初は帳下の吏、すなわち記録係として従軍していた

その後、兵を募るために故郷へ戻されると、千人を超える兵を率いて帰還し、曹操を驚かせたと伝わる

この功績により武将へと抜擢され、軍の中で重要な役割を担うようになったのである

『演義』の被害者?奪われた楽進の手柄

楽進は小柄ながら胆力に優れ、常に先陣を切る勇将として知られている

呂布との「濮陽の戦い」では一番乗りの戦功を挙げ、曹操が出陣するたびに最前線へと駆けつけた

曹操軍の戦場には、常に楽進の姿があった

天下分け目の「官渡の戦い」では、逆転の決定打となった烏巣奇襲において、兵糧庫を守っていた淳于瓊(じゅんうけい)を討ち取る戦果を挙げており、正史にもはっきりと「斬紹將淳于瓊」と記されている

【原文】
渡河攻獲嘉,還,從擊袁紹於官渡,力戰,斬紹將淳于瓊。

【意訳】
楽進は軍を率いて河を渡り、獲嘉を攻め取った。
その後帰還して官渡で袁紹軍と戦い、激しい戦闘の末に 袁紹の将である淳于瓊を討ち取った。

三國志 卷17 魏書 樂進傳 より

だが『三国志演義』しか知らない読者であれば、ここに違和感を覚えるだろう

演義でも曹操は烏巣を急襲するが、その描写は正史と大きく異なる

演義における淳于瓊は酒に溺れ、酔い潰れて眠っていたため、不意を突かれて陥落する
捕らえられた後は耳や鼻(作品によっては指まで)を削がれ、失態の責任を問われて袁紹によって処刑されるという末路となっている

つまり、正史では「楽進が討ち取った武将・淳于瓊」が、演義では「酒に溺れ失態を犯した凡将」に変えられており、楽進の大きな戦功は物語から完全に消されてしまっているのだ

正史において確かな戦歴を残しながら、演義では活躍の大半を失った武将は少なくない

関羽のように正史の記述が少ない分、後世の物語で英雄視された例がある一方で、楽進のように確かな功績を持ちながら、物語上の役割によって存在感を削られる武将もいる

特に演義では魏が「悪役」として描かれる傾向が強く、魏の武将は意図的に活躍を抑えられたり、役割を変えられたりすることがある

官渡の戦いの時点で、すでに楽進はその「演義の被害者」としての側面を背負わされていたと言えるだろう

関羽に連勝!魏の軍神キラー

楽進の戦歴を辿ると、その活躍はまさに常勝将軍であった

呂布、袁紹、劉備、関羽、孫権といった名立たる武将の軍勢を相手にして、いずれの戦いにおいても勝利に大きく貢献している

名将たちとの対峙で結果を残したという事実だけでも、その卓越した軍才が十分に伝わってくる

ただし補足しておくと、楽進が打ち破ったのはそれぞれが率いる軍勢や、無名の将を撃破した結果としての勝利である

関羽に対する勝利も、演義に描かれるような壮絶な一騎打ちではなく、戦局を有利に進めた上で関羽軍を退けた、という形で語られている

演義では全く触れられない楽進と関羽の戦いについて、正史を追うとその輪郭が見えてくる

208年の荊州侵攻から、赤壁の戦いに至る曹操の南下に従った楽進は、荊州平定後も襄陽に留まり、関羽、蘇非らを撃破して追い払ったと記録されている

【原文】

後從平荆州,留屯襄陽,擊關羽、蘇非等,皆走之,南郡諸郡山谷蠻夷詣進降。又討劉備臨沮長杜普、旌陽長梁大,皆大破之。

【意訳】

その後、曹操が荊州を平定する際に従軍し、平定後も楽進は襄陽に駐屯した。
関羽、蘇非らを攻撃して撃退し、南郡各地の山間部に住む異民族(蛮族)が楽進に降伏した。
さらに、劉備が任命した臨沮県長の杜普、旌陽県長の梁大を討伐し、これを大いに破った。

『三國志』卷17 魏書 樂進傳より

しかし、その戦いの詳細は楽進伝には簡潔にしか記されておらず、どのような戦術、どのような規模の戦闘だったのか判然としない

一方、文聘(ぶんぺい)伝には、文聘と楽進が尋口で関羽の輜重(食料や武器等の物資)、軍船を焼いたと書かれており、楽進伝にはない具体的な戦果が描写されている

ただし、これが関羽を退けた戦いと同一であるかは明確ではない

また、後世の資料には、関羽と楽進が「青泥」で対峙していたと伝えるものが存在し、劉備が劉璋へ救援の必要性を訴えたとされる記述も見られる
正史に直接の記録は残っていないものの、当時の情勢や各伝の記述から判断すれば、楽進が複数回にわたり関羽と相対し、いずれも戦局を有利に運んでいたという評価は十分に成り立つだろう

曹操軍と劉備軍の兵力差を考えると、関羽にとって厳しい状況であった点は無視できないが、後世に「軍神」と称される関羽を相手に連戦連勝を収めた楽進は、まさに「軍神キラー」と呼ぶにふさわしい存在である

合肥防衛の立役者

前述したように『演義』では『正史』の活躍のほとんどがカットされているが、楽進を語る上で「合肥(がっぴ)の戦い」は欠かせない

合肥は、魏と呉の国境に位置する戦略上の最重要拠点であり、両国が長年にわたり争奪を繰り返した要衝である

この合肥を守るため、曹操は張遼・李典・楽進の三将に城の守備を任せた

やがて孫権が10万を号する大軍を率いて侵攻し、合肥城は包囲される
城を守る張遼・李典・楽進らの兵は約7000人のみで、兵力差は10倍以上に達していたと伝えられる

さらに三将は普段から折り合いが悪く、城内の空気は最悪で、落城は時間の問題と見られていた

しかし曹操はそれすら見越していた

出陣に際し、張遼・李典・楽進、そして護軍の薛悌(せつてい)に対し、呉軍来襲時に開封する密書を残していたのである

そこに記されていた指示は、「張遼・李典は出撃し、楽進は城を守れ」というものだった

当時、三将の不仲は周知の事実であり、総大将不在の状況では指揮系統の混乱が生じる危険があった

曹操はあらかじめ役割を分担させることで、電撃戦による主導権確保と籠城による持久戦の双方を成立させ、自身の援軍が到着するまで合肥を維持できる体制を整えたのである

張遼は夜のうちに精鋭800を募り、牛を屠って将兵を慰労すると、翌朝自ら甲冑をまとって先頭に立ち、孫権の本陣へ突撃した

少数で敵中に突入し、孫権の目前に迫って多くの兵を斬り伏せたこの電撃戦により、呉軍は大きく動揺し、以後の攻勢に陰りが生じた

李典も張遼の出撃に同調し、「国家の大事にあたっては計略こそ重く、私怨を持ち込むべきではない」と述べて合戦に加わっている

一方、楽進は曹操の命令どおり城の防衛にあたり、薛悌とともに守備側の中核を担った

その後、孫権が合肥を攻めあぐねて撤退を開始すると、張遼は諸軍を率いてこれを追撃し、孫権を捕らえかけるほどの戦果を挙げた

この追撃戦にも楽進は加わっており、合肥防衛における重要な役割を果たしたことがわかる

なお、小説『三国志演義』やドラマ作品では、この合肥の攻防がより劇的に脚色されている

例えば、楽進が張遼とともに出撃して橋を破壊し退路を断つ場面や、呉将・凌統との一騎打ちの最中に甘寧の矢を顔に受けて、以後は登場しなくなる展開などは、いずれも物語側の創作であり、正史の記述とは異なる

正史の楽進は、その後も軍功を重ね、合肥の戦いから3年後の建安23年(218年)に没しているため、少なくとも合肥で戦死したわけではない

語り継がれるべき名将キラー

このように、楽進の史実における評価は極めて高い

張遼・于禁・張郃・徐晃と並んで「五将軍(五子良将)」の一人に数えられ、曹操軍の中でも指折りの名将として名を残している

楽進は魏が正式に建国される220年より前に亡くなっており、厳密には三国時代を迎えることなく世を去ったが、その功績が霞むことはなかった

関羽を含む名将達との戦いで幾度も勝利し、戦局を左右する役割を担い続けた楽進の生涯は、まさに「軍神キラー」「名将キラー」と呼ぶにふさわしい

歴史の陰に埋もれがちだが、その名と功績は、もっと広く語り継がれるべきである

参考 :
陳寿『三國志』張樂于張徐傳、臧覇・文聘伝
裴松之注『三國志集解』他
文 / mattyoukilis 校正 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

関羽は横浜中華街の関帝廟、呂布の後で名馬・赤兎馬にまたがった、三国志演義の影響もあり、三国志でも人気の高い武将だ

一方、楽進はフィクションも交えた「三国志演義」では過小評価されているが正史の「三国志」では評価も高い


名脇役・楽進の実像

三国時代は、曹操・劉備・孫権の三勢力が中原の覇権を争い、幾度となく激戦が繰り広げられた動乱の時代である

中でも魏と呉が激突した「合肥の戦い」は、三国史上屈指の攻防戦として語り継がれる

この戦いで最も名を挙げた武将として広く知られているのが、魏の名将・張遼(ちょうりょう)である

張遼の突撃は、後世まで武勇の象徴として称えられ、数多の物語やエンタメ作品でも圧倒的な存在感を放っている

しかし、歴史の陰には必ず主役を支えた名脇役がいる


語り継がれるべき名将キラー

楽進の史実における評価は極めて高い

張遼・于禁・張郃・徐晃と並んで「五将軍(五子良将)」の一人に数えられ、曹操軍の中でも指折りの名将として名を残している

楽進は魏が正式に建国される220年より前に亡くなっており、厳密には三国時代を迎えることなく世を去ったが、その功績が霞むことはなかった

関羽を含む名将達との戦いで幾度も勝利し、戦局を左右する役割を担い続けた楽進の生涯は、まさに「軍神キラー」「名将キラー」と呼ぶにふさわしい

歴史の陰に埋もれがちだが、その名と功績は、もっと広く語り継がれるべきである



眠れなくなるほど面白い 図解 三国志 単行本(ソフトカバー)

魏・蜀・呉、三国の興亡を描いた『三国志』には、「桃園の誓い」「三顧の礼」「出師の表」「泣いて馬謖を斬る」など心打つ名場面、また「水魚の交わり」「苦肉の策」「背水の陣」「髀肉の嘆」など名言や現代にも通じる格言も数多く登場する
また、曹操、劉備、孫権、孔明、関羽、張飛、趙雲、周瑜、司馬懿など個性豊かで魅力的な登場人物に加え、官渡の戦い、赤壁の戦い、五丈原の戦い等、歴史上重要な合戦も多い
英雄たちの激闘の系譜、名場面・名言が図解でコンパクトにすっきりわかる『三国志』の決定版!
長い中国史で「三国志」の時代はわずかだ
しかしこの時代は個性的、魅力的人物が多く登場した
posted by june at 03:43| Comment(0) | ニュース | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2025年12月14日

20年で1000人の男性と関係を持った?千人斬り芸者・松の門三艸子の伝説

「千人斬り」という言葉は、もともとは願掛けや腕試しとして「千人を斬る」という意味で使われていた表現です

やがて意味が変化し「1000人の異性と関係を持った」という俗語として広まり、どちらかといえば男性の豪快さを示すものとして語られてきました

ところが、幕末から大正にかけての激動の時代、わずか20年間で「千人斬り」をしたという伝説を持つ女性がいました

美貌の歌人であり、深川で人気を集めた芸者・松の門三艸子(まつのとみさこ) です

彼女は一体どんな人生を歩んだのでしょうか
そして、本当に「千人斬り」をしたのでしょうか


幼い頃から輝くような美貌の小町娘だった

松の門三艸子(まつのとみさこ/松野門・松乃門とも)は、天保3年(1832)3月3日、江戸下谷数寄屋町(現在の台東区上野)に生まれました

名主の家(貸金業の家とする説もあります)の娘として育ち、本名は小川みさといいます

幼い頃から美しい容姿で、近所でも評判だったそうです

その美しさゆえか、わずか13歳で富豪・辻川長之助という人物に嫁ぎます

ところが、夫の女遊びに耐えきれず、15歳の頃離婚してしまいました(夫の死亡説も)

その後、観世流能楽家の山階滝五郎に出会い、嘉永2年(1849)頃、妊娠して未婚のままで出産

赤ん坊は、子のなかった山階家に引き取られました

滝五郎は、のちに能の名人といわれた初代・梅若実を育てるなどをし、能楽家として活躍したそうです

美人で剣術もできる“やっとう芸者”

その後、三艸子(みさこ)は幕末に活躍した歌人・国学者・医師の井上文雄(号・柯堂)に弟子入りしました

柯堂の門下には、三艸子のほかにも才色兼備で知られる内弟子がおり、二人は並び称されるほど注目され、「柯堂門の桜桃」と呼ばれるようになります

ところが実家の商売が立ちいかなくなり、さらに火事の被害が重なって家は没落します

そこで親兄弟を助けるため(諸説あり)、三艸子は「小川屋小三」と名乗り、深川で芸者として働くようになりました

※なお、小三と名乗っていた時期の出来事についても、本文中では統一して「三艸子」と記述します

この頃、同じ柯堂門下で三艸子に想いを寄せていた、因州池田家32万石の祐筆係・近藤栄治郎から求婚を受けたものの、それを断ったといわれています

三艸子(小三)は、持ち前の美貌の上に歌人として活躍するほど頭もよく、男まさりな性格で、あっという間に売れっ子になりました

さらに、剣術にも秀でていたと伝えられています

千葉周作が創始した北辰一刀流を学び、「免許皆伝になった」という逸話もあり、当時は「やっとう芸者」と呼ばれて話題を集めました

彼女が鉢巻を締めて剣を持ったり、馬に乗ったりする姿は錦絵に描かれ、たいそう評判になったそうです

もともと深川芸者は、土地柄から職人や商人などの客が多かったために、吉原の芸者とは異なり“勇み肌で粋でいなせ”なのが特徴だったとか

深川芸者は、当時、女性は着なかった「羽織」を着るので「羽織芸者」という呼び方もされていました

そのような環境は、三艸子の性格に合っていたのでしょう

まるでドラマのような豪胆なエピソード

豪胆な性格の三艸子は、さまざまなエピソードを残しています

どこまでが事実で、どこからが噂なのかははっきりしませんが、どの話も思わず物語にしたくなるような、痛快で男前な内容ばかりです

その一部をご紹介します

水戸藩士たちに物申す

料亭の座敷で、水戸藩士(のちの水戸藩天狗党)たちが宴を行ったときのこと

座敷にいた芸者たちは、乱痴気騒ぎにたまりかねて皆逃げ出しました

しかし、残った三艸子は藩士らに「刀をしまえ」と告げます

「芸者風情が!」と怒る藩士たちに脅された三艸子は、臆することなく歌を詠みました

たらちねの 親の許しし敷島の 道よりほかに 道ゆくぞなき

(親から教わった誇りある大和の道を踏み外す気はない。どんな状況でも、人として守るべき筋は通す)

この時、場を収めようと割って入ったのが、のちに天狗党の首領となる武田耕雲斎だったといわれます

耕雲斎は、この胆力ある三艸子に強く惹かれ、後日、舟に呼び出して刀を抜き、自分の想いを受け止めるよう迫りました

しかし、三艸子はまったく応じる気はなく、結局二人は酒を酌み交わすだけで終わりました

さらに、耕雲斎が大きな盃に小判を沈めて酒を注ぎ、三艸子に差し出すと、彼女は一息で飲み干し、盃の小判をそのまま海へ投げ捨てた・・・という豪快な逸話も残っています

殿様からの小判100枚を大盤振る舞い

贔屓筋の客である土佐藩主・山内豊信の座敷での出来事です

三艸子が仕立てたばかりの三階松を染めた紋付を着ていたところ、山内は「好きな男の紋でも着ているのか?」と揶揄するような言葉を投げかけました

しかし三階松は、三艸子の実家の家紋でした

侮辱と受け取った三艸子は腹を立て、紋をハサミで切り取り庭へ投げ捨て、残りの着物を女中に「これは前掛けにでもしなさい」と渡してしまいます

さらに、

「たとえ想う相手から贈られたものであっても、芸者の意地にかけて殿様の座敷に着て上がるはずがありません!」

と啖呵を切ったのです

さすがに山内豊信も「悪かった」と詫び、なんと小判100枚を差し出しました

しかし三艸子は、それをすべて従業員や女中にばら撒き、大盤振る舞いしたのです

この剛気な事件は「深川紋切り事件」と呼ばれ、「紋切り芸者・小三大明神」という題の瓦版まで出回るほどの評判になりました

美貌に加えて、気っぷのよさと潔さを持ち合わせた三艸子は、男にも女にも惚れられる存在だったでしょう

接客業と歌の師匠の二枚看板で活躍

三艸子は売れっ子芸者として活躍する一方で、自作の歌が歌集に撰歌されるなど、歌人としての活動も続けていました

そして30代半ばになる頃、芸者を引退し、髷を落として松の門三艸子(まつのとみさこ)と号し、本格的に歌の道へ進むことになります

深川には座敷をいくつも備えた家を新築し、歌を教える場として用いるほか、部屋を待合として貸し出すなど、元売れっ子芸者としての接客と歌の師匠、二つの看板で事業を営みました

その歌塾は名家の夫人や、粋筋の芸者たちでにぎわったといわれています

では、彼女が「千人斬り」と呼ばれるようになったのはなぜでしょうか

13歳で結婚し、芸者として、そして歌人として、多くの男性から言い寄られる存在であったことは事実ですが、もちろん、千人に達するような人数ではありません

この伝説の背景には、かつて三艸子に求婚して断られた、近藤栄治郎の存在があったとされています

のちに夜雪庵金羅(やせつあん きんら)の号で東京の人気俳人となった彼は、三艸子が二枚看板で事業を軌道に乗せていた頃に再会し、再び心を寄せました

しかし三艸子は、一時は彼に寄り添うように見せたものの、ある時突然「男絶ち」を宣言し、すべての関係を断ってしまったのです

「千人斬りの芸者」伝説が誕生

昔から三艸子を見守っていた近藤栄治郎は、芸者として一時代を築いた三艸子が「女を引退する」のは惜しいと考えました

そこで「千人斬りを成就したことにして盛大に祝おう。人気芸者としての花道にしよう」と提案したといいます

当時、「千人斬りを達成した女性は、心願がかなって菩薩になる」という俗説がありました

今まで三艸子が関係を持った旦那衆や殿様の数を数えると、ちょうど10人だったといいます

そこで栄治郎は、「十という字に、斜めの一本線(ノ)を加えると“千”の字になる」と言い出しました
自分をその一本として加えれば、千人斬りが完成するという洒落です

そして、小三の引退と新たな門出を祝う宴が催され、「千人斬り達成」を宣言したのです

集まった馴染み客たちも、「この人なら本当にやりかねない」と洒落に乗って楽しんだのかもしれません

この噂は尾ひれをつけながら広まり、三艸子は次第に「千人斬りの芸者」として伝説的存在になっていきました

直接会ったことのない人々も、錦絵や豪胆な逸話を通じて語り継ぎ、知らぬ間に「本当に千人を斬った」と信じられていったのでしょう

三艸子は76歳のとき、記者の取材に対して

「年を取るのはきらい。77歳になるので、17の祝いとでも名付けましょう」

と笑って答えたと伝えられています

松の門三艸子は、大正3年8月22日に没しました
享年83

三艸子が残した句

「永き世の 夢のさめたる 心地して 今ぞ誠の うつつなりけり」

三艸子が晩年に詠んだと伝わる一句です

彼女は、美貌と勝ち気な性格を武器に、大名から幕末の志士まで幅広い客を相手にし、深川随一の人気芸者として名を馳せました

しかし、この一句からは、長い夢の舞台を終え、ようやく自分本来の姿に戻ったような静かな安堵の気配も感じられます

波乱に満ちた人生を歩んだ女性の、穏やかな余韻を残す一句といえるのではないでしょうか

参考:
『悲願千人斬の女』小沢信男
『戦前エキセントリックウーマン列伝』平山亜佐子
文 / 桃配伝子 校正 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

「千人斬り」という言葉は、もともとは願掛けや腕試しとして「千人を斬る」という意味で使われていた表現です

やがて意味が変化し「1000人の異性と関係を持った」という俗語として広まり、どちらかといえば男性の豪快さを示すものとして語られてきました

ところが、幕末から大正にかけての激動の時代、わずか20年間で「千人斬り」をしたという伝説を持つ女性がいました

美貌の歌人であり、深川で人気を集めた芸者・松の門三艸子(まつのとみさこ) です


彼女が「千人斬り」と呼ばれるようになったのはなぜでしょうか

13歳で結婚し、芸者として、そして歌人として、多くの男性から言い寄られる存在であったことは事実ですが、もちろん、千人に達するような人数ではありません

この伝説の背景には、かつて三艸子に求婚して断られた、近藤栄治郎の存在があったとされています

のちに夜雪庵金羅(やせつあん きんら)の号で東京の人気俳人となった彼は、三艸子が二枚看板で事業を軌道に乗せていた頃に再会し、再び心を寄せました

しかし三艸子は、一時は彼に寄り添うように見せたものの、ある時突然「男絶ち」を宣言し、すべての関係を断ってしまったのです

「千人斬りの芸者」伝説が誕生

昔から三艸子を見守っていた近藤栄治郎は、芸者として一時代を築いた三艸子が「女を引退する」のは惜しいと考えました

そこで「千人斬りを成就したことにして盛大に祝おう。人気芸者としての花道にしよう」と提案したといいます

当時、「千人斬りを達成した女性は、心願がかなって菩薩になる」という俗説がありました

今まで三艸子が関係を持った旦那衆や殿様の数を数えると、ちょうど10人だったといいます

そこで栄治郎は、「十という字に、斜めの一本線(ノ)を加えると“千”の字になる」と言い出しました
自分をその一本として加えれば、千人斬りが完成するという洒落です

そして、小三の引退と新たな門出を祝う宴が催され、「千人斬り達成」を宣言したのです

集まった馴染み客たちも、「この人なら本当にやりかねない」と洒落に乗って楽しんだのかもしれません

この噂は尾ひれをつけながら広まり、三艸子は次第に「千人斬りの芸者」として伝説的存在になっていきました

直接会ったことのない人々も、錦絵や豪胆な逸話を通じて語り継ぎ、知らぬ間に「本当に千人を斬った」と信じられていったのでしょう

三艸子は76歳のとき、記者の取材に対して

「年を取るのはきらい。77歳になるので、17の祝いとでも名付けましょう」

と笑って答えたと伝えられています

松の門三艸子は、大正3年8月22日に没しました
享年83

三艸子が残した句

「永き世の 夢のさめたる 心地して 今ぞ誠の うつつなりけり」

三艸子が晩年に詠んだと伝わる一句です

彼女は、美貌と勝ち気な性格を武器に、大名から幕末の志士まで幅広い客を相手にし、深川随一の人気芸者として名を馳せました

しかし、この一句からは、長い夢の舞台を終え、ようやく自分本来の姿に戻ったような静かな安堵の気配も感じられます

波乱に満ちた人生を歩んだ女性の、穏やかな余韻を残す一句といえるのではないでしょうか




戦前 エキセントリックウーマン列伝 単行本(ソフトカバー)

〈偉業〉と〈異業〉を成し遂げた、戦前の女20人
戦前にある意味「豪快」でエキセントリックな女性たち・・・
物議騒然・不撓不屈・大胆不敵!!
明治、大正、昭和初期
女性にとって今よりもはるかに抑圧の多かった時代にも、自分の心の声に従って生きたエキセントリックな女たちがいた!
「個性的」という言葉すら生ぬるい女たちの生き様を、愛を込めて描く傑作ノンフィクション
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2025年12月13日

秦の始皇帝が死ぬ直前に起こった「3つの奇妙な出来事」

始皇帝が亡くなる直前に起きた奇妙な出来事

秦の始皇帝・嬴政は、戦国七雄が割拠していた混乱の時代を終わらせ、初めて中華全土を統一した人物である

強大な軍事力と徹底した中央集権体制を築き、法と秩序による巨大帝国を作り上げた

彼が実施した度量衡の統一、郡県制の導入、道路や運河の大規模整備は、その後二千年以上続く中国王朝支配の基盤となった

まさに「千古一帝」と称されるにふさわしい存在である

しかし、その輝かしい統一の裏側で、晩年の始皇帝は深い不安にとらわれていた

若い頃から暗殺未遂に遭い続け、統一後は反乱の兆しや民衆の怨嗟が高まり、帝国は内部に不穏な空気を抱え始めていた

そして何より、始皇帝自身が最も恐れたものは「死」であった

不老不死への執着から、徐福をはじめ盧生・侯生ら多くの方士を信頼し、仙薬を求めて海へ船団を送り出した

また、統一国家の威信を示すため、広大な領内の巡行を繰り返した

統一後の11年間で始皇帝は5度の巡行に出発し、封禅や地方視察を行い、各地に石碑を建てて皇帝の権力を示した

しかし晩年になるにつれ、巡行は単なる政治儀礼にとどまらず、神仙が住むと信じられた名山大川を訪ね、長生の道を求める目的を帯びるようになったと考えられている

そのころ、秦帝国の周囲で不可解な出来事が相次いだという

それはまるで、帝国の崩壊と皇帝の死を告げるかのようであり、後世から見れば秦の滅亡を象徴する不気味な前触れだったともいえる

始皇帝の崩御直前に起きたとされる3つの奇妙な出来事について、正史『史記・秦始皇本紀』に記録された史料を中心に追っていく

なお、一部に後世の伝承や解釈が交錯するが、史書が残した核心部分から、その意味を探ることにする


奇妙な出来事その1 〜天に現れた凶兆「熒惑守心」

始皇帝が崩御する前年、紀元前211年

秦帝国の上空で、古代人にとって最も不吉とされた天文現象「熒惑守心(けいこくしゅしん)」が観測されたという

「熒惑(けいこく)」とは火星の古称で、赤く揺らめく光が火のようであり、運行が不規則で、人心を惑わす存在と考えられた

古代中国では火星は戦乱、死、不幸を象徴する星とされ、「罰星」「刑星」とも呼ばれた

一方、「心」は二十八宿のひとつ、心宿のことで、古来より帝王の象徴とされてきた星座である
(※二十八宿とは、天球を二十八の区画に分け、運命や政治の吉凶を占った星座体系)

この心宿に火星が侵入し、長く留まる現象が「熒惑守心」であり、帝王の死や王朝の滅亡を暗示する凶兆とされた

『史記』には、この天象が秦始皇36年に出現したと記されている

三十六年,熒惑守心。

意訳 : 始皇帝36年(紀元前211年)、火星が心宿に侵入して長く留まるという、極めて不吉な天文現象「熒惑守心」が起こった。

『史記・秦始皇本紀』より

当時の人々は、天と人の運命は連動すると信じていた

天変地異は単なる自然現象ではなく、政治の乱れや帝王の過ちを警告する天意として受け取られたのである
そのため、この天象の出現は、宮廷の内外に強烈な不安をもたらしたと考えられる

現代の天文学から見れば、火星が逆行したり留まるように見える動きは周期的に起こる自然現象であり、特別な意味を持つものではない

しかし、その兆しは秦帝国にとって、単なる偶然として片づけることのできない現実であった

統一以降、苛酷な労役と重税によって民の不満は各地で鬱積し、「天下苦秦久矣(天下の人々は秦の圧政に長く苦しんできた)」という声が広がりつつあったのである

そんな時期に、「帝王の死」という象徴を帯びた熒惑守心が現れた

これは、始皇帝にも大きな衝撃を与えたはずである

奇妙な出来事その2 〜隕石に刻まれた言葉

天象異変「熒惑守心」の直後、さらに不可解な出来事が続いた

東郡に巨大な光の尾を引く星が落下し、地面に激突して石となったという

現代の視点から見れば隕石落下と考えられる現象であるが、当時は天からの重大な兆しとして捉えられた

そして落下地点の住民の誰かが、その石に不吉な一句を刻んだ

「始皇帝死而地分(始皇帝が死ねば天下は分裂する)」

この刻文は、帝国の行く末を断じるかのような予言であり、始皇帝を激しく動揺させた

有墜星下東郡,至地為石,黔首或刻其石曰「始皇帝死而地分」。
始皇聞之,遣御史逐問,莫服,盡取石旁居人誅之,因燔銷其石。

意訳 : 東郡に流星が落ち、石へと変化した。
里の人々の誰かがその石に「始皇帝が死ねば天下は分裂する」と刻んだ。
始皇帝はこれを聞き、御史に調査を命じたが、誰も認めなかった。
そのため皇帝は石の周囲に住む者を全員誅殺させ、石を焼いて形が失われるまで破壊させた。

『史記・秦始皇本紀』より

秦による統一は歴史的偉業であったが、重税と労役により、六国旧民の憎悪は深く積もっていた

「始皇帝死而地分」という言葉は、民衆の怨嗟と願望であり、極めて政治的なメッセージであったと見られている

始皇帝は迷信よりも、この言葉が反乱の火種となることを恐れた

そのため、刻字の真相を明らかにすることよりも、証拠を隠滅し関係者を殲滅したのである

奇妙な出来事その3 〜謎の黒衣の男の発言

隕石の刻字事件から間を置かず、さらに奇妙な出来事が起こった

関東からの帰途にあった使者が華陰の平舒道を夜に通行していた際、闇の中から謎の黒衣の男が現れ、道をふさぐように立ちはだかったのである

黒衣の男は、手にしていた玉璧を差し出し、静かに言った

「これを滈池君に渡せ」(※滈池君とは、咸陽宮にある滈池にちなむ称で、始皇帝を指す呼び名)

そして男は、使者を見据え、不気味な一言を告げた

「今年、祖龍死(今年、始皇帝は死ぬ)」

使者が思わず理由を尋ねた瞬間、男の姿は霧のように消え去り、手元には玉璧だけが残ったという

秋,使者從關東夜過華陰平舒道,有人持璧遮使者曰:「為吾遺滈池君。」因言曰:「今年祖龍死。」使者問其故,因忽不見,置其璧去。

使者奉璧具以聞。始皇默然良久,曰:「山鬼固不過知一歲事也。」退言曰:「祖龍者,人之先也。」使御府視璧,乃二十八年行渡江所沈璧也。

意訳 : 秋、使者が夜間に華陰の平舒道を通過した際、玉璧を持つ人物に行く手を遮られた。
その男は「今年、祖龍死」と言い残し、姿を消した。

使者の報告を聞いた始皇帝はしばらく沈黙し、「山の怪しいものに分かることなど、せいぜい一年先のことにすぎぬ」と言ったものの、御府に調べさせたところ、その玉璧は始皇帝28年の渡江時に水中へ沈めた供物であることが判明した。

『史記・秦始皇本紀』より

黒衣の男が何者であったのか、史書は一切触れていない

玉璧がどのように川底から戻り、その人物の手に渡ったのかも謎のままである

始皇帝は表面上は冷静を装ったが、報告を受けた直後に占いを行わせ、その結果は「游徙吉」と出た

「游徙」とは移動・移住を意味し、「吉」は文字通り、それが凶を避ける手段であると示す占兆である

この占いに従い、始皇帝は三万戸の民を強制移住させ、災いを避けようとした

さらに、自らも改めて巡行に出ることを決断したが、これが人生最後の旅となった

秦始皇三十七年(紀元前210年)、第五次巡行の途上、秦始皇は病に倒れ、沙丘で崩御したのである

天意か人心か 〜秦帝国の崩壊

秦始皇を襲った3つの奇妙な出来事は、後世の人々に長く語り継がれた

これらは迷信として片づけることも、反秦勢力による政治的扇動と解釈することもできる
しかし秦帝国が崩壊へ向かう気配は、確かにこの頃から濃く漂い始めていたのである

始皇帝の死後、帝国は急速に崩れ、反乱の炎は広がった

陳勝・呉広の蜂起を皮切りに反乱が連鎖し、各地の民衆と旧六国勢力が次々と立ち上がった

やがて主導権は項羽と劉邦の二人へ移り、激しい楚漢戦争の末、劉邦が勝利し、前202年に漢王朝が成立する

始皇帝が築いた大帝国は、統一からわずか15年で幕を下ろしたのである

奇妙な出来事が本当に天意の示唆であったのか、あるいは人心の反映であったのか
答えは容易ではない

しかし史家たちや民間伝承は、帝国の転換点に人々が見た「予兆」を後世に伝えた

それは、栄光と崩壊が紙一重であることを静かに告げる、冷徹な警鐘であったのかもしれない

参考 : 司馬遷『史記』「秦始皇本紀」班固『漢書』「五行志」他
文 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

始皇帝が亡くなる直前に起きた奇妙な出来事

秦の始皇帝・嬴政は、戦国七雄が割拠していた混乱の時代を終わらせ、初めて中華全土を統一した人物である

強大な軍事力と徹底した中央集権体制を築き、法と秩序による巨大帝国を作り上げた

彼が実施した度量衡の統一、郡県制の導入、道路や運河の大規模整備は、その後二千年以上続く中国王朝支配の基盤となった

まさに「千古一帝」と称されるにふさわしい存在である

しかし、その輝かしい統一の裏側で、晩年の始皇帝は深い不安にとらわれていた

若い頃から暗殺未遂に遭い続け、統一後は反乱の兆しや民衆の怨嗟が高まり、帝国は内部に不穏な空気を抱え始めていた

そして何より、始皇帝自身が最も恐れたものは「死」であった

不老不死への執着から、徐福をはじめ盧生・侯生ら多くの方士を信頼し、仙薬を求めて海へ船団を送り出した

また、統一国家の威信を示すため、広大な領内の巡行を繰り返した

統一後の11年間で始皇帝は5度の巡行に出発し、封禅や地方視察を行い、各地に石碑を建てて皇帝の権力を示した

しかし晩年になるにつれ、巡行は単なる政治儀礼にとどまらず、神仙が住むと信じられた名山大川を訪ね、長生の道を求める目的を帯びるようになったと考えられている

そのころ、秦帝国の周囲で不可解な出来事が相次いだという

それはまるで、帝国の崩壊と皇帝の死を告げるかのようであり、後世から見れば秦の滅亡を象徴する不気味な前触れだったともいえる


天意か人心か 〜秦帝国の崩壊

秦始皇を襲った3つの奇妙な出来事は、後世の人々に長く語り継がれた

これらは迷信として片づけることも、反秦勢力による政治的扇動と解釈することもできる
しかし秦帝国が崩壊へ向かう気配は、確かにこの頃から濃く漂い始めていたのである

始皇帝の死後、帝国は急速に崩れ、反乱の炎は広がった

陳勝・呉広の蜂起を皮切りに反乱が連鎖し、各地の民衆と旧六国勢力が次々と立ち上がった

やがて主導権は項羽と劉邦の二人へ移り、激しい楚漢戦争の末、劉邦が勝利し、前202年に漢王朝が成立する

始皇帝が築いた大帝国は、統一からわずか15年で幕を下ろしたのである

奇妙な出来事が本当に天意の示唆であったのか、あるいは人心の反映であったのか
答えは容易ではない

しかし史家たちや民間伝承は、帝国の転換点に人々が見た「予兆」を後世に伝えた

それは、栄光と崩壊が紙一重であることを静かに告げる、冷徹な警鐘であったのかもしれない

始皇帝は皇帝を中国で初めて名乗り、仙薬、不老不死を求めたり、兵馬俑、万里の長城を築いていった興味深い人物です




眠れなくなるほど面白い 図解 始皇帝の話: 中国統一という偉業を成し遂げた 始皇帝の実像に迫る! 単行本

始皇帝は、史上初めて中国を統一した
中国で皇帝を最初に名乗った
あの精巧で緻密な兵馬俑を作り、歴代王朝へ引き継がれた万里の長城を作り始め、不老不死の仙薬を求めた興味深い人物の実像に迫る
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2025年12月12日

アマゾン川の地下にはもう一つ巨大な河があるってホント?

地球上で起きていること、どれだけわかる?

私たちが日常的に当たり前だと感じていることでも、あまり意識していないことや、知っているようで知らないことってありますよね
そんな地球に生きる私たちが知っておきたい「理系雑学」をご紹介します
太陽系を含む地球の歴史から、大自然や気候、動植物、資源など、地球にまつわるさまざまな疑問をスッキリ解説!

あらためて考えると、私たちはこの地球について、実はほとんど知らないのかもしれません

※本記事は雑学総研著の書籍『人類なら知っておきたい 地球の雑学』から一部抜粋・編集しました

アマゾン川の地下にはもう一つ巨大な河がある!?

アンデス山脈に源流を発し、南米大陸を横断して大西洋に注ぐアマゾン川
長さは6516キロメートルでナイル川に次ぐ世界2位だが、流域面積は705万平方キロメートルにもおよぶ世界1位の大河である

このアマゾン川の地下には、なんと全長およそ6000キロメートルにもなるもう一つの大河が流れているという

この川の存在を2011年に発表したのは、ブラジル国立天文台である
地下約2000~4000メートルの深さを流れるこの川は、アマゾン川とほぼ同じように西から東に流れているが水系は別で、地下深くで海に注ぎ込んでいる

しかも川幅は200~400キロメートルもあるという
アマゾン川の川幅が場所によって1~100キロメートルであることと比較しても、その川の巨大さがわかるだろう
だが、地層のあいだを土砂混じりで流れているため、水流の速度は非常に遅く、1年で10~1000メートルしか進まないそうだ

研究者らは、アマゾン地方で地下原油を探していたブラジル石油公社が1970~80年代に掘削した241本の井戸の温度データや地下水の動きを調査して、この地下大河が存在するという結論に達した


そしてこの地下大河は、発見者であるハンザ博士の名にちなんでハンザ川と名づけられた

かねてから、アマゾン地方の地下には大量の水があると考えられていたが、ハンザ川の存在によってこれが確認できた
アマゾン川の河口付近の海水は塩分濃度が低いが、これもハンザ川が注ぎ込んでいるためだと考えられている

著=雑学総研/『人類なら知っておきたい 地球の雑学』

(この記事はレタスクラブの記事で作りました)

アマゾン川の地下にはもう一つ巨大な河がある!?

アマゾン川は流域面積がダントツの世界1の大きさの大河といわれ、まるで海のようだといわれるところも・・・

そんなアマゾン川の地下にアマゾン川をはるかに凌ぐ長さと流域面積の大河があるとは驚きですね

地球の凄さ、ロマンなどを感じます

アンデス山脈に源流を発し、南米大陸を横断して大西洋に注ぐアマゾン川
長さは6516キロメートルでナイル川に次ぐ世界2位だが、流域面積は705万平方キロメートルにもおよぶ世界1位の大河である

このアマゾン川の地下には、なんと全長およそ6000キロメートルにもなるもう一つの大河が流れているという

この川の存在を2011年に発表したのは、ブラジル国立天文台である
地下約2000~4000メートルの深さを流れるこの川は、アマゾン川とほぼ同じように西から東に流れているが水系は別で、地下深くで海に注ぎ込んでいる

しかも川幅は200~400キロメートルもあるという
アマゾン川の川幅が場所によって1~100キロメートルであることと比較しても、その川の巨大さがわかるだろう
だが、地層のあいだを土砂混じりで流れているため、水流の速度は非常に遅く、1年で10~1000メートルしか進まないそうだ

研究者らは、アマゾン地方で地下原油を探していたブラジル石油公社が1970~80年代に掘削した241本の井戸の温度データや地下水の動きを調査して、この地下大河が存在するという結論に達した


そしてこの地下大河は、発見者であるハンザ博士の名にちなんでハンザ川と名づけられた

かねてから、アマゾン地方の地下には大量の水があると考えられていたが、ハンザ川の存在によってこれが確認できた
アマゾン川の河口付近の海水は塩分濃度が低いが、これもハンザ川が注ぎ込んでいるためだと考えられている



人類なら知っておきたい 地球の雑学 (中経の文庫) Kindle版

地球(を含めた宇宙)には謎や不思議、ギモンが多くあります
空はなぜ青く、夕焼けは赤いのだろうか!?とか・・・
そんな「理系雑学」を楽しくわかりやすく解説
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2025年12月11日

なぜ中国は台湾統一に執着するのか?歴史から読み解く「易姓革命」と「天命」の呪縛

最近、ニュースでは「台湾有事」「中国による台湾侵攻」という言葉を多く耳にします

多くの専門家は、中国が台湾統一を狙う理由をこう説明しています

「世界最先端の半導体産業を確保するため」「太平洋進出のための戦略的拠点を必要としているため」

確かに現代の地政学的・経済的な視点から見れば、十分に理解できる理由です

しかし、ここで一つの疑問が生まれます

もし経済的・軍事的な利得こそが主たる動機であるのなら、なぜ中国共産党(中華人民共和国)は、台湾が当時まだ貧しい農業地域にすぎなかった1949年の建国直後から、一貫して強い執着を示し続けてきたのでしょうか

この点を理解するためには、現代的な損得勘定(合理性)だけではなく、中国の歴史原理にも目を向ける必要があるでしょう

その鍵となる概念が「易姓革命」と「天命思想」です

古代から受け継がれてきた統治思想が、現代の中国指導部の意思決定にも深い影響を及ぼしていると考えられます

中国の対外姿勢を、「易姓革命」と「天命思想」に基づいて読み解き、中国が台湾に拘る背景について考察していきます


地政学だけでは説明しきれない? 中国史における「台湾」の扱い

まず歴史的な事実関係を簡単に整理します

中国の歴代王朝は、漢や唐の時代から、モンゴル高原や中央アジア、朝鮮半島、ベトナムにまで軍を送り出し、大陸の周辺地域へ積極的に勢力を広げてきました

しかし、大陸のすぐそばにある大きな島(台湾)は、長いあいだ積極的な征服対象としては位置づけられてきませんでした

中国王朝の中心部から見れば、古代から中世にかけての台湾は、行政や軍事力の実効的な支配が十分に及んでいない「化外(けがい)」の地域として扱われることが多く、政治的周縁として位置づけられてきました

この認識は近代に入ってもしばらく続きます

1871年に発生した宮古島島民遭難事件をめぐり、日本政府が清朝に対して責任の所在を確認した際、清の外交当局(総理衙門)は、台湾南部の先住民社会について「化外の民であり、清政府の統治がおよばぬ地域で起きた事件である」と回答し、責任を否認したと記録されています

つまり当時の清にとって、台湾は「中華帝国の重要な領土」というより「周縁部の一地域」という扱いに近かったのです

その後、清は台湾を版図に組み込み、行政機構の整備を進めましたが、中国史全体の長い時間軸で見れば、台湾が一貫して領土として扱われてきたとは言いがたい側面があります

それにもかかわらず、現代の中国共産党は台湾を「神聖にして不可分の領土」と位置づけ、「国家統一は歴史的使命である」と強調しています

この大きな転換を読み解く手がかりとなるのが、「易姓革命」という概念です

中国史を貫くプログラム「易姓革命」と「天命思想」とは何か

中国共産党を含めて、中国の歴史を「王朝の連続」として理解しようとするなら「易姓革命」という考え方は避けて通れません

これは、単なる政権交代を意味するのではなく、「天(神)」が地上の支配者を選び替えるという、宗教的かつ政治的な正統性のシステムだからです

現代の私たちは「革命(Revolution)」という言葉を「社会構造の急激な変革」「体制の転覆」といった意味で使います

しかし古代中国における「革命」は、やや違うニュアンスを持っていました

「命(天命)」が「革(あらた)まる」

すなわち天帝(神)が「お前にはもう徳がない」として現在の支配者を見限り、新たな有徳者に天命を授け直すことを意味します

このとき支配者の家系(姓)が変わることが多いため、「易姓革命」と呼ばれるようになりました

殷周革命が生み出した「勝てば官軍」の原理

この天命思想が政治論理として整えられたのは、紀元前11世紀頃の「殷周革命」まで遡るとされます

当時、古代王朝「殷(いん)」の紂王(ちゅうおう)は、酒池肉林の乱行で悪名高い暴君として語られています
これに対して徳の高い「周」の武王が反乱を起こし、牧野の戦いで殷を打ち倒しました

しかし、周の側は一つの難問に直面します

「臣下が主君を打ち倒すのは、最大の大罪ではないのか」という批判です

この問いに答えるために整えられた論理こそが「天命思想」でした

・王が偉いのは個人が特別だからではなく、天から「天命」を預かっているからである
・王が悪政を行えば、天命はその王から離れ、別の有徳者に移る
・したがって殷に対する周の勝利(結果)が、天命がすでに周に移っていた証拠である

このように「勝った側こそが正義であり、正統だ」と宣言するための理屈です

ただし重要なのは自らの正統性を確立するには、前の王朝を中途半端に残しておくわけにはいかないという点です

前王朝の王やその一族、象徴となる存在がどこかで生き延びていれば、「天命はいまだに彼らにあるのではないか」という疑念がくすぶり続けます

新しい政権は「天命を継いだ王朝」というより「正統政権に反旗を翻した簒奪者」と見なされかねません
そのため中国の新王朝は、前王朝の残党を可能な限り排除しようとする傾向を強く持ちました

日本のように「万世一系(一つの王家が続く)」という建前を持つ国とは異なる、中国史特有の過酷なルールを見ることができます

歴史は韻を踏む「明」と「清」が見せた執念

「前王朝の影を絶つ」という発想をよく表している事例が、中国史にはいくつもあります

その中でも現代の台湾問題を考えるうえで、示唆的なのが「明」と「清」の行動です

14世紀、漢民族による「明」王朝を建てた洪武帝や永楽帝は、モンゴル高原へ戻っていった元(北元)に対して、しつこいほど軍事遠征を繰り返しました

元はすでに中国本土の支配権を失っており、形式上は明が中華帝国の支配者です
合理的に考えれば「遠い草原の勢力」として放置する選択肢もあったはずです

それでも明の皇帝たちは莫大な国費と兵力を投じ、不毛な砂漠や草原に何度も出兵しました

その背景には元の皇帝がどこかで存続している限り、「天命は依然としてモンゴル側にあるのではないか」という不安があったと考えられます
彼らにとって元王朝を「完全に終わらせた」と言える状態こそが、自らを「正統な皇帝」と胸を張るための条件だったわけです

さらに現代の台湾情勢と構図がよく似ているのが、17世紀の「清」王朝です

清は満洲族の王朝で、中国本土を征服したあとも、漢人王朝である「明」の残存勢力と対峙し続けました

明の有力武将・鄭成功(ていせいこう)一族は、大陸から追われて台湾に拠点を築き、清に抵抗を続けます

清朝は明の遺臣である鄭成功の勢力を断つため、1661年に「遷界令(せんかいれい/遷海令)」と呼ばれる大規模な強制移住政策を発令しました

この命令は海禁政策の一環として実施され、広東省から山東省に至る沿岸部30里(約15km)以内に住む全住民を強制的に内陸へ移住させ、沿岸地域を無人化するという、極めて苛烈なものでした

政策の狙いは、鄭成功が沿岸部の住民から物資補給を受けるのを断ち、海上に孤立させることであり、実際にこの措置によって鄭氏勢力は補給路を失い、台湾へ拠点を移転せざるを得なくなりました

遷界令は再三強化され、1683年、ついに鄭氏政権は清に降伏し、ここに明の残存勢力は完全に消滅します

しかし、あれほど大掛かりな作戦を行って手に入れた台湾に対し、清朝は長期的な大規模開発や本土並みの投資を進めることにはあまり熱心ではありませんでした

行政制度は整えますが帝国の中心として重視するというより、やはり半ば「辺境」としての位置付けにとどまります

つまり台湾の制圧は、清が「天命を継いだ正統王朝」であることを内外に示すための、象徴的な儀式としての側面を持っていたと考えられるのです

現代の「王朝(中国共産党)」が抱える正統性のジレンマ

ここまで見てきた歴史的なパターンを当てはめると、現代の中国共産党の行動がやや違った角度から見えてきます

1949年、毛沢東率いる中国共産党は、蒋介石率いる国民党(中華民国)を中国本土から追い出し、中華人民共和国の成立を宣言しました

その一方、蒋介石ら国民党政権は台湾へ移り「自分たちこそが中国全土の正統政府である」と主張しながら、中華民国の継続を宣言します

こうして中国本土の共産党政権と、台湾に移った国民党政権という「二つの中国」が並び立つ構図が生まれました

国際社会も当初は中華民国(台湾)を中国代表として承認していましたが、1970年代に入ると、中華人民共和国を正式な代表として認める方向へと次第に移行していきます

そして中国大陸(中国共産党)側の目線で見ると「前政権である中華民国が完全には消えておらず、台湾で生き延びている」という事実が残り続けたことになります

易姓革命と天命思想の枠組みで眺めると、前王朝の残影が台湾に残っているという構図にも映ります

その観点に立つと、中国共産党が置かれている立場はこう整理できます

「共産党政権は大陸を支配している現実の統治者であるが、前政権(中華民国)が完全には滅んでおらず『もう一つの中国』として台湾に存在している」

伝統的なロジックからすると、どこか「決着がついていない」状態なのです

合理性だけでは読み解けない領域

中華人民共和国の建国当初、台湾には現在のような半導体産業もなく、豊かな資源があったわけでもありません

また、共産党自身はマルクス主義を掲げており、公式には「天命」や「易姓革命」を認めてはいません

それにもかかわらず「台湾解放」を掲げ続けた背景には、経済的・軍事的価値以上に「前政権が台湾で生き延びている状態を放置すれば、自らの正統性が宙ぶらりんになる」という意識があったと考えられます

言い換えれば台湾統一とは、領土拡張の問題であると同時に、政権が「正統な中国」であり続けるための歴史的な「けじめ」という側面を帯びていると言えるでしょう

こうした背景を踏まえると、中国の台湾政策には、地政学や経済合理性といった近代的な理屈だけでは説明しきれない領域が存在していることが見えてくるのです

参考 :
・岡田英弘(2004)『中国文明の歴史』講談社
・岡本隆司(2004)『属国と自主のあいだ―近代清韓関係と東アジアの命運―』名古屋大学出版会
文 / 村上俊樹 校正 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

最近、ニュースでは「台湾有事」「中国による台湾侵攻」という言葉を多く耳にします

多くの専門家は、中国が台湾統一を狙う理由をこう説明しています

「世界最先端の半導体産業を確保するため」「太平洋進出のための戦略的拠点を必要としているため」

確かに現代の地政学的・経済的な視点から見れば、十分に理解できる理由です

しかし、ここで一つの疑問が生まれます

もし経済的・軍事的な利得こそが主たる動機であるのなら、なぜ中国共産党(中華人民共和国)は、台湾が当時まだ貧しい農業地域にすぎなかった1949年の建国直後から、一貫して強い執着を示し続けてきたのでしょうか

この点を理解するためには、現代的な損得勘定(合理性)だけではなく、中国の歴史原理にも目を向ける必要があるでしょう

その鍵となる概念が「易姓革命」と「天命思想」です

古代から受け継がれてきた統治思想が、現代の中国指導部の意思決定にも深い影響を及ぼしていると考えられます


「易姓革命」と「天命思想」

中国思想に「易姓革命」と「天命思想」があります

この考えは中国独特の思想といえるかも・・・

台湾解放に中国(共産党)がこだわるのは、前政権(中華民国)が台湾に存在する限り、現政権(中華人民共和国)は「正当な中国」ではないとする考えもあるのでは・・・


合理性だけでは読み解けない領域

中華人民共和国の建国当初、台湾には現在のような半導体産業もなく、豊かな資源があったわけでもありません

また、共産党自身はマルクス主義を掲げており、公式には「天命」や「易姓革命」を認めてはいません

それにもかかわらず「台湾解放」を掲げ続けた背景には、経済的・軍事的価値以上に「前政権が台湾で生き延びている状態を放置すれば、自らの正統性が宙ぶらりんになる」という意識があったと考えられます

言い換えれば台湾統一とは、領土拡張の問題であると同時に、政権が「正統な中国」であり続けるための歴史的な「けじめ」という側面を帯びていると言えるでしょう

こうした背景を踏まえると、中国の台湾政策には、地政学や経済合理性といった近代的な理屈だけでは説明しきれない領域が存在していることが見えてくるのです


中国文明の歴史 (講談社現代新書) Kindle版

もっとも平易でコンパクトな中国史の入門書
中国とはどんな意味か、そしていつ誕生したのか?
民族の変遷、王朝の栄枯盛衰や領土拡大を軸に、中国の歴史をわかりやすく教える
まったく新しい中国史の登場
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2025年12月10日

5000人の少女を集め、服を脱がせ・・・中国皇帝の「妃選び」で行われた身体検査の異様すぎ

中国の歴代皇帝を支えた「後宮」には、妃をはじめ数多くの女性たちがいた
彼女たちはどのように集められ、宮仕えをしていたのか
中国文学者で明治大学教授の加藤徹さんが書いた『後宮 宋から清末まで』(角川新書)から、明時代末期に行われていた后妃選びの面接試験「選秀女」のエピソードを紹介する――

■家がらより容姿を重んじた明の皇帝

過去の日本の天皇や、征服王朝の皇帝は、君主の血統カリスマを維持するため、后妃を選ぶ際は血筋や家柄を重んじた

明(みん)(1368年─1664年)の君主は違った
太祖(初代皇帝)洪武帝は農民だったため、血統カリスマはない
また、なまじ貴顕(きけん)の家の女子を后妃にすると、外戚(后妃の父方の実家)の専横の種になりかねない
そこで明王朝の歴代の皇帝は、血筋や家柄があまり高くない普通の女子を后妃とする傾向があった

建前上は、面接試験を行い、女子の品徳を重視した
本音では、美しくてセクシーな女子を選んだ

美女は賢女とは限らない
そのような母親と、そのような女性を好む父親から生まれた皇帝が、必ずしも優秀とは限らない

皇帝が、民間の良家の子女に募集をかけて後宮の女性を選ぶことを「選秀女」(秀女選び)と言う
「秀女」つまり後宮に仕える優秀な女性を選ぶ、という意味である
「秀女」という語が定着するのは清の時代からだが、後世の歴史家は明代にさかのぼり、「選秀女」という言葉を使う

■明の後宮を支えた女性たち

歴代王朝と同様、明でも、後宮の女性の全員が后妃だったわけではない

明の後宮の女性は、時代によって呼称について多少の変化はあるが、おおむね、后妃・女官・宮人の三種類である

后妃は「淑女」とも呼ばれ、皇帝の妻妾として、世継ぎを産むことにつとめた
皇帝の子作りのモチベーションを高めるため、採用にあたっては容姿や年齢が重視された
外戚の専横を防ぐため、普通の家の女子が選ばれた

女官は「宮女」とも呼ばれ、管理職だ
文筆や事務処理などの能力が求められた
皇帝の妻妾ではないので、採用にあたっては容姿も年齢も重視されず、ベテランが中途採用されることもあった

宮人は雑役婦で、後宮女性の圧倒的多数はこれである
身分は低いが、宮人の中には皇子の乳母となって、皇子が皇帝となったあとも宦官とつるんで政治的影響力をふるうものもいた

■宮女が9000人に上った時期も

皇帝と同衾するのは、制度上は后妃だけだが、皇帝の権力は絶対である
ごくまれではあるが、女官や宮人が皇帝の「お手つき」になるケースも、ないわけではなかった

なお、後世は、后妃・女官・宮人など後宮女性全体を漠然と指して「宮女」と呼ぶことが多い
康熙帝(こうきてい)(※)が明末の「宮女」は9000人にのぼった、と言ったのも、女官だけでなく、宮人や后妃も含めた数であろう

※清の第4代皇帝

明代の後宮の制度と実態については、前田尚美氏の論文「明代後宮と后妃・女官制度」(『京都女子大学大学院文学研究科研究紀要 史学編』第08号、2009年)に詳しいので、そちらにゆずる

明の選秀女のやりかたは、時代によって変化はあるが、おおむね次のとおりであった
ここでは、明末の例をとりあげよう

■后妃を目指し北京に集った5000人の少女たち

明の末の天啓元年(1621年)
前年に即位したばかりの天啓帝(1605年─1627年)は、后妃の選抜試験を行った
その選抜のプロセスを、清の文人官僚だった紀昀(きいん)は『明懿安皇后外伝(みん いあんこうごう がいでん)』で次のように書いている

まずは公募
天下の13歳から16歳までを対象とし、新帝の后妃の候補を募集した
応募者には、役人がお金を支給した
「うちの娘なら、もしかすると」と自信のある親は、娘を連れて北京にのぼった
正月、北京に集合した后妃候補の少女の数は、5000人

第一次選抜
皇帝は、内監(宮廷内の上級の宦官)を選抜会場に派遣した
少女たちは100人ごとに年齢順に並べられ、宦官たちが見て回った
この子は背が高め、この子は背が低め、この子は太め、この子は細め、など外見を一人一人、目視してチェック
この時点で規格外の少女1000人が帰郷させられた

■声や歩き方での審査

翌日、第二次選抜
少女たちは前日と同様の要領で並んだ
宦官たちは少女の列のあいだを歩きまわり、念入りにチェック
少女の耳・口・鼻・髪・肌・腰・肩・背中などを見て、基準にあわぬ子ははずした
次は声のチェック
少女たちは自分の本籍、姓、生年、年齢を言わされた
声がちょっとでも男の子っぽい、くぐもっている、濁っている、よどみがあるとハネられた
この時点で、さらに2000人が退場
残ったのは2000人

翌日、第三次選抜
宦官たちはそれぞれ手に物差しをもち、少女の手足の長さを計測
その上で少女らを数十歩ほど歩かせ、姿勢の美しさをチェックした
ちょっとでも腕が短かったり、足の形が悪かったり、立ち居振る舞いに品がないと、ハネられた
この時点で1000人が退場し、残りは1000人
実は、ここまでは前検査にすぎない

■衣服を脱がされて・・・

1000人の少女たちは、後宮の中に召されて身体検査を受けた
少女らはそれぞれ密室に呼び入れられ、裸にされ、ベテランの年増の宮女の念入りなチェックを受ける
乳をもみしだかれ、腋(わき)のにおいをかがれ、肌のきめこまかさを調べられた

こうして、当初の5000人の少女のうち、300人だけが合格した
合格者は全員、上級ランクの宮女となった

それから一カ月間
少女らはそれぞれ、性格や言動をじっくり観察された
気性は強いか、やさしいか
頭はよいか、悪いか
人間性を総合的に評価されたうえで、最終的に50名だけが選ばれた
彼女らは妃嬪、すなわち皇帝の側室となった

そのうち皇后になれる少女は、ただ一人
競争率5000倍の選抜を勝ち抜き、皇后の座を見事に射止めたのは、懿安(いあん)皇后張氏だった

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加藤 徹(かとう・とおる)
明治大学法学部教授
日本京劇振興協会非常勤理事、日本中国語検定協会理事
1963(昭和38)年、東京都に生まれる
専攻は中国文化
東京大学文学部中国語中国文学科卒業
同大学院人文科学研究科博士課程単位取得満期退学
90~91年、中国政府奨学金高級進修生として北京大学中文系に留学
広島大学総合科学部助教授等を経て、現職
『京劇「政治の国」の俳優群像』(中公叢書)で第24回サントリー学芸賞(芸術・文学部門)を受賞
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(この記事はプレジデントオンラインの記事で作りました)

明代から清代まで(主に明)の中国皇帝の「妃選び」で行われた身体検査は異常すぎるほどの中身ですね



後宮 宋から清末まで (角川新書) 新書

国家は巨大な生き物だ
その新陳代謝を支える「内廷」から見る画期的中国史

本来なら西太后は生まれていなかった
中央集権と統一と政権存続を至上とする中華帝国
それを支えた後宮は清朝に完成形を迎えるが・・・
巨大な密室から歴代王朝の興亡を描く画期的中国史

清朝になり、妃選びは容色でなく内面重視が徹底された
個々の皇帝は死ぬ
歴代の王朝は滅びる
だが、絶対的な権威と権力をあわせもつ一人の支配者が君臨する中央集権的な統一国家、という中華帝国のシステムは続き、それを後宮が支えた
宋、元、明、そして清となり、士大夫、外戚、宦官のトリレンマも解消され、後宮制度も完成を迎えたかに思えたが、偶然の産物で西太后が現れる・・・
■軍服を着た異色の皇后。南宋・高宗の呉皇后
■夫がいる宮女まで意図的に襲った、金の海陵王の異常な荒淫
■明の後宮の組織は肥大化し、宦官十万人で餓死者もでた
■皇帝と皇后に礼を尽くさせた乳母
■宮女たちの皇帝暗殺計画。中国史上、屈指の怪事件「壬寅宮変」
■同治帝は後宮で生まれた最後の皇帝となった
■モンゴル王朝の後宮は健全だった
■明時代、皇后までは倍率五千倍
■永楽帝の後宮で起きた、三千人以上が死刑となった魚呂の乱
■明朝第一の悪女、万貴妃。皇子殺しに、皇帝のお手付きとなった女官も殺す
■清の康熙帝に二度廃立された悲劇の皇太子
■乾隆帝の隠れ家は三畳一間だった
posted by june at 15:34| Comment(0) | ニュース | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

五重塔(興福寺)が25円で売られそうだった?仏教界を震撼させた「廃仏毀釈」とは

「神仏分離」で神道を仏教の影響以前の姿へ戻す

1867年(慶応3年)10月14日、江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜は、政権を朝廷へ返上する「大政奉還」を行った

これを受け、同年12月9日には明治天皇の名において「王政復古の大号令」が発せられ、明治新政府が誕生した

この大号令は、明治天皇を初代・神武天皇の再来として位置づけ、祭祀と政治が一体化していたと伝えられる神武天皇の時代を理想とする体制を復活させることを目指したものだ

つまり明治新政府は「神道」を事実上の国教として位置づけ、天皇を中心とする国家体制を確立しようとしたのである

そのため、長く「神仏習合」という形で共存してきた神道を、仏教の影響以前の“本来の姿”へ戻すことが求められた

こうして明治政府は、1868年(明治元年)から「神仏分離」を進めるための具体的な政策を次々と布告していくこととなった

ちなみに「神仏習合」とは、日本古来の神道と大陸から新たに伝来した仏教が融合し、神々を仏が救う存在として位置づけるなど、「仏教が主・神道が従」という思想によって形成された日本独自の宗教現象だ

このような考えのもと、神社の近くに神宮寺が建てられたり、寺院内に鎮守社が祀られたりしたのである


神仏分離政策が寺院などを破壊する「廃仏毀釈」を誘発

明治政府が神仏分離政策に着手した第一歩は、1868年(明治元年)3月13日の神祇官(じんぎかん)の再興であった

神祇官とは、飛鳥・奈良時代に成立した律令制において朝廷の祭祀を司った官庁であり、応仁の乱以降は事実上廃絶していた

明治政府は、この神祇官再興を祭政一致の象徴と位置づけ、1871年(明治4年)中頃まで、神仏分離に関する政策を矢継ぎ早に打ち出していった

代表的なものは以下のとおりである。

●1868年(明治元年)3月17日・・・寺院に属しつつ神社の経営権を握っていた「諸国の神社の別当・社僧を還俗」させる

●1868年(明治元年)3月28日・・・神社から仏像・仏具・仏語などの仏教的要素を排除し、権現・牛頭天王・菩薩などの仏教的神号を廃止する「神仏判然令」を発布

●1869年(明治2年)7月8日・・・神祇官が太政官(最高国家機関)の上位に置かれ、国家の祭祀・神社行政を管掌する

●1870年(明治3年)1月3日・・・天皇を現人神として神道の頂点に置き、国民への神道的教化の方針を示した「大教宣布の詔」が発せられる

●1871年(明治4年)5月14日・・・全ての神社が国家管理となり、宮司などの神官の世襲が禁止され、新社格制度が設定される

このようにして明治政府は、祭礼の中心である神道を、天皇崇拝を基盤とする国教的なシステムへと再構築していったのである

しかし、この政策は結果として、寺院・仏像・経典の破壊などのいわゆる「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)」を誘発し、その嵐は数年にわたり全国各地で吹き荒れることとなった

10年弱で仏教美術など膨大な歴史的文化財を損失

誤解のないように一言添えておきたいが、明治政府が打ち出した「神仏分離」は、必ずしも仏教を弾圧すること自体を目的としたものではなかった

つまり、のちに全国へ広がる過激な廃仏毀釈運動は、政府が意図したものではなかったのである
しかし政府の思惑に反し、廃仏毀釈は全国へ波及していった

最初の廃仏毀釈は、1868年(明治元年)4月1日に起きたとされる

滋賀県の日吉社(ひえしゃ)の神職が武装した一隊を率いて延暦寺に押しかけ、本殿の鍵の引き渡しを要求したが拒絶されると、本殿に安置されていた仏像や経巻類を破壊し、焼き捨ててしまったのである

伊勢神宮を擁する三重県では、神宮と関係が深かった慶光院をはじめ多くの寺院が廃仏毀釈の対象となり、とりわけ宇治山田では寺院の75%にあたる196寺が閉鎖に追い込まれたと伝えられる

また寺院の宝庫ともいえる奈良県・京都府でも、廃仏毀釈は苛烈を極めた

奈良県では、春日大社の鎮守寺であった名刹・興福寺が廃寺となり、僧侶たちは全員還俗して春日大社の神職へと転じた

五重塔はわずか25円(当時の巡査初任給4円から換算すれば、現代の130〜150万円相当)で競売にかけられ、売却される寸前であった
落札者は塔に納められた金具類を目当てに木部分の焼却を試みたが、類焼を懸念した住民の反対運動によって中止され、五重塔は破壊を免れたという

金堂は警察の屯所へ転用され、混乱のさなか警官たちが冬の寒さをしのぐため、貴重な天平仏を割って焚火にくべたと伝えられている

この時期には、世親像・無著像・阿修羅像といった主要な仏像までもが、危機的な状況に置かれていた

興福寺に伝わる国宝「乾漆十大弟子立像」のうち、現在同寺に現存するのは6体のみである
残る4体は、明治期の廃仏毀釈期の混乱や寺外流出の影響を受けたとされる

京都府では、祇園社が八坂神社、石清水八幡宮が男山神社、愛宕山大権現が愛宕神社へと改称され、仏教色の強い祭神は新たな祭神へと置き換えられた

このほか、上野東照宮本地塔、久能山東照宮五重塔、北野天満宮多宝塔、鶴岡八幡宮大塔、江島三重塔、諏訪大社五重塔・三重塔など、由緒ある神社境内の神塔が、仏教的要素を理由に整理・破却されたという報告もある

廃仏毀釈の嵐は、1870年(明治3年)に発せられた「大教宣布の詔」を前後してピークに達し、その後は徐々に沈静化へと向かっていった

しかし、その期間が10年弱という短さであったにもかかわらず、その影響はあまりにも甚大であった

江戸時代には全国で約9万ヶ寺あったとされる寺院数は、およそ半数の4万5000ヶ寺ほどにまで減少し、寺院が所有していた建築物・仏像・経巻など、膨大な歴史的文化財が失われてしまったのである

廃仏毀釈を推し進めた中心には、長年仏教勢力に圧迫されてきたと考えていた神職者たちがいた

そこへ、平田派国学や水戸学の影響を受けた神職・民衆による仏像・仏具の破棄運動が全国的に広がると、人々は高揚した気分のままに仏教への反発心を強め、その結果として、廃仏毀釈は制御の利かない破壊運動へと発展していったのである

※参考 :
安丸良夫著 『神々の明治維新―神仏分離と廃仏毀釈』岩波新書刊
文 / 高野晃彰 校正 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

「神仏分離」で神道を仏教の影響以前の姿へ戻す

1867年(慶応3年)10月14日、江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜は、政権を朝廷へ返上する「大政奉還」を行った

これを受け、同年12月9日には明治天皇の名において「王政復古の大号令」が発せられ、明治新政府が誕生した

この大号令は、明治天皇を初代・神武天皇の再来として位置づけ、祭祀と政治が一体化していたと伝えられる神武天皇の時代を理想とする体制を復活させることを目指したものだ

つまり明治新政府は「神道」を事実上の国教として位置づけ、天皇を中心とする国家体制を確立しようとしたのである

そのため、長く「神仏習合」という形で共存してきた神道を、仏教の影響以前の“本来の姿”へ戻すことが求められた

こうして明治政府は、1868年(明治元年)から「神仏分離」を進めるための具体的な政策を次々と布告していくこととなった

ちなみに「神仏習合」とは、日本古来の神道と大陸から新たに伝来した仏教が融合し、神々を仏が救う存在として位置づけるなど、「仏教が主・神道が従」という思想によって形成された日本独自の宗教現象だ

このような考えのもと、神社の近くに神宮寺が建てられたり、寺院内に鎮守社が祀られたりしたのである


10年弱で仏教美術など膨大な歴史的文化財を損失

誤解のないように一言添えておきたいが、明治政府が打ち出した「神仏分離」は、必ずしも仏教を弾圧すること自体を目的としたものではなかった

つまり、のちに全国へ広がる過激な廃仏毀釈運動は、政府が意図したものではなかったのである
しかし政府の思惑に反し、廃仏毀釈は全国へ波及していった

最初の廃仏毀釈は、1868年(明治元年)4月1日に起きたとされる

滋賀県の日吉社(ひえしゃ)の神職が武装した一隊を率いて延暦寺に押しかけ、本殿の鍵の引き渡しを要求したが拒絶されると、本殿に安置されていた仏像や経巻類を破壊し、焼き捨ててしまったのである

伊勢神宮を擁する三重県では、神宮と関係が深かった慶光院をはじめ多くの寺院が廃仏毀釈の対象となり、とりわけ宇治山田では寺院の75%にあたる196寺が閉鎖に追い込まれたと伝えられる

また寺院の宝庫ともいえる奈良県・京都府でも、廃仏毀釈は苛烈を極めた

奈良県では、春日大社の鎮守寺であった名刹・興福寺が廃寺となり、僧侶たちは全員還俗して春日大社の神職へと転じた

五重塔はわずか25円(当時の巡査初任給4円から換算すれば、現代の130〜150万円相当)で競売にかけられ、売却される寸前であった
落札者は塔に納められた金具類を目当てに木部分の焼却を試みたが、類焼を懸念した住民の反対運動によって中止され、五重塔は破壊を免れたという

金堂は警察の屯所へ転用され、混乱のさなか警官たちが冬の寒さをしのぐため、貴重な天平仏を割って焚火にくべたと伝えられている

この時期には、世親像・無著像・阿修羅像といった主要な仏像までもが、危機的な状況に置かれていた

興福寺に伝わる国宝「乾漆十大弟子立像」のうち、現在同寺に現存するのは6体のみである
残る4体は、明治期の廃仏毀釈期の混乱や寺外流出の影響を受けたとされる

京都府では、祇園社が八坂神社、石清水八幡宮が男山神社、愛宕山大権現が愛宕神社へと改称され、仏教色の強い祭神は新たな祭神へと置き換えられた

このほか、上野東照宮本地塔、久能山東照宮五重塔、北野天満宮多宝塔、鶴岡八幡宮大塔、江島三重塔、諏訪大社五重塔・三重塔など、由緒ある神社境内の神塔が、仏教的要素を理由に整理・破却されたという報告もある

廃仏毀釈の嵐は、1870年(明治3年)に発せられた「大教宣布の詔」を前後してピークに達し、その後は徐々に沈静化へと向かっていった

しかし、その期間が10年弱という短さであったにもかかわらず、その影響はあまりにも甚大であった

江戸時代には全国で約9万ヶ寺あったとされる寺院数は、およそ半数の4万5000ヶ寺ほどにまで減少し、寺院が所有していた建築物・仏像・経巻など、膨大な歴史的文化財が失われてしまったのである

廃仏毀釈を推し進めた中心には、長年仏教勢力に圧迫されてきたと考えていた神職者たちがいた

そこへ、平田派国学や水戸学の影響を受けた神職・民衆による仏像・仏具の破棄運動が全国的に広がると、人々は高揚した気分のままに仏教への反発心を強め、その結果として、廃仏毀釈は制御の利かない破壊運動へと発展していったのである



神々の明治維新―神仏分離と廃仏毀釈 (岩波新書 黄版 103) 新書

維新政権が打ちだした神仏分離の政策と、仏教や民俗信仰などに対して全国に猛威をふるった熱狂的な排斥運動は、変革期にありがちな一時的な逸脱にすぎないように見える
が、その過程を経て日本人の精神史的伝統は一大転換をとげた
日本人の精神構造を深く規定している明治初年の国家と宗教をめぐる問題状況を克明に描き出す
posted by june at 04:01| Comment(0) | ニュース | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2025年12月09日

なぜガンディーは悲願だったインド独立を喜べなかったのか? その壮絶すぎる結末

100万人が犠牲になったインド独立の悲劇・・・ガンディーの理想はなぜ打ち砕かれたのか?
【悩んだら歴史に相談せよ!】好評を博した『リーダーは日本史に学べ』(ダイヤモンド社)の著者で、歴史に精通した経営コンサルタントが、今度は舞台を世界へと広げた
新刊『リーダーは世界史に学べ』(ダイヤモンド社)では、チャーチル、ナポレオン、ガンディー、孔明、ダ・ヴィンチなど、世界史に名を刻む35人の言葉を手がかりに、現代のビジネスリーダーが身につけるべき「決断力」「洞察力」「育成力」「人間力」「健康力」と5つの力を磨く方法を解説
監修は、世界史研究の第一人者である東京大学・羽田 正名誉教授
最新の「グローバル・ヒストリー」の視点を踏まえ、従来の枠にとらわれないリーダー像を提示する
どのエピソードも数分で読める構成ながら、「正論が通じない相手への対応法」「部下の才能を見抜き、育てる術」「孤立したときに持つべき覚悟」など、現場で直面する課題に直結する解決策が満載
まるで歴史上の偉人たちが直接語りかけてくるかのような実用性と説得力にあふれた“リーダーのための知恵の宝庫”だ

● 宗教の対立に最後まで苦しんだ ガンディーの最期

マハトマ・ガンディー(1869〜1948年)は、インドの宗教家であり政治指導者
イギリスの支配下にあったインドで地方有力者の家に生まれ、イギリスへの留学を経て弁護士資格を取得する
南アフリカで弁護士として活動した後、インドに帰国し、独立運動を指導することとなる。ガンディーは、イギリスの塩の専売制度に抗議する「塩の行進」やイギリス製品の不買運動などを展開し、「非暴力・不服従」の理念を掲げてインドの独立を目指す
第二次世界大戦後、国力が衰えたイギリスはインドの独立を承認するが、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒の対立により、1947年にインドとパキスタンが分離・独立
この分裂時に紛争が発生したが、ガンディーは断食を通じて平和を訴える
しかし、イスラム教徒との融和に反発した過激なヒンドゥー教徒の若者に暗殺される
ガンディーの「非暴力・不服従」の理念は、黒人解放運動の指導者マーティン・ルーサー・キング牧師をはじめ、その後の多くの指導者に大きな影響を与えている

● 輝かしい独立の影で

1947年、長きにわたる闘争の末にインドがイギリスからの独立を果たしたとき、マハトマ・ガンディーの悲願は一見、成就したかのように見えました

しかし、彼自身はこの独立を心から喜ぶことができませんでした
なぜなら、その過程で祖国は引き裂かれ、想像を絶する悲劇が生まれてしまったからです

● ガンディーが描いた夢

ガンディーが目指していたのは、宗教や言語、文化の違いを包み込む多様性に満ちた統一インドでした

ヒンドゥー教徒も、イスラム教徒も、シク教徒も、すべての人が互いを認め合いながら、一つの国に暮らすというビジョンです

● 引き裂かれた大地

しかし、現実はそうはなりませんでした

独立の直前、インドはヒンドゥー教徒を主体とするインドと、イスラム教徒を中心とするパキスタンに分裂
国境を越えた民族・宗教間の大移動が始まり、無数の暴行・略奪・殺戮が各地で発生しました

● 砕かれた理想

その犠牲者は、数十万人とも百万人以上ともいわれます

ガンディーにとって、この分裂と流血は、自らの理想が打ち砕かれた瞬間でもありました

● なぜ理想は届かなかったのか

ガンディーの統一インドという壮大な理想は、残念ながら政治指導者間の対立や、長年くすぶっていた宗教間の不信感という高い壁に阻まれました

独立という大きな変化が、人々の不安を煽り、対立を先鋭化させてしまったのです

● 現代に響く教訓

この歴史的悲劇は、現代を生きる私たちに重要な教訓を投げかけています
それは、異なる価値観を持つ人々が共存する上で「寛容さ」や「対話」がいかに不可欠であるかということです

分断と対立は、いとも簡単に憎悪の連鎖を生み出してしまいます

● 絶望の中の希望

しかし、ガンディーは絶望的な状況下でも、最後まで非暴力の信念を貫き、身を挺して平和を訴え続けました

彼のその姿は、憎しみによって引き裂かれた世界で、私たちが進むべき道を照らす、一条の光であり続けているのです

※本稿は『リーダーは世界史に学べ』(ダイヤモンド社)より一部を抜粋・編集したものです

(この記事はダイヤモンドオンラインの記事で作りました)

100万人が犠牲になったインド独立の悲劇・・・ガンディーの理想はなぜ打ち砕かれたのか?
【悩んだら歴史に相談せよ!】好評を博した『リーダーは日本史に学べ』(ダイヤモンド社)の著者で、歴史に精通した経営コンサルタントが、今度は舞台を世界へと広げた
新刊『リーダーは世界史に学べ』(ダイヤモンド社)では、チャーチル、ナポレオン、ガンディー、孔明、ダ・ヴィンチなど、世界史に名を刻む35人の言葉を手がかりに、現代のビジネスリーダーが身につけるべき「決断力」「洞察力」「育成力」「人間力」「健康力」と5つの力を磨く方法を解説
監修は、世界史研究の第一人者である東京大学・羽田 正名誉教授
最新の「グローバル・ヒストリー」の視点を踏まえ、従来の枠にとらわれないリーダー像を提示する
どのエピソードも数分で読める構成ながら、「正論が通じない相手への対応法」「部下の才能を見抜き、育てる術」「孤立したときに持つべき覚悟」など、現場で直面する課題に直結する解決策が満載
まるで歴史上の偉人たちが直接語りかけてくるかのような実用性と説得力にあふれた“リーダーのための知恵の宝庫”だ


ガンディーが目指したのは「宗教の融和」でした
インドの独立は実現しましたが、「宗教の融和」はできませんでした
それでもガンディーは絶望的な状況下でも、最後まで非暴力の信念を貫き、身を挺して平和を訴え続けました

彼のその姿は、憎しみによって引き裂かれた世界で、私たちが進むべき道を照らす、一条の光であり続けているのです



リーダーは世界史に学べ 単行本(ソフトカバー)

◆悩んだら歴史に相談せよ!◆
こんなときナポレオンならどうする?
【決断力】 迷わず行動する力
【洞察力】 本質を見抜く力
【育成力】 チーム・組織を育む力
【人間力】 周囲の信頼を得る力
【健康力】 リーダーの健康管理力

◆仕事の悩みが吹き飛ぶ
世界史のリーダー35人の教え◆
●「不条理な状況で孤立しても、決して屈するな」
ウィンストン・チャーチル(イギリス)
●「身近に感じられる目標設定で、すべての人を包み込む」
マハトマ・ガンディー(インド)
●「知らないことに向き合い、決断するのがリーダーの仕事」
マーガレット・サッチャー(イギリス)
●「弱者同士でもうまく連携すれば、強い相手も怖くない」
諸葛孔明(中国・蜀)
●「求められているものを素直に受け止めれば、アイデアは浮かんでくる」
レオナルド・ダ・ヴィンチ(イタリア)
●「最大の危機は栄光の瞬間から始まる」
ナポレオン・ボナパルト(フランス)
●「経歴よりも、とにかく能力があるものを抜てきする」
曹操(中国・魏)
●「相手を承認しながら進めることが成功の鍵」
オクタウィアヌス(ローマ帝国)
●「日頃から準備をしている者に必ずチャンスが訪れる」
アンドリュー・カーネギー(アメリカ)
●「酒に飲まれて醜態をさらしてしまった・・・」
ボリス・エリツィンの反省(ロシア)

◆大切なことはすべてこの本に書いてある!◆
部下が動かない、成果が出ない、孤立感に苦しむ・・・
そんな悩みに直面したとき、歴史に学ぶことは大きなヒントになります

本書『リーダーは世界史に学べ』は、チャーチル、ナポレオン、ガンディー、孔明、ダ・ヴィンチなど、時代も文化も越えた世界史上の人物たちの言葉とエピソードを通して、現代のリーダーが必要とする「決断力」「洞察力」「育成力」「人間力」「健康力」という5つの力を高めるヒントをつかめます

著者は前著『リーダーは日本史に学べ』で好評を博した歴史通の経営コンサルタント・増田賢作氏

小学生の頃から偉人の伝記を読み漁り、歴史の英知を経営現場に応用してきた著者ならではの「ビジネス×歴史」の鋭い視点が光ります

さらに本書では、東京大学名誉教授・羽田正氏が監修を務め、世界史の広く深い視座から内容を補強
「グローバル・ヒストリー」という新たな世界史の潮流も踏まえ、従来の枠にとらわれないリーダー像を描き出します

どのエピソードも数分で読めて、明日から使える“リーダーのための知恵の宝庫”です
「正論では動かない相手への向き合い方」「部下の才能の見抜き方と育て方」「孤立したリーダーが持つべき心構え」など現場で直面する課題に対して、偉人たちが語りかけてくるような実用性と説得力に満ちた内容です

本書を読めば、世界史が最強の味方になるはずです!
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2025年12月08日

異民族に3000人の皇族が連れ去られ、収容所送りになった女性皇族たちがたどった悲惨な結末

中国の歴代皇帝を支えた「後宮」の女性たちは、どのような暮らしをしていたのか
中国文学者で明治大学教授の加藤徹さんが書いた『後宮 宋から清末まで』(角川新書)から、北宋が滅亡する契機となった事件の渦中にいた女性皇族たちの顛末を紹介する――

■中国・北宋で起きた前代未聞の拉致事件

1127年金国の軍勢が宋(北宋)の都・開封を占領し、宋の上皇徽宗(きそう)と皇帝欽宗(きんそう)をはじめ、皇后・皇族3000余名を捕らえ拉致したとされる靖康の変は有名な事件で、関連の書籍も多い

漫画家の青木朋氏が連載中の『天上恋歌〜金の皇女と火の薬師〜』は、靖康の変の前後の宮廷を舞台に金の皇女が活躍する歴史コミックだが、歴史の勘所をおさえ、金の側の言い分や視点も取り込んだ傑作である

紙数の都合上、詳細は他書にゆずり、ここでは靖康の変で運命が激変した皇后たちを取り上げよう

徽宗は結局、金軍に献上するため大規模な後宮を構えたようなものだが、彼が70人も子女をもうけたことは、王朝存続の保険としては意味があった

徽宗や欽宗の二帝以下の皇族が金に連行されたとき、徽宗の九男であった康王趙構は、奇跡的に難を逃れていた
ただし、趙構の生母韋氏も、妻の●(けい)氏も、彼の娘も金に連行されてしまっていた

 ※けいの漢字は开におおざと

金は当初、領土に対する執着は薄かった
金軍は宋に傀儡国家を残し、北に撤収していく
傀儡国家「大楚」の皇帝には、北宋の宰相・張邦昌(ちょうほうしょう)がなったが、彼は愛国者だった
金軍が撤収すると、彼はすぐさま帝位を返上した
そして、民間から元祐皇后孟氏を迎えて垂簾聴政(※)を行ってもらった

※皇后・皇太后が幼い皇帝の代わりに摂政を行うこと

哲宗の皇后だった孟氏はすでに廃され、失脚していた
靖康の変のとき、彼女は都を離れて実家に引きこもっていたため、無事だったのだ

元祐皇后孟氏は、康王趙構を皇帝に指名する
趙構は即位し、南宋の初代皇帝・高宗となった
孟氏は高宗の生母ではなかったが、皇太后として尊ばれた
張邦昌は、宋の復国のシナリオを作成して実行した功労者であったが、金軍のもとで帝位を僭称した罪を弾劾され、自殺を命じられた

もし靖康の変がなければ、孟氏が奇跡のカムバックを果たすことはなかったろう

■皇帝の母と妻は、敵国で辱めを受けた

靖康の変では、高宗(変の当時はまだ康王趙構)の母と妻子も金軍に捕まっている
趙構の生母で徽宗の側妃だった韋氏(後の顕仁皇后。1080年‐1159年)、趙構の正妻・●秉懿(けいひょうい・後の憲節皇后。1106年‐1139年)と側室の田春羅(でんしゅんら)と姜酔媚(きょうすいび)、4歳から2歳までの女児5名、あわせて9名の女性が金軍によって連行された

金軍の北送の旅路は過酷だった
趙構の妻・●氏も含め、妊娠中だった皇室の女性は次々に落馬して流産した。趙構の5人の娘のうち、下の3人は旅の途中で死んだ

旅路の途中も、金国に到着してからも、貴婦人らは金人から言いようのない辱めを受けた
欽宗の美貌の皇后・仁懷皇后朱氏(1102年‐1127年)は金に到着後、屈辱に耐えきれず自殺した

■病に倒れた妻の死すら知らされず

趙構は南宋の初代皇帝・高宗となり、臨安(現在の杭州)を臨時の首都としたが、金との熾烈な戦争は継続中で、北送された家族の安否は不明だった
高宗は、敵国で消息不明の妻を皇后に「遙冊」し、彼女が帰国する日まで皇后を立てぬことを誓う

金人は高宗の家族を洗衣院(※)に入れた
正妻と2人の側室だけでなく、すでに50に手がとどく年齢になっていた生母の韋氏も、まだ4歳の幼女2人も、洗衣院に入れられ、屈辱の日々をしいられた

※金軍の捕虜になった女性たちが収容されたとされる施設
小説風の歴史書『靖康稗史』(せいこうはいし。後世の偽書説あり)に記載されている

側室の田春羅は洗衣院に入れられた翌年に死んだ

1135年、金の第二代皇帝・太宗(靖康の変のときの皇帝)が死去し、第三代皇帝・熙宗が即位すると、高宗の家族はようやく洗衣院から解放され、五国城(現在の黒竜江省ハルビン市依蘭県)に遷された
この年、高宗の父・徽宗が五国城で病没している

1139年、●氏は34歳で五国城において病没した
金人はこれを秘匿し、高宗は妻の死を知らなかった

■皇后たちの波乱の人生

1142年、高宗は、金の第三代皇帝・熙宗と「紹興の和議」を成立させた。高宗の生母の韋氏は解放され、南宋に渡り、息子との再会を果たす
正史『宋史』后妃伝によると、高宗はこのとき初めて妻が三年前に死去したことを知ったという

高宗は政治を休み、喪に服し、丁重な葬儀を行った
1145年、皇后●氏の棺が金から南宋に送られてきたとき、高宗はあらためて深い悲しみにくれた
最終的に、彼女の諡(おくりな)は「憲節」とされた

波瀾の人生を送った韋氏は、高宗の皇太后として大切にされ、幸福な晩年を送り、80歳で死去
死後、「顕仁」と諡(おくりな)された

靖康の変は皇后たちの運命も激変させた
奇跡の復活を遂げた元祐皇后孟氏、自殺した仁懷皇后朱氏
恥辱を生き延びて天寿を全うした顕仁皇后韋氏、遙冊された憲節皇后●氏

高宗の二番目の皇后、憲聖慈烈皇后呉氏(1115年‐1197年)も、靖康の変後の時代を雄々しく生きた傑物である
彼女は高宗・孝宗・光宗・寧宗の四代54年にわたり后位(皇后や皇太后などの位)を保ち、国を裏から支えた逸材である

■命を狙われる夫を軍服を着て支えた皇后

呉氏は、14歳で康王時代の高宗の側室となって以来、ずっと彼を支えてきた
正史『宋史』后妃下によると、彼女は頭が良く、当時の女性としては珍しく文字の読み書きもかなりできたようだ

話を、靖難の変の直後に戻す

高宗の権力は、即位後もしばらく安定しなかった
金軍だけではない
国内の不満分子にも命を狙われた
金国に抑留中の「徽欽二帝」はまだ存命だったため、高宗の即位の手続きの正統性を疑う声も根強かったのだ

高宗は即位の前後、各地を転々と逃げ回った
呉氏は軍服を着用して高宗の左右に侍した
浙江の四明山に逃げたとき、衛兵の一部が反乱をたくらんだ
反乱者が高宗の所在を捜したとき、呉氏は機転をきかせ嘘をつき、難を逃れた

その後、高宗らは船に乗って海上を逃げた
魚が一匹、海面から跳ね上がり、船の中に飛び込んできた
歴史をよく勉強していた呉氏は「吉兆です。白魚入舟の故事の再現です」と言って励まし、高宗を喜ばせた
白魚入舟は敵を降して支配する吉兆である
昔、周の武王が殷の紂王と戦う直前、武王の舟に白魚が自ら飛び込むという珍事が起きた
武王はこれを天の吉兆だと見なし、周軍の士気は大いにあがり、殷軍に勝利したのだ

その後も、呉氏は勉学に励み、高宗からますます寵愛され、貴妃にまで昇った
紹興の和議が成立し、遙冊された皇后・●氏の死が判明した翌年、呉氏は皇后に立てられた

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加藤 徹(かとう・とおる)
明治大学法学部教授
日本京劇振興協会非常勤理事、日本中国語検定協会理事
1963(昭和38)年、東京都に生まれる
専攻は中国文化
東京大学文学部中国語中国文学科卒業
同大学院人文科学研究科博士課程単位取得満期退学
90~91年、中国政府奨学金高級進修生として北京大学中文系に留学
広島大学総合科学部助教授等を経て、現職
『京劇「政治の国」の俳優群像』(中公叢書)で第24回サントリー学芸賞(芸術・文学部門)を受賞
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(この記事はプレジデントオンラインの記事で作りました)

中国は多民族国家である

多数派民族の漢民族も他の民族に支配されていた時代も・・・

中国の歴史はある意味で民族闘争の歴史でもあるのだ



後宮 宋から清末まで (角川新書) 新書

国家は巨大な生き物だ
その新陳代謝を支える「内廷」から見る画期的中国史

本来なら西太后は生まれていなかった
中央集権と統一と政権存続を至上とする中華帝国
それを支えた後宮は清朝に完成形を迎えるが・・・
巨大な密室から歴代王朝の興亡を描く画期的中国史

清朝になり、妃選びは容色でなく内面重視が徹底された
個々の皇帝は死ぬ
歴代の王朝は滅びる
だが、絶対的な権威と権力をあわせもつ一人の支配者が君臨する中央集権的な統一国家、という中華帝国のシステムは続き、それを後宮が支えた
宋、元、明、そして清となり、士大夫、外戚、宦官のトリレンマも解消され、後宮制度も完成を迎えたかに思えたが、偶然の産物で西太后が現れる・・・
■軍服を着た異色の皇后。南宋・高宗の呉皇后
■夫がいる宮女まで意図的に襲った、金の海陵王の異常な荒淫
■明の後宮の組織は肥大化し、宦官十万人で餓死者もでた
■皇帝と皇后に礼を尽くさせた乳母
■宮女たちの皇帝暗殺計画。中国史上、屈指の怪事件「壬寅宮変」
■同治帝は後宮で生まれた最後の皇帝となった
■モンゴル王朝の後宮は健全だった
■明時代、皇后までは倍率五千倍
■永楽帝の後宮で起きた、三千人以上が死刑となった魚呂の乱
■明朝第一の悪女、万貴妃。皇子殺しに、皇帝のお手付きとなった女官も殺す
■清の康熙帝に二度廃立された悲劇の皇太子
■乾隆帝の隠れ家は三畳一間だった
posted by june at 03:56| Comment(0) | ニュース | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする