2026年05月14日

源義経の伝説【剣豪であり優れた兵法家】

源義経とは

源義経は兄の源頼朝の平氏打倒の挙兵に馳せ参じ、京都で木曽義仲を討ち取り、平氏との一ノ谷・屋島・壇ノ浦の合戦で平氏を滅ぼした、源氏の最大の功労者だ

源平合戦の中で源義経は当時では考えられない奇襲や兵法を用いたとされ、壇ノ浦の戦いでは船の上で八艘飛びをしたと伝えられる

また、武蔵坊弁慶との五条大橋での出会いでは、剛力な弁慶を感服させ家来にしたという伝説がある

源義経の剣豪としての実力や数々の伝説について追っていく


源義経の生い立ち

源義経は平治元年(1159年)清和源氏の流れを組む河内源氏の棟梁である源義朝の9男として生まれ、幼名を牛若丸と名付けられた

父・義朝は平治の乱で敗れ殺されて、生まれたばかりの義経は平清盛によって助命され、7歳の時に京都の鞍馬寺に預けられる

義経は鞍馬寺の東光坊阿闍梨覚日のもとに預けられ、僧になるように定められて遮那王と呼ばれる

幼い義経は僧になるべく勉学に励んでいたが、11歳の時に自分の家系図と記録を見つけて「父・義朝の本望を果たす」と武士になることを決意する

15歳の時には父の家人であった者の息子から「あなたは清和源氏の末裔で義朝公の御子ですよ!源氏が国々に押し込められていることを情けないと思いませんか?」と言われた

それ以来義経は学問を一切しなくなり、同輩の子供らと木刀や刀を振り回すようになる

剣術修業の噂

伝記物の中で義経は「天狗に兵法を習う」「鬼一法眼に剣術を習う」などと書かれているが、これは話を脚色して伝わっている

天狗説について
鞍馬寺は山岳修験の寺院で、京都では清水寺と並ぶ庶民の信仰の聖地である
その中で「鞍馬寺には天狗が出る」という噂が立ち、後に義経が身軽に動き回ることから天狗に兵法を教わったと広まったのだ

また、鞍馬寺の参詣に訪れた人たちに、宿坊の主人たちが「私たちの身内が義経に剣法を伝授した」と鞍馬寺信仰を広めるために勝手な作り話をしたのだ
だから、鞍馬寺には義経に関する「牛若背比べ石」や「義経堂」などゆかりの地がある

鬼一法眼説について
鬼一法眼は剣術の始祖と呼ばれる剣術の達人で、陰陽師でもあり妖術も使う剣術家である

鬼一法眼は鞍馬寺の八人の僧兵に武術を伝授した。これが鞍馬八流または京八流と呼ばれ、この八流が後の剣術の流派となっていくのだ

しかし、鬼一法眼は義経に直接伝授した訳ではなく、八人の僧兵の中の一人が義経に教えた流派が、後に鞍馬流となったとされている

義経は鬼一法眼の持つ中国から伝わった伝説の兵法書「六韜三略(ろくとうさんりゃく)」を読みたいと思って「本を写させて欲しい」と屋敷に頼みに行った

しかし、断られたために鬼一法眼の娘と恋仲になり、本を写して中味を完全に把握して娘を捨てて逃げてしまう。
怒った鬼一法眼は義経に追手を差し向けるのだが返り討ちにされてしまう

言わば義経と鬼一法眼は仇同志なので、鬼一法眼説は作り話である(※とはいえ鬼一法眼自体が伝説上の人物ではあるが)

六韜三略は伝説の兵法書で、「坂上田村麻呂は六韜三略を読んで奥州の悪路王を倒した」「平将門は六韜三略を読んで分身の術を体得した」など読んだ人物は神通力や魔法が使えるといった伝説がある

17歳でこの本を読んだ義経が、実際に後に平氏を滅ぼしたのだから説得力の高い伝説と言える

また、義経は六韜三略の話を聞く前に、奥州の藤原氏のもとに居てそこで馬術を習ったとされる

義経の剣術とは

鞍馬寺の僧兵から義経が習った剣術は「敏捷性を生かし短い刀を用いて素早く敵の懐に入る剣術」とされている

短い刀の実際の長さは53cmで、反りが大きな車太刀という刀だったという

六韜三略の書物を読んだ翌年、義経18歳の時に武蔵坊弁慶と運命的な出会いをする

京の五条大橋で、弁慶は千本の太刀を集めようとして999本になった所に義経が現れた

弁慶は「太刀をよこせ」と言って襲いかかったが、義経は橋の欄干に飛び移り弁慶をかわしてその場を立ち去る

翌日は清水寺で縁日があった、そこに義経が現れると思った弁慶は清水寺で待ち構えると義経がやって来た

再度挑んだ弁慶だが、飛び回る義経を捕まえられずに逆に馬乗りにされて義経に「家来になるか?」と問われて弁慶は降参するのだ

この話は創作とされ、弁慶の実在自体も立証されているわけではないが、各地に弁慶の逸話が残っているのも事実である

義経の兵法とは

義経の兵法は思いがけない奇襲だったとされている

一ノ谷の戦い
一ノ谷の合戦では3000の兵を連れて一の谷の北にある鵯越(ひよどりごえ)に向かった

この時、義経は弁慶に地形に詳しい狩人を呼ばせて絶壁の道を尋ねた

狩人が「途中に岩場があり人も馬も通れない」と言うと、義経は「鹿は通るか」と聞く

狩人が「通る」と答えると、義経は「鹿も四つ足なら馬も四つ足、通れぬことはない後に続け」と駆け下りた

義経の精兵たち30騎あまりが義経に続いて駆け下り、後から残る大軍も続いて下りたので、平氏はまさか絶壁から攻めて来るとは思わずに総崩れになって敗れた

屋島の戦い
屋島の合戦では、義経は平家の四国の拠点である屋島攻撃に向かったが激しい北風が吹いており、地元の船頭たちは反対した

しかし、義経は反対を押し切って、たった船5艘150騎で暴風雨の中強行し、風を逆に利用して通常3日かかる航路(1日と4時間とも)をたった4時間で着いてしまう

平氏方では海から義経の船団が来ると予想していいたが、義経は裏をかいて内陸から迫った

80騎の兵で対岸の民家に火をかけ、出たり入ったりを繰り返し、相手に大軍だと見せかけた

平氏方は船に急いで乗ったが、その後 手薄になった陸地に義経軍は攻撃し大勝した

壇ノ浦の戦い
壇ノ浦の合戦では、午前中は潮の流れに乗って平氏方が義経軍を圧倒していたが、義経軍は何とか耐えた

平氏は潮の流れが変わる午後3時までには勝敗をつけなければならなかったが、義経は潮が変わったと同時に当時タブーとされていた、船の船頭やこぎ手を矢で射殺しろと命じる

義経は「戦いは殺すか殺されるかだ」と手段を選ばずに船頭を殺した
※平家物語では射殺を命じておらず、大勢が決した後に源氏の兵が乗り込み船頭やこぎ手を殺したとある

平氏方は身動きが取れずに、義経は自ら船の上を飛びながら移動して敵を倒し、一気に形勢は逆転してついに平氏は滅亡した

六韜三略に「奇襲攻撃をせよ」という兵法が載っていたかどうかは定かではないが、義経は敵が考えもしない奇襲とタブーの戦術を用いたのだ

伝説となった源義経

源義経は剣術の始祖・鬼一法眼が教えた鞍馬寺の8人の僧兵の1人から剣術を学んだとされる

剣豪としては剛力無双の武蔵坊弁慶を倒し家来にした腕前と、自らが先陣をきって敵に向かっていく勇猛さを合わせ持つ

六韜三略を読み神通力を得たかのような数々の奇襲攻撃で父の仇を討った義経は、後に兄・頼朝の怒りを買って殺されてしまう

多くは創作や言い伝えであり立証されてないものも多いが、数多くの伝説が生まれるほどその実績は凄まじく、極めて有能な武将であったことは間違いないだろう

(この記事は、草の実堂の記事で作りました)

源義経は、源平合戦の源氏勝利の最大の功労者
(牛若丸時代も含め多くの伝説がある)
(戦の天才といえる)
立場をわきまえない部分もあったようだ
(政治的駆け引きなどには疎かったようだ)
そのため、後に兄・頼朝の怒りを買い殺されてしまった「悲劇の英雄」・・・

しかし、多くの生存伝説も生んだヒーローでもある
戦の天才ヘの憧れ、英雄の生存していてほしいという思いも感じる


源義経は剣術の始祖・鬼一法眼が教えた鞍馬寺の8人の僧兵の1人から剣術を学んだとされる

剣豪としては剛力無双の武蔵坊弁慶を倒し家来にした腕前と、自らが先陣をきって敵に向かっていく勇猛さを合わせ持つ

六韜三略を読み神通力を得たかのような数々の奇襲攻撃で父の仇を討った義経は、後に兄・頼朝の怒りを買って殺されてしまう

多くは創作や言い伝えであり立証されてないものも多いが、数多くの伝説が生まれるほどその実績は凄まじく、極めて有能な武将であったことは間違いないだろう




源平武将伝 源義経 (日本の歴史 コミック版 17) 単行本

戦の天才にして、悲運の武将・源義経!
源平合戦の英雄の、短くも激しい生涯を、現代的絵柄でコミック化!
監修の加来耕三先生による解説も必読!!
posted by june at 04:06| Comment(0) | ニュース | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2026年05月13日

葛飾北斎の魅力「あと5年で本物になれた」画狂老人

穏やかな広重に対し、色鮮やかでダイナミックな北斎の浮世絵版画
しかし、彼はどこまでも貪欲であった
特定の手法や分野に縛られることなく、多彩な作品を手がけたのである

葛飾北斎の魅力を調べてみた

自然を切り抜く

北斎の創作意欲を刺激したのは、自然、つまり「形のないもの」である
水、風、といったビジュアル化しにくいものをいかに表現するか
代表的なところでは、水の流れる様子。世界的に有名な「大波」のモチーフはもちろん、『諸国滝廻り』などからも、水の躍動感、ダイナミズムを捉えようという情熱がよく分かる

そして、風景画だけではなく、時には『芥子(けし)』のような花鳥画でも、モチーフに動きをつけて見えない空気の動きを巧みに表現した
この花鳥画でも、可憐な芥子が強風に耐えるさまが印象的である
北斎の花鳥画のなかでも特に人気が高いというのも頷ける

売り上げの広重・集客の北斎

現在では「複製版画が売れるのは北斎より広重」といわれる
東海道五十三次などの浮世絵で有名な歌川広重である
しかし、展覧会の集客力なら断然北斎のほうが高いともいう

2014年に上野の森美術館で開催された「ボストン美術館浮世絵名品展 北斎」は51日間で約21万人を動員している
同年の美術展入場者数では12位、個人の浮世絵展ではトップであった

常識的で繊細な広重と違い、北斎の構図は大胆で奇抜ともいえる
部屋に飾るには物々しいが、たまに見るなら刺激的でいいということかも知れない
型破りな構図は『富嶽三十六景』などの連作で見ることができる。『諸国名橋奇覧』は各地の橋がテーマとなっており、『飛越(ひえつ)の堺つりはし』は、曲芸のような歩き方に危うさを覚え、橋の先も谷の下も見えないためにより想像力を掻き立てられるのだ

さらにその先へ

北斎は天与の才に驕ることなく、絵を描きたいという純粋な意欲によって、貪欲にその技術を向上させたのだろう
現状に満足することなく、内外古今の画法を研究しては、躊躇することなく自分のスタイルを変えていった
事実、その画力も老いてゆくほど驚くべき向上を見せたことだ
富嶽三十六景など北斎の代表作の多くが70歳を過ぎてから描かれている

75歳の作品『富嶽百景』は、スケッチ画だがそこに北斎の波へのこだわりが見える
「海上の不二」ではモノトーンの波がぐっとせり上がり波頭が崩れる
さらに砕け散った波頭は鳥となって富士へと降りかかるという、現実にはあり得ないが見るものを惹き付ける新境地を開いた

5年ほど前の作品で、同じく大波をモチーフにした『富嶽三十六景』「神奈川沖浪裏」では、富士を中央に配し、翻弄される船との対比によって波の荒さを強調しているが、「海上の不二」ではシンプルな富士を奥に置き、あとは波の動きだけでその荒さを伝えている
無駄を削ぎ、より先鋭化しているといえるだろう

葛飾北斎 の悟り

そうした変化は北斎自身も自覚、というより求めていたものである
なにせ、『富嶽百景』のあとがきでは、70歳以前の作品を「どれも取るに足らない」と言い切り、さらに「86歳になればもっと上手くなり、90歳で奥義を窮め、100歳となったときには神の領域に達し、110歳からは生きているかのような画を描けるはず」とまで豪語している

当時は平均寿命が50歳にも満たなかった時代
70歳からの20年間に絵師としての本領を発揮したことは驚嘆に値する

天才画家にありがちな浪費癖もあったようで、日常生活での金遣いにはルーズであった
だが、金で片付くなら諸事は手早く済ませ、その分の力を作品に向けたのだろう
北斎は無自覚だろうが、そうした生活が余計なストレスから彼を遠ざけ、長生きさせた一因でもあるようだ

70代で版画を捨て、絵本と肉筆画に傾注するようになったのも、クライアントの指図に縛られたくないと思えばこそであった。

こだわりの根源

数え90で亡くなる数ヶ月前には、富士を越えて龍が天に昇る『富士越龍図』を描いた
まるで噴煙の如くたなびく黒雲に導かれ、天に昇る龍
例によって幾何学的な富士山の造形は、墨絵ということもあったか、この世のものとは思えない


北斎の頂点をなす肉筆画の傑作だ

北斎は歳を重ねるほどに、宇宙、神、生命の根源といった超自然の概念に傾注するようになったという
写実性よりも独自の表現を追及した世界観は、確かに現世ではない景色を切り取ったかのように幻想的である

水や風の如く、捉えがたい題材こそ絵にしたいという絵師としてのこだわりは終始あったのだ

最後に

北斎の最大の武器は情熱であった

絵師としえの見栄などに頓着せず、描きたいものは何でも描いた
挿絵はもちろん、幟や、封筒、菓子袋にあしらうものまであらゆる絵に挑戦したという
晩年には「画狂老人」とまで名乗ったくらいである
改名や引越しの多さなど私生活での奇行を指摘する声も多いが、すべては最高の絵を描くための環境作りだったと思えば理解できる
全ての情熱を作品だけに傾けた人生であったのだ

北斎は死の床にあって『あと5年あれば本当の絵師になれた』とうそぶいたというのだから

(この記事は、草の実堂の記事で作りました)

葛飾北斎は、生涯にわたって、向上心を忘れず、変化・前進し続けた

あらゆるもの、森羅万象を描き、いろいろな画法に挑んだ

絶筆(最後の作品)ともいわれる富士越龍図は、シンプルな墨絵のようだが、そこにこそ北斎の凄みを感じさせる

生活の(ほどんど)全てを絵を描く情熱に注ぎ込んだ「画狂老人」・葛飾北斎・・・

死の前、「あと5年あれば本当の絵師になれたのに」といったという




もっと知りたい葛飾北斎 改訂版 生涯と作品 (アート・ビギナーズ・コレクション) 単行本

絵を描くことに情熱を傾けたある意味「変人」の天才画家・葛飾北斎・・・
森羅万象あらゆるものを描いた彼の作品と数奇で興味深い生涯を紹介・解説
posted by june at 12:05| Comment(0) | ニュース | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

なぜ我が子を殺せたのか 〜昔の農村にあった「間引き」の実態

間引きとは

「間引き」とは、生まれたばかりの乳児を育てず、命を絶つ行為を指す言葉である

現代の感覚では到底受け入れがたいが、かつての農村では苦しい選択として行われることがあった

江戸時代中期以降、農村の人口減少が問題となるなかで、幕府や諸藩は赤子の間引きを禁じ、養育を奨励する政策を打ち出すようになった

それでも一部の地域では慣行として残り、赤子が生まれた直後に、育てるか、返すかの決断が下されていた

言葉の由来と選別基準

「間引き」とは本来、農業用語である

発芽した苗のうち、育ちの悪いものや密集したものを抜き取り、残された苗に十分な空間と養分を行き渡らせて収穫を確保する、ごくありふれた作業を指す言葉だ

やがてこの言葉は、乳児の命の選別にも用いられるようになった
育てきれない子どもを取り除くことで「家」全体を生かすという発想が、農作業の論理と重なっていった

また、間引きの選別基準もいくつかあった

大きな影響を与えたものの一つが、性別である
農作業の担い手として男子が重視される地域では、女子が間引きの対象になりやすかった

さらに双子や三つ子、奇形や障害、早産で体が弱いなどの他に、親の厄年や丙午(ひのえうま)といった暦の条件もあった

「丙午生まれの女子は夫を食い殺す」という俗信には何の根拠もなかったが、こうした迷信も、出産直後のごく短い時間のなかで赤子の運命を左右することがあったのだ

なぜ「殺す」ではなく「返す」と呼んだのか

こうした行為を、当時の人々は「殺す」とは言わなかった

「子返し」「子戻し」「送り返す」など、いずれも命を断つのではなく、元の場所に戻すという意味を持つ言葉である

その背景にあるとされるのが「七つまでは神のうち」といった観念である
数え年7歳に達するまでの子どもは、まだ完全にこの世に属しておらず、あの世との境界にいる存在と見なされていたのだ
親が育てると決めて共同体に迎え入れることで、初めて「人」になるため、それ以前に「返す」行為はこの世にまだ来ていない命を元に戻すことを意味した

こうした境界線の置き方は当時の死亡率と無関係ではない

歴史人口学者の鬼頭宏氏の研究によれば、江戸時代中期から後期の濃尾地方における乳児死亡率は、出生1000人に対しておよそ150〜190人で、地域によってはさらに高い推計もあるという

つまり、少なくともこの地域では生まれた子の約15〜19%が、満1歳を迎える前に亡くなっていたのだ

「返す」という言い方は、残酷さを覆い隠すためのものではなく、現代とは違う倫理体系があった

間引きをした理由

間引きの理由として、まず挙げられるのは貧しさである
重い年貢と限られた農地のもとで、子どもを養う余裕のない家はたしかに多かった
しかし、それだけが理由ではない

当時の農村では、何よりも「家」を残すことが重んじられた
子どもが増えすぎれば、一人あたりに分けられる土地や財産は少なくなり、いずれ家そのものが苦しくなる

そのため間引きは、家の存続を見据えた人口管理としての側面もあった

世間体や信仰も理由の一つである
体に異常のある子は「家に災いをもたらす前触れ」と恐れられ、そうした子を産んだことで周囲から厳しく見られることもあった

変化していった倫理観

18世紀半ば以降、東北から北関東の諸藩では「赤子養育仕法」と呼ばれる出産奨励策が順次導入された。

二本松藩では延享2年(1745年)に始まり、子どもの数に応じて米や金銭を支給した
妊婦を登録させ、流産・死産があれば遺体を検分する仕組みまで整えた

幕府が間引きを正式に禁じたのは、明和4年(1767年)である
触書には、出生した子を産所で殺す行為を「不仁の至り」と記した

白河藩主・松平定信は、赤子養育金を支給する一方で、間引きの罪によって地獄に落ちる様子を描いた「受苦図」を村々に持ち回らせるなど、信仰に訴える形でも間引きの抑止を図った

このようにあらゆる手段が講じられたが、間引きは止まらなかった

間引きがなくなっていったのは、明治以降である
戸籍制度が整うと、子どもは生まれた時点で国家に記録される存在になった
赤子の命は家の内側だけで扱えるものではなくなり、役所や警察の目が届くものへと変わっていった

そうした変化の中で、間引きは「やむを得ない子返し」ではなく、明確な犯罪として見られるようになる

倫理が法を変えたのではなく、まずは社会の構造が変わり、そのあとを追うように倫理もまた書き換えられていったのである

江戸時代の親が間引きを行えたのは道徳心が欠けていたからではなく、現代とは異なる倫理の枠組みのなかで生きていたに過ぎないのだ

参考文献 :
鬼頭宏『人口から読む日本の歴史』講談社学術文庫、2000年
太田素子『子宝と子返し――近世農村の家族生活と子育て』藤原書店、2007年
文 / 村上俊樹 校正 / 草の実堂編集部

(この記事は、草の実堂の記事で作りました)

間引きとは、本来は農業用語で、育ちの悪い、密集した作物を「選別」して引き抜くことだった

それが人間の子供を「選抜(!?)」して「殺す」ことにもつながった

貧しさや家存続のために「間引き」が行われた

当時の子供の死亡率の高さもあったどろう

子は7歳までは「人」になっていない、双子以上の兄弟・姉妹、障害のある子、迷信なども間引きに関与した

当時の宗教観、倫理観、考え、風習、常識などが現代とは違った・・・


当時の考え、風習、常識に「おじろく・おばさ」もあった

参考記事:20世紀まで続いた日本の奴隷制度 「おじろく・おばさ」~長男以外は奴隷

今では考えられない奴隷制度、差別制度だが、当時の考え、風習、常識以外も人口抑制、家存続などもあったようだ

その点においては間引きと似ている




人口から読む日本の歴史 (講談社学術文庫 1430) 文庫

増加と停滞を繰り返す、4つの大きな波を示しつつ、1万年にわたり増え続けた日本の人口
そのダイナミズムを歴史人口学によって分析し、また人々の暮らしの変容と人生をいきいきと描き出す
近代以降の文明システムのあり方そのものが問われ、時代は大きな転換期にさしかかった
その大変動のなか少子高齢化社会を迎えるわれわれが進む道とは何か


子宝と子返し〈増補新版〉 〔近世農村の家族生活と子育て〕 単行本(ソフトカバー)

江戸期農村の豊かな人間形成力――現在の教育がその「子宝的子育て」に学ぶものとは?

近世農村の家族にあった、子どもへの情愛と、丁寧な子育て
嬰児殺し(子返し)、捨子といった子育ての困難、悲しみを直視しつつ、日記などの生活記録を丹念に分析し、共感的な理解に満ちた子ども観、仕事を介した大人―子どものコミュニケーションなど、江戸の豊かな人間形成力を描き好評を博した初版に、江戸期の避妊や産児制限、そして性愛のありように焦点をあてた論文を増補
posted by june at 03:59| Comment(0) | ニュース | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2026年05月12日

お寺でよく見る「如来」とは? 釈迦如来から大日如来まで解説

仏さんは、たくさんいらっしゃいます

大変に畏れ多いことですが、もし仏さんをお偉い順に並べてみると、どうなるでしょう

第一は、ご本家の「如来」さん
第二は、分家筋にあたる「菩薩」さん
続いて、本家をお守りする「明王」さんや「天」さん、「羅漢」さんとなります

こうしてみると、なにやら仏さんの階級のようですが、それぞれに生まれ故郷があり独自の履歴や専門分野を持ち、あらたかな霊験を通して人間世界と深く関わっておられます

今回は、この中からご本家にあたる「如来」さんについて解説します

「如来」さんって、どのような仏さん?

「如来」さんは、真如の世界から来て、衆生(しゅじょう)、すなわち生きとし生けるものを救ってくださる仏さんです

ちなみに「真如」とは、簡単に説明するのが大変難しい言葉ですが、浄土宗での説明によると、偏りや執着がなく、すべてが平等につながり一体となっている悟りの境地であり、煩悩や迷いがない本来の清浄な世界を意味するとされます

ですから「如来」さんは、そのような「真理」の世界から来て、私たちを救ってくださるのです

では、次に主な「如来」さんを紹介しましょう

釈迦を通して示される教えを表わす「釈迦如来」

菩提樹の下で悟りを開かれた、仏教の宗祖である人間・釈迦
その教えを体現している仏さんが「釈迦如来」です

端正なお顔立ちが特徴で、右肩を露わにした衣をまとっています

右手の掌(てのひら)を正面に向けて優しく開き、左手は掌を上にして静かに膝に置く

この手の形を「施無畏印(せむいいん)」「与願印(よがんいん)」と言い、前者は諸々の不安を除き、後者は願いを聞き届けるという、慈悲の心を表しています

すべての衆生を極楽に導いてくださる「阿弥陀如来」

「ナムアミダブツ」のお念仏で知られる、極楽浄土の教主です

「アミダ」はインドの言葉を音写したもので、「無量」を意味します
「無量」とは、計り知れないほど大きい・多いということで、人間の分別を超えた絶対的な範囲・時間・智慧を指す概念です

阿弥陀如来さんは、その大きな慈悲によって、信ずるすべての衆生を極楽に導いてくださる仏さんです

手の形は「九品印(くほんいん)」と呼ばれ、人差し指・中指・薬指のいずれかと親指で輪をつくっています

両脇に観音菩薩、勢至(せいし)菩薩を伴っておられるものを三尊と称します

末法思想に怯えた平安貴族の心をとらえ、数多くの仏像が造られました

衆生の病苦を除いてくれる「薬師如来」

「薬」の名前が示すとおり、病苦を除いてくれる仏さんです
この仏さんは、如来になる前、菩薩として修行中に十二の大願を立てられました

その第六・第七の願には、「病気を治し、身体を健やかにし、豊かな生活を送れるよう導こう」という誓いがあります
「オン コロコロ センダリ マトウギ ソワカ」と、お薬師さんの真言を唱えながら痛いところをさすると、痛みが取れるとも言われます

手の形はお釈迦さまと同じ場合もありますが、左手に薬壺を載せる姿も多く見られます
両脇に日光菩薩・月光菩薩を伴ったものを三尊と言います

仏のなかの仏と言われる「大日如来」

密教における最高位、仏のなかの仏と言われるのが「大日如来」さんです
そのためか、頭上に宝冠を戴き、身に装身具をまとった、荘厳な姿で表されます

実は大日如来さんには、知徳を表す「金剛界」と、理徳を表す「胎蔵界」の二つの姿があるのをご存じでしょうか

手の形は、前者は「知拳印(ちけんいん)」と言い、忍者が呪文を唱えるときに人差指を握る独特の形をしています
後者は「法界定印(ほうかいじょういん)」と言い、坐禅のときのように両手の掌を上にして親指の先を合わせます

以上が、主な「如来」さんについての説明です

読書の皆さんが、お寺で「如来」さんにお会いする機会があれば、この記事を思い出し、敬虔(けいけん)の念をもって向き合っていただければ幸いです

※参考文献
京都歴史文化研究会(高野晃彰)著 『京都札所めぐり 御朱印を求めて歩く』メイツユニバーサルコンテンツ
文 / 高野晃彰 校正 / 草の実堂編集部

(この記事は、草の実堂の記事で作りました)

仏教には多くの仏がいます
如来、菩薩、明王、天、羅漢などです
(偉い順でいえば、上記の順となります)
(しかし、偉いとされる先生は近づき難く恐れ追い面もあるように、菩薩以下の仏に、先輩や同輩に近い(!?)身近さなどもあります)

如来では、密教における最高仏は大日如来となっています
大日如来は、太陽の化身ともされ、(仏の最高位が大日如来であることは)世界中にある太陽信仰との共通点などを感じます
(万物に恩恵やエネルギーを分け隔てなく与える太陽にシンパシー、畏敬の念なども感じます)








京都 札所めぐり 御朱印を求めて歩く 巡礼ルートガイド 改訂版 Kindle版

★ 古寺社・名刹の歴史や由来を霊場ごとに詳しく紹介
★ 御朱印をいただきながら、心を癒す巡拝の道行きへ


◆◇◆ 本書について ◆◇◆

西日本の著名な巡礼として西国三十三箇所巡礼がある
近畿2府4県と岐阜県に渡る33所の観音霊場を巡るのであるが、広いエリアにある札所を巡るのには時間とそして費用がかかった
昔は巡礼に出られるのは一家の内でも家長とか長男に限られていた
そこで京都近郊に限られた狭いエリアで三十三所巡りができる観音霊場が興された
さらに七福神めぐりなど、寺院や神社への巡礼が盛んにおこなわれるようになった

こうした寺社巡り、参詣・参拝すると押印してもらえるのが御朱印である
元来は寺社の写経を納めた際の受付印とされたが、今は少額の金銭(おおくは300円)を納めることで、独特の墨書と印を押した御朱印をいただける
御朱印を受けると、寺社にきちんとお参りを澄ませたと言う充実感が味わえる
この気持ちが大切で、神仏に対する尊敬や畏敬の念なしに、御朱印収集のみに執着するのは、慎むべきである

本書では京都市近郊の洛陽三十三所観音巡礼、
洛西三十三所観音霊場、招福の神様を詣でる都七福神めぐり、開運・厄除けを祈る洛陽十二支妙見めぐり、京都の由緒ある寺社をめぐる京都十六社めぐりを中心に、その札所の歴史やいわれ、さらにそれぞれの御朱印を紹介している
心を癒す札所めぐりと御朱印収集のガイドとして活用していただくことを切に希望しています



眠れないほどおもしろい「密教」の謎: 驚くべき「秘密の世界」がそこに! (王様文庫) 文庫

シリーズ累170万部突破!
弘法大師・空海の息吹が伝わる東寺・国宝「両界曼荼羅図」のカラー口絵付き!

なぜ「神通力」がついてしまうのか――
知れば知るほど謎めく「密教ワールド」の全貌に迫る本!


眠れないほどおもしろい「日本の仏さま」: 同じようで、一体どこが違うのか? (王様文庫 A 65-14) 文庫

仏教界のスター列伝、仏像の種類、真言など、仏教が驚くほどわかるようになる本

◇大天才・空海が修した「虚空蔵求聞持法」とは
◇法然登場! すべてを捨てて”民衆のなか“へ
◇「観音さまのお墨付き」で肉食妻帯に踏み切った親鸞
◇なぜ、日蓮はこれほどまでに”熱い“のか
◇神変大菩薩・役小角が用いた「孔雀明王の秘法」
◇鬼に変身した比叡山のカリスマ・元三大師
◇人はなぜ「秘仏」に惹かれるのか
◇霊能力がついてしまう「真言」とは?
◇なぜ菩薩は、如来と違ってオシャレなのか
◇どんなダメな人も救ってくれる”奇特な仏“とは?
◇「受験生が絶対、味方につけたい」菩薩


仏像の事典 単行本(ソフトカバー)

仏像を仏の教えと古美術の観点から解説

「如来」「菩薩」「天」などの仏像は何を意味しているのか、姿形にはどんな特徴があるのか、人々はどのように信仰してきたのかを、仏の教えと古美術の観点からわかりやすく解説
また手の形、ポーズ、装飾、素材、製作技法、様式から仏像鑑賞のポイント豊富な写真を使い説明
仏像鑑賞Q&Aでは、「仏像の種類が多いのはなぜ?」「「秘仏の拝観方法」など素朴な疑問に答えます
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古代神話のはずが後世の創作?「スルトの剣、ブリューナク、パレス」広まりすぎた俗説3選

神話は、人類が長い時間をかけて語り継いできた物語である

時代も地域も異なる人々が残した物語をたどれることには、大きな面白さがある
しかし、そうした物語は時間とともに解釈や脚色が重なり、しばしば本来の姿から離れていく

世に流布する神話の誤情報や俗説について見ていきたい


謎の武器レーヴァテイン

ゲルマン民族に伝わる北欧神話は、ギリシャ神話に比類し得るほどの知名度を誇る

日本においては、ゲームや漫画などのファンタジー作品のモチーフとして、引っ張りだこである
だがその人気ゆえに、間違った情報も多く拡散してしまっているのが現状だ

もっとも有名な誤情報といえば、「スルトの剣=レーヴァテイン」が挙げられる

スルト(Surtr)とは、世界の終焉「ラグナロク」の際に現れる巨人であり、手に持つ「炎の剣」を振るい、この世を焼き尽くすとされる

一方、レーヴァテイン(Lævateinn)は鶏を殺すための武器であり、剣であるとも枝であるともいわれる
本来このレーヴァテインと炎の剣は全く別々の武器なのだが、どういうワケだか同一視されてしまったのだ

その理由の一つに、レーヴァテインの所有者がスルトの妻シンモラだとされたことがある
神話によれば、レーヴァテインは悪神「ロキ」によって作られ、9つの鍵が掛かった箱に収められたのち、シンモラの手に渡ったのだという

つまり「奥さんが持っているなら、その旦那が持っていても不思議ではないだろう」と、誰かが考えたのである

捏造兵器ブリューナク

ケルト神話にも、後世に広まった俗説が見られる

その代表例が、日本で知られる「ブリューナク」である
太陽神ルーが持つ必殺の槍で、矛先は5つに分かれ、投げれば稲妻に変わり、敵をどこまでも追尾して焼き殺すとされる

設定が非常に魅力的だったせいか、ゲームやファンタジー作品において、ケルト神話由来の武器としてたびたび登場するようになった

しかし、ケルト神話の原典に「ブリューナク」という名の武器は確認されていない
日本でこの名が広まった大きな出所は、1990年に発売された解説本だとされる

当時の日本では、ケルト神話に関する情報が今ほど手に入りやすくなかった
そのため、もっともらしく紹介されたこの武器が、いつしか「神話に登場する武器」として受け止められていったのである

パレスチナの祖はロバの神!?

古代ローマでは、日本の八百万の神々を思わせるほど、多種多様な神格が崇拝されていた

その一柱に、牧畜の神パレスがいる

パレスは男性神とも女性神ともいわれ、毎年4月21日には、この神にまつわる「パリリア」という祭りが行われていた
しかし、パレスは古代ローマの神々の中でも情報が少なく、後世にはさまざまな説が入り混じることになった

その一つに、

「パレスはカナン、現在のイスラエルやパレスチナ周辺で信仰されていた、両性具有のロバの姿をした神であり、パレスチナという地名はこの神に由来する」

というものがある

だが、カナンの地でパレスが信仰されていたことを示す確かな資料は確認されていない

また、パレスは性別がはっきりしない神格ではあるが「両性具有のロバの神」とまで言い切るには根拠が乏しい
牧畜神であることから、後世に動物的なイメージが重ねられた可能性はあるが、原典でその姿が明確に示されているわけではない

さらに、パレスチナという地名がパレスに由来するという説も疑わしい

「パレスチナ」という名称は、カナン南部に定着したペリシテ人と結びつけて説明されることが多い
ペリシテ人が住んでいた地域を、古代ギリシャ人が Palaistínē と呼んだことが、パレスチナの語源になったというのが通説である

一方、ローマの神パレスの名は、ラテン語で「養う」「草を食う」などを意味する pascere と関係すると考えられている

つまり、パレスとパレスチナは名前が似ているだけで、両者を直接結びつける根拠は乏しいのである

もちろん、古代の神話伝承には失われた資料も多く、すべてを断定することはできない

だが少なくとも、現在確認できる原典や研究の範囲では、レーヴァテイン、ブリューナク、パレスをめぐる有名な説明の多くは、後世の解釈や創作によって膨らんだものと見てよいだろう

参考 : 『フィヨルスヴィズの歌』『Undersökningar i germanisk mythologi』『虚空の神々』
文 / 草の実堂編集部

(この記事は、草の実堂の記事で作りました)

神話の多くは、元々「創作」だろう

しかし、神話の生まれた歴史背景、神話の出来るエピソード、根拠、理由、思想、考えなどはあるだろう

それら神話は、本来とは違ってくることは、時代背景の移り変わり、解釈の変化、脚色などによってもある

これは、神話に限らず、昔話、伝承などにおいてもそうだ

時代などとともに変化した俗説などが広く語られることもある

これらは、時代の変化を映す鏡でもあるのだ

変化で広まった俗説以外にも本来の元々の話を知るのも楽しい・・・



虚空の神々 (Truth in Fantasy 4) 単行本

ケルト神話・北欧神話などを解説
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2026年05月11日

類まれなる先見性!織田信長は「先を読む力」で戦国最強軍団を構築した

足利尊氏以来、約240年間続いた室町時代を終わらせ、安土桃山時代の礎を築いた織田信長

日本各地に割拠する有力戦国大名を次々と制し、天下統一まであと一歩に迫ったその実力は、一体どこにあったのか
そして、それを成し得た強力な軍団をいかにして築いたのか

その根拠は、信長の類まれなる才能ともいうべき「先見性」にあった

織田信長の先を読む力に焦点をあて、その軍団の強さを探っていこう


農民を職業軍人化して「兵農分離」を実施

日本史において兵農分離というと、豊臣秀吉が行った「刀狩令」が有名だ
しかし、信長はいち早く「兵農分離」を実践していた

戦国時代になると、武士たちは主君の本城がある城下町に屋敷を構えた
そのうえで、主君から与えられたり、保証された領地にも城・館を構えた

そこは、本城に対する支城群であるとともに、年貢を得るための耕作地でもあり、有事以外は家臣や農民を使い農業に勤しんでいたのだ

そして、いざ出陣となると農民を兵隊=農兵として徴用した
そのため、戦国時代に戦闘に参加したのは武士だけではなかった
その割合は、25%が武士で、残りの75%が農民=農兵という感じであり、武士にしても地侍のように、農民的な比重が高い人々が多かったのだ

戦争を生業とする戦国大名にとって、何よりも大切なものは財力だった
財力がなければ戦争はできない
なぜなら武器も買えないし、兵隊を養うこともできない
ましてや、城砦を築くこともままならないだろう

その財力として、領地からとれる農作物、とりわけ米は大切な財源だった
敵の領地を侵略した際に「刈田狼藉」といった田畑の作物を刈り取るような戦略が行われたのも、こうした理由からである

戦国大名の家臣たちは、極端な言い方をすれば、半士半農的な生活を送っていた者が多かった
それ故に、春の田植えと秋の稲刈りの時期に戦争ができないのは至極当然のこと
つまり、1年を通じての継続した戦争はほぼ不可能だったのである

他国との戦争でその遠征中に、田植えと稲刈りの時期になってしまったら、たとえ有利に戦況が進んでいたとしても、いったん自領へ帰らなくてはならないという矛盾を抱えていたのだ

そのため、多くの戦国大名たちは、農閑期を中心に戦争を行っていた

これは、領土拡大を目指す戦国大名にとっては、大きな足かせになっていたのである

それに対し信長は、従来の発想を転換し「兵農分離」を実践した

農民の次男三男を農地から引き離し、清州などの城下に移住させたうえ、給金を払い職業軍人とした

さらに、兵力を城下に集中することで信長からの命令系統がスムーズになり、戦闘軍団としての機動性が大幅に高まったのだ

こうして、織田軍団は常備軍団となり、1年中いつでも戦えて遠征も容易に行えるようになった

もちろん、「兵農分離」には職業軍人に支払うための財力が必要だった
その財力を賄うため、信長は商業を重視する「重商主義」政策をすすめたのである

領内の市を発展させ、堺を支配した「重商主義」

鎌倉時代に確立した定期市は、室町時代に入ると商品流通の拡大に伴い、月6回開催する六斎市へと発展していく
財力の備蓄に励んだ戦国大名の多くは、この市を収入源として自らの城下に誘致した

教科書では信長の専売特許のように書かれる楽市・楽座は、多くの戦国大名たちが取り入れた商業政策だった

ただ戦国大名によっては、商業を重要視する度合いは異なる
肥沃な土地を持ち、米や作物が多く採れる大名は農業を重視するからだ
一方でそうでない大名は、否が応でも商業を重視する「重商主義」を採用せざるをえなかった

では、信長はどうだったのだろう
信長が本拠とした尾張国は、木曽川・庄内川などの河川が運ぶ肥沃な土地に恵まれていた

そんな土地を領有しながら信長の父・信秀は、自領から得られる年貢以外の経済的基盤として、萱津・熱田・津島などの商業都市を保有し、そこから得られる財力をフルに活用して、尾張統一を目指していたのだ

信秀亡き後、信長は尾張半国とそうした商業都市を受け継ぎ、さらに発展させていく
これは、幼い頃から「重商主義」をとる父の姿を見たことで、商業から得られる利益がいかに大きなものかを実感していたのだろう

後に信長は、国際貿易都市・堺に狙いを定める。町衆により支配された当時の堺は、南蛮貿易の基地として莫大な利益をあげていた

信長は武力で町衆を屈服させ、堺を直轄領とした
そして、そこで得られる利益だけでなく、新兵器である鉄砲の輸入・生産・弾丸・硝薬の供給ベースとし、織田軍団のさらなる強化を成し遂げたのである

「新兵器」である鉄砲を活用する戦術を編み出す

新たな武器の登場や採用は、戦争の姿を一変させる

室町初期の南北朝時代に楠木正儀により採用された槍は、騎馬武者による一騎討から、槍を前面に押し出す歩兵での集団戦に戦法に急変させた

戦国時代の新兵器の代表は何といっても鉄砲だろう
よく信長のみが鉄砲の利点に気付いて積極的に採用したようにいわれるが、事実はそうではない

多くの大名・武将たちは、いち早く鉄砲に注目した
しかし単に注目するだけでなく、積極的に取りいれるとともに、いかに活用するかが重要だった

信長はその点において、他の戦国大名たちを大きくリードしていたといっても過言ではないだろう

前項で述べたように信長は堺の商人に命じて、最新式の鉄砲を集め、製造させ、弾丸の材料となる良質な鉛や硝薬を確保した

そして、発砲するまでに時間を要する火縄銃の弱点を補うために、三段戦法を活用し、長篠戦いで武田勝頼を破った
また、石山本願寺攻めの海戦においては安宅船に鉄の装甲を施し、多くの大鉄砲を搭載した鉄甲船で押し寄せる毛利水軍を撃破したのだ

世襲制・終身雇用制から「能力主義」への転換

そして、戦国最強の織田軍団を築いた信長の「先見性」を語るうえで外せないのが、「能力主義」への転換を図ったことだろう

信長は家臣団を運営するにあたり、積極的に「能力主義」を重視した人事を行った
譜代の家臣であろうと、新たに召し抱えた新参者であっても差別をしなかった

数10年前から日本の多くの企業が、「終身雇用制」から「能力主義」へと舵を切った
しかし、歴史を振り返ると、日本では古くから世襲制や終身雇用制が重視されていたのは周知の通りだ

例えば、江戸時代には上級武士の家に生まれた者は、とんでもない失敗をしない限り生涯恵まれた生活を送れ、代々受け継ぐ良い役職に就くことができた
しかし、下級武士に生まれた者は一部の例外があったにせよ、基本的には生涯低い報酬と低い役目に甘んじたのだ

大河ドラマ『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』に登場する老中・田沼意次が、他の幕閣からネチネチと嫌味を言われているのは、意次が足軽出身の家系だったからだ

下剋上が盛んだった戦国時代には、豊臣秀吉など商人・農民から立身出世を遂げた人々はいた。だが、それはほんの一部であり、多くは世襲制という縛りの中で生きていたのである

その点、信長は優れた功績を残した者にはそれにふさわしい報酬で報い、逆にさしたる働きがない者には厳しい処断を下した

信長の性格が語られるとき、ワンマンで気分屋のようにいわれる
しかし、その人事は決して思いつきで決めたわけではない

他国に優秀な人材がいるという情報があれば、祐筆衆をスカウトに向かわせ、最終的には自分が面談し採用を決めた
決して「良きに計らえ」ではないのだ

信長のもと頭角を現していく、豊臣秀吉・明智光秀・滝川一益の3人は全て新参者で、その氏素性は不明なところが多い
また、従来より信長に仕えていたとされる、柴田勝家・森可成・丹羽長重・佐々成政・前田利家なども、自らの能力で信長に重用された

そんな配下の家臣団に対しては、優秀な査定官である祐筆衆に細かくその働きぶりをチェックさせて、公平な査定を実施したのである

本能寺の変直前には、織田家の所領は800万石という、とてつもなく大きなものになっていた
後の江戸幕府の天領400万石の倍の領地を支配し、信長と嫡男信忠を頂点として、天下統一に向けた大規模軍団が編成されていた

その軍団は畿内・中国・北陸・関東・四国の5つ方面軍に分かれ、各軍団長は方面軍を統帥する選りすぐりの武将たちだった
そして、5つの方面軍のうち、実に3つが明智光秀(畿内)・羽柴秀吉(中国)・滝川一益(関東)という新参者で占められていたのだ

こうした信長の能力本位の人事が、織田家への忠誠心と組織・軍団の強力化につながったのは間違いないだろう

そして、信長はその卓越した「先見性」で、織田軍団をして戦国最強の兵団に仕上げていったのである

参考 : 『信長公記』『太平記』他
文/高野晃彰 校正 / 草の実堂編集部

(この記事は、草の実堂の記事で作りました)

類まれなる「先見性」が織田信長を天下統一目前まで向かわせた

・農民を職業軍人化して「兵農分離」
・領内の市を発展させ、堺を支配した「重商主義」
・世襲制・終身雇用制から「能力主義」へ

信長はこれらの卓越した「先見性」で、織田軍団をして戦国最強の兵団に仕上げていったのである

ただし、能力主義で採用した明智光秀に裏切られたのは「皮肉」ともいえる



現代語訳 信長公記 (新人物文庫) 文庫

織田信長の生涯を描いた一代記である「信長公記」は、信長の旧臣太田牛一が、実際に見聞きした信長の記録をもとに執筆したもの
そんな一級史料が現代語訳版でスラスラ読める!信長ファンの必読書
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「鬼島津」島津義弘、その壮絶なる退き口と死闘の人生

戦国時代、九州に「鬼島津」と恐れられた猛将がいた

島津四兄弟の次男、島津義弘(しまづ よしひろ)である

彼は幾多の戦場において抜群の武勇を発揮し、その勇猛果敢な戦いぶりは敵味方を問わず畏敬の念を抱かせた

薩摩・大隅(現在の鹿児島県)という日本列島の南端から出陣し、やがて朝鮮半島にまでその名を轟かせた島津義弘の生涯と戦歴を、あらためて振り返ってみたい


九州の勇 島津家の次男

島津義弘は、天文4年(1535年)7月23日、薩摩国伊作城(現在の鹿児島県日置市)で、島津貴久の次男として生まれた

彼には兄の義久、弟の歳久・家久があり、後にこの四兄弟はそろって島津家の躍進に大きく貢献することになる

義弘の幼少期、薩摩・大隅・日向の三州は分裂状態にあり、薩摩国の一部を父・貴久が、日向や出水周辺を分家の島津実久が掌握していた
なお、鉄砲が伝来した種子島もこの地域に含まれ、当時から外国との接触が比較的多い土地柄であった

天文19年(1550年)、父・貴久が島津本宗家の第15代当主となると、薩摩・大隅・日向三州の統一を目指して本格的に動き出す

義弘も兄・義久とともに出陣し、天文23年(1554年)の「岩剣城の戦い」で初陣を飾った
さらに、弘治3年(1557年)には大隅の蒲生氏を攻め、初めて首級を挙げる戦功を立てている

永禄7年(1564年)には、義弘は日向国飯野城に入り、当時勢力を伸ばしていた伊東氏と対峙するようになる

その後も伊東氏との戦いを重ね、天正5年(1577年)には遂に伊東義祐を日向から追い出すことに成功

兄・義久のもと、島津家は薩摩・大隅・日向三州の制圧を達成し、南九州における覇権を確立するに至った

秀吉の九州侵攻で追い詰められる島津家

三州統一を果たした島津家は、その勢いのまま九州全土の制圧へと乗り出す

九州には当時、大友氏(豊後)や龍造寺氏(肥前)といった強大な戦国大名が割拠しており、覇権を巡る争いは激しさを増していた
まさに「九州三国志」ともいうべき情勢である

天正6年(1578年)、島津軍は「耳川の戦い」において大友軍を撃破し、九州制覇への足がかりを築いた
この戦いでは、家久をはじめとする島津諸将が巧みな伏兵戦術で大友軍を翻弄した
義弘も島津軍の中核を担う立場として、以後の九州進攻で重要な役割を果たしていくことになる

さらに天正9年(1581年)には、肥後国水俣において相良氏と戦火を交え、勝利を収めた

こうした島津軍の快進撃に対し、窮地に追い込まれた大友氏は、当時畿内を制圧しつつあった豊臣秀吉に援軍を要請する
この要請が、のちに九州平定へとつながる大規模な豊臣政権の介入を呼ぶことになる

秀吉からの度重なる警告にもかかわらず、島津家は進軍を続けた

兄・義久が本国で政治を掌握する一方、義弘はその名代として九州各地での戦いに従事し、戦線を指揮した
大分方面では弟・家久が大友氏の本拠・府内城を攻略し、島津家はまさに最盛期を迎えていた

しかし天正14年(1586年)夏、ついに豊臣政権が動いた
秀吉は弟・秀長とともに20万を超える大軍を動員して九州征伐を開始
秀長が東九州、秀吉が西九州から侵攻する形で、九州平定戦が本格化した

すでに西日本を掌握していた秀吉の動員力は圧倒的であり、島津家は次第に劣勢へと追い込まれていく

日向国根白坂での戦いでは、義弘自らが抜刀して奮戦したと伝えられるが、兵力差は如何ともしがたく、島津軍は敗退

義弘は最後まで徹底抗戦を主張したが、当主である兄・義久の決断に従い、ついに降伏を受け入れた

義弘は人質として自らの子・久保を差し出し、高野山の僧・木食応其の仲介により、豊臣政権との和睦が成立した

島津を警戒する秀吉

九州制圧目前まで進軍していた島津家であったが、豊臣軍との戦いに敗れたことで、その領地は大幅に削減されることとなった
北部九州の地は、ほぼすべてが豊臣政権の諸将に分与され、島津家の支配領域は大きく後退した

講和ののち、当主・義久には薩摩一国が安堵された
一方、義弘には大隅国が与えられたが、その一部は伊集院忠棟の所領とされたため、完全な領有とは言いがたい状況であった

このとき、秀吉は義弘に対して特別な待遇を施している
兄・義久には「羽柴」の苗字のみを与えるにとどまったが、義弘には「羽柴」の苗字に加え、豊臣の本姓を許し、従五位下侍従にも叙任した

これは、兄弟間に待遇の差を設け、内部対立を誘発させようとする秀吉の策略だったとも考えられている
しかし、こうした試みにもかかわらず、島津四兄弟の絆は固く、義弘は兄・義久への忠誠を貫いた

またこの頃、末弟の家久が死去しているが、豊臣家による暗殺説もある

秀吉は、島津四兄弟を警戒していたのだ

朝鮮出兵と歳久の死

天正20年(1592年)、秀吉は大陸制覇を目指して朝鮮出兵を命じた
いわゆる「文禄の役」である

このとき、薩摩において実権を握っていた島津義久は病を理由に出陣を見送り、代わって弟・義弘が総勢約1万の兵を率いて朝鮮半島へ渡った

義弘は、次男の久保および、甥にあたる豊久(末弟・家久の遺児)を伴っての出兵であった
しかし、義弘の本隊は諸将に比べて大幅に到着が遅れ、義弘自身も手紙の中で「日本一の大遅陣」と自嘲するほどであった

朝鮮では「第二次晋州城の戦い」などに参加したものの、義弘にとって苦しい戦場となった
なかでも、従軍していた次男・久保が現地で病に倒れ、命を落としたことは大きな痛手であった

一方その頃、島津家の内政も揺れていた

弟の歳久は、病を理由に文禄の役を辞退し、以前から豊臣政権に対しても頑なな態度を取り続けていた
秀吉からの信任も得られず、朱印状も与えられていなかった


その後、歳久の家臣が秀吉の駕籠に矢を射かける事件が発生
これにより秀吉の怒りが頂点に達し、兄・義久は島津家の安泰を守るため、やむなく弟への討伐を決断した

歳久はわずかな手勢を率いて抗戦した末、薩摩・帖佐の地で自刃した
享年五十六
辞世には、無実を訴え、島津家の安泰を願う心情が綴られていたという

この報せは、義弘が朝鮮に出陣している最中に届けられた
戦地にあって弟の死を知った義弘の胸中は、察するに余りある


その後、慶長2年(1597)には第二次出兵「慶長の役」が始まる

義弘は三男・忠恒や甥・豊久とともに朝鮮にわたると、「漆川梁(しっせんりょう)の戦い」において、藤堂高虎らの水軍と連携して敵将・元均を討ち取った

陸軍として進行した島津家は数々の戦いに参加し、「泗川(しせん)の戦い」では2万6000の大軍を7000で打ち破ったという

そして慶長3年(1598)、「露梁(ろりょう)海戦」において、島津軍は藤堂高虎・脇坂安治らと共に明・朝鮮水軍と交戦し、朝鮮の英雄・李舜臣(り しゅんしん)を戦死させるに至った

この戦果は、義弘の名を朝鮮半島全土に知らしめることとなり、敵将らからは「鬼石曼子(グイシーマンズ)=鬼島津」と呼ばれて恐れられた

関ヶ原での島津の退き口

慶長3年(1598)、秀吉が没し、同年末には朝鮮出兵も終結した

戦線を生き抜いた義弘は、その戦功をもって加増を受け、薩摩・大隅に加え日向諸県郡を与えられるという栄誉に浴した
慶長4年(1599)には、兄・義久が隠居し、義弘の子・忠恒(後の家久)が島津本宗家の家督を継ぐこととなった
義久に男子がなかったためである

しかし、家督を継いだ忠恒は、重臣・伊集院忠棟を粛清する
忠棟は義弘の腹心であり、家中でも影響力を持っていた人物だった
忠恒との対立が表面化した末の誅殺であり、これをきっかけに伊集院一族が反発
「庄内の乱」と呼ばれる内紛に発展し、島津家は深刻な分裂状態に陥った

その矢先、天下の情勢も大きく動いた
慶長5年(1600)、徳川家康に対抗する石田三成が挙兵し、「関ヶ原の戦い」が勃発する

義弘はこの時、薩摩本国に十分な兵力を集める余裕がなく、戦略的に不利な立場に置かれていた
やむなく、関西方面に滞在していたわずかな兵と、甥の豊久が率いる軍勢を合わせ、約1000人ほどの手勢で戦局に臨むこととなった

島津家は西軍に属したが、義弘は独自の判断で行動し、関ヶ原の本戦において異例ともいえる存在感を示すことになる

当初、義弘は徳川家に味方しようとしたが、伏見城で鳥居元忠に門前払いされ、不快感から石田三成の西軍に加わることを決めた
しかし義弘は三成の戦略に不信感を抱いており、提案もことごとく退けられていたため、協調体制にはほど遠い関係だった

戦が始まると、島津軍は西軍左翼に布陣しながらも動かず静観
三成の援軍要請も、兵が少ないことを理由に拒否している

西軍の敗走が始まると、義弘は退却を決断し、敵中突破を強行した

いわゆる「島津の退き口」である

福島正則の軍勢を避けて家康本陣を突っ切り、後衛が命を投げ打つ「捨て奸」で追撃を食い止めつつ、薩摩を目指して脱出した

この退却戦で甥・島津豊久が戦死

義弘は約1000人の軍勢のうち、わずか80人を率いて帰還した
まさに死地を突破した壮絶な撤退戦であった

島津義弘の晩年

義弘が与した西軍が敗北したことで、島津家は存亡の危機に直面することとなった

関ヶ原からの帰還後、義弘は薩摩に戻り、桜島に蟄居する身となる
一方、徳川家との交渉は兄・義久が担い、井伊直政の斡旋もあって、慶長6年(1601)、島津家は正式に許されることとなった

その後、義弘は政治や軍務の表舞台から退き、隠居生活に入った。隠居後の義弘は、かつての猛将ぶりとは対照的に、茶を嗜み、穏やかな日々を過ごしていたことが、福島正則や子・忠恒に宛てた書簡から窺える。

元和5年(1619)7月21日、義弘は加治木でその生涯を閉じた
享年85
彼の死に際しては、13名の家臣が殉死したという

おわりに

「鬼島津」と恐れられた島津義弘の生涯は、まさに戦いに彩られていた
数々の合戦を経て九州制覇に迫り、朝鮮の地ではその勇名を異国にまで轟かせた

一方で義弘は、家族や家臣を深く思いやる人物でもあった

一兵卒にまで心を配り、妻に宛てた書状には愛情あふれる言葉が綴られていたという(『加治木島津家文書』)
その姿は、戦場での鬼神のごとき勇姿とはまた異なる、情に厚い人物像を伝えている

いつの日か、義弘をはじめとする島津四兄弟の活躍が、映像作品などを通じて広く知られることを期待したい

(この記事は、草の実堂の記事で作りました)

島津義弘・・・九州の戦国武将だ

貴久の次男

朝鮮出兵では、朝鮮の敵将らからは「鬼石曼子(グイシーマンズ)=鬼島津」と呼ばれて恐れられた

関ケ原の戦いでは、わけあって西軍となったが、敵軍正面突破の「島津の退き口」の凄まじさで東軍、徳川家康を驚かせた

戦後、島津討伐をしようとする家康に対し、徳川の明の貿易船を沈め、島津討伐中止・島津家の領土を安堵させます


「鬼島津」と恐れられた島津義弘の生涯は、まさに戦いに彩られていた
数々の合戦を経て九州制覇に迫り、朝鮮の地ではその勇名を異国にまで轟かせた

一方で義弘は、家族や家臣を深く思いやる人物でもあった

一兵卒にまで心を配り、妻に宛てた書状には愛情あふれる言葉が綴られていたという(『加治木島津家文書』)
その姿は、戦場での鬼神のごとき勇姿とはまた異なる、情に厚い人物像を伝えている

いつの日か、義弘をはじめとする島津四兄弟の活躍が、映像作品などを通じて広く知られることを期待したいですね


このような薩摩の強さは、江戸幕府を倒す力となる




戦国人物伝 島津義弘 (コミック版 日本の歴史) 単行本

九州最強・戦国島津家の猛将! 「鬼」と呼ばれた男の生き様!!

南九州の守護大名・島津家に、四兄弟の次男として生まれた義弘は、兄や弟たちとともに、薩摩・大隅・日向の三州統一
さらには九州制覇をめざす!
鬼と呼ばれるほどの強さで戦国の世を戦い抜き、関ヶ原の合戦の敵中突破で有名な武将の物語!
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2026年05月10日

伝説の剣豪・丸目蔵人【タイ捨流を創始した新陰流四天王】

丸目蔵人とは

柳生新陰流の柳生宗矩に試合を挑み、自分の流派が本当の新陰流だと証明しようとした男が丸目蔵人(まるめくらんど)である(※本名は丸目長恵)

剣聖・上泉信綱の弟子で四天王として名を馳せた彼の打太刀は「天下の重宝」と称賛されるほどであった

「兵法天下一」の高札を掲げて真剣勝負の挑戦者を待ったが、誰も現れなかったという逸話がある

立花宗茂・大友宗麟・鍋島直茂にもその技を授けたタイ捨流兵法の流祖、剣豪・丸目蔵人について追っていく


生い立ち

丸目蔵人は天文9年(1540年)肥後国八代(現在の熊本県人吉市)の領主・相良氏に仕える丸目与三右衛門慰の長男として生まれる

戦国時代真っただ中の九州で相良氏は、南からは薩摩の島津氏、北からは大友氏と絶えず戦を繰り返していた

蔵人は幼い時から下の2人の弟たちと剣術を学び、弘治元年(1555年)16歳の時に薩摩島津氏との大畑の戦いで初陣を飾り、父と共に武功を挙げて「丸目」の姓を与えられる

17歳になると天草伊豆守のもとで剣術「中条流」を学び、19歳になると供を連れて京都へ武者修行の旅に出る

上泉信綱との出会い

その時、京都には剣聖として名高い新陰流の創始者「上泉信綱」がいて、蔵人は自分の実力を試すために信綱に試合を挑んだ

初陣で武功を挙げて天狗になった19歳の若武者に、信綱は新陰流だけが用いていた「袋竹刀」を渡して「これで試合をする」と言った

袋竹刀は相手を傷つけずに試合を行う物で、立ち合いを所望する兵法者が多い新陰流ならではの物であった

怪しみながらも袋竹刀を手に取って信綱と立ち合うが、あっという間に面2本を軽く取られてしまう
3本目になると袋竹刀を使ってはもらえず、体当たりで吹っ飛ばされてしまった

圧倒的な信綱の強さに感服した蔵人は、その場で入門を懇願するのである

新陰流四天王

入門を許された蔵人は、新陰流の稽古に没頭して持ち前の剣術の才を見せ、疋田豊五郎・神後宗治・奥山公重と蔵人を合わせて、伊勢守門下(新陰流)の四天王に数えられるまでになった

永禄7年(1564年)上泉信綱が足利幕府第13代将軍・足利義輝の御前で上覧演舞をした時は信綱の打太刀を務め、その見事さに信綱の兵法は「天下一」、蔵人の打太刀は「天下の重宝」と将軍から感状を賜る程であった

正親町天皇の御前でも信綱の打太刀を務め褒め称えられている

蔵人は相良家で新陰流の指南するために一旦帰郷する
そして永禄9年(1566年)再び新陰流を学ぶために、弟子の丸目寿斎・丸目喜兵衛・木野九郎右衛門を伴い上洛する

残念ながら師の信綱はもう京にはいなかったので、愛宕山・誓願寺・清水寺で「兵法天下一」の高札を掲げて諸国の武芸者や通行人に真剣勝負を挑むが、名乗り出る者は誰一人いなかった

永禄10年(1567年)京に戻った信綱は「兵法天下一」の高札の一件を知り、蔵人に「殺人刀太刀(せつにんとうたち)」「活人剣太刀(かつじんけんたち)」の許可状(新陰流免許皆伝)を授けた

戦での失態

その後、蔵人は再び相良家に仕えるために帰郷して家臣として働くが、永禄12年(1569年)薩摩の島津家久が相良氏を攻めた大口城での戦いで、相手方の策に乗った蔵人の主張のせいで多くの兵を失い、大口城は落城してしまう

敗戦後に蔵人は主君・相良義陽(さがらよしひ)からその責を負わされ、逼塞(ひっそく:門を閉ざし昼間の出入り禁止)という処罰が下り、武士としての出世の道が途絶えてしまった

その後の戦いで2度の目覚ましい武功を挙げるが、主君にお目通りさえもかなわなかった

そこで蔵人は兵法者として生きる道を選び修業に専念して、九州一円の他流派の兵法者たちと試合をして勝ち続ける

それを知った信綱から西国での新陰流の教授を任せられるのであった

上泉信綱の死

かつて蔵人の弟子であった有瀬外記という者が、信綱のいる関東に行って信綱の直弟子になっていた

信綱は有瀬外記に「蔵人に更に工夫した新陰流を伝えるように」と申し送る

その後、帰郷した有瀬外記は蔵人に工夫した新陰流を伝えようとしたが、蔵人はかつての弟子から学ぶことを嫌って聞く耳を持たなかった
しかし、工夫した新陰流が気になっていた蔵人は、信綱から直接学ぼうと関東に向かう

蔵人が関東に着くと、師の信綱は残念ながらもう亡くなっていた

落胆した蔵人は帰郷して今まで以上に鍛錬に励み、数年後には自らの流派タイ捨流(たいしゃりゅう)を立ち上げる

タイ捨流の創始

タイ捨流は新陰流を基礎として、インド・中国・日本の三国それぞれに古くから伝わる武道と、自ら実践で培った技とを組み合わせて完成させた流派である


タイ捨流の「タイ」という言葉には「大・体・待・対・太」などの複数の漢字が当てはまる

「大」は蔵人の師・上泉信綱の死後「偉大な師を失った」という意味がある

「体」とすれば体を捨てるにとどまり、「待」とすれば待つことを捨てるにとどまり、「対」とすれば対峙を捨てるにとどまり、「太」とすれば自性に至るという意味が含まれる

タイ捨流はこれら全ての雑念を捨て去り、ひとつの言葉にとらわれない自在の剣法である

技の特徴は独特の構えにあって、右半開に始まり左半開に終わる
全て袈裟斬り(肩から斜めに切り落とす)で終結するが、飛びかかり飛廻って相手を撹乱して打つ技、刀と蹴技・関節技・目潰しを組み合わせた技などを用いる

「新陰タイ捨流」として九州一円に広まり、柳川藩主・立花宗茂や豊後国主・大友宗麟、筑後山下城主・蒲池鑑広、鍋島直茂ら大名たちにも教えている

門下生は相良家の家臣たちにとどまらず、他家からも多くの門人が訪れた

上泉信綱が創始した「新陰流」は弟子によって進化を遂げ、柳生石舟斎の息子・柳生宗矩(やぎゅうむねのり)が将軍家剣術指南役となったことで「東の柳生」「西の丸目」と並び称された

蔵人はタイ捨流が強いことを証明するために柳生宗矩に試合を挑んだが、宗矩は「竜虎相搏つは非、天下を二分せん」と蔵人を説得して試合は行われなかった

丸目蔵人の晩年

天正15年(1587年)になると、蔵人は相良氏から許され、タイ捨流の剣術指南として117石を与えられた

蔵人の武術は剣にとどまらず槍・薙刀・手裏剣・馬術・忍術など20以上の奥義に達し、多くの門下生の中には後に示現流の開祖・東郷重位(とうごうちゅうい)らが居る

晩年は剃髪して石見入道徹斎と号して切原野(現在の熊本県錦町)に隠居する。そこで村人と共に山野を開拓して田畑や水路を作ったとされる

武芸以外にも書・和歌・乱舞・笛などを好み、特に書は門跡寺院青蓮院宮の御免筆(免許を受けた者)の腕前だった

また、宣教師の神父から西洋医学を学び、自ら健康法の「保寿剣」を考案し、それを実践して89歳まで生きた

根っからの剣豪

丸目蔵人は剣聖・上泉信綱に心酔し新陰流の免許皆伝となったが、自分の門下生から新たな工夫を加えた新陰流を学ぶことを嫌がったために、結果として唯一無二の流派「タイ捨流」が生まれた

新陰流は同じ弟子の柳生石舟斎に継承されたので、将軍家指南役の息子・柳生宗矩に試合を挑んだという、まさに根っからの剣豪・兵法者であった

29歳の宮本武蔵が、73歳になった丸目蔵人に教えを請いに来た時に、二刀の型を伝授したことで武蔵の二刀流が完成したという説もある

(この記事は、草の実堂の記事で作りました)

丸目蔵人・・・タイ捨流を創始した新陰流四天王といわれた剣豪である

柳生新陰流の柳生宗矩に試合を挑み、自分の流派が本当の新陰流だと証明しようとした男・・・

剣聖・上泉信綱の弟子で四天王として名を馳せた彼の打太刀は「天下の重宝」と称賛されるほどであった

「兵法天下一」の高札を掲げて真剣勝負の挑戦者を待ったが、誰も現れなかったという逸話がある

立花宗茂・大友宗麟・鍋島直茂にもその技を授けたタイ捨流兵法の流祖である


丸目蔵人は剣聖・上泉信綱に心酔し新陰流の免許皆伝となったが、自分の門下生から新たな工夫を加えた新陰流を学ぶことを嫌がったために、結果として唯一無二の流派「タイ捨流」が生まれた
(信綱に敗れ、弟子となった)

新陰流は同じ弟子の柳生石舟斎に継承されたので、将軍家指南役の息子・柳生宗矩に試合を挑んだという、まさに根っからの剣豪・兵法者であった
(対戦は行われなかった)

29歳の宮本武蔵が、73歳になった丸目蔵人に教えを請いに来た時に、二刀の型を伝授したことで武蔵の二刀流が完成したという説もある
(蔵人と武蔵の二人の剣豪は会っているかも)

参考記事:上泉信綱 〜新陰流を起こし剣聖と称された求道者




新説剣豪丸目蔵人佐 単行本

「新陰流四天王」、「東の柳生・西の丸目」といわれたタイ捨流を創始した剣豪・丸目蔵人


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上泉信綱や塚原卜伝、宮本武蔵、千葉周作など、剣のみにしか生きられなかった不器用な豪傑から、剣一筋に生き極めることで人生の悟りをも開く達人まで、際立つ個性を持つ60人の剣豪たちを紹介
戦国、江戸、幕末と、時代を追って受け継がれる剣豪たちの技や精神の流れが感じられる一冊
posted by june at 12:03| Comment(0) | ニュース | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

日本のクリスマスの歴史 「戦国時代から始まっていた」

日本のクリスマスの始まりは戦国時代

1549年、日本にキリスト教が伝わり、3年後の1552年12月、日本初の「クリスマス会」が行われていた

クリスマス会で行ったことは、ほぼ現在と変わらなかったようである

シャンパンをあげて「メリークリスマス」と乾杯し、料理を食べ、さまざまな催し物を行なって盛り上がったようである

1560年代になると京都などでもミサが行われるようになる
当時のクリスマス会で特徴的なのは「クリスマス劇」が行われていたということだ

劇の内容も当時の史料にあり、「アダムとイブ」であったと記さている
台本は宣教師のルイス・フロイスが書き、演者は日本人がやっていたそうである

公演はとても人気があり、毎回2000人もの町人や村人が集まり、中には遠方から訪ねて来る者もいたという

聖歌隊なども組織され、まさに本格的なクリスマス会であったといえよう

この時代に起こった珍しい出来事として「クリスマス休戦」がある

「クリスマス休戦」とは、敵味方に分かれて戦っている者たちがクリスマスの間だけは手を取り合い、祝うという一種の停戦協定である

クリスマス休戦で最も有名なのは、第一次大戦時にドイツとイギリス軍の一部で行われたものである

そして日本の戦国時代でも、織田信長と当時敵対していた松永久秀の間で行われた記録が残っている

これには宣教師たちも、驚いたことだろう

近代クリスマスの幕開け、サンタ登場

戦国時代によく行われていたクリスマス会も、江戸時代にはキリスト教禁止令により、姿を消してしまう

記録に再びクリスマスが登場するのは、明治8年、勝海舟の家族がアメリカ人家族とクリスマスパーティーを行ったというものである

クリスマスが一般に広まったのは、明治37年、東京銀座の「明治屋」が店の前にクリスマスツリーを飾ったのがきっかけとされ、これが「クリスマス商戦」の始まりとなった

そして、日本で初めてサンタクロースが登場するのは1900年、「さんたくろう」という小説であった

この物語は、教材として日曜学校などで教えられたそうである

小説『さんたくろう」のストーリーは以下である

ある吹雪の冬の夜、8歳の峰一という少年が生き倒れた旅人を助けた。

必死な看病の結果、その旅人は奇跡的に回復し、峰一の父親は「これは神様のおかげである。君もクリスチャンになるといいよ」と諭す。

その後、その旅人は自分の村に戻っていった。

翌年の春、今度は峰一の父親が病気で倒れてしまった。やがて病気は治ったが仕事を長期間休んでしまったため、お金が無くなってしまった。

皆がクリスマスプレゼントをもらっている中、峰一は自分だけ貰えない状況にがっかりする。

そこに現れたのが去年行き倒れていた旅人だった。

彼はクリスチャンになっており「三田九郎」と名乗り、去年助けられたお礼にと、米俵や洋服、おもちゃなどを大量に枕元においていった。

このストーリーはもちろんフィクションであるが、サンタクロースというよりは「北国のおじさん」という感じがする

ちなみに当時のクリスマスの人気プレゼントは「サンタクロース人形、電気が灯るクリスマス飾りが施された家、タイプライターのおもちゃ」といったものだったようだ

クリスマスの歴史 〜第二次大戦後から現代へ〜

第二次大戦後には治安維持法により、クリスマスが外国の文化であるとして厳しく取り締まりを受けることになる

しかし1950年ごろには朝鮮戦争の特需で好景気となり、一般家庭にもクリスマスが普及する

1960年代に入ると初めてブーツ型のお菓子の詰め合わせが発売されるなど、クリスマスは形やスタイルを変え、現代に繋がっていくことになる

最後に

日本におけるクリスマスは、戦後以降のものではなく450年もの歴史があり、幾多の困難を乗り越えてきたことがわかった

クリスマス会で、ネタのひとつとして話してみてはいかがだろうか

(この記事は、草の実堂の記事で作りました)

クリスマスが戦国時代から始まったのは驚きですね

さらに、この時代に「クリスマス休戦」もあったとは・・・

本記事内の「さんたくろう」(サンタクロースをもじったか)の小説も興味深いですね・・・


日本でクリスマスなどが普及したのは、多くの日本人の無宗教、あいまい・柔軟・融通性のある宗教観にもあると思います

最近では、ハロウィンも一大イベントになっています




愛と狂瀾のメリークリスマス なぜ異教徒の祭典が日本化したのか (講談社現代新書 2401) 新書

なぜキリスト教信者ではない日本人にとっても、クリスマスは特別行事になっているのか? それは実は、力で押してくるキリスト教文化の厄介な侵入を――彼らを怒らせることなく――防ぎ、やり過ごしていくための、「日本人ならではの知恵」だった!
「恋人たちが愛し合うクリスマス」という逸脱も、その「知恵」の延長線上にあったのだ――キリスト教伝来500年史から、極上の「日本史ミステリー」を読み解こう!
posted by june at 03:41| Comment(0) | ニュース | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2026年05月09日

華岡青洲 ~世界初の全身麻酔手術を成功させた「医聖」

華岡青洲とは

華岡青洲(はなおかせいしゅう)とは、江戸時代の文化元年(1804年)に世界初の全身麻酔を使用した乳癌手術を成功させた医師である

華岡青洲の手術の成功から約40年後に、欧米で初めて全身麻酔が行われている

手術によって患者の苦しみを和らげ、人の命を救いたいと考えた華岡青洲は、麻酔薬の開発を始めて研究を重ねた結果、6種類の薬草に麻酔効果があることを発見した

世界初の全身麻酔を使った乳癌手術を成功させ「医聖」と呼ばれた華岡青洲について解説する


出自

華岡青洲は、宝暦10年(1760年)紀伊国那賀郡名手荘西野山村(現在の和歌山県紀の川市西野山)の医師・華岡直道の長男として生まれた
諱は「震(ふるう)」、字は「伯行」、通称は「雲平」だが、ここでは一般的に知られる号の「青洲(せいしゅう)」と記させていただく

青洲の祖父・雲仙翁が初めて医師を業とし、父・直道は松本家の娘・於継と結婚し、華岡家の家業である医師を継いだ
青洲は幼い頃より才知が優れ見識もあったが、なにぶん田舎のために師友に乏しく、最新の医学を学ぶことが出来なかった

そこで青洲は天明2年(1782年)京都に遊学に出ることにした

京都では吉益南涯に古医方を3か月学び、大和見水にカスパル流外科を1年間学ぶ
更に、見水の師・伊良子道牛が確立した「伊良子流外科」を学び、その後も長らく京都に留まり医学書や医療器具を買い集めた


青洲は学識を磨くこと数年間、寝食を忘れて没頭するほどであったという

そこで悟ったのは、世の中の医者の論じるところは古い方法に閉じこもり、古い医学書に馴染むばかりで、これを活かすことが出来ないということ
また内科・外科に分けて合一するという理法を知らないことなどであった

これでは、病気を治し長患いを救うことは出来ないということに至ったのである
青洲がその中で特に影響を受けたのが、永富独嘯庵の「漫遊雑記」であったという

そこには乳癌の治療法の記述があり「欧州では乳癌を手術で治療するが、日本ではまだ行われておらず、後続の医師に期待する」と書かれていた

このことが後の青洲の伏線となるのである

麻酔薬の開発

乳癌を根治するほど大きく切るには、患者が受ける耐え難い痛みを解決しなければ不可能であった
青洲は、麻酔法の完成こそが癌治療を進歩させる最重要の課題だと考えるに至った

天明5年(1785年)2月に青洲は帰郷して父・直道の後を継いで開業した
「手術での患者の苦しみを和らげ、人の命を救いたい」と思った青洲は麻酔薬の開発に着手する

青洲は色々な薬草を研究した結果、曼荼羅華の実(チョウセンアサガオ)、草烏頭(そううず・トリカブト)を主成分とした6種類の薬草に、麻酔の効果があることを発見した
そして動物実験を重ねて麻酔薬の完成までこぎつけたが、人体実験を前に青洲は行き詰まる

動物実験では良い効果を得られていても、いざ人体で実験するとなると大きなリスクが生じる恐れがあるからだ
するとなんと青洲の実母・於継と妻の加恵が自ら実験台となることを申し出たのである

青洲は苦悩するが、覚悟を決め実験台となってくれた母と妻に、数回に渡って人体実験を行った

母・於継は残念ながら亡くなってしまい、妻・加恵は失明してしまったが、大きな犠牲な上に全身麻酔薬「通仙散」、別名:麻沸散(まさつふん)を完成した
※母と妻が人体投与試験に参加したことを裏付ける資料は見つかっていない

青洲は中国の医師・華侘の医術を意識しており、通仙散の別名:麻沸散とは華侘が使ったとされる麻酔薬の名である

享和2年(1802年)9月には、青洲は紀州藩主・徳川治宝に謁見して士分に列し帯刀を許されている

世界初の全身麻酔手術

青洲は文化元年(1804年)10月13日、大和国字智郡(現在の奈良県)五條村の60歳の女性に、通仙散による全身麻酔での乳癌手術を行い成功する
※ただ、この女性は手術を受けた時にはすでに末期症状で手術の4か月後に亡くなった

これは、1846年にアメリカのウィリアム・T・G・モートンが、ジエンチルエーテルを用いた麻酔の手術よりも40年以上も前であった

青洲の前にも中国の医師・華侘や、インカ帝国、琉球で麻酔手術が行われたという伝承はあるが、いずれも詳細は不明となっており、実例として証明された全身麻酔の手術はこれが世界初だとされている

この噂はあっという間に広がり、青洲のもとには乳癌の手術を希望する人たちが多数訪れ、青洲に入門を希望する者も続出したという

青洲が乳癌の手術を行った患者は143人で、術後の生存期間が判明する者だけを集計すると最短で8日、最長で41年、平均すると約3年7か月となる

また、青洲は乳癌だけではなく膀胱結石、壊死、痔、腫瘍摘出術など様々な手術を行い、オランダ式の縫合術やアルコール消毒なども行っている

青洲の医術

文化10年(1813年)青洲は紀州藩の「小普請医師格」に任用されるが、青洲の願いによってそのまま自宅で治療を続けても良いという「勝手勤」を許されている
文政2年(1819年)には「小普請御医師」に昇進し、天保4年(1833年)には「奥医師格」となった

青洲の医塾「春林軒(しゅんりんけん)」では、1000人を超える門下生を育て上げた

青洲は常に「内外合一活動窮理」を唱え、日本伝統の漢方医学と外国から伝わったオランダ医学を区別せず、机上の空論ではなく実験や実証を重んじることを弟子たちに説いた

青洲が完成させた麻酔薬「通仙散」の配合は、弟子の本間玄調の記録によると、曼荼羅華が八分、草烏頭が二分、白芷(びゃくし)が二分、当帰(とうき)が二分、川芎(せんきゅう)が二分であった

これを細かく砕き、煎じて滓(おり:沈殿したもの)を除いたものを温かいうちに飲むと、2~4時間で効果が現れた
だが、やや毒性が高かったらしく、その扱いは相当難しかったという

しかも曼陀羅家華のどの部分を利用したのかなど、それぞれの正確な調合分量は記録されておらず、通仙散の現物も残されていない

青洲の弟子からは、本間玄調・鎌田玄台・館玄竜・熱田玄庵・三村玄澄といった優れた外科医が輩出されている

その中でも特に優れていたのが本間玄調で、膝静脈瘤の摘出などの手術を行い医術についての著作も残したが、著作の中で青洲から教わった秘術を無断で公開したために破門となっている
しかし青洲は医術の詳細を書物に書き残さなかったため、本間玄調の著作は今日青洲の医術の実態を知る上で貴重な資料になっている

青洲は秘密主義的な面を持っており、門下生たちに対して「通仙散」の製造方法を友人や家族にすら教えてはならないという血判まで提出させていたという

天保6年(1835年)10月2日に青洲は家人や多くの弟子たちに見守られながら76歳で死去した

青洲の後は次男・修平が継いだ

おわりに

華岡青洲は、世界初の全身麻酔薬「通仙散」の開発に成功し乳癌手術を成功させたが、その開発には人体実験に協力してくれた「実の母の死と妻の失明」という大きな代償があった

青洲の死後から84年たった大正8年、その功により正五位を追贈された

昭和27年には外科を通じて世界人類に貢献した医師の1人として、アメリカ合衆国のシカゴにある国際外科学会付属栄誉館に祀られた

その後、昭和41年に出版された有吉佐和子の小説「華岡青洲の妻」がベストセラーになったことで、それまで医学関係者の中だけで知られていた華岡青洲の名前は、一般に知れ渡ることになったのである

(この記事は、草の実堂の記事で作りました)

華岡青洲 ・・・世界初の全身麻酔手術を成功させた「医聖」とも呼ばれた医師である

なんと欧米より40年以上前だという


青洲の医術・・・

彼は、膀胱結石、壊死、痔、腫瘍摘出術など様々な手術を行い、オランダ式の縫合術やアルコール消毒なども行っている

弟子からは、本間玄調・鎌田玄台・館玄竜・熱田玄庵・三村玄澄といった優れた外科医が輩出されている
(あの「解体新書」を訳した杉田玄白も弟子なんですね)

その中でも特に優れていたのが本間玄調で、膝静脈瘤の摘出などの手術を行い医術についての著作も残したが、著作の中で青洲から教わった秘術を無断で公開したために破門となっている
しかし青洲は医術の詳細を書物に書き残さなかったため、本間玄調の著作は今日青洲の医術の実態を知る上で貴重な資料になっている
(破門となりましたが、彼の公開の功績(表現が正しいかは分からないが・・・)も大きいですね)


華岡青洲は、世界初の全身麻酔薬「通仙散」の開発に成功し乳癌手術を成功させたが、その開発には人体実験に協力してくれた「実の母の死と妻の失明」という大きな代償があった

青洲の死後から84年たった大正8年、その功により正五位を追贈された

昭和27年には外科を通じて世界人類に貢献した医師の1人として、アメリカ合衆国のシカゴにある国際外科学会付属栄誉館に祀られた

その後、昭和41年に出版された有吉佐和子の小説「華岡青洲の妻」がベストセラーになったことで、それまで医学関係者の中だけで知られていた華岡青洲の名前は、一般に知れ渡ることになったのである

彼は、日本が誇る外科医の一人ですね





華岡青洲の妻 (新潮文庫) 文庫

江戸後期、世界で初めて全身麻酔による手術に挑んだ紀州の名医青洲
一人の天才外科医を巡る嫁姑の凄まじい愛の争奪
テレビドラマ化、舞台化の定番、人気不動の一冊

世界最初の全身麻酔による乳癌手術に成功し、漢方から蘭医学への過渡期に新時代を開いた紀州の外科医華岡青洲
その不朽の業績の陰には、麻酔剤「通仙散」を完成させるために進んで自らを人体実験に捧げた妻と母とがあった――
美談の裏にくりひろげられる、青洲の愛を争う嫁と姑、二人の女の激越な葛藤を、封建社会における「家」と女とのつながりの中で浮彫りにした女流文学賞受賞の力作
詳細な注解を付す


華岡青洲~その医学と思想~ 単行本

著者の「華岡青洲」研究の集大成となる一冊
本書は,著者が2015年以降に発表した論考をまとめたもので,華岡青洲の医の哲学,医の思想を示すと信じられてきた「内外合一活物窮理」や「麻沸散」についてなど,従来の定説、通説を覆す多くの論考を主題別にまとめる
どの章から読み始めてもよいという利点があり、各省の冒頭には「要約」を記し,各節の「要旨」を一括して示す章も独立して設けることで、全体を容易に短時間で把握理解することができる
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